鈴木用水 1

鈴木用水は小平市喜平町で新堀用水から分かれ、小平市鈴木町を流れていく
用水路である。
大沼田用水を分けた後、鈴木町一丁目付近で鈴木街道の北と南の2系統に分
かれ、それぞれ街道に沿って東進、流末は北側の水路は田無用水芝久保分水
に接続、また南側の水路は石神井川へと落ちる。
今回、鈴木用水を辿るにあたっては、tokyoriverさんの東京の水 2009 fra
gments
を参考にさせて頂いた。
特に北側水路の流末については、辿ることがかなり厳しく大変に参考にさせて
頂いたので、この場を借りて御礼を申し上げたい。

鈴木用水の開削は野中用水と同様、享保14年(1729)の開削とされる。
これは「野中鈴木組合用水」として設置されたことによるものらしい。

用水を辿る前に鈴木新田の成立について簡単に触れておきたい。
鈴木新田の開発に関わったのは貫井村(現小金井市)の名主、鈴木利左衛門
重広である。
利左衛門は正徳2年(1712)から、度重なる開発願いを出しているが認められ
ず、そうこうしているうちに資金が底をついてきた。
そこで上総国の野中屋善左衛門に開発場の三分の一を提供するなどの条件を
基に資金の提供を仰ぐ。
享保7年(1722)、日本橋に新田開発の高札が掲げられると、翌々年の享保9
年、開発の許可が下り、ようやく開発に着手した。

享保10年(1725)に鈴木利左衛門重広は病死、その息子、春昌が鈴木利左
衛門の名を継ぐ。
しかしながら、その利左衛門は役米が納められなかったことで開発場を取り上
げられてしまう。
そのため、鈴木利左衛門の新田は野中新田に組み入れられることになるが、
享保17年(1732)、六百町に及ぶ野中新田が、与右衛門、善左衛門、六左衛
門、そして利左衛門の四名が名主役を仰せられ、このうち利左衛門分が鈴木
新田を名乗ることとなった。

なお、鈴木新田は、玉川上水の南側に位置する「上鈴木」(砂川用水3参照)
と北側の「下鈴木」に分けられ、下鈴木のうち玉川上水沿いは「堀端鈴木」と
称していた。
今回、紹介する鈴木用水は、下鈴木に流れる分水路である。

さて、鈴木用水は、関東管区警察学校の南で新堀用水から分かれる。
そこには喜平町分岐水門があり、写真の右側の水路は新堀用水、左側は今
回取り上げる鈴木用水だ。
新堀用水を流れてきた水は、その殆どが鈴木用水側に落ち、直線方向(新堀
用水)への水はこの先、地中へと吸い込まれてしまう程度しか流れない。
2015-09-19_4.jpg
元々、鈴木用水(野中鈴木組合用水)は玉川上水から直接取水していたが、
明治3年(1870)の分水口改正(統合)により新堀用水から分かれる形となった。
(分水口改正は玉川上水の通船を目的としたものと言われる)
参考資料とした『小平の歴史を拓く』には天保9年(1838)と天保10年(1839)
に描かれた2枚の絵図が掲載されているが、それによると玉川上水からの取水
口は2箇所あったようだ。
特に天保9年の図では、上流側の取水口は対岸(南側)の国分寺用水の取水
口(現在の西武国分寺線鷹の台駅付近と推定される)より、更に上流側に記載
されており、そうだとするとここより2km以上、西に取水口があることになる。
現在では、その場所は推測できないが、興味深い事柄である。

水門から数十メートルほどで鈴木用水は暗渠となり、国交大通りを東へと進む。
通りの歩道にはコンクリート蓋の暗渠となっている。
2015-09-19_12.jpg

喜平図書館まで来たところで向きを北へと変える。
暗渠蓋の脇に設置されているコンクリートブロックが、古めかしさを感じさせる。
2015-09-19_18.jpg

喜平図書館から二百数十メートルほど北上、小平団地東交差点脇から鈴木用
水は開渠となる。
再び清らかな水流が現われる。
短い区間であるが用水路脇には遊歩道も設置されている。
2015-09-19_22.jpg

