野火止用水 平林寺堀

野火止用水平林寺堀は新座市本多の史跡公園にある西堀分岐点で、右へと分流
し、本流の東を通って新河岸川へと流れ込む。
平林寺堀は、享保13年(1728)に分水されたとされる。

本流は史跡公園の西に沿って流れるが、平林寺堀は公園内を突き抜けるように進む。
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公園を出ると、畑と住宅の境界を進み、脇には細い遊歩道が続く。
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遊歩道は程なくして終了し、その先は一般道の歩道として水路脇の遊歩道が続く。
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西武バスの新座営業所手前でいったん暗渠となるが、200mほど行くと再び
道路の反対側(左側)に出現し、その先で関越自動車道を越える。
関越道は切り通しで通っているために、本流と同様、ここでも水路橋で道路を渡る。
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関越道を越すと水路は左に折れ、農地の中を進んでいく。
脇には遊歩道が設置され、遊歩道脇の農家には野菜の直売所もある。
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その遊歩道を数百メートルほど進むと、堀は平林寺境内へと入ってしまう。

平林寺は永和元年(1375)大田備中守の帰依によって建立された臨済宗妙心寺
派の寺院である。
当初は岩槻にあり、天正18年(1590)、豊臣秀吉の岩槻城攻めの際に戦火により
焼失、その後再建するが、寛文3年(1663)、野火止用水を開削した松平信綱の子、
輝綱が父の遺志をついで野火止に移築する。
以降、平林寺は松平家の菩提寺として、今日に至っている。
平林寺はこの地方の紅葉の名所として親しまれ、シーズンには多くの観光客・アマ
チュア写真家が訪れる。(境内の雑木林は国の天然記念物に指定)

平林寺
江戸名所図会 平林寺      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

こちらは野火止用水を開削した松平信綱の墓所。
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ここで松平信綱(1596~1662)の経歴を軽く触れておこう。
信綱は大河内久綱の長男として生まれるが、慶長6年(1601)に叔父・松平正綱
の養子となる。
徳川家光が誕生すると家光付の小姓に任じられ、その後、家光の絶大な信頼を得
て老中にまで出世する。
寛永14年(1637)に発生した島原の乱では、幕府軍の総大将として指揮し、こ
れを鎮定する。
島原の乱での功労を認められ、寛永16年、川越藩六万石の領主となる。
川越藩では、野火止用水の開削のほか、新河岸川の舟運開始、川越街道の整備、
農政の振興などにより、藩政の基礎を固めた。
家光の没後は、四代将軍家綱の補佐も務めている。

話を野火止用水に戻そう。
平林寺境内に入り、園内路を辿っていくと用水と交差する場所がある。
ただし、残念ながらそこに水の流れは確認できない。
先ほどまで流れていた水路は、境内に入ったところでわずかに確認できるが、
その後雑木林の中に入ってしまい、追うことはできない。(通路以外立入禁止)
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こちらは放生池、山門から入って左手方向にある。
かつては野火止用水の水が引かれており、その跡も確認することが出来る。
現在は地下水をポンプで汲み上げているようだ。
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先ほど境内の用水は空堀と言ったが、何故か水の流れは復活し、山門脇を通って
平林寺の東も平林寺大門通りの脇を流れていく。
水路側には歩道は設置されておらず、反対側の歩道を歩くことになる。
(通りは自動車通行量が多いため、水路沿いを歩くことは難しい)
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水路は新座市役所前まで続くが、そこで暗渠となり、この後、水流を見ることは
できない。
ここから先は、僅かに残る水路跡を探しながら歩いていくことになる。

川越街道を越えてひたすら住宅街の中の道を進んでいくことになるが、野火止
7丁目の凸版印刷工場脇にようやく用水の痕跡を見ることができる。
開渠ではあるが、水は流れていない。
工場脇という場所が水路の残存に幸いしたのかもしれない。
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武蔵野線に近いマンション脇にも、かつての平林寺堀とおぼしき窪地がある。
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武蔵野線の高架を潜り、さらに北へ行くと梅林が広がる地域があるが、その
横にもかつての護岸柵が残っている。
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朝霞市三原の住宅街の一般道を進んでいく。
特にこれといった痕跡は認められないが、蛇行する道の形状が用水跡を物語る。
道沿いの家屋とは段差は護岸跡であろうか。
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住宅街の中に突如として大きな野火止用水堀跡記念碑が出現する。
昭和58年に朝霞市と三原町会により建立されたもののようだが、野火止用水
開削の経緯が書かれ、飲料水や灌漑用水として使用されたほか、水車による
精米・製粉などに利用され、この地を潤したことが記載されている。
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東武東上線を北へと渡ると、その先は慶応義塾志木高等学校の広大な敷地
の中へと入っていく。許可を得て校内に入っていくと、グラウンド脇に堀跡が
残され、説明板が立てられていた。
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その説明板によると、校内には「山崎水車」とよばれるこの水車があり、
少なくとも明治36年(1903)まではその存在が確認できたという。
昭和48年に分水が停止、昭和51年に暗渠化、その後、昭和63年には
本校構内でも1976(昭和51)年に暗渠化、その後、1988(昭和63)年には
流路も敷地外に切り替えられた。
(説明板の内容は多すぎてここには書ききれないが、幸いにも同校のサイト
 で確認することができる。)

慶応志木高校を出ると、向い側のマンション下の遊歩道を進んでいく。
駅方面への通り道となっているのか、人通りも多い。
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遊歩道は200メートルほどで一般道となるが、その先にコンクリート蓋
の暗渠が現われる。
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そのコンクリ蓋を辿っていくと崖の中腹の細道に続く。
左側の崖下の住宅の2階相当の部分を通る形になる。
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この左に続く住宅街はちょうどU字状の谷底に広がっている。雨水が集中
するのだろうか、貯水池まで設置されているほどだ。
河川が流れてこの谷を形成し、かつてはここに田畑が広がっていたと想像
できる。用水はそれらの田畑にも水を供給していたのだろうか。

その先、水路は急坂になって地平面へと流れ落ちていく。
そして住宅と住宅の間をくねくねと進む。
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数十メートルいくと、新河岸川の土手が見えてくる。
土手の先には水門があり、新河岸川へと合流する。
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この記事は善福寺川リバーサイドBlogに記載したものを再編集して掲載したものです。


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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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