小名木川 1
小名木川は隅田川と旧中川を結ぶ4.64kmの運河である。
途中、大横川および横十間川と交差する。
徳川家康は江戸入府直後、行徳の塩を江戸に運ぶために運河を開削させた
と言われ、それが現在の小名木川である。(旧中川以東は新川(行徳川))
当時、塩を輸送するためには海沿いに運搬するしかなかったが、江戸川など
の河口部の潮流や暴風雨による危険を避けて、安定した水路の確保が必要
だった。
開通した年は正確にはわからないが、既に慶長年間(1596~1615)には開
削されていたという。
川名の由来は開削を担当した代官、小名木四郎兵衛の名前からとも、「ウナ
ギザヤ」という地名からとも言われる。
小名木川が果たした役割は大きい。
北海道(松前藩)や東北地方から江戸へ物資を運ぶ輸送路として、東廻り航
路が設定されたが、航路は利根川・江戸川を経由してこの小名木川を通り、
江戸へと至った。
そのため小名木川沿いには船番所(後述)が設けられ、水路を往来する人
や物資のチェックが行われている。
隅田川から東へ向かって、河川沿いの史跡などを紹介しながら辿ることにしよう。
まずは隅田川からの入口にある芭蕉庵史跡展望庭園から訪ねてみる。
公園には隅田川へ向かって芭蕉像が建てられ、隅田川クルーズなどで
ご覧になった方も多いことだろう。

松尾芭蕉は延宝8年(1680)、37歳の時に日本橋小田原町からこの地に
移り住み、元禄7年(1694)までの15年間、当地に居住した。
門人杉風が所有していた生簀の番小屋草庵の提供を受け、深川芭蕉庵
として営まれた。
有名な句、「古池や蛙飛びこむ水の音」は蕉庵で催した発句会で詠まれ、
「おくの細道」の旅もここから旅立った。
なお芭蕉の死後の元禄10年(1697)、この地は松平遠江守の屋敷となり、
芭蕉庵は深川森下町へ移築されている。

江戸名所図会『芭蕉庵』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
公園から見た隅田川、清州橋の向こうに箱崎のビル群を望むことができる。

展望庭園から数十メートルほどの所に芭蕉稲荷神社がある。
これは大正6年(1917)、この地から芭蕉愛好の石造の蛙が発見され、同
10年、芭蕉稲荷を創建したという。

その手前に正木稲荷神社が鎮座する。
創建年代は不明だが、文久2年(1862)の江戸切絵図「本所深川絵図」に
記載されていることから、江戸期には存在していたようだ。
昔、柾木の大木のがあったことから、神社の名の由来となった。
また柾木の果が腫れ物によく効くことから、できものの治療祈願として、女
性の参拝が多かったという。

芭蕉稲荷の東側に、小名木川1番目の橋である萬年橋が架かる。
現在の橋梁は昭和5年(1930)に架けられたタイドアーチ橋であり、美しい
形をしている。

この萬年橋の北に川船番所跡(深川口人改之御番所)の説明板がある。
前述の通り、江戸へと入口として、小名木川を通る船に搭乗する人や積
載荷物を検査した番所であり、いわゆる川の関所である。

番所の創建年は不明だが、正保4年(1647)には川番に任命が行われて
いることから、それ以前に造られたことがわかる。
明暦の大火(1657)の後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成を受け
て、番所は小名木川の反対側の入口である中川口の中川番所(次項参照)
へと移転された。
萬年橋から東側を見ると新小名木川水門が見える。
この左側(北側)には、以前、六間堀という堀割が分かれ、竪川へと通じて
いたが、戦後の瓦礫処理で埋められてしまった。

次の高橋まで、南側の道路沿いに歩いて2つの神社を訪れてみよう。
まずは深川稲荷神社、寛永7年(1630)の創建で、旧町名の西大工町に
因み、西大稲荷という俗称で呼ばれていたという。
深川稲荷神社は深川七福神の布袋尊とされている。

その東側には小さな三穂道別稲荷神社が鎮座する。
慶長元年(1596)創建と伝えられる。

小名木川南岸は海浜に面しており、この辺りには船大工が多く住んでいた
ことから、「海辺大工町」と呼ばれていたという。
小名木川沿いには一部の区間を除いて遊歩道が設けられており、川沿い
を歩くことができる。
付近住民の散策やジョギングなどの場として利用されている。

