石神井川 6
埼京線鉄橋を過ぎると、いよいよ北区へと入り、石神井川は音無渓谷と呼ばれる
谷へと突入していく。
この辺りの石神井川は、別称として音無川・滝野川・王子川とも呼ばれる。

川を下っていくと観音橋の袂に、谷津大観音が姿を現す。
この大観音は近隣の寿徳寺により建立されたもので、平成20年の開眼と新しい
ものではある。

その寿徳寺は大観音の北方、数十メートルの場所にある。
本尊である谷津子育観音は、鎌倉時代初期、早船・小宮の両氏が主家の梶原氏
と争い、追われて落ちのびる途中で水中から拾い上げ、石神井川沿いの堂山に
安置したものと伝えられる。
境内の銀杏の樹の皮をはいて本尊に備え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良
く出るようになるという信仰もある。

また、寿徳寺は新撰組組長近藤勇の菩提寺としても知られ、JR板橋駅前にあ
る新撰組隊士供養塔(近藤勇墓所 谷端川2参照) は寿徳寺の境外墓地
である。
(近藤勇の墓地は三鷹の龍源寺(野川2参照)や岡崎市の法蔵寺などにもあり、
埋葬については諸説あるようだ)
河川改修以前の石神井川は、蛇行を繰り返して流れていた。
左右の遊歩道脇に所々存在する小公園は、旧水路跡の名残である。
滝野川橋の先、右岸にある半円状の音無もみじ緑地も、そのような蛇行跡の1つ、
ここは親水公園として整備されている、

かつては石神井川や用水にかかっていた王子七滝があり、弁天、不動、権現、
稲荷、大工、見晴らし、および名主の七つの滝で成り立っていた。
現在は名主の滝公園(後述)にある滝以外は現存していない。
下の写真は説明板に掲載されていた、歌川広重の「江戸百景 王子不動之瀧」。

こちらは天保5年に描かれた「江戸名所図会 松橋弁財天窟 石神井川」。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
この地は春には桜、秋には紅葉の名所として知られていた。
図会には鳥居がある岩屋が描かれているが、その岩屋には弁財天像が奉られ、
松橋弁財天と呼ばれていた。(現在は消失)
また、この音無緑地付近には滝があり、弁天の滝と呼ばれていたという。
その音無緑地に隣接して、真言宗豊山派の金剛寺が建っている。
縁起によれば、弘法大師が遊歴した際に、大師自ら不動明王像を彫り、石の
上に安置したが、この像を当寺の本尊とする。
また治承4年(1180)、源頼朝が挙兵、石橋山の合戦で敗れて安房に逃亡す
るが、安房から再途上する際、当地で布陣、弁財天に祈願して弁天堂を建立
したとも伝えられる。

更に下流に進むと、再び旧流路を利用した公園が右岸にある。音無さくら緑
地である。

緑地内の崖地には川の浸食作用による自然露頭が見られる。
説明板によれば、地質学的には「東京層」と呼ばれるもので、12~13万年
前の下末吉海進により、現在の東京都付近が海底となった頃に形成されたもの
だという。
明治13年(1880)、ドイツから来日していた東京大学の地質学・古生物学の
教授ブラウンスが調査・化石を採取した。
掲示板に記載されている明治と現代の周辺地図、汚れていて見づらいが、かつ
ての石神井川が蛇行していた様子がよくわかる。

その先、右岸にあるのが浄土宗寺院の正受院、赤ちゃん寺として有名だ。
弘治年間(1555~58)学仙房という僧が、霊夢によって武蔵国に来てこの寺を
開いたと伝えられる。

昭和29年、寺に嬰児や水子のための納骨堂である慈眼堂をつくったことによ
り、赤ちゃん寺として知られるようになった。
慈眼堂の前には多くの菓子や玩具が供えられている。
なお、王子七滝のうちの1つ、不動の滝は、正受院の本堂の裏にあったという。
王子駅の手前に音無親水公園が設置されている。
石神井川の本流は飛鳥山の下を隧道となって抜けるが、北区が昭和63年、か
つての石神井川の自然を再現し、親水公園として整備したものだ。
人工の水路が流れ、「日本の都市公園100選」にも選定されている。

その音無親水公園の北側の崖地上には王子神社がある。
元亨2年(1322)、豊島氏が熊野三社権現から王子大神を勧請したことによっ
てはじまり、これが王子の地名の由来ともなっている。
江戸時代には家康が社領200石を寄進するなど、将軍家から手厚く保護され、
また明治元年(1868)には准勅祭社に指定、東京十社の1つとなっている。

ここで石神井川を離れ、王子七滝のうちの唯一現存する名主の滝を紹介しよう。
王子駅から北へ徒歩10分ほどのところに名主の滝公園がある。
安政年間(1854~1860)に王子村の名主、畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を
栽培して一般の人々の避暑のために供したことに始まり、名主の滝の名もこれ
に由来する。
明治中期には貿易商、垣内徳三郎が回遊式庭園として整備、一般に開放した。
園内には男滝、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝が復元されている。(地下水の汲み
上げによる)

