妙正寺川 上高田支流(仮)
中野駅の北、早稲田通り沿いから少し入ったところから妙正寺川へ続く暗渠がある。
川の名前は特にないが、暗渠を趣味としている方々からは、上高田支流
の名で呼ばれている。
ということで、上高田支流(仮)として話を進めていこうと思う。
上高田支流は中野区新井1-3の駐車場脇の茂みにその上流を見つけ
ることができる。
ただ周囲は住宅街であり、ここが本来の上流端であるかどうかは判らない。
昔はこの辺りに湧水でもあったのだろうか。

その先、東へ通じる暗渠道が始まる。
遊歩道として整備されているものではないが、ずっと続いているので容易
に支流を辿ることができる。

細い道は大妻中野高校の北側沿いに進んでいく。

スタート地点は早稲田通りと同じ高さであったが、400メートルほど歩い
た場所で早稲田通り方面へ目を向けると、写真のような坂道となっている。
国土地理院のサイトで計測すると5メートルほどの標高差があり、支流
が形成した谷を実感することができる。

更に細道を進んでいく。
右側の縁石はかつての護岸石だろうか。

くねくねと続く暗渠道、暗渠歩きの醍醐味を感じることができる風景でもある。

ここから早稲田通り沿いには八軒ほどの寺院が続く。
明治時代後期、東京府都市計画に伴い、牛込・浅草・芝などから移転して
きたもので、ちょっとした寺町を形成している。

写真は乾龍山天徳院(写真左 慶長7年(1602)創建)、盛高山保善寺
(写真右上 文禄2年(1593年)創建)、天寿山宗清寺(写真右下 寛永
6年(1629)創建)である。
寺町は上高田支流からも確認することができる。
というのは、その先、龍興寺の墓地下の石垣の横を通るのである。

この石垣、よく見るとなにやら彫刻が施されており、おそらく墓石などを再
利用されているものと考えられている。
数年前、白く塗色されてしまい雰囲気が変わってしまった。

なお、慈雲山龍興寺は寛永6年(1629)牛込に創建された臨済宗の寺院で、
小日向を経て明治41年(1908)当地へ移転した。

上高田支流は、白桜小学校の敷地へ入っていくため、暗渠道は一旦途切
れてしまう。
仕方なく迂回することとなるが、小学校の北西には更に寺院が六軒ほどあ
るので、その中から宝泉寺と功運寺を紹介しておこう。
曹洞宗の正覚山宝泉寺は永禄5年(1562)、江戸城清水門近くに創建、そ
の後牛込横寺町などを経て、明治41年(1909)当地に移転した。
三河深溝藩主で島原の乱で討死した板倉重昌(1588~1638)の墓所がある。

その西側には同じく曹洞宗の萬昌院功運寺、萬昌院(天正2年(1574)
創建、大正2年(1913)当地へ移転)と功運寺(慶長3年(1598)創建、大
正11年(1922)当地へ移転)が昭和23年(1948)に合併した寺院である。

萬昌院は三河吉良家の菩提寺であり、忠臣蔵で有名な吉良義央(1641~
1703)の墓所も当寺にある。
墓石には「元禄十五壬午十二月十五日」と刻まれているのが確認でき、興味深い。

また浮世絵師の歌川豊国や、『放浪記』などで有名な林芙美子もここに眠っている。
さて、上高田支流に戻り更に下流へと辿っていこう。
白桜小学校で途切れた川跡の道は、再び出現する。
この細道は中野区と新宿区の区境となっており、左側が中野区上高田、右
が新宿区上落合となっている。

歩いていくと突如としてトンネルが出現、これは隣接する落合斎場の駐車
場通路として設けられたものだ。

その先も暗渠道が続いている。

妙正寺川に近づいていくが、川の100メートルほど手前で水路は直角に曲
がっている。
ここで左側から、西方500メートルほどに位置する桜ヶ池不動尊からの水路
が合流している。

その桜ヶ池不動尊には崖地下部からの湧水を水源とする小さな池があり、
境内の由来碑によれば、清水が湧出する場所に小祠を建てて不動を祀
ったのが始まるという。
享保の頃より上高田には榛名、大山、武州御嶽、三峯の四講があり、講中
の代参者が禊を清めたようだ。
また、昭和7年(1932)には耕地整理組合が発足、妙正寺川の四村橋下流
に設けられた堰場からの導水や、東光寺(不動尊の北方にある)の湧水池
などを合わせ、農業用水として利用された。

桜ヶ池不動尊からの水路は水は流れていないものの、上高田4丁目団地
脇の暗渠としてその姿を残している。

不動尊からの水路と合流した上高田支流は東へと向きを変え、妙正寺川
の南側を川と並行して200メートル余、流れていた。
本来であれば真っすぐ妙正寺川へと合流してもおかしくはないが、桜ヶ池
不動尊の碑文を考えると農業用水による流路変更があったことも考えられる。

