桃園川 1
荻窪の北、天沼弁天池に端を発し、中央線沿いに東へと流れる神田川の支流、
桃園川。
かつては、流域の水田を潤していた桃園川も都市化の波に押されて汚染され、
また大雨のたびに氾濫を繰り返すため、昭和42年に暗渠化された。
今も地下には、桃園川幹線という下水道幹線が遊歩道の地下を通る。
「桃園」の名は、江戸時代初期に高円寺境内に桃の木が多かったから、将軍
から地名を「桃園」と沙汰があったことに由来するという。(杉並区設置の
案内板より)
また、八代将軍吉宗は鷹狩りでこの地を訪れ、御立場を築き、紅白の桃の木
をたくさん植え「桃園」と呼ばせたともいう。
その後、中野周辺は桃の花見で有名となり、庶民の行楽の場ともなった。
その様子は江戸名所図会『桃園春興』にも描かれている。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
また桃園川自体の名も、中野区の案内板によればかつては石神井川もしくは
石神川、そして宮園川と呼ばれた時期もあったという。
その川名については、暗渠さんぽ(namaさん)の考察が興味深い。
さて水源の天沼弁天池を訪れてみる。
かつては西武の堤義明氏の妾宅(名目上は西武ゴルフ研修所)があったようで、
その後、杉並区に売却、平成19年に天沼弁天池公園として開園している。
古くは湧水の出る直径35mほどの円形の池で、中には弁財天を祀る祠があっ
たという。
また天沼という地名は、この弁天池に由来するものとされている。
ただし、現在の池は人工池である。

園内には杉並区立郷土博物館の分館もあり、各種催事も開かれている。

公園の東には天沼八幡神社がある。
天正年間(1573~1591)の創建とされ、旧天沼村字中谷戸の鎮守となった。
明治40年には四面道にあった厳島神社を合祀、昭和2年には村社となっている。

先にも記載したように、桃園川は周辺地域の農業用水として利用されたが、
湧水だけでは足りず、千川用水の分水である六ヶ村分水から引水した。
六ヶ村分水は青梅街道沿いを流れていた用水だが、その導水路跡は青梅
街道沿いの天沼3-5付近からの遊歩道に見ることができる。

なお桃園川への引水はここだけではなく、同じく阿佐ヶ谷南3丁目付近で六ヶ村
分水からの相澤用水や、善福寺川からの天保新掘用水にみることができる。
六ヶ村分水からの導水路跡は、天沼の住宅街の歩道として続いている。

弁天池からの本流と合流後、暗渠の遊歩道は東へと進む。
その脇には銭湯の煙突があるが、これも暗渠によくある風景、かつては
銭湯の排水を桃園川に流していたのであろう。

阿佐ヶ谷の中杉通りの手前まで、遊歩道が続く。

中杉通りに出て、阿佐ヶ谷駅方面へ100メートルほど歩くと、阿佐ヶ谷神明宮
がある。
当宮のサイトによれば、日本武尊が東征の帰途阿佐ヶ谷の地で休息し、後に
その武功を慕った村人が旧社地に一社を設けたのが始まりとされる。
建久年間(1190~1198)には土豪横井兵部が伊勢神宮に参拝した折、神の
霊示を受け、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられ、この霊石
は今も御神体としてされている。

境内には能楽殿もあり、本格的な能・狂言の上演、囃子や神楽などの伝統芸能
も披露されるという。
中杉通りを越えると、一般道となり阿佐ヶ谷の北側を進んでいく。

桃園川の川筋は、神明宮よりやや下った谷地となっている。
阿佐ヶ谷という地名は、もともと桃園川が作る浅い谷=浅ヶ谷に由来する。
本流はこのまま一般道を進むが、細い暗渠道が分かれているのを見る
ことができる。
おそらく、かつてはこの辺りでは水田が広がり、それぞれの田に水を
ひくために幾筋かの水路が造られたのではないかと思われる。