開渠になってから数十メートルほど行くと回田町分岐水門がある。
鈴木用水は右、左に分かれるのは大沼田用水(途中で野中用水を分岐)である。
水量は大沼田用水の方が多い。
2015-09-19_26.jpg

用水はこの先、民地の中へ入り込んでしまう。
写真はようやく道路脇に出てきた箇所をとらえたところ。
2015-09-19_32.jpg

そして鈴木用水は、鈴木稲荷神社の境内脇を流れていく。
参道には昭和12年竣工の石橋が架けられている。
2015-09-19_39.jpg

その鈴木稲荷神社は、先ほど説明した鈴木利左衛門が享保7年(1724)9月、
境内地として約25000㎡を寄進し、貫井村の稲荷神社を新田の鎮守として勧
請したものである。
2015-09-19_41.jpg

その鈴木神社の北方、鈴木街道を渡ったところにあるのが鈴木山宝寿院
享保11年(1726)、鈴木利左衛門春昌が、父利左衛門重広の菩提を弔うため
に、府中の妙光院(府中用水3参照)の塔頭にあった寺院を引寺、宥清上人を
招き入れ開山したものという。
当初は神隣山成身寺宝寿院と称したが、元文3年(1738)に村中の願いによっ
て、鈴木山と改称したと伝えられる。
2015-09-19_47.jpg

鈴木用水は、鈴木神社の東で鈴木街道へと出てくる。
街道脇を数十メートルほど暗渠となって進んだところで、北と南の2つの水路に
分岐、鈴木街道を挟むような形で東へと向かう。
青梅街道沿いを流れる小川用水も同様に南北2つの水路に分かれるが、小川
用水から六十余年経て開削された鈴木用水も先例に倣ったのかもしれない。
2015-09-19_52.jpg
この先は便宜上2つの水路を北堀南堀と呼び、交互に見ていくこととする。
上の写真の左側にある白い柵のところで北堀は街道を渡っていく。

その分岐点には寛政12年(1800)建立の石橋二ヶ所供養塔 、文化13年
(1816)建立の石橋供養塔などが立っている。
2015-09-19_56.jpg

こちらは北堀、相変わらず水の流れが続いている。
2015-09-19_59.jpg

それに対して南堀には水は全く流れておらず、空堀となっている。
北堀の周囲は青々としているのに対して、こちらは枯れ草が多いようだ。
2015-09-19_62.jpg

再び北堀、住宅の中を抜けていくように水は流れていく。
2015-09-19_65.jpg

空堀とっていも南堀にはこのような古い橋が架かっており、興味をそそられる。
2015-09-19_69.jpg

鈴木街道を何箇所かで渡り、北堀と南堀を交互に眺めていく。
それぞれ街道から数十メートルほど入ったところを流れるので、道路を行ったり
来たりする必要はあるが、飽きることはない。
2015-09-19_81.jpg

鈴木2丁目で、残念ながら北堀の水も消えてしまう。
今まで流れてきていた水は、恐らく下水へと消えていくのであろう。
2015-09-19_88.jpg

小金井街道の手前で、南堀にちょっとした見所がある。
南西方向から流れてきた(といっても空堀ではあるが)田無用水と交差するのである。
田無用水の開削は元禄9年(1696)と、鈴木用水よりも早い。
そのため、後から造られた鈴木用水が掛樋で田無用水を渡る(上が鈴木用水)
形となっている。
2015-09-19_90.jpg

田無用水は当然のことながら北堀とも交差するはずなのだが、その交差場所を
推定すると、ちょうど小金井街道の辺りとなり、こちらは残念ながら道路の下に
埋もれてしまったのかもしれない。
2015-09-19_99.jpg
写真は小金井街道手前の北堀である。

《参考文献》
『小平の歴史を拓く 第6号』 小平市企画政策部市史編さん担当編
『小平の歴史を拓く 下 史料集解題編』 小平市中央図書館編


 
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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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