妙正寺川 2

妙正寺川は沼袋~新井薬師間で西武新宿線を越えその北側に出る。
その西武新宿線の北側に第十五号橋という橋がある。
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昔は番号が付された橋が各所にあったというが、何故かこの第十五号橋だけが、
そのままの名前で残っている。

その西武線沿いを沼袋駅方面へ戻ること200m、北側に沼袋氷川神社が鎮座
する。
正平年間(1346~70)、武蔵国一の宮の氷川神社(さいたま市大宮)より分霊
し、奉祀したのに始まると伝えられる。
江古田原沼袋の合戦(後述)の際、当地に太田道灌が本陣を置いたとされている。
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境内には道灌が戦勝を祈願して植えた言われのある「道灌杉」と呼ばれる杉の
大木があったが、惜しくも昭和47年(1942)に枯死した。
下の写真は、道灌杉の跡地に掲げられていたかつての道灌杉の写真である。
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川はその後、北上して西武線から離れていく。
護岸には魚の漫画が描かれており、子供達の興味をひくことだろう。
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新青梅街道まで北上し、その道路をかすめるようにUターンして、南東方向へ
と向きを変える。
そのUターンをした所で、江古田川が北から合流する。
江古田川は練馬区豊玉南の学田公園を水源とする河川であり、下徳田橋から
下流は開渠となる。
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普段は少量の水しか流れない江古田川だが、大雨が降ると一変する。
妙江合流
(合流地点のライブカメラ(中野区防災気象情報より)の画像を掲載)

その合流地点横の江古田公園内には江古田原沼袋古戦場の碑がある。
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結城・武田氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発した享徳の乱(1454
~82)の中の長尾景春の乱(1476~1480)における一戦で、文明9年(1477)
太田道灌と豊島泰経らが激戦を行った地である。
合戦は道灌の勝利に終わり、泰経の弟、豊島泰明は討ち死にする。
道灌はこの後、石神井城を陥落させ、泰経は逃亡する。
その後、泰経は平塚城で再挙兵するが、道灌によって攻められ、丸子・小机と
逃亡した後に没落、豊島氏本宗家は滅亡する。
なお、合戦は哲学堂公園の北東隅から野方六丁目(野方駅北方)の広範囲で
行われたようである。

そこから数百メートル歩いていくと、哲学堂公園が左岸に広がる。
明治37年に哲学者で東洋大学の創立者、井上円了によって精神修養の場と
して創立された公園であり、園内には六賢台(写真手前)や四聖堂などの建物
がある。
私自身、哲学には疎いが、園内の建物を見るだけでも興味深い。
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哲学堂公園の対岸には妙正寺川公園が広がるが、
ここは妙正寺川の第一・第二調節池となっている。
公園に隣接するマンションの地下部分までも調節池となっており、広大な調節
池であることが判る。
普段は運動公園として、区民に開放されている。
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哲学堂公園の東側には、葛谷御霊神社がある。
前9年の役(1051~62)で源義家に従った京都の桂(葛)の里の一族がこれに
従い、氏神の八幡宮に勝利を祈った。
安倍頼時を征伐した後の京への帰途、一族は落合のあたりに留まり、その際に
この地に氏神を勧請したことに始まるという。
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正月の弓神事である備謝祭は、新宿区の指定無形民俗文化財となっている。