支流は美仲橋下流で妙正寺川に合流していた。
現在、吐口はないが、よく見ると護岸壁にその痕跡を確認することができる。


川の名前は特にないが、暗渠を趣味としている方々からは、上高田支流
の名で呼ばれている。
ということで、上高田支流(仮)として話を進めていこうと思う。
上高田支流は中野区新井1-3の駐車場脇の茂みにその上流を見つけ
ることができる。
ただ周囲は住宅街であり、ここが本来の上流端であるかどうかは判らない。
昔はこの辺りに湧水でもあったのだろうか。

その先、東へ通じる暗渠道が始まる。
遊歩道として整備されているものではないが、ずっと続いているので容易
に支流を辿ることができる。

細い道は大妻中野高校の北側沿いに進んでいく。

スタート地点は早稲田通りと同じ高さであったが、400メートルほど歩い
た場所で早稲田通り方面へ目を向けると、写真のような坂道となっている。
国土地理院のサイトで計測すると5メートルほどの標高差があり、支流
が形成した谷を実感することができる。

更に細道を進んでいく。
右側の縁石はかつての護岸石だろうか。

くねくねと続く暗渠道、暗渠歩きの醍醐味を感じることができる風景でもある。

ここから早稲田通り沿いには八軒ほどの寺院が続く。
明治時代後期、東京府都市計画に伴い、牛込・浅草・芝などから移転して
きたもので、ちょっとした寺町を形成している。

写真は乾龍山天徳院(写真左 慶長7年(1602)創建)、盛高山保善寺
(写真右上 文禄2年(1593年)創建)、天寿山宗清寺(写真右下 寛永
6年(1629)創建)である。
寺町は上高田支流からも確認することができる。
というのは、その先、龍興寺の墓地下の石垣の横を通るのである。

この石垣、よく見るとなにやら彫刻が施されており、おそらく墓石などを再
利用されているものと考えられている。
数年前、白く塗色されてしまい雰囲気が変わってしまった。

なお、慈雲山龍興寺は寛永6年(1629)牛込に創建された臨済宗の寺院で、
小日向を経て明治41年(1908)当地へ移転した。

上高田支流は、白桜小学校の敷地へ入っていくため、暗渠道は一旦途切
れてしまう。
仕方なく迂回することとなるが、小学校の北西には更に寺院が六軒ほどあ
るので、その中から宝泉寺と功運寺を紹介しておこう。
曹洞宗の正覚山宝泉寺は永禄5年(1562)、江戸城清水門近くに創建、そ
の後牛込横寺町などを経て、明治41年(1909)当地に移転した。
三河深溝藩主で島原の乱で討死した板倉重昌(1588~1638)の墓所がある。

その西側には同じく曹洞宗の萬昌院功運寺、萬昌院(天正2年(1574)
創建、大正2年(1913)当地へ移転)と功運寺(慶長3年(1598)創建、大
正11年(1922)当地へ移転)が昭和23年(1948)に合併した寺院である。

萬昌院は三河吉良家の菩提寺であり、忠臣蔵で有名な吉良義央(1641~
1703)の墓所も当寺にある。
墓石には「元禄十五壬午十二月十五日」と刻まれているのが確認でき、興味深い。

また浮世絵師の歌川豊国や、『放浪記』などで有名な林芙美子もここに眠っている。
さて、上高田支流に戻り更に下流へと辿っていこう。
白桜小学校で途切れた川跡の道は、再び出現する。
この細道は中野区と新宿区の区境となっており、左側が中野区上高田、右
が新宿区上落合となっている。

歩いていくと突如としてトンネルが出現、これは隣接する落合斎場の駐車
場通路として設けられたものだ。

その先も暗渠道が続いている。

妙正寺川に近づいていくが、川の100メートルほど手前で水路は直角に曲
がっている。
ここで左側から、西方500メートルほどに位置する桜ヶ池不動尊からの水路
が合流している。

その桜ヶ池不動尊には崖地下部からの湧水を水源とする小さな池があり、
境内の由来碑によれば、清水が湧出する場所に小祠を建てて不動を祀
ったのが始まるという。
享保の頃より上高田には榛名、大山、武州御嶽、三峯の四講があり、講中
の代参者が禊を清めたようだ。
また、昭和7年(1932)には耕地整理組合が発足、妙正寺川の四村橋下流
に設けられた堰場からの導水や、東光寺(不動尊の北方にある)の湧水池
などを合わせ、農業用水として利用された。

桜ヶ池不動尊からの水路は水は流れていないものの、上高田4丁目団地
脇の暗渠としてその姿を残している。

不動尊からの水路と合流した上高田支流は東へと向きを変え、妙正寺川
の南側を川と並行して200メートル余、流れていた。
本来であれば真っすぐ妙正寺川へと合流してもおかしくはないが、桜ヶ池
不動尊の碑文を考えると農業用水による流路変更があったことも考えられる。

支流は美仲橋下流で妙正寺川に合流していた。
現在、吐口はないが、よく見ると護岸壁にその痕跡を確認することができる。


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