砂川用水 3

砂川用水は府中街道を越え、数百メートルほど先の上水本町ビオトープ公園
で北へと向きを変える。
こちらがその上水本町ビオトープ公園、冬場だったせいか水はない。
ビオトープと名をうっているので、季節に関わらず親水公園として機能するこ
とを期待したい。
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この辺りの地下にはJR武蔵野線が小平トンネルで突き抜けている。
水路は1ブロック東へ移り、上鈴木稲荷神社に突き当たる。
二ツ塚緑道が西側の府中街道から二百メートルほど続き、ここで合流する。
神社脇には緑道の説明板があり、そこには「緑道は砂川用水の用水路敷地を
整備したもの」という記載がある。
さらには、府中街道の西側の住宅街の中の上鈴木緑道という百メートルにも
満たない通路があり、その杭にも「砂川用水」の文字が書かれている。
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ここで1つの疑問に突き当たった。
砂川用水はこれまで辿ってきた通り、五日市街道から北上してきたルートでは
ないのかということである。(記事末尾のGoogleMap参照)
稲荷神社の地で砂川用水は上鈴木分水(詳細は後述)へとつながり、以降、
上鈴木分水のルートを流れていく。

分水口改正以前の上鈴木分水は、鷹の台付近に設けられた分水口から、玉
川上水の水を取り込み、緑道のルートを通って稲荷神社へと達していた。
緑道はこの上鈴木分水の流路上であることは確認できたが、小平市による説
明板や杭には砂川用水とはっきりと記載されている。
小平の図書館(津田図書館)に資料を求めたが、記載している資料を探すこと
はできなかった。
(砂川用水から分かれた小さな用水路があったのではないかとも考えた)

歩く際に参考とさせて頂いたimakenpressさんのブログには、上鈴木分水
であるとのコメントが寄せられている。

また前項の記事を書いた後、tokyoriverさんからTwitterで「野中新田分水
の北堀と南堀は西武国分寺線の踏切近辺で合流したのではなく(前項参照)、
分水口改正以降、北堀は北上して上鈴木分水に繋げられた」という旨のご助
言を頂戴した。

tokyoriverさんの説は当初の自分の仮説に近いものがあり、大いに参考に
なるが、国分寺市の説明板に記載された地図(前項、並木図書館近くにあるも
の)やその他の資料では、当該付近で北堀と南堀が合流していると記載されて
いることも確かである。
この件は謎であり、今後、機会があれば調査をしていきたい。

話を先に進めよう。
先ほど記した上鈴木稲荷神社は享保8年(1723)、新田開発の際に貫井村
(現小金井市貫井町)から稲荷神社を勧請し、鎮守として遷祀した。
明治41年(1908)、下鈴木(現小平市鈴木町)の稲荷神社に合祀されるが、
地元の強い要望により、昭和27年(1952)に再び上鈴木の氏神として遷座し
たという。
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上鈴木稲荷からは再び東へ進む。
住宅街では道路に沿って暗渠化されているが、その先は林の中に入ってしまう。
そのため玉川上水沿いの道に大きく迂回する必要がある。
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上鈴木稲荷から下流の区間は、元は上鈴木分水として造られたルートとなる。
貫井村の鈴木利左衛門が中心となって鈴木新田を開発したが、水利が悪く開
発は失敗する。
享保11年(1726)、鈴木新田はの野中屋善左衛門の手に渡り、開発が進み、
享保19年(1734)に分水が開通した。
前項で記載した野中新田と同じく、享保17年(1732)に村分けが行われ、
鈴木利左衛門の息子の利左衛門春昌が再び名主となり、鈴木新田として独立
したという。
なお、鈴木新田は玉川上水の北にも広がり、北側を下鈴木・堀鈴木、南側を
上鈴木と称した。

