谷沢川 2
谷沢川は首都高速3号線の下に出て、400メートルほどその下を進んでいく。
そこには南橋の欄干が残されている。

次の田中橋までの区間は駐輪場となっているが、田中橋からはいよいよ開
渠となる。
田中橋は旧大山街道に架かる橋であったが、その名は田圃の中にある橋
に由来するという。
今の用賀付近の賑わいからは考えられない話である。

川を流れる水は、仙川の浄化施設(岡本付近)で取水し、ここまで導水して
いるものであり、谷沢川の水環境の改善に寄与している。
首都高速が国道246号線上に合わさる手前で、谷沢川は右へと離れていく。

谷沢川はこの先、用賀そして中町の住宅街を直線的に流れていく。

川沿いには桜が植えられ、春には桜の名所ともなり、「谷沢川の桜と柳の堤」
として「せたがや百景」の一つとして選定されている。

明治から昭和初期の地形図をみてみると、谷沢川を中心に帯状に田園が
広がっていたようだ。
もちろん、その頃の谷沢川は現在のように直線的な流れではなく、ある程
度蛇行していたことだろう。

植物が植えたり、石を配置したりして、コンクリート護岸の殺風景な雰囲気
になるのを避けているのであろう。
他の都市河川の多くは三面コンクリート護岸で囲まれ、味気ない風景が続
くが、見習うべきではないだろうかとも思ってしまう。

上野毛駅の東にある谷澤橋の先から谷沢川は住宅の間へと入り込んでし
まい、暫くは川沿いを歩くことができなくなる。
いよいよ、川は等々力渓谷に向けて、水を落としていく。

ここで谷沢川の河川争奪について述べておこう。
下記に模式図を示すが、もともと谷沢川は、東の九品仏川方向へと流れていた。
しかしいつの日からか、その流れを南へと向きを変え、等々力渓谷を経て
多摩川へと流れ出ることとなったのである。

これについては、等々力渓谷の浸食が進んだ結果、谷沢川が渓谷へと流
れ込んだという自然現象説、もう一つは人為的に流路が付け替えられたと
いう人為開削説に分かれている。
ただ人為的に流路が変えられたとすると、相当の大工事が行われたことに
なるが、その工事に関する記録はなく、また現地を見てみると、谷沢川は
下流へいくに従い、相当深い谷となっており、人為的な流路変更とするに
は無理のような気がするので、私としては自然現象説を支持したい。
さて周辺の道路を迂回しながら、谷沢川を追っていこう。
姫之橋の上流で、谷沢川は二本の水路に分かれている。
ここには「姫の滝」という滝があったそうだが、昭和13年(1938)の水害
により崩壊した。

この姫の滝には次のような悲恋の伝説がある。
都からやってきた貴公子がこの地の領主の館に宿泊、その領主の娘と恋
に落ちた。
貴公子は再会を約束して京へと戻っていったが、その後、幾年を重ねても、
彼は当地へ来ず、苦悩した娘はついには滝に身を投げたという話である。
こちらは姫之橋下流側に見える水門。

次の中之橋の脇には庚申塔が安置されている。

迂回しながら辿っていくと、東急大井町線と交差し、線路脇を川は下っている。

ゴルフ橋から等々力渓谷が始まるが、その手前に排水口があり、逆川が
合流している。

ゴルフ橋の東側には逆川の暗渠が続いている。

逆川の暗渠を辿ることはできないが、目黒通りへと迂回すると、暗渠が続
いていることを確認することができる。
目黒通りの先も逆川があったと推定されるが、その川跡をみることはでき
ず、ここまでで途絶えてしまう。

なお、大井町線沿いに尾山台方面へと暗渠が続いているが、もしかしたら
逆川が移設された跡なのかもしれない。
この逆川、先に述べた河川争奪の跡として論じられることが多く、通常は西
から東へと流れるのに対して逆方向へと流れるため、その名が付いたと思
われるが、そうでもないようだ。
世田谷城主吉良頼康が行った鷹狩の際、撃ち落とした白鷺の脚に和歌を
記した短冊が結びつけてあり、その主を探索したところ、逆に白鷺の持ち主
から、その行方を問われ、その逆問答の伝説がもとで逆川と名付けられたという。
話が長くなるので詳細は省略するが、奥沢新交会のサイトに詳しく記され
ているので、興味のある方はご覧いただきたい。
先ほどのゴルフ橋脇の階段を下りていくと、等々力渓谷の遊歩道が始まる。
(ゴルフ橋は、この西側にかつてゴルフ場があったことに由来する。)

さすが、都内有数の景勝地ともあって、訪れる人は多い。
渓谷内は涼しく、夏季ともなると渓谷内と台地と数度の気温差があり、川
沿いには涼風が吹き抜ける。渓谷の深さは約10メートル、斜面には様々
な木々が繁茂している。

