田無用水 2
田無用水は鈴木町交差点の北で小金井街道を越えると、花南一丁目通
り(せいぶ通り)という一般道沿いに北東へ向けて流れていた。
現在は暗渠となりその痕跡は認められないが、道路右側に続く歩道が用
水の暗渠という証であろう。

田無の橋場まで2kmほど続く一般道を淡々と歩くことになる。

花小金井駅の東側と西武新宿線と交差する。

小平市から西東京市へと入る。
ここが田無用水の暗渠であることは、全く感じることはできない。

途中、この交差点で芝久保分水を右へ分ける。
芝久保分水は田無村芝久保へ開削された吞用水、いつごろ掘削されたの
か記録はないが、おそらく明治以降に造られたものと推察される。

通り沿いには畑も見られる。
この辺り、所々に新しい住宅も見られるが、以前はこのような畑が広がって
いたのであろう。

道路はその先で左へとカーブし、青梅街道の橋場交差点に突き当たる。
ここは青梅街道と東京街道の分岐点でもあり、橋場という名前は田無用
水に架かる橋があったことに由来すると思われる。

橋場の先、田無用水は青梅街道を挟んで2本の水路に分かれている。
用水跡には遊歩道が続き、周辺住民の通行路となっている。
なぜここで2本に分かれるのか、それは田無用水が田無宿の吞用水とし
て開削された経緯を考えば容易に想像できる。
ここから東側に田無宿があり、街道の両側に建つ家屋に水を供給するた
めであろう。
便宜的に北側水路、南側水路と称して、それぞれに追っていくこととしよう。
北側水路
青梅街道の北側に「やすらぎのこみち」と称する歩行者道が東へと延びている。

水路跡の歩道はタイル敷の舗装が続き、マンホールは花や昆虫などのデ
ザインが施されている。

「やすらぎのこみち」沿いにあった馬頭観音、天保15年(1844)建立のも
のだそうだ。

遊歩道沿いにスーパーがあるためなのか、歩行者や自転車の通行量も多い。

田無駅の北東にあたる地点で、遊歩道がT字交差している場所がある。
ここが前項冒頭の説明に出てきた田柄用水の分水口、田柄用水は北へ
と向かい、その後富士街道沿いに石神井方面へと流れていた。

田柄用水分水口を過ぎると、遊歩道は総持寺沿いに進む。
寺の仁王門前を横切るように流れていたようだ。
(歩行者専用道の標識がある道が「やすらぎのこみち」)

真言宗の田無山総持寺、創建年代は不詳だが、元和年間(1615~24)、
田無村字谷戸に法界山西光寺として創建、慶安年間(1648~51)に当地
に移転したと伝えられる。
明治8年(1875)、密蔵院、観音寺と合併し、総持寺と改称した。

なお観音寺は、総持寺の境外仏堂となっており、寺の西側、遊歩道沿い
に広がっている。
更にはその先、田無神社が鎮座する。
田無神社は鎌倉時代の創建と伝えられ、谷戸に尉殿大権現として鎮座していた。
その後、元和8年(1622)、上保谷村に尉殿神社(新川1参照)を分祀、
寛文10年(1670)に現在の地に遷座する。
明治5年(1872)に田無神社と改称、現在に至る。

境内には田無用水が横切っており、その史跡を残すように参道に小さな
橋が架けられている。

田無神社の東に続く暗渠道。

青梅街道を南へと渡ると、住宅地の中に用水の流末の痕跡を見つける
ことができる。

再び西武線と交差、その先で田無用水は石神井川と合流していた。
現在、線路の南側は石神井川の調節池となっており、正確な合流地点を
見出すことはできない。

南側水路
橋場の分流地点へと戻り、青梅街道南側の水路を追っていこう。
こちらは「ふれあいのこみち」と名付けられた歩行者道が橋場から続く。

「やすらぎのこみち」と同様に花や虫が描かれたマンホールが所々にあり、
それらを見ながら歩いていくのも楽しい。
写真は市の花タナシツツジが描かれたもの。

こちらの歩行者道も田無駅および周辺地区への通行路として利用され、
自転車や歩行者に利用されている。
青梅街道などの自動車の往来を気にせずに歩くことができ、田無用水は
現代では期せずして地域の交通安全に一役買っているということができ
るかもしれない。

病院の建物の間を抜けていく歩行者道。

駅北口の繁華街を抜けた先、住宅やマンションの間を通っていく。

向きを南へ転ずると、暗渠の雰囲気が漂う空間となる・

「ふれあいのこみち」は西武線の北側で終わる。

その先、田無用水の流路はわからなくなってしまうが、おそらく線路の南、
文化大橋付近で石神井川へと流れこんでいたのではないだろうか。
こちらも北側水路同様、かつての合流地点を確認することはできない。


