白子川 3
白子川は、新東埼橋および東埼橋で、川越街道・旧川越街道に達する。
橋名の由来は、東京と埼玉の境にあるからであろう。

この辺りは古代、朝鮮からの渡来人が入植した土地で新羅郡と呼ばれ、その新羅
が白子へと変化したものと言われる。
(大化の改新以後、大和政権は律令制度の整備の過程で、東国経営の一環として
新羅・百済・高麗からの渡来人を武蔵国へ配置する政策をとった)
川越街道の白子宿として栄え、そのためか寺社もいくつか見られる。
また、家康が本能寺の変に遭遇して三河の帰る際、伊賀忍者が道案内をしたこと
をきっかけに、伊勢の白子に因んでこの白子一帯に領地として与えられた。
この白子の地では左岸の和光市側には段丘が迫り、湧水も多く見られる。
主な寺社、湧水を紹介しながら、この先を進むことにしよう。
旧川越街道を数百メートルほど行くと、白子熊野神社と清龍寺不動院がある。
白子熊野神社の創建年代は不明であるが、社伝によるとおよそ一千年前の発祥
と言われ、白子村の鎮守として栄えていた。

隣接する清龍寺不動院は、天長7年(830)慈覚大師円仁の開創とされる。
滝行や護摩修行、坐禅などが行われる修行寺としても知られる。
境内には洞窟もあり、短いながらも洞窟巡りをすることもできる。

白子熊野神社の社殿の裏手には、龍神池という湧水池を見ることができる。
崖下に広がる林の中に静寂した雰囲気が漂う。
明治9年(1876)には、境内に湧水を利用した日本初の養魚場ができたという。
(明治23年に閉鎖)

清龍寺では湧水を利用して滝行が行われている。
滝行が行われる滝は「不動の滝」と称するが、乃木将軍が日露戦争への出陣に
先立ち修行したとのことから、「乃木大将修行の滝」とも言われているようだ。
残念ながら修行のために立入禁止となっていたので目にすることは出来なかっ
たが、同寺のサイトでその様子をうかがい知ることができる。
白子熊野神社の北東には滝坂という坂があり、坂の中途にある小島家湧水
から水が流れ出ている。
滝坂の由来は、湧水が滝のように流れ落ちていたことから呼ばれたものだが、
現在も滝坂脇の側溝を音を立てて水が流れ落ちている。
側溝を流れる水はドボドボというぐらい水量は多い。

東武東上線の線路の南側にあるのが、天台宗の瑞應山地蔵院地福寺。
永延年間(987~988)、尊恵上人による開基と言われる。

この地福寺にも地蔵池という湧水池があり、池には多くの鯉が泳いでいる。

これらの湧水は、白子川に水を落とす。
写真は東上線の高架橋脇で白子川に流れ出る地蔵池などからの湧水。

東上線の下の寺子橋の先、右手に旧白子川児童遊園地という小さな児童遊園
がある。
その児童遊園の名が示す通り、そこは旧白子川の川跡である。
旧白子川は、現在の河川の東側を流れ、笹目橋脇で新河岸川へと合流していた
ようだ。
またこの川には、成増方面から百々向川、小井戸川といった支流も流れ込んで
いた。

現在、旧白子川緑道として整備され、一部区間には人工水路も設けられている。

先ほどの地福寺から、線路を挟んで北側に成田山神護寺。
説明板が無かったので由緒は不明であるが、成田山新勝寺の末寺の1つである。
不動明王を本尊とし、「田んぼの不動様」ともいわれた。

東上線を越えた先、白子川は直線的な流れとなる。
三面コンクリートの護岸が続き、川沿いには住宅やマンションが建ち並ぶ。

成増橋を左に行くと吹上観音として知られる臨済宗の福田山東明寺。
天平年間に行基菩薩が観音堂として開創されたのが始まりとされ、室町初期に
智覚普明国師により開山された。

吹上観音は江戸名所図会にも描かれ、絵の下部には蛇行する白子川も見える。

江戸名所図会 吹上観音 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
再び笹目通りと交差し、その先の右岸には三園浄水場がある。
水道水と工業用水併設した浄水場で、志木市の秋ヶ瀬取水堰で荒川より取水し、
練馬給水所及び板橋給水所に送水する。

落合橋で白子川は終了し、新河岸川へと合流する。
対岸の土手の向こうは荒川の河川敷、土手の上は散歩する周辺住民が行き交う。
写真右に見える橋は新大宮バイパスの笹目橋である。

《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編
『江戸の川 東京の川』 鈴木理生著
より大きな地図で 【川のプロムナード】白子川周辺マップ を表示

