呑川 3

呑川は池上地区に入り、池上本門寺の南側を東進する。

こちらは霊山橋から見た本門寺総門。
霊山橋という橋名は、本門寺一帯が「お山」と呼ばれていたことに由来する。
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ここで呑川を離れて、本門寺周辺の史跡を見てみよう。
まずは本門寺について、その由来を簡単に説明する。
弘安5年(1282)、日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸の湯へ向かうが、
その途上、この地で没した。
日蓮入滅後、池上宗仲が69384坪を寺領として寄進、以来、池上本門寺と称
され、江戸期には大名や有力町人らの信仰を集めた。

こちらは江戸名所図会に描かれた本門寺。
本門寺
                       (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

まずは本門寺総門から、欅造りの壮大な門は元禄年間(1688~1704)の創
建とされる。
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総門の先にあるのが96段の石段、慶長年間(1596~1615)に加藤清正が
寄進したものと伝えられている。
法華経宝塔品の経文に因んで96段としたとされ、その出だしの文言から
「此経難持坂」とも呼ばれる。

石段を上った先にそびえる大堂、もともとは慶長11年(1606)、加藤清正が母
の七回忌追善供養のため建立したが、その後数度にわたり焼失、現在の大堂
は、空襲による焼失後、昭和39年(1964)に建立されたものである。
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大堂の手前を右手に入っていくと、五重塔がある。
慶長13年(1608)、徳川秀忠の乳母である岡部局(正心院)の発願により、建
立されたもの。
空襲による焼失をまぬがれ、国の重要文化財の指定を受けている。
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五重塔へ向かう道の左手に2つの層塔がある。
写真手前は前田利家の側室、寿福院が元和8年(1622)に、奥の層塔は加藤
清正の側室、正応院が寛永3年(1626)に建てられたもの。
ともに自身の逆修供養(自分のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈る)のた
めに建立したものである。
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本門寺の周囲には23の塔頭(本寺に寄り添って建てられた庵などの小院)が
あるという。
写真は呑川に近い理境院(左上)、本妙院(右上)、本成院(左下)、昭栄院
(右下)である。
とても全てを紹介することは出来ないが、スタンプラリーなども行われている
ので、ゆっくり参拝することも面白いだろう。
池上

本門寺内外には他にも多くの史跡が存在するが、呑川に戻って下流を目指す
ことにしよう。
かつては養源寺橋の手前で南から六郷用水北堀が合流し、その先で新井宿
方面へと分かれていた。(写真奥、カーブしている辺り)
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また、手前の「堤方の八寸」という堰で分かれていたもう一つの六郷用水の流
れは、浄国橋の先で呑川へ合流し。上堰橋から双流橋付近の間には、呑川の
中央に「中土手」と呼ばれた分水堤が築かれていたという。
(下の写真は途中の日蓮橋から下流を眺めた風景)
しかし、「中土手」はしばしば洪水の原因となり、昭和6年(1931)、撤去された。
(六郷用水北堀の項参照)
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呑川はその先で南へと転じて東海道線と並行した後、蒲田駅の北で再び東へ
と向きを変え、線路と交差する。
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あやめ橋の下流で六郷用水能登川堀逆川)を合流する。
写真右端の護岸には、その逆川に架かっていた蒲田橋の親柱が移設・保存さ
れている。
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京浜急行線との手前にある弾正橋、橋の脇にある説明板によれば、後北条
氏に仕え、橋名はこの付近を所領としていた行方弾正直清に由来するという。
直清は天正18年(1590)、秀吉の小田原討伐の際に討ち死にするが、
弟の日芸がその屋敷跡に円頓寺(ここから300メートルほど北方)を築き、
供養塔を建てた。
円頓寺に通じる道を弾正道と称し、橋のいわれとなったという。
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ここで京急蒲田駅東口にある蒲田八幡神社に立ち寄ってみる。
この場所は境内に古墳が在ったことなどより、古くから聖地として村人の信仰
の場であったと思われる。
慶長年間(1596~1615)の頃、蒲田村より新宿村が分村するにあたり、北方
にある稗田神社から分社、創建されたものと思われる。
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京急線を過ぎ、第一京浜に架かる夫婦橋の先に夫婦橋親水公園が右岸にあり、
親水テラスが設けられている。
夫婦橋の名は、その上流に六郷用水の水路の一つである松葉用水を分ける
堰があり、呑川と用水に架かる二つの橋があったことに由来する。
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また呑川河口付近には海苔採取業者が生活し、「てんま」と呼ばれる舟が行き
来していた。
公園がある地は、昭和14年(1939)に共同荷揚場が造られた場所という。

親水公園の先、天神橋の脇に南蒲田北野神社が鎮座する。
寛文元年(1661)、北蒲田村字宿南に住む杉原右衛門が邸内に諏訪神社を
奉斎したのを創始とする。
呑川の洪水により、池上の麓の矢口村天神森の鎮守である天神の御神体が
度々流され、杉原邸に流れ着いたため、都度、天神森へ返していたが、嘉永
2年(1849)、矢口村との交渉により諏訪神社の傍らに社を造営、井府天神
と称した。
明治期に諏訪神社と合祀して北野神社と改めたという。
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呑川はさらに東へと流れていくが、清水橋から先は昭和10年(1935)に新た
に開削された水路である。
もともと呑川は北東方向へ向きを転じ、昭和島方向へと流れ出ていたが、低地
は大雨のたびに水害に悩まされていた。
以前の呑川のルートは、現在、旧呑川緑地として整備されている。
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赤い八幡橋の左岸には子安八幡神社がある。
(同名の神社は大田区仲池上にも存在する)
応永年間(1394~1428)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し創建したと言われる。
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この地は六郷用水開削の功労者、小泉次大夫の知行地であり、写真左の石鳥
居は、安永3年(1778)、氏子が六代目地頭、小泉藤三郎包教の武運長久を
祈って奉納したものという。
領主と村民の結束が固かったことが伺え、大田区文化財に指定されている。

産業道路が架かる呑川新橋の先にも親水公園がある。
この辺りになると、川には多くの船舶が停泊している光景が広がる。
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その公園の先は残念ながら川沿いの道は殆ど無く、住宅や中小工場の間の
道路を抜けていくしかない。
わずかに最下流の旭橋から先、森ヶ崎海岸公園への通路があるだけだ。

そして呑川は海老取運河へと注いで終わる。
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《参考文献》
『大田の史跡めぐり』 大田区教育委員会 郷土博物館編



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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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