逆川(北の川)
深大寺一帯の湧水を集めて流れ、野川に注ぐ約1.5kmほどの逆川、またの名を
北の川と称する。
逆川の名は、東京西部の川は西から東へと流れるのに対し、東から西へと流れる
ことから名付けられたという。ただ、地図を見る限り、全体的に逆川は西から東
へと流れている。
深大寺一帯は国分寺崖線に沿っていることもあり、多くの湧水地点があるようだが、
逆川の水源とされているのは、本堂の西、深沙大王堂の裏手にある湧水である。

その水源から数分ほど歩いた場所に深大寺水車館がある。
かつてこの地に水車があり、明治末期に地元住民が水車組合をつくり、金を出し
合って建てた水車小屋があったという。
水車館は無料の展示施設で、かつて深大寺周辺の農村の風景写真や道具を
中心に展示物が陳列されている。

水源から流れ出た逆川は、門前の道路に沿って深大寺方向へ向かう。
道沿いには深大寺名物の蕎麦屋や土産物屋が立ち並ぶ。
水車のある蕎麦屋もあるので、逆川そのものは知らなくても参道脇の水路を思い
浮かべる方も多いかと思う。

右手には亀島弁財天池がある。
池の中には小島があり、弁財天を祀る小さな祠がある。

そのまま逆川を進むと、左手に深大寺の山門が見え、入ると正面に本堂がある。

深大寺は天平5年(733)満功上人が法相宗の寺院として開創、その後、貞観年
間(859~877)に天台宗に改宗している。
深大寺という名は水神である深沙大王に由来する。さすがに湧水が豊富なこの地
ならではの名前であろう。

江戸名所図会『深大寺』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
境内の池に流れ込む湧水、この池の水も逆川へと流れ出ている。

逆川は山門の東側で南へと向きを変え、バス通りを越える。
道路を渡ると道路沿いに流れ、開渠を確認することができる。

その先は神代植物公園分園の水生植物園へと続く。
本園は有料だが、こちらは無料で入園することができる。
この地は、かつては水田として利用されていたが、その後はヨシやガマが生い茂る
休耕田となっていた。
昭和44年に調布市が環境保全の目的で買収、その後、東京都の湿生植物
園として計画が進められ、昭和60年に開園した。

園内は湿地帯が広がり、木製の遊歩道が続く。
水生植物園の西側の丘陵の上には、深大寺城址公園が広がっている。
深大城は「ふるき郭」と称する古城を、扇谷上杉朝興が天文6年(1537)に再
築したものと言われる。
当時、江戸城を北条氏綱に奪われた朝興は挽回を期するため、、多摩川対岸
の小沢城(稲田堤付近)に対抗するために古城を再築したが、氏綱が直接本拠
地の川越城を攻めたことから、その軍事的価値は失われ、そのまま廃城となったという。

城址は公園として整備され、芝生広場には発掘した屋敷跡の柱を石で表現している。
また写真右の盛り土は、再現された空堀である。
植物園を出た逆川は暗渠で中央高速を潜るが、その中央高速の南側へ廻ると、
開渠となって流れていく川を確認することができる。

はしご状開渠が下流に向かって続くが、残念ながら住宅の間を流れていくの
で、川沿いに進むことはできない。
そのため、川に並行する住宅街の中を進むことを強いられる。

柏野小学校の西側ではコンクリート蓋の暗渠道となる。
この柏野小学校、西側をこの逆川、東側をマセ口川という2つの野川支流に
挟まれた形で立地している。

小学校の前を通る佐須街道と交差すると再び開渠となるが、ここでも住宅の
間を抜けるように流れていく。

その先、やっと川に沿う一般道が現われるが、すでに野川との合流点の150
メートルほど手前。

逆川は、一の橋と大橋の間で野川に合流する。
清流が勢いよく流れ出て、階段状に落ちて野川へと流れ出ている。

より大きな地図で 【川のプロムナード】野川・仙川周辺マップ を表示

北の川と称する。
逆川の名は、東京西部の川は西から東へと流れるのに対し、東から西へと流れる
ことから名付けられたという。ただ、地図を見る限り、全体的に逆川は西から東
へと流れている。
深大寺一帯は国分寺崖線に沿っていることもあり、多くの湧水地点があるようだが、
逆川の水源とされているのは、本堂の西、深沙大王堂の裏手にある湧水である。

その水源から数分ほど歩いた場所に深大寺水車館がある。
かつてこの地に水車があり、明治末期に地元住民が水車組合をつくり、金を出し
合って建てた水車小屋があったという。
水車館は無料の展示施設で、かつて深大寺周辺の農村の風景写真や道具を
中心に展示物が陳列されている。

水源から流れ出た逆川は、門前の道路に沿って深大寺方向へ向かう。
道沿いには深大寺名物の蕎麦屋や土産物屋が立ち並ぶ。
水車のある蕎麦屋もあるので、逆川そのものは知らなくても参道脇の水路を思い
浮かべる方も多いかと思う。

右手には亀島弁財天池がある。
池の中には小島があり、弁財天を祀る小さな祠がある。

そのまま逆川を進むと、左手に深大寺の山門が見え、入ると正面に本堂がある。

深大寺は天平5年(733)満功上人が法相宗の寺院として開創、その後、貞観年
間(859~877)に天台宗に改宗している。
深大寺という名は水神である深沙大王に由来する。さすがに湧水が豊富なこの地
ならではの名前であろう。

江戸名所図会『深大寺』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
境内の池に流れ込む湧水、この池の水も逆川へと流れ出ている。

逆川は山門の東側で南へと向きを変え、バス通りを越える。
道路を渡ると道路沿いに流れ、開渠を確認することができる。

その先は神代植物公園分園の水生植物園へと続く。
本園は有料だが、こちらは無料で入園することができる。
この地は、かつては水田として利用されていたが、その後はヨシやガマが生い茂る
休耕田となっていた。
昭和44年に調布市が環境保全の目的で買収、その後、東京都の湿生植物
園として計画が進められ、昭和60年に開園した。

園内は湿地帯が広がり、木製の遊歩道が続く。
水生植物園の西側の丘陵の上には、深大寺城址公園が広がっている。
深大城は「ふるき郭」と称する古城を、扇谷上杉朝興が天文6年(1537)に再
築したものと言われる。
当時、江戸城を北条氏綱に奪われた朝興は挽回を期するため、、多摩川対岸
の小沢城(稲田堤付近)に対抗するために古城を再築したが、氏綱が直接本拠
地の川越城を攻めたことから、その軍事的価値は失われ、そのまま廃城となったという。

城址は公園として整備され、芝生広場には発掘した屋敷跡の柱を石で表現している。
また写真右の盛り土は、再現された空堀である。
植物園を出た逆川は暗渠で中央高速を潜るが、その中央高速の南側へ廻ると、
開渠となって流れていく川を確認することができる。

はしご状開渠が下流に向かって続くが、残念ながら住宅の間を流れていくの
で、川沿いに進むことはできない。
そのため、川に並行する住宅街の中を進むことを強いられる。

柏野小学校の西側ではコンクリート蓋の暗渠道となる。
この柏野小学校、西側をこの逆川、東側をマセ口川という2つの野川支流に
挟まれた形で立地している。

小学校の前を通る佐須街道と交差すると再び開渠となるが、ここでも住宅の
間を抜けるように流れていく。

その先、やっと川に沿う一般道が現われるが、すでに野川との合流点の150
メートルほど手前。

逆川は、一の橋と大橋の間で野川に合流する。
清流が勢いよく流れ出て、階段状に落ちて野川へと流れ出ている。

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