谷端川 2

下板橋駅の西側で東武東上線と交差すると、谷端川は東のJR埼京線の
板橋駅へ向かって流れていた。
下板橋~板橋間の谷端川跡にも300メートルほどの緑道があり、欄干を
模した車止めには、一の橋、二の橋、三の橋といったかつての橋名が記
されている。
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その緑道の先、板橋駅の南側で埼京線と交差する。
その脇の看板には「矢畑川自由通路地下道ガード」と書かれているが、
矢畑川という名称はここ以外に見当たらず、誤記の可能性もあるのかも
しれない。
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板橋駅の東口前には、新撰組隊士供養塔がある。
新撰組局長の近藤勇は、慶応4年(1868)、板橋刑場にて斬首となった。
首級は京都に送られ三条河原でさらし首にされたが、胴体はこの地に埋
められ、明治9年(1876)、新選組隊士・永倉新八が発起人となり、旧幕府
典医松本順の協力を得て建てられたという。
但し、近藤勇の墓所は各地にあり、真偽のほどは定かではない。
(当ブログでも三鷹市の龍源寺(野川2参照)を墓所の一つとして紹介)
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なお、この地は石神井川沿いの寿徳寺(石神井川6参照)の境外墓地でもある。

板橋から向きを南東方向へと変えて進んでいく。
今までとは異なり一般道が続き、僅かにカーブにその痕跡をみる程度である。
また、目にすることはできないが、この通りが北区と豊島区の境界線である
ことも川の痕跡と言ってよいだろう。
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この通りが谷端川跡であることの唯一の証しである道沿いの豊島区教育
委員会による説明板。
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道路を進んでいくと、やがて都道436号線に出る。
その交差点脇に宮仲公園がある。
ごく普通の小公園であるが、昭和13年(1938)、渋沢栄一の三男・渋沢
正雄氏によって東京市に寄付され、児童遊園地として整備されたもの。
また、園内には、昭和18年、皇后が豊島授産場付近で隣組の防空訓練
を視察、その際に詠んだ歌碑が建てられている。
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その先、谷端川は都道沿いに大塚駅方面へと流れていた。
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大塚駅の北口、都電の線路沿いのビルの中に滝不動が鎮座している。
かつて谷端川沿いに石造不動明王立像があり、川の流れが小さな滝のよ
うになっていた場所にあったため、滝不動と呼ばれていたという。
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昭和10年(1935)、谷端川の暗渠化に伴い滝不動は近隣居住者の個人
所有となり敷地内に移されるが、その後、空襲により破損してしまう。
昭和30年頃、所有者が再建立、さらには平成11年に所有者寺社ビルの
建築に伴い、この地に移設された。
かつて谷端川沿いにあった滝不動は、60余年の時を経て、再びかつての
川沿いに移されたというわけだ。

大塚駅付近で山手線の内側に入ると、谷端川跡は大塚三業通りとなって現れる。
ここでも蛇行する道筋に川跡を感じさせる。
三業とは料理屋・待合茶屋・芸者置屋のことで、いわゆる花街を意味する。
現在は花街ではなくなっているが、今も飲食店が通り沿いに立ち並ぶ。
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巣鴨小学校の東側の高台の上に、真言宗豊山派の観光山東福寺が建つ。
創建年代は明らかではないが、永禄5年(1562)に良賢和尚が中興したと
伝えられる古寺である。
小石川大塚にあったが、元禄4年(1691)に当地へ移転されたという。
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この辺りから谷端川の左右には台地が広がり、川が谷底を流れていたこ
とが実感できるようになる。
三業通りから続く一般道、相変わらず、道路がクネクネしている。
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不忍通りとの交差地点には猫又橋の親柱の袖石が保存されている。
昭和9年(1934)に暗渠化された際、地元の工事相談役の方が自宅に保
管していたもの。
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また猫又橋には伝説があるので、現地の説明板を引用してみよう。
このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。
ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の
茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川に
はまった。
それから、この橋は、猫貍(ねこまた)橋(猫又橋)といわれるようになった。
猫貍は妖怪の一種である。

(ここの説明板では、谷端川を別名の千川と表記している。)

こちらは江戸名所図会に描かれた『猫貍橋
猫貍橋
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

更に谷端川跡の道路は、続いていく。
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この先で谷端川は並行する都道436号線に出てくる。
谷端川はこの都道、およびその南側の住宅地付近を蛇行しながら流れて
いたようだ。
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小石川植物園の手前、谷端川の北の台地の上に簸川神社が鎮座する。
第五代孝昭天皇の頃の創建と伝えられる古社であり、源義家が奥州平定
の際に参詣したとも伝えられる。
元禄12年(1699)に小石川植物園の地から当地に移転したと伝えられ、
巣鴨の鎮守として江戸名所の一つであったという。
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都道に沿って歩いていくと共同印刷の大きな建物が見えてくる。
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この小石川周辺は印刷・製本業の街として知られ、街中にはフォークリフト
が走りまわる。
印刷には大量の水が必要なことから、谷端川沿いのこの地に印刷業が発
達したのであろう。
同じく、少し南へ行った同じ文京区の神田川沿いにも印刷業の工場が多く
存在する。

さて、ここで谷端川北側に広がる小石川植物園へと立ち寄ってみよう。
正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園と称し、植物の研究施
設であり、園内には自然が豊富に残っている。
谷端川が流れる谷地およびその上に広がる白山台地を含んだ16万平方
メートルの敷地を持つ。
台地の崖線には湧水があり、台地下にはそれを集めた池が複数存在する。
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植物園の前身は幕府によって開設された小石川御薬園、貞享元年(1684)
それまで麻布にあった薬園を、5代将軍綱吉の別邸であった白山御殿の
この地に移設したのが始まりである。
その後8代将軍吉宗の時代に拡張、また薬園内に小石川養生所が開設
され、江戸庶民の診療所として機能した。
写真は旧養生所の井戸で、関東大震災の際には被災者の飲用水として
も役立ったという。
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なお、平成24年、「小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」として国の名
勝および史跡に指定された。

小石川の地を歩いていると寺院が多いことに気づく。
長くなってしまうので個々の紹介は省略させて頂くが、写真左上は日々山新
福寺
、右上は天皇山安閑寺、下は瑞雲山念速寺、共に真宗大谷派の寺院
である。
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谷端川はやがて向きを南へと向け、南へと流れる神田川を目指す。
行く手には、文京シビックセンターの建物が見えてくる。
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その先の右手には「こんにゃく閻魔」の名で知られる浄土宗寺院の常光山
源覚寺
がある。
寛永元年(1624)、定誉随波上人によって創建された。
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「こんにゃく閻魔」の由来は、眼病を患った老婆が閻魔大王像に祈願してい
たところ、閻魔大王が右眼を与え、以後老婆が感謝のしるしとして、自分の
好物であるこんにゃくを絶ち、こんにゃくを備え続けたという逸話による。

シビックセンターの南、地下鉄丸の内線の高架付近で、千石付近を源流と
して白山を経由して流れてくる東大下水を合流する。

更には東京ドームシティの中を南下する。
くしくも、東京ドームシティの人工水路が、谷端川の流路の跡地となってい
るが、人工水路は谷端川を意識して造られたものであろうか。
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外堀通りの先で谷端川は神田川へと合流していた。
その流出口は確認できず、現在、その地は防災用の船着き場となっている。
手前の外堀通りの下には、神田川の水道橋分水路が暗渠として流れてお
り、おそらく分水路へ合流しているのであろう。
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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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