環八が架かる玉沢橋付近には、等々力渓谷第三号横穴がある。
古墳時代末期から奈良時代にかけて造られたもので、3体の人骨とともに
耳環や土器などの副葬品が出土したという。

古墳と言えば、等々力渓谷の北、玉川野毛町公園内にある野毛大塚古墳
も触れておきたい。
全長82メートル、後円部の高さ10メートルの帆立貝式の前方後円墳で、
五世紀前半に築造された古墳である。
多量の武器・武具類をはじめとする副葬品が出土しており、有力な首長墓
であることを示しているという。
ご興味のある方は渓谷訪問の帰途にでも立ち寄ってみればいかがだろうか。

渓谷の斜面からは所々で湧水を見ることができ、「等々力渓谷・等々力不
動尊」として、東京の名湧水57選の1つに指定されている。

さらに歩いていくと、左岸にその湧水の一つから水を落とす不動の滝がある。
古来より多くのこの滝に打たれて行をする、修行したことだろう。
等々力の地名はこの滝の音が渓谷にとどろいていたことに由来するともいう。

不動の滝の脇の階段を上っていくと、等々力不動尊(滝轟山明王院)がある。
八百年ほど前、和歌山の根来寺の(1095~1144)が、神託によりこの地
を訪れ堂を建立し不動尊を祀ったと伝えられる。
戦国時代には吉良氏が戦勝祈願所とにしたとも言われている。
渓谷散策がてらの参拝客も多く、境内は賑わっている。

不動の滝からまもなく渓谷は終わり、多摩川沿いの住宅街へと入っていく。
川沿いには個人宅の出入口に架かる橋が並ぶ。

その先、丸子川(六郷用水)と交差する。
交差するとはいっても、現在では丸子川を流れてきた水は谷沢川へと合流
し、下流方向には改めて谷沢川から取水した水が流されるように改修されている。
下記の写真は谷沢川の下流方向から撮影したもので、写真左側が合流す
る丸子川である。

多摩川の土手を潜って、谷沢川は多摩川へと合流する。

《参考資料》
『世田谷の河川と用水』 世田谷区教育委員会編
『ふるさと世田谷を語る 用賀・上用賀・中町(野良田)』 世田谷区
『ふるさと世田谷を語る 等々力・東玉川・玉川田園調布・玉堤』 世田谷区

そこには南橋の欄干が残されている。

次の田中橋までの区間は駐輪場となっているが、田中橋からはいよいよ開
渠となる。
田中橋は旧大山街道に架かる橋であったが、その名は田圃の中にある橋
に由来するという。
今の用賀付近の賑わいからは考えられない話である。

川を流れる水は、仙川の浄化施設(岡本付近)で取水し、ここまで導水して
いるものであり、谷沢川の水環境の改善に寄与している。
首都高速が国道246号線上に合わさる手前で、谷沢川は右へと離れていく。

谷沢川はこの先、用賀そして中町の住宅街を直線的に流れていく。

川沿いには桜が植えられ、春には桜の名所ともなり、「谷沢川の桜と柳の堤」
として「せたがや百景」の一つとして選定されている。

明治から昭和初期の地形図をみてみると、谷沢川を中心に帯状に田園が
広がっていたようだ。
もちろん、その頃の谷沢川は現在のように直線的な流れではなく、ある程
度蛇行していたことだろう。

植物が植えたり、石を配置したりして、コンクリート護岸の殺風景な雰囲気
になるのを避けているのであろう。
他の都市河川の多くは三面コンクリート護岸で囲まれ、味気ない風景が続
くが、見習うべきではないだろうかとも思ってしまう。

上野毛駅の東にある谷澤橋の先から谷沢川は住宅の間へと入り込んでし
まい、暫くは川沿いを歩くことができなくなる。
いよいよ、川は等々力渓谷に向けて、水を落としていく。

ここで谷沢川の河川争奪について述べておこう。
下記に模式図を示すが、もともと谷沢川は、東の九品仏川方向へと流れていた。
しかしいつの日からか、その流れを南へと向きを変え、等々力渓谷を経て
多摩川へと流れ出ることとなったのである。

これについては、等々力渓谷の浸食が進んだ結果、谷沢川が渓谷へと流
れ込んだという自然現象説、もう一つは人為的に流路が付け替えられたと
いう人為開削説に分かれている。
ただ人為的に流路が変えられたとすると、相当の大工事が行われたことに
なるが、その工事に関する記録はなく、また現地を見てみると、谷沢川は
下流へいくに従い、相当深い谷となっており、人為的な流路変更とするに
は無理のような気がするので、私としては自然現象説を支持したい。
さて周辺の道路を迂回しながら、谷沢川を追っていこう。
姫之橋の上流で、谷沢川は二本の水路に分かれている。
ここには「姫の滝」という滝があったそうだが、昭和13年(1938)の水害
により崩壊した。

