小名木川 2
引き続き小名木川を東へ向かって歩いていく。
川の両岸に遊歩道が続き、散策を楽しむ近隣住民の方も多い。

四ツ目通りが架かる小名木川橋の北詰には五本松跡と五百羅漢道標がある。
江戸時代、北岸の九鬼家の屋敷に老松があり、三代将軍家光が感嘆した
こともあって小名木川五本松として小名木川の名所となった。
芭蕉も「川上と この川しもや 月の友」という句を詠んでいる。
残念ながら、明治末期に松は枯死してしまった。

こちらは江戸名所図会に描かれた五本松、芭蕉の句も添えられている。

江戸名所図会『小名木川五本松』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
そして現地の説明板に掲載されている明治時代の写真。

前掲の写真左端に写っているのが五百羅漢道標、もともとは50mほど東
にあった庚申堂の前に建てられていた。
大島の五百羅漢寺と亀戸天神への道を示したもの。
五百羅漢寺は明治41年(1908)に目黒へ移転、羅漢寺川の名前の由来
ともなっている。(羅漢寺川参照)
道標の建立年代は不明だが、三回ほど再建され、現在の道標は文化2年
(1805)に再建されたもの。
小名木川橋から300メートルほど行くと、横十間川と交差、その交差箇所
には小名木川クローバー橋が架かる。
以前に記載した横十間川の項ではパノラマ写真を掲載してみたが、今回
は四方を撮影・掲載してみた。
上部は小名木川(左:西方向、右:東方向)、下部は横十間川(左:北方向、
右:南方向)である。

クローバー橋から更に東へと歩くと、越中島支線というJRの貨物線の鉄
橋がある。
かつては、この南には小名木川駅という貨物駅があったが、平成12年
(2000)に廃止され、跡地はショッピングモールなどへと再開発された。
現在は越中島貨物駅から1日数往復程度、レール輸送の工事臨時列車
が走る程度となっている。

鉄橋の先、南岸沿いに釜屋の渡し跡の説明板がひっそりと建っている。
上大島村(大島1丁目)と八衛門新田(北砂1丁目)を結ぶ営業渡船で、
北岸に鋳物師、釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったことが
その名の由来となっていたようだ。

明治通りが架かる進開橋から撮影した小名木川の風景。
前項で説明した通り、内部河川の水位は引き下げられたが、橋の高さは
そのままであるので、橋は水面から高い位置にあり、見通しがよい。

この辺りの遊歩道は小名木川が行徳の塩の運搬を目的として開削され、
塩の道とも呼ばれていたこたことに因み、小名木川しおのみちと名付けら
れている。
その遊歩道(南側)には、かつてのかさ上げ護岸が保存・展示されている。
地下水の汲み上げを原因とした地盤沈下により、小名木川の護岸は幾度
か嵩上げを繰り返した。
その嵩上げにより護岸は脆弱化し、大地震発生時には護岸崩壊の危険性
も懸念された。
内部河川の水位低下対策も、このかさあげ護岸への対応という一面もあっ
たようだ。

丸八橋から東を見ると、小名木川の終点である旧中川との合流点、そして
その先の大島小松川公園の丘が見渡せる。

その丸八橋の北詰に大島稲荷神社が鎮座する。
慶安年間(1648~52)の創建と伝えられ、当時、小名木川や近くの海辺
が津波に襲われ、耕地が荒廃し、悪疫が流行ったため、村人が伏見稲荷
の分霊を祀ったのが始まりという。

境内には芭蕉像とともに女木塚句碑(写真左)が保存されている。
これは、元禄5年(1692)、芭蕉が深川から小名木川を川下りする途中、
当神社に立ち寄り、境内から川を眺めながら次の句を詠んだことに因むという。
秋に添て 行はや末は 小松川

右岸に仙台堀川を分ける。
ただ、横十間川から東側は殆ど埋め立てられ、現在は仙台堀川公園とな
っている。

小名木川の北に慶長15年(1610)創建の真言宗寺院、稲荷山宝塔寺がある。
境内には「塩舐め地蔵」と呼ばれる地蔵があり、現地の説明板に石井某
によって小名木川から掘り出されたと伝えられ、宝塔寺に治められたと
伝えられるという。
小名木川の開削と宝塔寺の開創がほぼ同時期であるため、小名木川開
削中に発掘され、宝塔寺に安置されたものと思われる。
供えられた塩をつけるとイボが取れると言われ、疣取り地蔵とも呼ばれる
ほか、商売繁盛、航海安全の御利益にも授かるとされる。

現在でも地蔵の脇には塩の袋が積まれているのが印象的だ。
さて、小名木川は旧中川にT字交差して終了する。
以前はこの先、新川が更に東へと延びていたが、昭和5年(1930)、荒川
放水路の開削により分断、その後も小松川閘門・小名木川閘門で荒川と
の間を結んでいたが、地盤沈下や舟運の衰退により昭和50年代に閉鎖、
現在は荒川との間に防災市街地再開発事業の一環として設置された都
立大島小松川公園が存在する。

旧中川との交差部の北側には、中川船番所があった。
前項で述べたように、寛文元年(1661)、隅田川側の萬年橋脇の深川口
人改之御番所から移転、明治2年(1869)に廃止されるまで、江戸に出入
りする船舶の監視・取り締まりが行われた。
こちらは江戸名所図会に描かれた中川船番所。

江戸名所図会『中河口』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
今、その跡には旧中川・川の駅という休憩施設と中川船番所資料館が建っている。
資料館には中川船番所のほか、江戸の水運に関する展示があり、ジオラマ
などもあって楽しめる。

小名木川を歩いた後、川の駅で足を休め、資料館で知識を深めるというの
もいいかもしれない。
《参考資料》
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編

