稲付川(北耕地川) 1

板橋区双葉町付近で石神井川から取水され、板橋本町、稲荷台、北区上
十条、赤羽西、神谷などを経て隅田川へ注ぐ稲付川を紹介しよう。

稲付川は、根村用水中用水北耕地川上郷七か村用水など、いろい
ろな名前で呼ばれていた。
上郷七か村用水の七か村とは、下板橋宿・上十条村・稲付村・赤羽村・
下村・神谷村そして岩淵本宿町であり、それら各村の田畑を潤していた。
用水の開削は、元禄8年(1695)に行われ、石神井川に根村堰が設けられた。
上十条地区に入ると稲付川は根付の谷を流れていくが(次項参照)、おそ
らくもともと、谷にある湧水を集めた川があって、そこに石神井川からの
用水堀をつなげたのであろう。

この用水も多分に漏れず、用水を巡ってしばしば争論を起こしている。
それは中用水の上流域と下流域の村々間の騒動だけではなく、石神井
川下流の石堰(現王子付近)から取水された石神井用水(下用水、下郷
二十三か村用水)沿いの村々とも争いが起きた。
なかでも明治9年(1876)に起こった争いは、大きな騒動に発展したという。
従来、用水の管理は中用水、下用水の両組合の協議によって行われて
いたが、下用水側への相談もなく、根村堰の改修を行ったことが事の発
端である。
双方の組合の協議でも決着がつかず、最終的には東京府の裁断を仰ぎ、
仲裁により決着をみた。

東武東上線の中板橋駅近くの石神井川、向屋敷橋付近から下流方向
を撮影してみた。
この付近に根村堰と呼ばれる取水口があったらしい。(根村とはこの辺
りの字名)
明治期、この辺りの石神井川は大きく蛇行しており、河川整備されて直線化された。
(戦前の地形図で確認すると、既に石神井川は真っすぐに流れている。)
そのような事情から、堰の跡など残っているはずもない。
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向屋敷橋から下流へ2つ目の山中橋の北側から川跡らしき道路が始まる。
蛇行する形状が僅かに川跡だと感じさせる。
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道沿いには真宗大谷派の松浦山即得寺がある。
昭和40年(1965)に新潟市より移転してきた寺院のようだ。
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更に石神井川の北に広がる住宅地を進んでいく。
左手がわずがに高くなっており、現地を歩いていると、石神井川がつくっ
たであろう小さな谷地であることが判る。
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道を辿っていくと、左手に真言宗の光明山日曜寺が見えてくる。
正徳(1711~16)の頃、宥慶比丘が小堂を営んだのに始まり、その後、
田安家初代徳川宗武(八代将軍吉宗の第二子)をはじめとした田安家の
人々から帰依を受けた。
愛染明王を本尊とし、愛染が藍染に通じることから、染色業の人々から
信仰を受けたという。
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日曜寺の門前に、かつて稲付川(中用水)に架かっていただろう小さな橋がある。
親柱には「昭和二年五月改修」の文字が残る。
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日曜寺から100メートルほど行ったところに、龍光山智清寺がある。
室町時代初期、見誉上人智清によって創建されたと伝わる。
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こちらの山門脇にも正徳4年(1714)の石橋が残され、板橋区の登録文
化財に指定されている。
明治5年(1872)に起こった水騒動では、板橋の農民が竹槍を持って智
清寺に立てこもり、下流の6ヶ村の農民との間で対峙したという。
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国道17号線を越え、旧中山道を横切る。
そこはちょうど板橋上宿にあたる場所であり、稲付川との交差箇所には
板橋宿上宿の碑が建っている。
街道沿いの縁切榎石神井川5参照)も近い。
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板橋本町の住宅街を蛇行しながら東へと進んでいく。
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帝京高校グラウンドの北側を通る。
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その帝京高校グラウンドを過ぎると、ちょっとした高台に差し掛かる。
明治期の地形図には水路として描かれているので、切り通しで抜けてい
たのだろうか。
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そこを過ぎると下り坂となる。
道脇の公園が水路跡なのか。
2016-09-25_42.jpg

環七の姥ヶ橋陸橋の手前のマンション脇に、突如として川の痕跡の空間
が現れる。
稲付川の殆どの区間が道路となってしまっているので、貴重な場所である。
2016-09-25_44.jpg

川は姥ヶ橋交差点を斜めに横切る形で流れていたようで、姥ヶ橋は稲付
川に架かっていた橋の名である。
交差点脇には、享保9年(1724)の銘文がある姥ヶ橋延命地蔵尊が建っ
ている。
地蔵脇の説明文によると、誤って川に子供を落として死なせてしまった乳
母が、自ら責めを負って橋をから身を投げたという伝説があり、この供養
のために建立されたと伝えられているが、実態は石橋の安全供養のため
の地蔵であるという。
2016-09-25_50.jpg
また、この地は、十条・板橋道と王子道が合流する交通の要所であり、二
つの道が出合うことから、「出合地蔵」とも呼ばれたようだ。

《参考資料》
『北区史 通史編 近世』  北区史編纂調査会
『北区史 通史編 近現代』 北区史編纂調査会



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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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