この姫の滝には次のような悲恋の伝説がある。
都からやってきた貴公子がこの地の領主の館に宿泊、その領主の娘と恋
に落ちた。
貴公子は再会を約束して京へと戻っていったが、その後、幾年を重ねても、
彼は当地へ来ず、苦悩した娘はついには滝に身を投げたという話である。
こちらは姫之橋下流側に見える水門。

次の中之橋の脇には庚申塔が安置されている。

迂回しながら辿っていくと、東急大井町線と交差し、線路脇を川は下っている。

ゴルフ橋から等々力渓谷が始まるが、その手前に排水口があり、逆川が
合流している。

ゴルフ橋の東側には逆川の暗渠が続いている。

逆川の暗渠を辿ることはできないが、目黒通りへと迂回すると、暗渠が続
いていることを確認することができる。
目黒通りの先も逆川があったと推定されるが、その川跡をみることはでき
ず、ここまでで途絶えてしまう。

なお、大井町線沿いに尾山台方面へと暗渠が続いているが、もしかしたら
逆川が移設された跡なのかもしれない。
この逆川、先に述べた河川争奪の跡として論じられることが多く、通常は西
から東へと流れるのに対して逆方向へと流れるため、その名が付いたと思
われるが、そうでもないようだ。
世田谷城主吉良頼康が行った鷹狩の際、撃ち落とした白鷺の脚に和歌を
記した短冊が結びつけてあり、その主を探索したところ、逆に白鷺の持ち主
から、その行方を問われ、その逆問答の伝説がもとで逆川と名付けられたという。
話が長くなるので詳細は省略するが、奥沢新交会のサイトに詳しく記され
ているので、興味のある方はご覧いただきたい。
先ほどのゴルフ橋脇の階段を下りていくと、等々力渓谷の遊歩道が始まる。
(ゴルフ橋は、この西側にかつてゴルフ場があったことに由来する。)

さすが、都内有数の景勝地ともあって、訪れる人は多い。
渓谷内は涼しく、夏季ともなると渓谷内と台地と数度の気温差があり、川
沿いには涼風が吹き抜ける。渓谷の深さは約10メートル、斜面には様々
な木々が繁茂している。

環八が架かる玉沢橋付近には、等々力渓谷第三号横穴がある。
古墳時代末期から奈良時代にかけて造られたもので、3体の人骨とともに
耳環や土器などの副葬品が出土したという。

古墳と言えば、等々力渓谷の北、玉川野毛町公園内にある野毛大塚古墳
も触れておきたい。
全長82メートル、後円部の高さ10メートルの帆立貝式の前方後円墳で、
五世紀前半に築造された古墳である。
多量の武器・武具類をはじめとする副葬品が出土しており、有力な首長墓
であることを示しているという。
ご興味のある方は渓谷訪問の帰途にでも立ち寄ってみればいかがだろうか。

渓谷の斜面からは所々で湧水を見ることができ、「等々力渓谷・等々力不
動尊」として、東京の名湧水57選の1つに指定されている。

さらに歩いていくと、左岸にその湧水の一つから水を落とす不動の滝がある。
古来より多くのこの滝に打たれて行をする、修行したことだろう。
等々力の地名はこの滝の音が渓谷にとどろいていたことに由来するともいう。

不動の滝の脇の階段を上っていくと、等々力不動尊(滝轟山明王院)がある。
八百年ほど前、和歌山の根来寺の(1095~1144)が、神託によりこの地
を訪れ堂を建立し不動尊を祀ったと伝えられる。
戦国時代には吉良氏が戦勝祈願所とにしたとも言われている。
渓谷散策がてらの参拝客も多く、境内は賑わっている。

不動の滝からまもなく渓谷は終わり、多摩川沿いの住宅街へと入っていく。
川沿いには個人宅の出入口に架かる橋が並ぶ。

その先、丸子川(六郷用水)と交差する。
交差するとはいっても、現在では丸子川を流れてきた水は谷沢川へと合流
し、下流方向には改めて谷沢川から取水した水が流されるように改修されている。
下記の写真は谷沢川の下流方向から撮影したもので、写真左側が合流す
る丸子川である。

多摩川の土手を潜って、谷沢川は多摩川へと合流する。

《参考資料》
『世田谷の河川と用水』 世田谷区教育委員会編
『ふるさと世田谷を語る 用賀・上用賀・中町(野良田)』 世田谷区
『ふるさと世田谷を語る 等々力・東玉川・玉川田園調布・玉堤』 世田谷区

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