また、名主の滝公園の南には王子稲荷神社がある。
大晦日に各地から集まった狐が大きな木の下で装束を整えて神社に詣でたと
いう伝承がある他、落語「王子の狐」の舞台としても有名である。

下の浮世絵は、歌川広重『名所江戸百景』の「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

先ほど述べたように、石神井川の本流は隧道となって東へと抜ける。

ここで石神井川の河川争奪について述べておかなければならないだろう。
古くは、石神井川は飛鳥山下で流れを南へ変え、谷田川(現在は暗渠)沿い
を流れ、上野の不忍池へ達していたとされる。
石神井川が現在の流路となったのは、縄文時代、海進が急速に起こり、崖端
侵食を引き起こした結果であるいう説(自然開削説)と、中世以降に行われ
た治水工事により人為的に流路を変更したという説(人為掘削説)がある。
石神井川の変遷を知るうえで興味深い論争である。
隧道から出てきた石神井川、JRや都電荒川線が川を跨いでいる。

石神井川は王子の東側を流れていく。川の上には首都高速中央環状線が敷設
されている。
また、この付近では河川改修工事が進行中である。
2010年7月、東京北部を襲ったゲリラ豪雨による氾濫は記憶に新しい。

河口の手前、左側にあるのが真言宗豊山派の西福寺。
江戸六阿弥陀の第一番札所として知られ、江戸時代には春秋の彼岸の六阿弥
陀詣で賑わったという。

六阿弥陀とは、才色兼備の足立姫が豊島家へ嫁ぐが舅に苛められ、里帰りの
途中で入水、足立姫の父親が霊を弔うため熊野本宮へ参詣した際、行脚僧の
行基に6体の阿弥陀像を彫ってもらい、安置したという悲話に基づく阿弥陀
仏である。
新堀橋の先で、石神井川は隅田川に注いで終わる。
残念ながら河口部には遊歩道などはなく、新堀橋から望むことしかできない。

ということで石神井川の紹介記事を結びたいが、最後にもう1つ、この河口
付近も石神井川の旧河道が残る。
新堀橋の北、数十メートルのところにある堀船緑地が、その河道跡だ。
昭和30年代の地図にも旧河川が確認できるので、埋め立てられたのはその
後であろう。
現在でも豊島と堀船の町域界がこの堀船緑地であることも興味深い。

より大きな地図で 【川のプロムナード】石神井川周辺マップ を表示

谷へと突入していく。
この辺りの石神井川は、別称として音無川・滝野川・王子川とも呼ばれる。

川を下っていくと観音橋の袂に、谷津大観音が姿を現す。
この大観音は近隣の寿徳寺により建立されたもので、平成20年の開眼と新しい
ものではある。

その寿徳寺は大観音の北方、数十メートルの場所にある。
本尊である谷津子育観音は、鎌倉時代初期、早船・小宮の両氏が主家の梶原氏
と争い、追われて落ちのびる途中で水中から拾い上げ、石神井川沿いの堂山に
安置したものと伝えられる。
境内の銀杏の樹の皮をはいて本尊に備え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良
く出るようになるという信仰もある。

また、寿徳寺は新撰組組長近藤勇の菩提寺としても知られ、JR板橋駅前にあ
る新撰組隊士供養塔(近藤勇墓所 谷端川2参照) は寿徳寺の境外墓地
である。
(近藤勇の墓地は三鷹の龍源寺(野川2参照)や岡崎市の法蔵寺などにもあり、
埋葬については諸説あるようだ)
河川改修以前の石神井川は、蛇行を繰り返して流れていた。
左右の遊歩道脇に所々存在する小公園は、旧水路跡の名残である。
滝野川橋の先、右岸にある半円状の音無もみじ緑地も、そのような蛇行跡の1つ、
ここは親水公園として整備されている、

かつては石神井川や用水にかかっていた王子七滝があり、弁天、不動、権現、
稲荷、大工、見晴らし、および名主の七つの滝で成り立っていた。
現在は名主の滝公園(後述)にある滝以外は現存していない。
下の写真は説明板に掲載されていた、歌川広重の「江戸百景 王子不動之瀧」。

こちらは天保5年に描かれた「江戸名所図会 松橋弁財天窟 石神井川」。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
この地は春には桜、秋には紅葉の名所として知られていた。
図会には鳥居がある岩屋が描かれているが、その岩屋には弁財天像が奉られ、
松橋弁財天と呼ばれていた。(現在は消失)
また、この音無緑地付近には滝があり、弁天の滝と呼ばれていたという。
その音無緑地に隣接して、真言宗豊山派の金剛寺が建っている。
縁起によれば、弘法大師が遊歴した際に、大師自ら不動明王像を彫り、石の
上に安置したが、この像を当寺の本尊とする。
また治承4年(1180)、源頼朝が挙兵、石橋山の合戦で敗れて安房に逃亡す
るが、安房から再途上する際、当地で布陣、弁財天に祈願して弁天堂を建立
したとも伝えられる。

