砂川用水 2

国分寺市に入ると、砂川用水は五日市街道を挟んで南北2つの水路(南堀・
北堀)に分かれる。
そして、砂川三番以来、ようやく用水堀を目にすることができる。
特に南堀には水が流れており、用水らしい姿を今に残している。
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この辺りの水路は、前項で述べたとおり、元々、野中新田分水として開削され
た水路である。
上谷保村(現国立市)の矢沢藤八と円成院(現小平市)を開創した大堅和尚ら
が発起、懇願し、享保9年(1724)に開発が許可され、上総国の野中屋善左衛
門に冥加金の調達を依頼して開発された。
分水自体の開通は享保14年(1729)である。
野中新田は当所だけでなく、玉川上水の北側などにも点在しており、享保
17年(1732)、名主の名をとって「善左衛門組」「与右衛門組」「六左衛門組」
に分けられた。(この辺りは六左衛門組に属する。)
また、榎戸新田も入り組んでいたので、榎戸分水という別称もある。
(野中新田については野中用水1の項においても説明しています。)

ということで南堀と北堀をそれぞれ、辿ってみることにする。

南堀は五日市街道の南側の数十メートル付近を流れていく。
用水沿いに道は無く、街道への迂回をしつつ、水路を確認しながら進んでいく。
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南堀に沿って、鳳林院がある。
享保13年(1728)、前出の大堅和尚が円成院から引寺して創建した。
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さらに迂回すると、並木図書館の脇では、砂川用水の説明板とともに用水の
親水エリアが整備・設置されている。
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上部にパイプが設置された南堀、今までひたすら五日市街道沿いを歩くだけの
行程であったが、やはり水の流れが心を癒してくれる。
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南堀は所々でカクカクと曲がっている。
こちらはほぼ直角に曲がっている箇所、マンホールが気になる。
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南堀と西武国分寺線との交差箇所、こちらには「榎戸南用水開渠」と記されている。
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西武線との先、南堀は五日市街道に接近し、北堀と合流する。
ただ、水の流れは無く、空堀となってしまっている。
水路は民家の敷地内を抜けていくため、確認する術はないが、線路との交差
する場所の前後で、下水道へと流れこんでしまうのだろうか。
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さて、再び立川・国分寺市境に戻り、今度は北堀を追う。
記事の都合上、南堀と北堀を分けて記しているが、2つの堀は五日市街道を
はさんで百余メートルしか離れていないので、両方を交互に見ながら進むこと
は勿論可能である。

北堀は南堀とは異なり、最初から空堀である。
南堀が顔を出す地点の道路の反対側には、北へ数十メートルほど進む空堀
を確認できる。
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こちらも南堀と同様、迂回を繰り返して辿っていくことになる。
野中新田に限ったことではないが、この周辺の新田は短冊状の区割で分けら
れていた。
その名残が現在の道路の形状にもあらわれており、五日市街道から直交した
形で道路が延びている。
そのため、どうしてもこのような迂回を強いられることになってしまうのである。
2015-02-14_8.jpg

国分寺高校北交差点の北側に曹洞宗の瑞雲山妙法寺がある。
境内には国分寺市指定文化財の「川崎・伊奈両代官謝思塔」が立っている。
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脇に立つ説明板を要約してみる。
新田開発は凶作などにより窮乏していたが、元文4年(1739)に武蔵野新田
開発の世話役となった、押立村(現:府中市押立町)出身の川崎平右衛門は、
養料金制度(凶作に備えて各家がら穀類を集めて売却し、その代金を貸付け
、利息を農民に配当する制度)を推し進め、種、肥料の支給や用水、井戸の
工事を行い、新田の安定を図った。
また後継の伊奈半左衛門も平右衛門の政策を推し進めた。
この謝恩塔は、両名の功績を記念し、感謝する結晶として、寛政11年(1799)、
榎戸新田名主源蔵らにより建立されたものである。

更に進み、五日市街道沿いの北側にあるのは愛宕神社、享保10年(1726)
の創建、榎戸新田の鎮守であった。
2015-02-14_10.jpg

境内には北堀が通っており、参道には小さな橋が架かっている。
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さらに300mほど東へ歩くと、神明宮が鎮座する。
こちらは野中六左衛門組の鎮守で、同じく享保10年の創建、天照皇大神を
祭神とする。
愛宕神社同様、境内には北堀の跡(写真手前の橋)がある。
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かつては古井戸と呼ばれる共同井戸があったそうだが、現在は存在しない。

西武国分寺線の手前で、北堀は五日市街道沿いに出てくる。
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五日市街道の踏切脇で西武線と交差、ここも南堀と同様に「榎戸南用水開渠」
と書かれた標識が立てられている。
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踏切の先で北堀は南堀と合流、再び1本の水路として進みことになる。
合流後、草地の中を進む砂川用水、付近は道路の新設工事中だったので、こ
の光景も変わってしまうかもしれない。
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府中街道との交差点の手前で、かつては国分寺分水を分けていた。
分水統合以前の時代でも、野中新田分水の流末は国分寺分水に水を落として
いたという。
その先には、砂川用水の空堀を街道の南側沿いに見ることができる。
2015-02-14_31.jpg

《参考文献》
『玉川上水系の用水の地域に果した役割に関する調査
             -砂川用水の水利用を中心に-』 小坂克信
『たんけんマップ 北ブロック』 国分寺市のまちづくりと農業を考える会


 
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No title

今回も興味深く拝見させていただきました。
何か 凄く進化しているなぁ と感じました。

Re: No title

> awagaduさん

ありがとうございます。
すばらしい史料に巡り合えたこともあり、ちょっと力を入れて?書いてみました。
やはり玉川上水関連の水路は歴史を感じさせてくれて面白いですね。

こんにちは

imakenpressです。
砂川用水、取水口から国分寺までの区間、自分が歩いた(及びママチャリで走った)数年前とあまり変わりなく何やら“ホッ”としました(道路工事が気がかりですが…)。
私は本水路の~国分寺・小平地域辺りまでがひじょうに好きなエリアです。いまだに生活水路であったころの遺構が随所に残り(洗い場など)思わず足を止めじっくり観察しちゃいますね。

実は私の砂川用水への関心事は、郷土を潤した末流深大寺用水の源流だったことが因果で、明治初年深大寺用水開削時に「村民全員で砂川取水口~野崎まで拡幅工事を行った」という史料記述に心引かれたからなんです。
「う~ん先人たちは、熊手やらもっこやらを担いでえっちらおっちら砂川まで足を運び工事したんだよなー」
なんて考えるうちに自分でも全区間走破し見聞したくしたくなったのが始まりでした。

リバーサイドさん記事を読んでいて再び歩いてみたくなりました!

Re: こんにちは

> imakenpressさん

この辺りの水路はいいですよね。
南に行けば水が流れ、北に行けば空堀をじっくり観察できますね。(笑)
若い頃(二十年前ほど前)に国分寺(恋ヶ窪)に数年間住んでいましたが、道路沿いの店舗は変わったものの五日市街道沿いの雰囲気は残っているかと思います。
当時は河川・水路に目覚めていなかったので、今更ながら悔やまれます(笑)

また機会がありましたら、是非、辿ってみてください。
砂川用水は初めてですが、私も以前のブログで歩いた河川などを再び歩いて、記事にしています。
そんな時、新しい発見をすることが多々あります。
前回歩いた時と季節を変えて歩いてみるのもいいかもしれません。
ごあんない
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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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