やはり川沿いを歩くのは気持ちがよい。
川面を渡る風を浴びながら歩くのは楽しいものである。

新高橋を過ぎると、南北に流れる大横川と交差する。
大横川の北方面を見ると、遠くにスカイツリーを望むことができる。

大横川との交差箇所の東、新扇橋の北詰に猿江船改番所跡の説明板が
ひっそりと建っている。

その説明板によると、元禄から享保期(1688~1736)、ここには中川番所
の出先機関である猿江船改番所が設置されていたという。
さきほど説明したように、江戸への物資輸送を取り締まるために川船番所
が設けられたが、この船改番所はそれとは別に川船行政を担当する機関
であったようだ。
江戸を出入りする船には極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていた。
船を新造や売買した場合には届け出が義務づけられており、船改番所
の仕事は船稼ぎを統制し、年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極
印の検査を行うことだったそうである。
さて新扇川の先には、大きな水門がある。
新扇橋と小松橋との間に、小名木川の名所ともいえる扇橋閘門である。

江東地区では地下水の汲み上げを主因とする地盤沈下により、いわゆる
江東デルタ地帯というゼロメートル地帯が生じ、たびたび洪水や高潮の被
害に見舞われることとなった。
その対策として、江東東部の内部河川では水位を下げて一定に保つ(A.P.
-1.0m)という対策がとられた。
当然のことながら、外部とは水位差が生じ、船舶の航行に障害が生じる
ことになる。
そこで約5年の歳月をかけて、昭和52年(1977)に閘門施設が造られた。
閘門の仕組みは、船を中(閘室)に入れて扉を閉め、閘室内の水位を上
下させるというもので、パナマ運河で採用されている方式と同様のものである。
閘門脇の説明板に描かれた絵を掲載しておこう。

外からでは残念ながら閘門内の様子を伺うことはできない。
毎年8月の土日には見学会(無料)が開催されるので、ご覧になりたい方
は東京都のホームページをチェックすることをお勧めする。
下の写真は以前、見学会に訪れた際の写真である。

閘門によって川沿いを歩けなくなるため、ここは迂回をしなければならない。
北側への迂回の途中、閘門の北東に猿江神社が鎮座する。
創建年代は不明、源頼義・義家による奥州討伐(前九年の役(1051~
62)で活躍した猿藤太という武将の屍が附近の入江に漂い着き、村人が
丁重に葬ったことに始まるという。

なおこの地の猿江という地名は、猿藤太の「猿」と入江の「江」を結合して
付けられたとのことである。
小名木川へと戻り、水位が下がった川を更に東へと辿っていく。

《参考資料》
『資料ノート 小名木川と五間堀・六間堀』 江東区深川江戸資料館編
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編

途中、大横川および横十間川と交差する。
徳川家康は江戸入府直後、行徳の塩を江戸に運ぶために運河を開削させた
と言われ、それが現在の小名木川である。(旧中川以東は新川(行徳川))
当時、塩を輸送するためには海沿いに運搬するしかなかったが、江戸川など
の河口部の潮流や暴風雨による危険を避けて、安定した水路の確保が必要
だった。
開通した年は正確にはわからないが、既に慶長年間(1596~1615)には開
削されていたという。
川名の由来は開削を担当した代官、小名木四郎兵衛の名前からとも、「ウナ
ギザヤ」という地名からとも言われる。
小名木川が果たした役割は大きい。
北海道(松前藩)や東北地方から江戸へ物資を運ぶ輸送路として、東廻り航
路が設定されたが、航路は利根川・江戸川を経由してこの小名木川を通り、
江戸へと至った。
そのため小名木川沿いには船番所(後述)が設けられ、水路を往来する人
や物資のチェックが行われている。
隅田川から東へ向かって、河川沿いの史跡などを紹介しながら辿ることにしよう。
まずは隅田川からの入口にある芭蕉庵史跡展望庭園から訪ねてみる。
公園には隅田川へ向かって芭蕉像が建てられ、隅田川クルーズなどで
ご覧になった方も多いことだろう。

松尾芭蕉は延宝8年(1680)、37歳の時に日本橋小田原町からこの地に
移り住み、元禄7年(1694)までの15年間、当地に居住した。
門人杉風が所有していた生簀の番小屋草庵の提供を受け、深川芭蕉庵
として営まれた。
有名な句、「古池や蛙飛びこむ水の音」は蕉庵で催した発句会で詠まれ、
「おくの細道」の旅もここから旅立った。
なお芭蕉の死後の元禄10年(1697)、この地は松平遠江守の屋敷となり、
芭蕉庵は深川森下町へ移築されている。

江戸名所図会『芭蕉庵』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
公園から見た隅田川、清州橋の向こうに箱崎のビル群を望むことができる。

展望庭園から数十メートルほどの所に芭蕉稲荷神社がある。
これは大正6年(1917)、この地から芭蕉愛好の石造の蛙が発見され、同
10年、芭蕉稲荷を創建したという。