阿佐ヶ谷駅の東側で中央線の南に進むと、ここから桃園川緑道が始まる。
緑道はここから神田川の合流地点まで続き、迷うことはない。
緑道の入口ではカエルのモニュメントが迎えてくれる。

一般道との交差部では石造りの車止めとともに、かつての橋名を刻んだ
小さな石柱がある。
写真の場所は馬橋、かつてはこの一帯の地名を馬橋といったが、昭和40
年の住居表示化により消滅した。

なお、馬橋の由来には、桃園川の支流にかかる青梅街道の橋が馬でひと
またぎするくらいの幅であったことからという説、また文明11年(1479)
に太田道灌と豊島氏の間で激しい合戦があり、合戦の戦法で馬を橋代わり
に湿地をを渡ることが採用されたことから名づけられたという説などがある。
その馬橋の手前、旧宮下橋を南へと行く馬橋稲荷神社とがある。
旧馬橋村の鎮守で、創建は鎌倉時代末期と言われるが詳細は明らかではない。

境内の参道脇には、人工の小さなせせらぎがあり、そこにある掲示によれば
かつての桃園川に思いを馳せ、作ったものであるという。
また、同神社のサイトも馬橋周辺の歴史や桃園川のことが記され、興味深い。
ちなみに、神社裏手の脇には桃園川の支流(暗渠)が流れている。
桃園川緑道はさらに高円寺方向へと延びている。
写真の地は八反目上橋跡、八反目はこの付近の小字名に由来している。

やがて高円寺の南へと達するが、桃園川の北に真言宗の日王山長仙寺があり、
不動明王を本尊とする。
宝永元年(1704)、中野宝仙寺の住僧であった真秀がこの地に一庵を建てた
のが始まりとされる。
境内には享保9年(1724)建立の如意輪観音の石仏があるが、観音様が頬を
押え、歯が痛むような姿をしているので、歯痛に効くとして、信仰をあつくしたという。

《参考資料》
『杉並史跡散歩-桃園川と高円寺の寺町を歩こう!』 杉並区立郷土博物館編

桃園川。
かつては、流域の水田を潤していた桃園川も都市化の波に押されて汚染され、
また大雨のたびに氾濫を繰り返すため、昭和42年に暗渠化された。
今も地下には、桃園川幹線という下水道幹線が遊歩道の地下を通る。
「桃園」の名は、江戸時代初期に高円寺境内に桃の木が多かったから、将軍
から地名を「桃園」と沙汰があったことに由来するという。(杉並区設置の
案内板より)
また、八代将軍吉宗は鷹狩りでこの地を訪れ、御立場を築き、紅白の桃の木
をたくさん植え「桃園」と呼ばせたともいう。
その後、中野周辺は桃の花見で有名となり、庶民の行楽の場ともなった。
その様子は江戸名所図会『桃園春興』にも描かれている。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
また桃園川自体の名も、中野区の案内板によればかつては石神井川もしくは
石神川、そして宮園川と呼ばれた時期もあったという。
その川名については、暗渠さんぽ(namaさん)の考察が興味深い。
さて水源の天沼弁天池を訪れてみる。
かつては西武の堤義明氏の妾宅(名目上は西武ゴルフ研修所)があったようで、
その後、杉並区に売却、平成19年に天沼弁天池公園として開園している。
古くは湧水の出る直径35mほどの円形の池で、中には弁財天を祀る祠があっ
たという。
また天沼という地名は、この弁天池に由来するものとされている。
ただし、現在の池は人工池である。

園内には杉並区立郷土博物館の分館もあり、各種催事も開かれている。

公園の東には天沼八幡神社がある。
天正年間(1573~1591)の創建とされ、旧天沼村字中谷戸の鎮守となった。
明治40年には四面道にあった厳島神社を合祀、昭和2年には村社となっている。