橋名の由来は、東京と埼玉の境にあるからであろう。

この辺りは古代、朝鮮からの渡来人が入植した土地で新羅郡と呼ばれ、その新羅
が白子へと変化したものと言われる。
(大化の改新以後、大和政権は律令制度の整備の過程で、東国経営の一環として
新羅・百済・高麗からの渡来人を武蔵国へ配置する政策をとった)
川越街道の白子宿として栄え、そのためか寺社もいくつか見られる。
また、家康が本能寺の変に遭遇して三河の帰る際、伊賀忍者が道案内をしたこと
をきっかけに、伊勢の白子に因んでこの白子一帯に領地として与えられた。
この白子の地では左岸の和光市側には段丘が迫り、湧水も多く見られる。
主な寺社、湧水を紹介しながら、この先を進むことにしよう。
旧川越街道を数百メートルほど行くと、白子熊野神社と清龍寺不動院がある。
白子熊野神社の創建年代は不明であるが、社伝によるとおよそ一千年前の発祥
と言われ、白子村の鎮守として栄えていた。

隣接する清龍寺不動院は、天長7年(830)慈覚大師円仁の開創とされる。
滝行や護摩修行、坐禅などが行われる修行寺としても知られる。
境内には洞窟もあり、短いながらも洞窟巡りをすることもできる。

白子熊野神社の社殿の裏手には、龍神池という湧水池を見ることができる。
崖下に広がる林の中に静寂した雰囲気が漂う。
明治9年(1876)には、境内に湧水を利用した日本初の養魚場ができたという。
(明治23年に閉鎖)

清龍寺では湧水を利用して滝行が行われている。
滝行が行われる滝は「不動の滝」と称するが、乃木将軍が日露戦争への出陣に
先立ち修行したとのことから、「乃木大将修行の滝」とも言われているようだ。
残念ながら修行のために立入禁止となっていたので目にすることは出来なかっ
たが、同寺のサイトでその様子をうかがい知ることができる。
白子熊野神社の北東には滝坂という坂があり、坂の中途にある小島家湧水
から水が流れ出ている。
滝坂の由来は、湧水が滝のように流れ落ちていたことから呼ばれたものだが、
現在も滝坂脇の側溝を音を立てて水が流れ落ちている。
側溝を流れる水はドボドボというぐらい水量は多い。

東武東上線の線路の南側にあるのが、天台宗の瑞應山地蔵院地福寺。
永延年間(987~988)、尊恵上人による開基と言われる。

この地福寺にも地蔵池という湧水池があり、池には多くの鯉が泳いでいる。

これらの湧水は、白子川に水を落とす。
写真は東上線の高架橋脇で白子川に流れ出る地蔵池などからの湧水。

東上線の下の寺子橋の先、右手に旧白子川児童遊園地という小さな児童遊園
がある。
その児童遊園の名が示す通り、そこは旧白子川の川跡である。
旧白子川は、現在の河川の東側を流れ、笹目橋脇で新河岸川へと合流していた
ようだ。
またこの川には、成増方面から百々向川、小井戸川といった支流も流れ込んで
いた。

現在、旧白子川緑道として整備され、一部区間には人工水路も設けられている。

先ほどの地福寺から、線路を挟んで北側に成田山神護寺。
説明板が無かったので由緒は不明であるが、成田山新勝寺の末寺の1つである。
不動明王を本尊とし、「田んぼの不動様」ともいわれた。

東上線を越えた先、白子川は直線的な流れとなる。
三面コンクリートの護岸が続き、川沿いには住宅やマンションが建ち並ぶ。

成増橋を左に行くと吹上観音として知られる臨済宗の福田山東明寺。
天平年間に行基菩薩が観音堂として開創されたのが始まりとされ、室町初期に
智覚普明国師により開山された。

吹上観音は江戸名所図会にも描かれ、絵の下部には蛇行する白子川も見える。

江戸名所図会 吹上観音 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
再び笹目通りと交差し、その先の右岸には三園浄水場がある。
水道水と工業用水併設した浄水場で、志木市の秋ヶ瀬取水堰で荒川より取水し、
練馬給水所及び板橋給水所に送水する。

落合橋で白子川は終了し、新河岸川へと合流する。
対岸の土手の向こうは荒川の河川敷、土手の上は散歩する周辺住民が行き交う。
写真右に見える橋は新大宮バイパスの笹目橋である。

《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編
『江戸の川 東京の川』 鈴木理生著
より大きな地図で 【川のプロムナード】白子川周辺マップ を表示

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