古川

渋谷川は天現寺橋で、北から流れてきた笄川(こうがいがわ)と合流し、その名を
古川と変え、麻布方面へと流れていく。

麻布には寺が非常に多い。
これは南向きに広がる高台という立地の江戸期以前より、善福寺(後述)をはじめと
する寺が建てられたのに加え、江戸期には高台の武家地と低地の町人地の中間に
位置するという理由から、寺社地に指定されたためらしい。
麻布の寺社を全て紹介することはできないが、川沿いの寺社や有名な寺院を簡単に
紹介しながら、川を下っていくことにしよう。

まず始めに取り上げるのは、橋の名前にもなった臨済宗大徳寺派の多聞山天現寺
川の北にある天現寺橋交差点の一画にある。
小日向御箪笥町にあった普明寺を引継いで、享保4年(1719)現在地に移築して、
祥雲寺の良堂和尚により開山、名を多聞山天現寺と改めた。
八代将軍吉宗をはじめとして代々将軍家の御成があり、広尾の毘沙門堂として人々
の信仰を集めていた。
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天現橋の次に架かる狸橋、橋の右岸にはその名の由来を記した碑がある。
碑文には次のような面白い逸話が紹介されている。
むかし、橋の南西にそば屋があって子どもを背負い手拭をかぶったおかみさんに
そばを売ると、そのお金が、翌朝は木の葉になったといいます。麻布七ふしぎの
一つで、狸そばと呼んだのが、地名から橋の名になりました。ほかに、江戸城中
で討たれた狸の塚があったからともいっています。

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亀屋橋で右側から首都高速目黒線が近づき並走する。
この先の古川橋からは川の上部を首都高が覆い、中央環状線を含めて河口の浜崎
橋まで首都高の下を流れることになる。
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古川はもともと川幅が狭かったが、延宝4年(1676)、麻布十番辺りまで川幅を
広げ、通船可能とし、麻布付近での船荷の陸揚げを可能とした。(その区間を新
堀川・赤羽川とも称していた。)
さらには元禄11年(1698)、四之橋まで拡幅を行って通船可能となった。

また、歌川広重も名所江戸百景の1つ「広尾ふる川」に古川を描いている。
四之橋から上流方向を描いたものとされている。
江戸名所百景古川

五之橋の北側にあるのが臨済宗の慈眼山光林寺、延宝6年(1678)に松浦鎮信
が麻布市兵衛町(現在の谷町付近)に建立、元禄7年(1694)に現在地に移転し
てきた。
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光林寺にはオランダ人ヒュースケンの墓があり、港区の指定文化財となっている。
ヒュースケンはアメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官として活躍したが、万延元年
(1860)、古川下流の中之橋付近にて攘夷派浪士に襲われて絶命する。
カトリック教徒のため土葬が必要であったが、江戸府内では土葬が禁止されていた
ため、府外の光林寺に埋葬された。

右岸の白金公園には小さいながらも親水広場がある。
上部には首都高があり眺望はよくはないが、川沿いを歩くことさえ殆どできない古川
において、このように川に接することができる場所は貴重だ。
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その先にあるのが真宗大谷派の金生山西福寺
麻布山善福寺の第14世住職准海師の弟以伝が、浄土真宗本願寺派より真宗大谷
派に転派し、開基として現在地に創建したという。
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川は古川橋で左へとカーブし、向きを北に転じる。
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二之橋の脇にあるのが常祐山圓徳寺、寛永元年(1624)に芝金杉に創建、宝永
3年(1706)にこの地に移転してきた。
NHKの『ブラタモリ-三田・麻布編-』でこの寺の墓地を通過するシーンがあった
ので、ご記憶の方もいるかと思う。
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麻布の寺院群の中心ともいうべき、麻布山善福寺は、その二之橋交差点を左折
し、数百メートルほど行った右側にある。
天長元年(824)、弘法大師(空海)が関東一円に真言宗を広めるために開山した
と言われる。
当初は真言宗であったが、鎌倉期、親鸞聖人が配流されていた越後から帰京する
際に当寺に立ち寄り、浄土真宗に改宗した。
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安政5年(1859)には、初代アメリカ合衆国公使館が寺院内に設けられ、総領事
ハリスらが在留した。
前述のヒュースケンの襲撃事件も、彼が赤羽接遇所からこの公使館への帰途に
襲われたという。

善福寺
江戸名所図絵 麻布善福寺   (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載) 

墓地には福澤諭吉の墓所や、越路吹雪の歌碑(墓は川崎市の本遠寺)がある。
(墓地内は撮影禁止)

なお、杉並区の善福寺池の由来は、当寺院の奥の院が池の畔にあったからという
説が有力である。
善福寺池の北東に同名の寺があるが、無量山福寿庵という寺が後年改称したもの
であり、直接は関係ない。

門前には柳の井戸と呼ばれる湧水がある。
弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたとこ
ろ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀ったものであると
いう伝説が語りつがれてきた。
関東大震災や戦災時には多くの人々の喉を潤したという。
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東京の名湧水57選の1つに指定され、57選の中では最も都心に近い。

古川は一之橋で右へと曲がり、東京湾へと目指して流れる。
相変わらず首都高が川沿いに並走する。
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赤羽橋から見る東京タワー。
スカイツリーに株を取られたが、ここから見る東京タワーは絶景。
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その赤羽橋の先、左岸に浄土宗妙定院が見えてくる。
宝暦13年(1763)、9代将軍家重の大導師を勤めた増上寺四十六世妙誉定月大
僧正が、家重公菩提のため「御中陰の尊牌」を安置し、この地に建立した。
増上寺の別院として位置づけられ、念仏道場・学問研究の名刹として知られてきた。
境内の「熊野堂」と「上土蔵」は、国の有形登録文化財に指定されている。
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古川の北側に増上寺や芝東照宮を含む芝公園が広がる。
その芝東照宮は、徳川家康逝去の翌年の元和3年(1617)、増上寺内に社殿(安
国殿)として創建された。
家康は慶長6年(1601)、60歳の時、自らの等身大の像(寿像)を刻ませ、寿像を
祀る社殿を増上寺内に建造するよう遺言したという。
明治初期の神仏分離により、増上寺から分かれて東照宮を称する。
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将監橋では、北から桜川が合流しており、現在でも橋脇に大きな合流口が開いて
いる。
桜川は新宿区若葉付近を水源とし、赤坂、虎ノ門、愛宕を経由してここに至る河川で
あった。
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将監橋からは川は釣船や屋形船の係留地となる。(写真は次の金杉橋からの光景)
いよいよ、ゴールの東京湾が近いことを感じさせてくれる。
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下の写真は金杉橋脇に建てられている旧町名由来板に掲示されていた新撰東京
名所図会(明治35年(1902))に描かれた同橋付近の風景。
また、この由来板によれば、この辺りには新網町、湊町といったいかにも海岸近く
の町名があったという。
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浜松町駅の南で古川はJR線や東京モノレールと交差する。
その浜松町の東側には旧芝離宮恩賜庭園がある。
延宝6年(1678)四代将軍家綱から下屋敷として拝領した老中大久保忠朝が回遊
式築山泉水庭園として作庭したもので、「楽壽園」と命名した。
園内の池は海水を引き入れた潮入りの池であったが、現在は海から離れ、淡水池
となっている。
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浜崎橋付近で古川橋は芝浦運河に出て、東京湾へと流れ出る。
上部には首都高の浜崎橋JCTがあり、多くの自動車が行き交う。
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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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