先にも記載したように、桃園川は周辺地域の農業用水として利用されたが、
湧水だけでは足りず、千川用水の分水である六ヶ村分水から引水した。
六ヶ村分水は青梅街道沿いを流れていた用水だが、その導水路跡は青梅
街道沿いの天沼3-5付近からの遊歩道に見ることができる。

なお桃園川への引水はここだけではなく、同じく阿佐ヶ谷南3丁目付近で六ヶ村
分水からの相澤用水や、善福寺川からの天保新掘用水にみることができる。
六ヶ村分水からの導水路跡は、天沼の住宅街の歩道として続いている。

弁天池からの本流と合流後、暗渠の遊歩道は東へと進む。
その脇には銭湯の煙突があるが、これも暗渠によくある風景、かつては
銭湯の排水を桃園川に流していたのであろう。

阿佐ヶ谷の中杉通りの手前まで、遊歩道が続く。

中杉通りに出て、阿佐ヶ谷駅方面へ100メートルほど歩くと、阿佐ヶ谷神明宮
がある。
当宮のサイトによれば、日本武尊が東征の帰途阿佐ヶ谷の地で休息し、後に
その武功を慕った村人が旧社地に一社を設けたのが始まりとされる。
建久年間(1190~1198)には土豪横井兵部が伊勢神宮に参拝した折、神の
霊示を受け、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられ、この霊石
は今も御神体としてされている。

境内には能楽殿もあり、本格的な能・狂言の上演、囃子や神楽などの伝統芸能
も披露されるという。
中杉通りを越えると、一般道となり阿佐ヶ谷の北側を進んでいく。

桃園川の川筋は、神明宮よりやや下った谷地となっている。
阿佐ヶ谷という地名は、もともと桃園川が作る浅い谷=浅ヶ谷に由来する。
本流はこのまま一般道を進むが、細い暗渠道が分かれているのを見る
ことができる。
おそらく、かつてはこの辺りでは水田が広がり、それぞれの田に水を
ひくために幾筋かの水路が造られたのではないかと思われる。

阿佐ヶ谷駅の東側で中央線の南に進むと、ここから桃園川緑道が始まる。
緑道はここから神田川の合流地点まで続き、迷うことはない。
緑道の入口ではカエルのモニュメントが迎えてくれる。

一般道との交差部では石造りの車止めとともに、かつての橋名を刻んだ
小さな石柱がある。
写真の場所は馬橋、かつてはこの一帯の地名を馬橋といったが、昭和40
年の住居表示化により消滅した。

なお、馬橋の由来には、桃園川の支流にかかる青梅街道の橋が馬でひと
またぎするくらいの幅であったことからという説、また文明11年(1479)
に太田道灌と豊島氏の間で激しい合戦があり、合戦の戦法で馬を橋代わり
に湿地をを渡ることが採用されたことから名づけられたという説などがある。
その馬橋の手前、旧宮下橋を南へと行く馬橋稲荷神社とがある。
旧馬橋村の鎮守で、創建は鎌倉時代末期と言われるが詳細は明らかではない。

境内の参道脇には、人工の小さなせせらぎがあり、そこにある掲示によれば
かつての桃園川に思いを馳せ、作ったものであるという。
また、同神社のサイトも馬橋周辺の歴史や桃園川のことが記され、興味深い。
ちなみに、神社裏手の脇には桃園川の支流(暗渠)が流れている。
桃園川緑道はさらに高円寺方向へと延びている。
写真の地は八反目上橋跡、八反目はこの付近の小字名に由来している。

やがて高円寺の南へと達するが、桃園川の北に真言宗の日王山長仙寺があり、
不動明王を本尊とする。
宝永元年(1704)、中野宝仙寺の住僧であった真秀がこの地に一庵を建てた
のが始まりとされる。
境内には享保9年(1724)建立の如意輪観音の石仏があるが、観音様が頬を
押え、歯が痛むような姿をしているので、歯痛に効くとして、信仰をあつくしたという。

《参考資料》
『杉並史跡散歩-桃園川と高円寺の寺町を歩こう!』 杉並区立郷土博物館編


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