川の両岸に遊歩道が続き、散策を楽しむ近隣住民の方も多い。

四ツ目通りが架かる小名木川橋の北詰には五本松跡と五百羅漢道標がある。
江戸時代、北岸の九鬼家の屋敷に老松があり、三代将軍家光が感嘆した
こともあって小名木川五本松として小名木川の名所となった。
芭蕉も「川上と この川しもや 月の友」という句を詠んでいる。
残念ながら、明治末期に松は枯死してしまった。

こちらは江戸名所図会に描かれた五本松、芭蕉の句も添えられている。

江戸名所図会『小名木川五本松』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
そして現地の説明板に掲載されている明治時代の写真。

前掲の写真左端に写っているのが五百羅漢道標、もともとは50mほど東
にあった庚申堂の前に建てられていた。
大島の五百羅漢寺と亀戸天神への道を示したもの。
五百羅漢寺は明治41年(1908)に目黒へ移転、羅漢寺川の名前の由来
ともなっている。(羅漢寺川参照)
道標の建立年代は不明だが、三回ほど再建され、現在の道標は文化2年
(1805)に再建されたもの。
小名木川橋から300メートルほど行くと、横十間川と交差、その交差箇所
には小名木川クローバー橋が架かる。
以前に記載した横十間川の項ではパノラマ写真を掲載してみたが、今回
は四方を撮影・掲載してみた。
上部は小名木川(左:西方向、右:東方向)、下部は横十間川(左:北方向、
右:南方向)である。

クローバー橋から更に東へと歩くと、越中島支線というJRの貨物線の鉄
橋がある。
かつては、この南には小名木川駅という貨物駅があったが、平成12年
(2000)に廃止され、跡地はショッピングモールなどへと再開発された。
現在は越中島貨物駅から1日数往復程度、レール輸送の工事臨時列車
が走る程度となっている。

鉄橋の先、南岸沿いに釜屋の渡し跡の説明板がひっそりと建っている。
上大島村(大島1丁目)と八衛門新田(北砂1丁目)を結ぶ営業渡船で、
北岸に鋳物師、釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったことが
その名の由来となっていたようだ。

明治通りが架かる進開橋から撮影した小名木川の風景。
前項で説明した通り、内部河川の水位は引き下げられたが、橋の高さは
そのままであるので、橋は水面から高い位置にあり、見通しがよい。

この辺りの遊歩道は小名木川が行徳の塩の運搬を目的として開削され、
塩の道とも呼ばれていたこたことに因み、小名木川しおのみちと名付けら
れている。
その遊歩道(南側)には、かつてのかさ上げ護岸が保存・展示されている。
地下水の汲み上げを原因とした地盤沈下により、小名木川の護岸は幾度
か嵩上げを繰り返した。
その嵩上げにより護岸は脆弱化し、大地震発生時には護岸崩壊の危険性
も懸念された。
内部河川の水位低下対策も、このかさあげ護岸への対応という一面もあっ
たようだ。

丸八橋から東を見ると、小名木川の終点である旧中川との合流点、そして
その先の大島小松川公園の丘が見渡せる。

その丸八橋の北詰に大島稲荷神社が鎮座する。
慶安年間(1648~52)の創建と伝えられ、当時、小名木川や近くの海辺
が津波に襲われ、耕地が荒廃し、悪疫が流行ったため、村人が伏見稲荷
の分霊を祀ったのが始まりという。

境内には芭蕉像とともに女木塚句碑(写真左)が保存されている。
これは、元禄5年(1692)、芭蕉が深川から小名木川を川下りする途中、
当神社に立ち寄り、境内から川を眺めながら次の句を詠んだことに因むという。
秋に添て 行はや末は 小松川

右岸に仙台堀川を分ける。
ただ、横十間川から東側は殆ど埋め立てられ、現在は仙台堀川公園とな
っている。

小名木川の北に慶長15年(1610)創建の真言宗寺院、稲荷山宝塔寺がある。
境内には「塩舐め地蔵」と呼ばれる地蔵があり、現地の説明板に石井某
によって小名木川から掘り出されたと伝えられ、宝塔寺に治められたと
伝えられるという。
小名木川の開削と宝塔寺の開創がほぼ同時期であるため、小名木川開
削中に発掘され、宝塔寺に安置されたものと思われる。
供えられた塩をつけるとイボが取れると言われ、疣取り地蔵とも呼ばれる
ほか、商売繁盛、航海安全の御利益にも授かるとされる。

現在でも地蔵の脇には塩の袋が積まれているのが印象的だ。
さて、小名木川は旧中川にT字交差して終了する。
以前はこの先、新川が更に東へと延びていたが、昭和5年(1930)、荒川
放水路の開削により分断、その後も小松川閘門・小名木川閘門で荒川と
の間を結んでいたが、地盤沈下や舟運の衰退により昭和50年代に閉鎖、
現在は荒川との間に防災市街地再開発事業の一環として設置された都
立大島小松川公園が存在する。

旧中川との交差部の北側には、中川船番所があった。
前項で述べたように、寛文元年(1661)、隅田川側の萬年橋脇の深川口
人改之御番所から移転、明治2年(1869)に廃止されるまで、江戸に出入
りする船舶の監視・取り締まりが行われた。
こちらは江戸名所図会に描かれた中川船番所。

江戸名所図会『中河口』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
今、その跡には旧中川・川の駅という休憩施設と中川船番所資料館が建っている。
資料館には中川船番所のほか、江戸の水運に関する展示があり、ジオラマ
などもあって楽しめる。

小名木川を歩いた後、川の駅で足を休め、資料館で知識を深めるというの
もいいかもしれない。
《参考資料》
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編

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