その手前に正木稲荷神社が鎮座する。
創建年代は不明だが、文久2年(1862)の江戸切絵図「本所深川絵図」に
記載されていることから、江戸期には存在していたようだ。
昔、柾木の大木のがあったことから、神社の名の由来となった。
また柾木の果が腫れ物によく効くことから、できものの治療祈願として、女
性の参拝が多かったという。

芭蕉稲荷の東側に、小名木川1番目の橋である萬年橋が架かる。
現在の橋梁は昭和5年(1930)に架けられたタイドアーチ橋であり、美しい
形をしている。

この萬年橋の北に川船番所跡(深川口人改之御番所)の説明板がある。
前述の通り、江戸へと入口として、小名木川を通る船に搭乗する人や積
載荷物を検査した番所であり、いわゆる川の関所である。

番所の創建年は不明だが、正保4年(1647)には川番に任命が行われて
いることから、それ以前に造られたことがわかる。
明暦の大火(1657)の後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成を受け
て、番所は小名木川の反対側の入口である中川口の中川番所(次項参照)
へと移転された。
萬年橋から東側を見ると新小名木川水門が見える。
この左側(北側)には、以前、六間堀という堀割が分かれ、竪川へと通じて
いたが、戦後の瓦礫処理で埋められてしまった。

次の高橋まで、南側の道路沿いに歩いて2つの神社を訪れてみよう。
まずは深川稲荷神社、寛永7年(1630)の創建で、旧町名の西大工町に
因み、西大稲荷という俗称で呼ばれていたという。
深川稲荷神社は深川七福神の布袋尊とされている。

その東側には小さな三穂道別稲荷神社が鎮座する。
慶長元年(1596)創建と伝えられる。

小名木川南岸は海浜に面しており、この辺りには船大工が多く住んでいた
ことから、「海辺大工町」と呼ばれていたという。
小名木川沿いには一部の区間を除いて遊歩道が設けられており、川沿い
を歩くことができる。
付近住民の散策やジョギングなどの場として利用されている。

やはり川沿いを歩くのは気持ちがよい。
川面を渡る風を浴びながら歩くのは楽しいものである。

新高橋を過ぎると、南北に流れる大横川と交差する。
大横川の北方面を見ると、遠くにスカイツリーを望むことができる。

大横川との交差箇所の東、新扇橋の北詰に猿江船改番所跡の説明板が
ひっそりと建っている。

その説明板によると、元禄から享保期(1688~1736)、ここには中川番所
の出先機関である猿江船改番所が設置されていたという。
さきほど説明したように、江戸への物資輸送を取り締まるために川船番所
が設けられたが、この船改番所はそれとは別に川船行政を担当する機関
であったようだ。
江戸を出入りする船には極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていた。
船を新造や売買した場合には届け出が義務づけられており、船改番所
の仕事は船稼ぎを統制し、年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極
印の検査を行うことだったそうである。
さて新扇川の先には、大きな水門がある。
新扇橋と小松橋との間に、小名木川の名所ともいえる扇橋閘門である。

江東地区では地下水の汲み上げを主因とする地盤沈下により、いわゆる
江東デルタ地帯というゼロメートル地帯が生じ、たびたび洪水や高潮の被
害に見舞われることとなった。
その対策として、江東東部の内部河川では水位を下げて一定に保つ(A.P.
-1.0m)という対策がとられた。
当然のことながら、外部とは水位差が生じ、船舶の航行に障害が生じる
ことになる。
そこで約5年の歳月をかけて、昭和52年(1977)に閘門施設が造られた。
閘門の仕組みは、船を中(閘室)に入れて扉を閉め、閘室内の水位を上
下させるというもので、パナマ運河で採用されている方式と同様のものである。
閘門脇の説明板に描かれた絵を掲載しておこう。

外からでは残念ながら閘門内の様子を伺うことはできない。
毎年8月の土日には見学会(無料)が開催されるので、ご覧になりたい方
は東京都のホームページをチェックすることをお勧めする。
下の写真は以前、見学会に訪れた際の写真である。

閘門によって川沿いを歩けなくなるため、ここは迂回をしなければならない。
北側への迂回の途中、閘門の北東に猿江神社が鎮座する。
創建年代は不明、源頼義・義家による奥州討伐(前九年の役(1051~
62)で活躍した猿藤太という武将の屍が附近の入江に漂い着き、村人が
丁重に葬ったことに始まるという。

なおこの地の猿江という地名は、猿藤太の「猿」と入江の「江」を結合して
付けられたとのことである。
小名木川へと戻り、水位が下がった川を更に東へと辿っていく。

《参考資料》
『資料ノート 小名木川と五間堀・六間堀』 江東区深川江戸資料館編
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編


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