更に下流に進むと、再び旧流路を利用した公園が右岸にある。音無さくら緑
地である。

緑地内の崖地には川の浸食作用による自然露頭が見られる。
説明板によれば、地質学的には「東京層」と呼ばれるもので、12~13万年
前の下末吉海進により、現在の東京都付近が海底となった頃に形成されたもの
だという。
明治13年(1880)、ドイツから来日していた東京大学の地質学・古生物学の
教授ブラウンスが調査・化石を採取した。
掲示板に記載されている明治と現代の周辺地図、汚れていて見づらいが、かつ
ての石神井川が蛇行していた様子がよくわかる。

その先、右岸にあるのが浄土宗寺院の正受院、赤ちゃん寺として有名だ。
弘治年間(1555~58)学仙房という僧が、霊夢によって武蔵国に来てこの寺を
開いたと伝えられる。

昭和29年、寺に嬰児や水子のための納骨堂である慈眼堂をつくったことによ
り、赤ちゃん寺として知られるようになった。
慈眼堂の前には多くの菓子や玩具が供えられている。
なお、王子七滝のうちの1つ、不動の滝は、正受院の本堂の裏にあったという。
王子駅の手前に音無親水公園が設置されている。
石神井川の本流は飛鳥山の下を隧道となって抜けるが、北区が昭和63年、か
つての石神井川の自然を再現し、親水公園として整備したものだ。
人工の水路が流れ、「日本の都市公園100選」にも選定されている。

その音無親水公園の北側の崖地上には王子神社がある。
元亨2年(1322)、豊島氏が熊野三社権現から王子大神を勧請したことによっ
てはじまり、これが王子の地名の由来ともなっている。
江戸時代には家康が社領200石を寄進するなど、将軍家から手厚く保護され、
また明治元年(1868)には准勅祭社に指定、東京十社の1つとなっている。

ここで石神井川を離れ、王子七滝のうちの唯一現存する名主の滝を紹介しよう。
王子駅から北へ徒歩10分ほどのところに名主の滝公園がある。
安政年間(1854~1860)に王子村の名主、畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を
栽培して一般の人々の避暑のために供したことに始まり、名主の滝の名もこれ
に由来する。
明治中期には貿易商、垣内徳三郎が回遊式庭園として整備、一般に開放した。
園内には男滝、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝が復元されている。(地下水の汲み
上げによる)

また、名主の滝公園の南には王子稲荷神社がある。
大晦日に各地から集まった狐が大きな木の下で装束を整えて神社に詣でたと
いう伝承がある他、落語「王子の狐」の舞台としても有名である。

下の浮世絵は、歌川広重『名所江戸百景』の「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

先ほど述べたように、石神井川の本流は隧道となって東へと抜ける。

ここで石神井川の河川争奪について述べておかなければならないだろう。
古くは、石神井川は飛鳥山下で流れを南へ変え、谷田川(現在は暗渠)沿い
を流れ、上野の不忍池へ達していたとされる。
石神井川が現在の流路となったのは、縄文時代、海進が急速に起こり、崖端
侵食を引き起こした結果であるいう説(自然開削説)と、中世以降に行われ
た治水工事により人為的に流路を変更したという説(人為掘削説)がある。
石神井川の変遷を知るうえで興味深い論争である。
隧道から出てきた石神井川、JRや都電荒川線が川を跨いでいる。

石神井川は王子の東側を流れていく。川の上には首都高速中央環状線が敷設
されている。
また、この付近では河川改修工事が進行中である。
2010年7月、東京北部を襲ったゲリラ豪雨による氾濫は記憶に新しい。

河口の手前、左側にあるのが真言宗豊山派の西福寺。
江戸六阿弥陀の第一番札所として知られ、江戸時代には春秋の彼岸の六阿弥
陀詣で賑わったという。

六阿弥陀とは、才色兼備の足立姫が豊島家へ嫁ぐが舅に苛められ、里帰りの
途中で入水、足立姫の父親が霊を弔うため熊野本宮へ参詣した際、行脚僧の
行基に6体の阿弥陀像を彫ってもらい、安置したという悲話に基づく阿弥陀
仏である。
新堀橋の先で、石神井川は隅田川に注いで終わる。
残念ながら河口部には遊歩道などはなく、新堀橋から望むことしかできない。

ということで石神井川の紹介記事を結びたいが、最後にもう1つ、この河口
付近も石神井川の旧河道が残る。
新堀橋の北、数十メートルのところにある堀船緑地が、その河道跡だ。
昭和30年代の地図にも旧河川が確認できるので、埋め立てられたのはその
後であろう。
現在でも豊島と堀船の町域界がこの堀船緑地であることも興味深い。

より大きな地図で 【川のプロムナード】石神井川周辺マップ を表示

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