日野用水上堰 1

日野用水上堰はJR八高線の多摩川鉄橋の上流の日野用水堰(平堰)で
多摩川から取水され、日野市北部を横断する用水路である。
中央高速道路と交差する万願寺地区で下堰と合流、そこからは根川と称
する排水路となって、多摩川と浅川の合流部付近で放流される。
本項では下流の境川を含めて、日野用水上堰のルートを追っていくこととしよう。

日野市内を流れる用水路は網の目状に広がっている。
多摩川から取水される日野用水のほかに、浅川からの豊田用水や上田
用水、更には浅川の南岸にも平山用水系などがあり、その長さは幹線系
だけで38km、支線を合わせると現在でも約170kmほどの水路が現在
でも残っているという。
また、多摩川や浅川からの取水とは別に崖線からの湧水も豊富で、市内
の用水へと流れでている。
日野市は平成7年に国土庁から「水の郷」として指定され、それを観光資
源としてアピールをしている。

日野用水の起源は、永禄10年(1567)、佐藤隼人により開削されたとされる。
佐藤家はもともと美濃国武儀郡八幡村(現;岐阜県関市)の武士であった
が、永禄年間にそこから落ち延び、当地に庄屋として居住した。
隼人は、時の滝山城主北条氏照の許諾を得て用水を開削、その際、罪人
の使役を許されて用水を掘らせたという。

まずは日野駅の西方3.5kmほどの日野用水堰平堰)へと向かう。
幸いにも日野駅から堰の近隣までバスが通じている。
現在の日野用水堰は昭和37年(1962)に完成したもの、それ以前の上
堰は更に上流側にあったという。
また下堰は下流の東光寺付近から取水されていたようだが、現在は上堰
の途中から分かれる形となっている。
2016-12-03_17.jpg

多摩川から取水された水が、住宅の間を流れていく。
2016-12-03_18.jpg
                            
取水口から数分歩いた場所にあるのが真言宗寺院の比盧宝山大蔵院。 
元和7年(1621)に栄秀によって創建された寺院である。
2016-12-03_19.jpg
墓地は多摩川右岸の丘陵の崖地沿いに広がっており、上下するために
小型の懸垂式モノレールが設置されており、ユニークだ。
寺の西側には樹齢500年とも推定される銀杏の樹があり、「平町大蔵院
のイチョウ」として、八王子市の天然記念物に指定されている。
文政6年(1823)に書かれた武蔵名所図会にも記され、また名主であっ
た平氏が家康から賜った金銭を、これをご神体とした東照宮を祀ったこと
から「金銭平の大公孫樹(おおいちょう)」とも称されている。

やがて用水は道路沿いに出てくる。
水路の北側では工場が建設中であり、そのためなのかコンクリート護岸
が整備されている。
工場が完成した暁にはこの辺りの風景も変わってしまうのだろう。
2016-12-03_22.jpg

その先でJR八高線が交差、更には台地の上から都道169号淵上日野線
が下りてくる。
2016-12-03_24.jpg

都道の左側、八王子水再生センター沿いを進んでいく日野用水。
2016-12-03_27.jpg

都道を南側へと渡ると、水路の幅が広がる。
2016-12-03_31.jpg

八王子市小宮町の住宅街の中を流れる。
2016-12-03_35.jpg

2016-12-03_37.jpg


用水沿いに歩いていくと、水路が左へと分かれる石川堰へと達する。
余水を多摩川へと戻しているもので、その余水水路は旧谷地川の川筋である。
2016-12-03_40.jpg
堰の脇には日野用水改修記念碑が建っているが、残念ながら周囲は立
ち入りが禁止されていた。

石川堰の先、短い区間ではあるが、日野用水沿いに遊歩道が設けられている。
2016-12-03_44.jpg

その先、谷地川との交差部にはコンクリート製の掛樋が設置されている。
谷地川は河川改修され、その際にこの掛樋が架けられたようだ。
改修前のルートは先ほどの石川堰の場所で、日野用水と谷地川が交わっ
ていたのだろう。
2016-12-03_49.jpg

