二ヶ領用水 川崎堀 1

二ヶ領用水 川崎堀は、久地円筒分水から鹿島田の大師堀・町田堀分岐門
までのおよそ9kmの区間である。
二ヶ領用水は久地円筒分水で川崎堀と、根方堀、六ヶ村堀、久地堀に配分される
が、他の堀が暗渠化されているのに対し、川崎堀だけが開渠として残存している。
沿岸地域の急速な開発と人口開発によりかつての清流はドブ川化し、川崎堀
だけがかろうじて暗渠化を免れた形となっているが、昭和61年(1986)以降親
水化工事が行われ、現在は周辺住民の散策路として、またカモなどの休息地
として清流が戻りつつある。

久地円筒分水から南東方向へと流れ出る川崎堀、円筒分水を通る水のうち76
%以上が、川崎堀へ分水されている。
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川崎堀は直線的に流れていく。
もともと堀は蛇行して流れていたが、昭和16年、臨海工業地帯のために工業
用水化されるにあたり、直線化されたことによる。
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国道246号線を過ぎると、水辺に降りる階段なども設置され、親水化された区
間となる。
溝の口駅にも近く、水路沿いを歩く人は多い。
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こちらは桜の時期に、国道に架かる歩道橋から撮影した風景。
この辺りの水路には枝垂れ桜が植えられている。
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濱田橋脇には石のレリーフがある。
濱田橋は溝の口出身の陶芸家で第1回人間国宝ならびに文化勲章受章者の、
濱田庄司(1894~1978)の功績が記され、もともと無名橋であったこの橋も氏
の名を冠して名付けられた。
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その先、大山街道に架かる大石橋に達する。
ここは溝口・二子宿があった場所で、橋の北東部には宿の問屋役(人足や馬を
用意する)をつとめ、名主を兼ねた丸屋・鈴木右衛門の屋敷があったという。
但し、大山街道はあくまでも脇街道であり、宿の規模も小さく、丸屋の本業は秦
野の煙草や厚木の麦を扱う卸問屋であったようだ。
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ここで、二ヶ領用水の歴史を語る上で避けては通れない溝口水騒動について
触れておきたい。
文政4年(1821)、長期間日照りが続き、大旱魃が関東を襲った。
多摩川の水量は激減、小河川も枯渇するといった状況で、田用水はおろか飲
料水にまで事欠く状況にあった。
そのような状況の中、川崎領各村の農民たちは公平な水分配を御普請役人に
訴えた。
訴えに基づき調査を行ったところ、溝口村の名主鈴木七右衛門と久地村の農
民たちが久地用水樋(二ヶ領用水2参照)の堰を不法に止めていたことが発覚する。
7月6日、医王寺(現川崎区)の鐘を合図に、川崎領の農民達は一斉に溝口
村へ襲撃、七右衛門宅と隣家2軒を打ち壊すという事態に発展した。
更には七右衛門の不在を知った農民たちは、出先の江戸馬喰町の御用屋敷
にまで追いかけたという。

大石橋から西へ数分ほど行ったところに鎮座するのが溝口神社
創建年代は不明だが、棟札には宝永5年(1709)の記載があり、少なくともそ
れ以前の造営だという。
江戸時代は赤城大明神と称し、溝口村の鎮守であったが、明治維新後、神
仏分離により溝口村・下宿・中宿・上宿・六軒町・六番組の各部落を統合、伊
勢神宮より新たに御分霊を奉迎し、溝口神社と改称したという。
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大石橋の先で東急田園都市線と交差し、溝の口の街の東側を流れていく。
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直線的な水路が続くが、これは二ヶ領用水が工業用水として転換する過程で
昭和16年(1941)に改修されたもののようだ。
その証として、平成橋から南に住宅街の道を進むと、古い橋の欄干が残って
いる。
橋の向こう側は畑になっているが、ここはかつて平瀬川と二ヶ領用水が合流
していた箇所で弁慶島といわれていたそうである。
(平瀬川は流路変更され、津田山をトンネルで潜り、多摩川へと流れる)
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その先は、恐らく旧平瀬川の流路を利用したのであろう。
河川の流路を利用するいう手法は六郷用水にも見られ、六郷用水では野川や
仙川の流路を一部利用して造られている。

その下流では、住宅やマンションの間に水路跡が残っている。
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旧水路はその先、二子坂戸緑道となって続いている。
写真に映る標識や車止めに見られるように、なんとなく古めかしい緑道だ。
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その緑道が現在の川崎堀に出てくる場所に石橋供養塔が建っている。
その脇に架かる坂戸橋は、江戸時代、坂戸村(現川崎市坂戸)から二子方面に
向かう唯一の橋であり、寛政5年(1793)、木橋から石橋に架け替えられた
のを機に、安全祈願をこめて建てられたものだという。
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さらに下流へ進み、第三京浜の高架橋と交差。
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第三京浜を越えて300mほど行くと、水辺に緑地が設けられている場所がある。
石積護岸が続く用水沿いを歩いていて、このような空間があると何かしらホッと
する気分になる。
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川崎堀を歩いていると、分水の取水口や合流口をいくつか見ることができる。
こちらは竹橋の上流部にある井田堰跡、ここから取水された井田堀は井田地
区を潤したという。
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大ヶ谷戸橋の手前には宮内水門があり、その脇には「八ツ目土と水道水源地
と記載された説明板がある。
かつてこの付近は蛇行する多摩川の直撃を受け、何回も堤が破られた地であった。
「八ツ目土」とは八回目の土手という意味らしい。
今でこそ、多摩川まで1km弱の距離があるが、明治期の地形図で確認してみ
ると、東京府と神奈川県の境界が多摩川を越えてこの付近を通っており、(現
在の高津区下野毛が東京都であり、明治45年境界変更実施)、古くは多摩川
がここまで蛇行していたことがうかがえる。
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こちらは木月堀取水口跡。
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左岸に並行する府中街道を渡ると、常楽寺と宮内春日神社が鎮座する。
真言宗智山派の春日山常楽寺の創建年代は不詳だが、奈良時代に聖武天皇
の御願所として行基菩薩によって開基されたという。
昭和43年の本堂改修の際に、住職と親交のあった漫画家達が本堂の襖など
に漫画を描いたため、「マンガ寺」と呼ばれるようになった。
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隣接する宮内春日神社の創建も不明だが、平治元年(1159)~承安元年(1171)
頃にこの付近に稲毛荘と呼ばれる荘園が成立、奈良春日大社のの分霊を勧請
したものと推定される。
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川崎堀を歩いていくと、この辺りには前方に武蔵小杉の高層ビル群が見える
ようになる。
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《参考資料》
『川崎の歴史 -水と共同体-』 川崎市市民ミュージアム編
『二ヶ領用水知恵図改訂版』 川崎市建設緑政局編
『散策マップ 二ヶ領用水』 川崎市建設緑政局編
『川崎歴史ガイド 二ヶ領用水』 川崎市文化財団編



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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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