妙正寺川公園の下流、四村橋から先も近年、護岸整備された区間で、白い護
岸壁が続く。
その先、右岸に上高田公園が見えてくるが、この公園の地下も調節池(上高田
調節池)となっている。
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上高田公園の反対側、崖地の上には落合村中井の鎮守である中井御霊神社
がある。
創建年代は不詳であるが、神社に伝わる最古の古文書には寛延2年(1749)
のものがあるという。
こちらにも葛谷御霊神社同様に備謝祭が伝わり、無形民俗文化財に指定され
ている。
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再び西武線と交差し、その南側を流れていく。
今度は川の左岸に落合公園が位置する。
ここにはドッグランもあり、近所の愛犬家が集う。
この落合公園の下も落合調節池となっている。
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水車上橋水車橋という名の橋が続くが水車小屋がこの左岸にあったというこ
とから名づけられたとのこと。
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中井の手前、川の数十メートル北側に林芙美子記念館がある。「放浪記」や
「浮雲」で有名な林芙美子の旧居宅であり、芙美子は昭和16年(1941)から
生涯を閉じる昭和26年(1951)までの10年間、ここに住んでいたという。
居宅は、夫の緑敏が平成元年まで住み、死後、新宿区に引き取られた。
サッシなどの改造もされずに残されており、文化的価値が高い。
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芙美子は「落合町山川記」に妙正寺川のことを書いているので、引用してみる。

この下落合と上落合の間を、落合川が流れているのだが、
(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)この川添いにはまるで
並木のように合歓の木が多い。五月頃になると、呆ぼんやりした
薄紅の花が房々と咲いて、色々な小鳥が、堰の横の小さい島に
なった土の上に飛んで来る。


また、妙正寺川の少し上流には「ばっけ」と称する堰があったようだ。

この落合川に添って上流へ行くと、「ばつけ」と云う大きな堰があった。
この辺に住んでいる絵描きでこの堰の滝のある風景を知らないものは
もぐりだろうと思われるほど、春や夏や秋には、この堰を中心にして、
画架を置いている絵描きたちが沢山いた。中井の町から沼袋への境いなので、
人家が途切れて広漠たる原野が続いていた。凧たこをあげている人や、
模型飛行機を飛ばしている人たちがいた。うまごやしの花がいっぱいだし、
ピクニックをするに恰好の場所である。


「ばっけ」については、記念館内の地図には、先ほどの上高田公園周辺と記載
されていた。

妙正寺川に戻り、先へと進む。
山手通り中井富士見橋が見えてくると中井の街である。
中井駅前の寺斉橋は、西武新宿線と大江戸線の連絡路にもなっており、人通
りが絶えない。
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三たび西武線と交差し、西武線の北側を下落合に向かって進む。
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下落合を過ぎたところで、右側から神田川高田馬場分水路が合流し、その数十
メートル先で暗渠へと入っていく。
神田川高田馬場分水路は高田馬場付近の洪水対策のために造られ、妙正寺
川とともに新目白通りの下を流れていく。
分水路は、増水時のみ、神田川の水が流れこむ構造となっており、普段は落合
水再生センターからの高度下水処理水が流れている。
暗渠が造られる以前は、ここ、下落合で妙正寺川は神田川に合流していた。
二つの河川がまさに落ち合う地であり、地名の由来ともなっている。

暗渠になった妙正寺川は、この先、新目白通りの下を東進するが、その歩道が
広く感じられるのみで、川を感じさせるものは何もない。

途中、新目白通りの北側に位置するおとめ山公園に立ち寄ってみる。
武蔵野の面影を残す樹林が生い茂り、落合崖線の下からは湧水があり、その
先に池がある。
湧水は東京の名湧水57選に選定されている。
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かつては湧水から出た水が小さな支流を作り、神田川へと流れ出していたのだ
ろう。
(前述の通り、かつて妙正寺川は下落合で神田川に合流していたため、妙正寺
 川の支流ではなく神田川の支流ということになる。)
公園の外に出ても、支流の痕跡は見当たらず、古地図を見ると、新目白通り付
近は田園地帯になっており、田畑に利用された後、神田川に落ちていた可能性
はある。

なお、「おとめ山」は「乙女」ではなく、この一帯が将軍家の狩猟地であり、立入
り禁止だったため、「御留山」と呼ばれていたことに由来する。
同様の事例は、神田川の乙女橋(高井戸付近)にもあり、もともと御留橋だった
が、乙女の字が当てられて現在に至っているという。

暗渠の妙正寺川は山手線の内側まで入り込み、高田橋で神田川に合流する。
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《参考文献》
『決戦 ―豊島一族と太田道灌の闘い』 葛城 明彦著 (星雲社刊) 


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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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