中沢堀は昭島市宮沢の諏訪神社境内に湧く湧水などを水源とし、昭和用
水本流につながる清流の小河川である。
こちらが水源となる
諏訪神社の湧水、
東京の名湧水57選に指定されている。
それなりの水量で噴出しており、一年を通して枯れることはないという。

この周りの地名である宮沢は、古来より「宮社の沼澤」と呼ばれていたこと
に由来する。
境内に湧水をもつ
宮沢諏訪神社、創建年代は不明だが当地に古くから
居住していた小野氏の氏神として創建されたと伝わる。
小野氏の氏祖と関係が深い諏訪大社を勧請したようだ。

諏訪神社と道路を挟んで西側には
宮澤山阿弥陀寺が建つ。
こちらも創建年代は不詳だがが、健治3年(1277)、嘉暦4年(1329)の
板碑があることから、鎌倉期の創建と推定されている。

阿弥陀寺の本堂裏には池がある。
残念ながら近づくことはできないが(本堂脇の道から撮影)、おそらくこち
らも湧水の水を湛えているものと思われる、

諏訪神社を出た水路には清らかな水を流れ、東へと進んでいる。

中沢堀の北、崖の上には
中神熊野神社が鎮座する。
延文5年(1360)、熊野本宮を分霊、奉祀したのが始まりとされ、旧中神村
の鎮守であった。
現在の社殿は嘉永5年(1852)、当地の豪商中野久次郎が再建したもの
とされている。

中沢堀は奥多摩街道を横断し、その南側を流れるようになる。

奥多摩街道と中沢堀の間には福厳寺(後述)の境外仏堂である
恵日庵が建つ。
創建や由来は不明であるが、現在の堂宇は文化2年(1805)の建立だという。、

堂内には阿弥陀如来像が安置されており、老僧の隠居所として使われて
いたという。
明治後期から大正時代にかけては中神村および中神村外七か村組合の
役場として使用されていたようだ。
恵日庵の東側で、北からもう一つの流れ(写真右側)が合流する。

そちらは諏訪神社の東側の段丘崖からの湧水を水源とする。
その水源付近にはなんと、湧水を利用したワサビ田があるというが、残念
ながら個人農家の敷地内にあるため、目にすることはできない。
こちらは先ほど紹介した熊野神社の南側を流れるワサビ田からの流れ。

中沢堀の北、奥多摩街道の中神坂交差点付近に福厳寺と中神日枝神社
が建つ。
智勝山福厳寺は寛永元年(1624)に創建された臨済宗の寺院。
段丘上に立地し、『新編武蔵風土記稿』によれば創建以前の戦国時代末期
には立川氏が館を構えていたいう。

交差点の南、小さな祠の
中神日枝神社が鎮座する。
前述の熊野神社創建以前には、日枝神社が中神村の鎮守だったという
言い伝えがある。
狭い境内の中には享保13年(1728)の庚申塔もある。

その南を東進していく中沢堀。
ここから先は川に沿って歩く区間は殆どなく、所々に架かる橋の上から
清流を眺めるという形となる。

中沢堀北側の道路を歩いていると、住宅街の中の突然、古い蔵が出現する。
西川製糸創始者の西川伊左衛門により建てられた
西川家旧別邸蔵。
大正後期の建築とされ、「初期の本格的な鉄筋コンクリート造建築」の
希少例として平成28年に国の登録有形文化財に指定された。

なお、隣接していた別邸は江戸東京たてもの園へ移築されている。
中神町を流れていく中沢堀、写真奥に見える高架橋は多摩川大橋通り。
この辺りには僅かであるが水田も見られる。

昭島市福島町(旧福島村)に入り、住宅街の中を蛇行しながら流れていく。
途中、昭和用水の分流と思われる水路も合流する。

中沢堀の北にある臨済宗の
金峰山広福寺、開創年代は不明だが建武4年
(1337)や貞治5年(1366)銘の古碑が現存することから、室町時代初期
の創建と思われる古寺である。
一時荒廃したが、慶長年間(1596~1615)徳川家の旗本で福島村領主、
内藤源左衛門正久によって再興した。

さらには中沢堀を挟んで南側には
向宿の子持ち地蔵という地蔵尊が建て
られている。
子供の夜泣き、夜尿症、病気などに霊験があるとされ、地域住民に大切
にされていたようだ。
台座には宝暦12年(1762)の銘がある。

住宅の間を流れていく中沢堀。

流れる水は相変わらず清らかであり、川沿いに歩くことができないのが残
念である。

川の右岸と十数メートルほどの間隔で並行する遊歩道、こちらも水路跡で
あろうか。

遊歩道の先で相沢堀を上流方向に眺める。

最後は一般道の下を数十メートルほど暗渠となって進み、
昭和用水本流へと合流する。

《参考資料》
『あきしまの歴史散歩』 昭島市教育委員会