林の中から出てきた砂川用水は、玉川上水沿いへと向かう五日市街道とクロ
スする。
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五日市街道の先は空堀に沿って道路が続く。(但し一箇所だけ通行不能の区
間があるため、注意が必要)
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北に並行する五日市街道は交通量が多いわりに歩道がないため、堀沿いの
道路は生活道路として利用されているようで人通りもある。
西武国分寺線付近で水流が失われてから1.5kmほどの位置に当たるが、仮
にこの辺りまで水が流れていれば、親水性が高まったと思われ、少し残念な
気がする。
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用水沿いの道路は西武多摩湖線まで続く。
その西武多摩湖線との交差部分では、小さな鉄橋を目にすることもできる。
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西武線の東側には、上水南町稲荷神社が鎮座する。
ここは野中新田の中でも善左衛門組に属し、堀端野中と呼ばれた地区である。
元文元年(1736)に組頭の六左衛門などが、堀端野中の産土神として稲荷神
社を勧請遷祀したと伝えられている。
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西武線より先は再び水路沿いの道は無くなり、迂回の連続を強いられる。
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国分寺街道と交わる箇所では、用水脇に火の見櫓が立っている。
用水と櫓、なかなか面白い光景だ。
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その先も水路は住宅街の中を抜けていく。
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新小金井街道の先では、小金井分水の分水口の水門が残されている。
小金井分水は南へと分かれ、仙川を築樋で越えて国分寺崖線を下り、野川に
落とす用水で。元禄年間(1688~1704)頃に造られた分水だ。
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小金井分水を分けた後も、更にクネクネと空堀は東へと延びていく。
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その先に水車跡の説明板がある。
ここには享和3年(1803)に造られた島崎水車と呼ばれる水車があり、製粉用
として使われていたようだ。
大正3年に島崎橘之助が買い取り、島崎エボナイト工場としてエボナイトの分
粉加工を行っていたという。
水路の南側には「く」の字の形状をした、廻し堀と呼ばれる水吐用の補助水路
があったという。
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砂川用水に架かる橋、橋の前後は数メートルの道幅がある一般道だが、なぜ
か橋の部分だけ狭くなり歩行者専用橋となってしまっている。
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桜町1丁目付近で砂川用水は、いったん南へと振れ、その後、北へと向きを転じる。
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玉川上水沿いへと達し、道路を挟んで玉川上水と並行する。
上水と出会うのは、上流の取水口~天王橋以来のことである。
ただ、玉川上水は名所として注目されているのに対し、砂川用水は目立たない
存在であることを再認識させられる。
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この先、砂川用水は梶野新田分水・境分水へと繋がる。
砂川用水としての項は、関野橋付近で結ぶこととする。
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《参考文献》
『玉川上水系の用水の地域に果した役割に関する調査
             -砂川用水の水利用を中心に-』 小坂克信



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こんにちは

imakenpressです。
流路の小平鈴木近辺は謎が多いですよね。じぶんも本エリアを含めた砂川用水全区間が網羅される明治初年測量図(「柏書房」編さんの綴り地図)から昭和30年代あたりまでの地形図を図書館資料室にて大量にコピーをとり卓上でにらめっこしました。この空想過程がまた水路探訪の醍醐味だったりします。

また、本流を語る上で私が大いに感化されたのが農学博士のW先生で、かつてサラリーマン時代に在籍(出向)していたところの関係から先生の論考を知り得たのですが、フィールド主義や水辺の空間利用など色々と学びました。懐かしいなぁ~。

なお小平以東は自分的に“奇跡の開渠”と呼んでいます。
よくぞ残しておいてくれた!です。

Re: こんにちは

> imakenpressさん
例の辺り、測量図にはどのように描かれていたのでしょうか。
私も機会があれば、再度図書館に足を運んでみたいと思います。

小平・小金井市内の水路、考えてみれば奇跡ですよね。
自然河川であれば普段は空堀でも豪雨時対策として残しているのでしょうが、こちらは用水路ですものね。
(ある程度は貯水できるのかもしれませんが)
多摩湖線以東では護岸がコンクリート整備された区間が多いのですが、願わくば素堀のまま残して欲しかったというのは贅沢でしょうか(笑)。

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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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