北沢川 1

目黒川の支流、北沢川を追ってみた。
自然河川としての北沢川は上北沢二丁目にある都立松沢病院構内の窪地にある
湧水や周辺の雨水を集めた細流だったという。
万治2年(1658)に玉川上水より取水する北沢分水が開削され、上北沢村など
周辺5村を潤した。
取水口は当初、上北沢付近に作られたが、その後、現在の上高井戸2丁目付近、
そして久我山1丁目の岩崎橋下流付近に変更された。

今回は北沢分水を含めて辿ることとし、玉川上水岩崎橋からスタートすること
にする。
岩崎橋から数十メートルほど下流に下った右岸に、北沢分水の取水口が残っている。
草が生い茂る中に石柱があり、よく見ると「北澤分水」「大正四年十月」という
文字を確認することができる。
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北沢分水は、取水後、しばらくは玉川上水の南側に沿って流れていた。
残念ながら、この付近、玉川上水の南に沿う道は無く、またその先も中央高速下
の道路となるため、分水跡を確認することはできない。

環八の中の橋交差点手前で北沢分水は南へと逸れる。
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この辺りは基本的に住宅街であり流路は見つけにくいが、僅かに駐車場と畑の
間に、水路跡と見られる場所がある。
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この先の住宅の間を抜けた後、水路は東へと向きを変える。
環八手前では、一般道の歩道(とは言っても歩道の方が広い)となっている。
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ここで水路の南にある医王寺に立ち寄ってみる。
杉並区設置の説明板によると、承和元年(834)弘法大師が東国を巡行した際、
箱根山で彫った薬師如来像を海星和尚が上高井戸に草庵を建て、本尊として
安置したのが草創といわれている。
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墓地から出た板碑の中に、文和5年(1356)と応永7年(1400)のものなどが
あり、開山の古さを物語っている。
江戸時代以降、「おめだま薬師」「眼病にきく薬師様」といわれ、毎月12日
に市が開かれていた。
元々は南側の甲州街道沿いにあったが明治初期に廃寺となり、大正13年
(1924)現在地に再興した。

その旧境内の参道には湧水による薬師池という池があり、眼病平癒のため放した
魚が一眼になるという伝説がある。
現在も医王寺から南に数十メートルほど行った住宅街の中に薬師池の一部が残って
おり、その脇を水路跡(こちらは烏山川の支流で、この先、環八の東側を南へと
流れる)を確認することができる。
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余談になるが、この薬師池訪問時に、近隣の方のお話を伺うことができた。
池脇の水路の上流は、更に西へと伸びており、農地内にあった上流端の湧水は
かなりの量であったそうだ。、
そして、この小さな池にはその水路からの水が流れ込んでいた。
またこの付近は沼地で、現在のように住宅が立ち並ぶのは想像できなかったとも
仰っていた。

話を北沢分水に戻そう。
分水は環八を渡り東へと続くが、その先も一般道脇には歩道が続く。
道路は真っ直ぐと南東方向に向かっているが、蛇行していないところに人工的
な水路であることを感じさせる。
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暫く行くと北沢分水は二手に分かれる。
現在では住宅街の単なる三叉路であるが、古地図にはこの場所で分岐していた
ことが記されている。
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2つの水路は南北もしくは東西に並行して流れ、かつてはその間に田園が
広がっていた。
参考文献とした『ふるさと世田谷を語る』によれば、南側の流れを上堀
(下流で水車堀と江下山堀にさらに分かれる)と称し、北側の流れを下堀
といった、
上堀は川幅2m、深さ2mぐらいだったが、下堀は川幅が3~4m、深さ
も4mほどあったという。(通常は膝下ほどの水嵩)
この先は下堀を進んでいくことにする。

下堀は数十メートルほど北へと進んだ後、東へと向きを変え、その後再び
南へと転じる。
その先、甲州街道を渡ることになるが、その前後では細い暗渠道が続く。
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その暗渠道は上北沢小学校に行く手を遮られるが、小学校の南から京王線
までの区間では、コンクリート蓋暗渠が顔を見せる。
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京王線を越えると水路は都立松沢病院の敷地の東側を流れていたようだが、
現在は一般道となっており、痕跡を見ることはできない。
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その先、病院に接した場所に将軍池公園がある。
将軍池そのものは松沢病院の敷地内にあり、精神科を標榜する病院のため、
中に入って見ることは難しかったが、地元自治会の要望により平成24年、
敷地の一部が将軍池公園として開園し、将軍池およびその中にある加藤山
を眺めることができるようになった。
131123_055.jpg

前述の通り、自然河川としての北沢川の水源の一部は松沢病院の湧水とさ
れているが、将軍池公園は人工の池である。
公園内にある説明板を要約すると以下のようになる。
将軍池と築山は、第5代院長呉秀三のもと、加藤普左次郎医師、前田則三
看護師および多くの患者によって、屋外作業療法の一環として造られた。
大正10年7月から着手したが、完成間近の大正12年、関東大震災により
富士山型の築山が崩れ、現在のなだらかな形となった。
その後、園芸家堀切三郎の指導により、大正15年に完成した。
将軍池の名は、作業に参加した患者で自称「将軍」葦原金次郎に因んだもの
であり、築山の加藤山は加藤普左次郎医師に由来している。


下の写真は掲示板にあった昭和前期の築山散歩風景である。
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将軍池公園から数十メートルほど行くと、水路は遊歩道へとなる。
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下掘の遊歩道を進んでいくとその先、日本大学のグラウンドに突き当たって
しまう。
グラウンドの南に沿う遊歩道に迂回することになるが、こちらは将軍池から
の流路である。
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その南には勝利八幡神社が鎮座する。
万寿3年(1026)、京都の石清水八幡宮より勧請したのが創建とされる。
社名の勝利八幡神社は通称、戦争の都度、勝利祈願のために人々が詣でた
ことに由来するという。
今でもスポーツ関係者などの参拝が多いと聞く。
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左内弁財天がある小公園に達するが、この辺りで上堀と下堀、そして将軍池
からの流路が合流する。
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この左内弁財天については逸話があるが、その逸話を公園内にある説明板
から引用してみよう。

鈴木左内家の娘は周囲がうらやむほどの美しい娘でした。ある日この娘が
井の頭の池に遊びに出かけたところ、井の頭池の竜神が娘を見初めました。
竜神は美男子に姿を変えて娘の前に現れ、娘もその若者に恋をするように
なりました。その若者が自分の正体は竜神であることを娘に告げたところ、
娘は初めは驚いたものの、その若者に嫁ぐことを決心しました。
娘は、家に帰った後、病にかかりました。父母は心配しましたが、日ごと
に容体が悪化するので、ついに諦めて娘を井の頭池に連れていきました。
娘は泣きながら祈ったあと、池に身を投げました。すると水面に巨大な蛇が
現れ、再び水底に消えていきました。この後、鈴木家では弁財天を祀るよう
になったといいます。


前掲の『ふるさと世田谷を語る』には「用水を管理していた水元が秦氏とい
う帰化人だったということで、この秦氏と村の有力者鈴木家の娘との恋愛問
題がおこったことは、民話にまで残る騒ぎとなった」とあり、この逸話には
そのような背景があったようだ。

《参考文献》
『ふるさと世田谷を語る 上北沢・桜上水・赤堤・松原』 世田谷区



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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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