り(せいぶ通り)という一般道沿いに北東へ向けて流れていた。
現在は暗渠となりその痕跡は認められないが、道路右側に続く歩道が用
水の暗渠という証であろう。

田無の橋場まで2kmほど続く一般道を淡々と歩くことになる。

花小金井駅の東側と西武新宿線と交差する。

小平市から西東京市へと入る。
ここが田無用水の暗渠であることは、全く感じることはできない。

途中、この交差点で芝久保分水を右へ分ける。
芝久保分水は田無村芝久保へ開削された吞用水、いつごろ掘削されたの
か記録はないが、おそらく明治以降に造られたものと推察される。

通り沿いには畑も見られる。
この辺り、所々に新しい住宅も見られるが、以前はこのような畑が広がって
いたのであろう。

道路はその先で左へとカーブし、青梅街道の橋場交差点に突き当たる。
ここは青梅街道と東京街道の分岐点でもあり、橋場という名前は田無用
水に架かる橋があったことに由来すると思われる。

橋場の先、田無用水は青梅街道を挟んで2本の水路に分かれている。
用水跡には遊歩道が続き、周辺住民の通行路となっている。
なぜここで2本に分かれるのか、それは田無用水が田無宿の吞用水とし
て開削された経緯を考えば容易に想像できる。
ここから東側に田無宿があり、街道の両側に建つ家屋に水を供給するた
めであろう。
便宜的に北側水路、南側水路と称して、それぞれに追っていくこととしよう。
北側水路
青梅街道の北側に「やすらぎのこみち」と称する歩行者道が東へと延びている。

水路跡の歩道はタイル敷の舗装が続き、マンホールは花や昆虫などのデ
ザインが施されている。

「やすらぎのこみち」沿いにあった馬頭観音、天保15年(1844)建立のも
のだそうだ。

遊歩道沿いにスーパーがあるためなのか、歩行者や自転車の通行量も多い。

田無駅の北東にあたる地点で、遊歩道がT字交差している場所がある。
ここが前項冒頭の説明に出てきた田柄用水の分水口、田柄用水は北へ
と向かい、その後富士街道沿いに石神井方面へと流れていた。

田柄用水分水口を過ぎると、遊歩道は総持寺沿いに進む。
寺の仁王門前を横切るように流れていたようだ。
(歩行者専用道の標識がある道が「やすらぎのこみち」)

真言宗の田無山総持寺、創建年代は不詳だが、元和年間(1615~24)、
田無村字谷戸に法界山西光寺として創建、慶安年間(1648~51)に当地
に移転したと伝えられる。
明治8年(1875)、密蔵院、観音寺と合併し、総持寺と改称した。

なお観音寺は、総持寺の境外仏堂となっており、寺の西側、遊歩道沿い
に広がっている。
更にはその先、田無神社が鎮座する。
田無神社は鎌倉時代の創建と伝えられ、谷戸に尉殿大権現として鎮座していた。
その後、元和8年(1622)、上保谷村に尉殿神社(新川1参照)を分祀、
寛文10年(1670)に現在の地に遷座する。
明治5年(1872)に田無神社と改称、現在に至る。

境内には田無用水が横切っており、その史跡を残すように参道に小さな
橋が架けられている。

田無神社の東に続く暗渠道。

青梅街道を南へと渡ると、住宅地の中に用水の流末の痕跡を見つける
ことができる。

再び西武線と交差、その先で田無用水は石神井川と合流していた。
現在、線路の南側は石神井川の調節池となっており、正確な合流地点を
見出すことはできない。

南側水路
橋場の分流地点へと戻り、青梅街道南側の水路を追っていこう。
こちらは「ふれあいのこみち」と名付けられた歩行者道が橋場から続く。

「やすらぎのこみち」と同様に花や虫が描かれたマンホールが所々にあり、
それらを見ながら歩いていくのも楽しい。
写真は市の花タナシツツジが描かれたもの。

こちらの歩行者道も田無駅および周辺地区への通行路として利用され、
自転車や歩行者に利用されている。
青梅街道などの自動車の往来を気にせずに歩くことができ、田無用水は
現代では期せずして地域の交通安全に一役買っているということができ
るかもしれない。

病院の建物の間を抜けていく歩行者道。

駅北口の繁華街を抜けた先、住宅やマンションの間を通っていく。

向きを南へ転ずると、暗渠の雰囲気が漂う空間となる・

「ふれあいのこみち」は西武線の北側で終わる。

その先、田無用水の流路はわからなくなってしまうが、おそらく線路の南、
文化大橋付近で石神井川へと流れこんでいたのではないだろうか。
こちらも北側水路同様、かつての合流地点を確認することはできない。


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