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国分寺用水

国分寺用水は鷹の台駅の東、久右衛門橋付近で玉川上水から取水されて
現在の東恋ヶ窪、国分寺市本町および南町を流れ、国分寺崖線を落ちて野
川に至る用水である。
国分寺用水の開削は明暦3年(1657)と早く、玉川上水の開通(承応2年
(1653))から4年後のことである。
数ある玉川上水の分水に中で野火止用水、小川用水に次いで3番目(砂川
分水も同年の開削)である。
砂川分水や小川用水は吞用水として造られたが、国分寺用水は田用水で
あり、国分寺村、恋ヶ窪村および貫井村の懇願によるものである。
これは国分寺村が野川や崖線からの湧水を利用して古くから存在した村で
あり(武蔵国分寺に近いということもあっただろう)、玉川上水の開通を契機
に台地上の開発のために国分寺用水が造られたものと思われる。
元々は玉川上水から直接取水されていたが、明治3年(1870)、玉川上水
の通船事業のために分水口改正(統合)が行われ、砂川用水経由で取水
されることとなった。

分水口改正以前は玉川上水の久右衛門橋(府中街道との交差)辺りで取
水されていたようだが、現在その取水口を確認することはできないし、また
そこからのルートも不明である。
そこで今回は砂川用水からの分水口から辿っていくことにする。

最初に断っておくが、国分寺用水の跡は殆どなく、僅かに用水跡に造られ
た道路を辿っていくこととなる。
(国分寺用水から分かれた恋ヶ窪用水にはその痕跡がいくつも見ることが
できるのだが)

砂川用水からの分水口は五日市街道沿い、東戸倉二丁目地先の交差点
の辺りにあったと思われるが、やはりその痕跡は何も残っていない。
2017-12-02_13.jpg


その交差点から南東方向へ真っすぐ続く道がある。
ここに国分寺用水が流れていたようだ。
2017-12-02_16.jpg

その先、道路の左手には窪東公園が広がる。
園内には人工水路があるが、これは関係なさそう。
2017-12-02_18.jpg

やがて道路は府中街道と交差する恋ヶ窪交差点に達するが、その手前に
厳島大弁財天が祀られている。
2017-12-02_20.jpg
その由緒は不明であるが弁財天は水の神であり、この先で用水が貫井村
分水や恋ヶ窪用水に分かれることを考えると、水の要所に建てられたとい
うのが実情であろう。
以前訪れた時(写真左下)のものより祠が新しくなっていたが、これは2013
年頃に道路工事に伴う一時的に移され、新築の祠に戻ってきたということらしい。

その恋ヶ窪交差点で貫井村分水を左に分けていた。
貫井村分水の跡は現在の連雀通り(写真左側の道路)であり、国分寺市
本多を抜けて貫井村の田畑へ水を供給していたようだ。
2017-12-02_21.jpg

国分寺用水は府中街道沿いを150メートルほど流れた後に東へと向きを
変え、その先で恋ヶ窪用水を分ける。
こちらは現在の府中街道を南下し、JR中央線の北にある姿見の池付近
で東へと向きを変え、野川に注ぐ。
西武国分寺線を越えた辺りには水路跡が残され、また姿見の池緑地内には
用水を再現した水路も造られている。
2017-12-02_23.jpg

国分寺用水跡の一般道に沿って東進する。
住宅街の一本道を進んでいくだけとなるが、道路沿いには昔ながらの建
築の銭湯(孫の湯)があり、目の保養ともなる。
2017-12-02_26.jpg

道の右側に歩道が続いているが、この歩道が用水だったのであろうか。
2017-12-02_28.jpg

国分寺市立第三小学校の手前で向きを南へと変え、S字カーブとなり、よう
やく水路跡らしい道筋となる。
左手には東京都水道局東恋ヶ窪浄水所がある。
2017-12-02_29.jpg

S字カーブを抜けると新しいマンション群が建ち並ぶ。
個人的な話で恐縮だが、筆者は平成元年から数年間、東恋ヶ窪付近に住
んでおり、その頃はこの付近には畑地が広がっていた。
道路形状は現在と変わらず、畑地の中にある道路であった。
2017-12-02_32.jpg

その先、日立製作所中央研究所の東側の道路を南下していた。
2017-12-02_34.jpg
日立製作所中央研究所の敷地内には野川の水源である大池がある。
野川1参照)
普段は立ち入ることはできないが、毎年春と秋に1日ずつ行われる一般公
開には多くの来場者で賑わう。
研究所の正門から200メートルほど行くと本町四丁目公園があり、公園内
柄鏡形敷石住居跡の復元模型が展示されている。
2017-12-02_39.jpg
古代史跡には疎いので、ここは国分寺市教育委員会による説明板の一部
を引用させて頂く。

ここに展示された「柄鏡形敷石住居跡」は都営国分寺本町4丁目アパート
建設に伴う事前調査によって発見された5軒の内、最も保存状態が良好で
あった第19号住居跡を再生復元しました。大きさは南北約5.6m、円形の
部分で直径約3.8mあり、深さは約50cmです。
「柄鏡形敷石住居跡」は、今から約4千年前、縄文時代中期末葉から後期
初頭の頃のもので、関東地方から中部地方にかけての広い範囲で発見さ
れています。市内ではこれまでの調査で恋ヶ窪遺跡に2軒、羽根沢遺跡に
3軒、恋ヶ窪東遺跡に1軒の合計11軒が発見されています。この住居の特
徴は、床面に平らな河原
石を敷き、入口となる長い張出し部を持っていることで、その形が丸い鏡面
に長方形の柄をつけた「柄鏡」に似た形をしていることからこの名前が付け
られました。


JR中央線および西武国分寺線を跨ぐ花沢橋に出る。
鉄道は堀割を造ってここを通しているが、当然のことながら用水より鉄道の
方が後にできている。(中央線の前身である甲武鉄道が開通したのは明治
22年(1889)である。)
鉄道を通すにあたり、なんと用水をサイフォン式の伏越にして線路の下を通
していたようである。
2017-12-02_41.jpg

中央線を越した後も更に南下していくが、そこには国分寺崖線が続いており、
おそらく用水を流れていた水は急速に落下していたに違いない。
なお、崖線付近では坂を上下しやすいように道路が通されているので、流
路を見失う。
2017-12-02_46.jpg

崖線下の道路を進むと野川が見えてきた。
2017-12-02_47.jpg

国分寺用水は不動橋付近で野川に水を落としていたようだ。
こちらも合流部の跡は見当たらず、この付近であろうと想像するしかない。
2017-12-02_51.jpg

【参考資料】
『国分寺市史』 国分寺市
『国分寺村の用水路について』 内藤 豊三郎
『玉川上水の分沿革と概要』 小坂 克信



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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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