谷地川との交差との手前で八王子市から日野市へと入り、その後は日野
駅の手前付近まで道路の脇を流れていくことになる。
2016-12-03_51.jpg
この辺りで日野用水下堰を左へと分ける。
下堰はこの先、多摩川寄りの地域を流れ、万願寺付近で再び上堰と合流
することになる。

その先の栄町五丁目交差点脇には、東光寺大橋の碑が建てられている。
右側が弘化3年(1846)に建立された碑、左側には大正時代に建てられた
東光寺大坂の碑が並んで建てられ保存されている。
2016-12-03_55.jpg
現在の都道はその昔、東光寺道と呼ばれていた道であった。
日野用水上堰を渡る橋は当初土橋であったが、天明6年(1786)板橋に
架け替えられ、更には文化5年(1808)に石橋となった、
天保年間(1830~44)に石橋が崩落し、その後弘化3年、村民が協力し
て伊豆石を用いて再び架橋した。
碑文は橋の変遷を知ることができるものとして、日野市の史跡に指定さ
れている。

水路は延々と道路の脇を流れており、歩道も一部、水路の上にせり出している。
2016-12-03_58.jpg

その先で小さな堀を分水、その分水路を数十メートルほど辿ると水車が設
けられた水車堀公園がある。
江戸時代から昭和期までで日野市内には 50基以上の水車があり、製粉
などが行われていた。
水車は昭和30年頃までに姿を消したが、平成15年、区画整理事業に伴
い、元の場所に水車を復元し、公園として整備したものらしい。
2016-12-03_62.jpg

さらに300メートルほど進むと、再び水路が分かれる地点がある。
2016-12-03_67.jpg

その分水路を辿っていくとよそう森公園が見えてくる。
かつてはこの辺りに田圃が広がっておいたが、区画整理事業が進む中、
その風景を残し、付近の東光寺小における米作りの教育の場として、公園
内に田圃がつくられたという。
水路は素掘であり、往年の日野の原風景が広がっている。
2016-12-03_72.jpg

そろそろJR中央線の日野駅に近づいてくる。
2016-12-03_72.jpg

日野用水は道路の左手に折れ、その先でJR中央線と交差する。
その築堤を水路が潜る鉄橋には、明治期に造られた煉瓦が残されている。
2016-12-03_78.jpg
現地の説明板によると、中央線の前身である甲武鉄道の立川~八王子
間が開通したのが明治22年(1888)8月、その前年には日野宿の土淵
英により日野煉瓦製造所が設立され、多摩川橋梁などに利用されたという。
日野煉瓦製造所は、翌年の支配人土淵英の死におり、廃業されてしまう
が、約50万個の煉瓦が製造され、甲武鉄道の諸施設のほか、玉川上水
に架かる旧日光橋(福生市)などにも使用されたという。

なお日野駅周辺には日野宿発見隊という団体により、昔日の写真が街角
に多数掲示されている。
写真の掲載は差し控えるが、日野用水を撮った写真も多数あり、思わず
見入ってしまう企画である。
こちらのサイトに掲載されているので興味がある方はご覧頂きたい。)

《参考資料》
『用水を総合的な学習に生かす~日野の用水を例として~』
                     小坂 克信 著
『水都日野 みず・くらし・まち 水辺のある風景 日野50選』
          水辺50選ワーキンググループメンバー 編
『水の郷日野エコミュージアムマップ
  日野用水エリアその一  ~日野駅西側~』



次へ 目次
  
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

ごあんない
目次
過去記事はこちらから。
水系ごとに体系化しています。

橋マップ
Google Mapを利用して、
橋の位置と写真を紹介します。
INDEX

Twitterボタン
Twitterブログパーツ
プロフィール

リバーサイド

Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
フォトアルバム
外部のサイトを利用して、フォトアルバム(スライドショー)を表示します。
以前のブログから引き継いでいます。

金太郎(杉並の暗渠)
神田川の桜 2008
善福寺川の桜 2008
目黒川の桜 2012
三島の湧水
リンク
QRコード
QR
検索フォーム
アクセスカウンター
おすすめ
リバーサードがお勧めする本