築地川 2

前回に続いて築地川を辿る。
今回は三吉橋に戻って、本川を明石町方向へと向かうことにする。

築地川本川(明石町方面)

三吉橋から東方向へと向かうと、築地川の川跡には首都高速の新富町出口ラン
プが設置されている。
ただ、出口以外にも、利用されていない道路などが目につく。
これはかつて首都高晴海線が計画され、一部は建設されていたが、途中で中止
された跡である。
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現在、首都高晴海線は湾岸線の東雲JCTから分かれ、豊洲、晴海方向に延び
ている。
再び都心環状線へつなげる計画もあると聞くが、まだ構想段階の域を出ていない。
もし計画が再燃すれば、いつしかこの景観も変わる時があるかもしれない。

入船橋の先、川底を利用した築地川公園多目的広場がある。
キャッチボールなど球技を楽しむことができるほか、入船橋の下にはドッグラン
もあり、近隣住民の憩いの場となっている。
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写真奥の部分にはトンネルの坑口を見ることができ、これも首都高計画の名残
である。

築地川は南へと向きを転じ、蓋をされた上部に築地川公園の緑地が続くようになる。
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左手に聖路加国際大学のキャンパスが見えてくるが、ここは浅野内匠頭邸跡
である。
聖路加病院と河岸地を含む一帯の八千九百余坪の上屋敷があり、西南二面は
築地川に面していたという。
元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩が江戸城内において刃傷事件を起こし、
切腹ならびの断絶されたことは忠臣蔵で有名だが、同時にこの屋敷は没収された。
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また、ここは芥川龍之介生誕地でもある。
明治期に「耕牧舎」という乳牛の牧場があり、明治25年(1892)、その経営者、
新原敬三の長男として生まれたのが、龍之介である。
(龍之介はその後、両国にある母の長兄に芥川家に引き取られ、養子となる。)

築地川公園をそのまま辿っていくと南支川へとつながるが、本川を辿るために
は、聖路加大学の数十メートル先のビルの間の公園を左へと曲がる。
その公園はあかつき公園と称し、児童遊具が充実しており、公園に子供たち
の声が響き渡る。
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この付近は川幅が広がっており、明石掘と呼ばれた入り江であった。
また、北からは隅田川から分かれた鉄砲洲川が合流していた。
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あかつき公園の先で築地川は隅田川と合流していた。
そこは「月島の渡し」の跡であり、説明板も立てられている。
月島の渡しは、明治25年(1892)、土木請負業の鈴木由三郎が、手漕ぎの船
で私設の有料渡船を開始したことに始まる。
明治34年(1901)には東京市により市営化されm昭和15年(1940)に勝鬨橋
が架橋されるまで続いた。
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鉄砲洲川

鉄砲洲川は湊3丁目で隅田川から分かれ、あかつき公園(明石掘)で築地川に
合流する800mほどの掘割である。
鉄砲洲の由来は、寛永の頃、大砲の射撃演習をしていたとも、川に囲まれた人
工島が鉄砲の形をしていたからともいわれる。
震災後の復興区画整理事業により、昭和4年(1929)までに埋め立てられてし
まった。

湊2丁目と3丁目の間の道路が鉄砲洲川の上流部、写真の奥が隅田川である。
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その後、南へ向きを変え、聖路加国際病院と聖路加ツインタワーの間の道路が
鉄砲洲川の川跡である。
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この様な状況であるので、川の痕跡は殆ど無く、川歩きとしての楽しみを味わう
ことは難しい。
しかしながら、ここで鉄砲洲川をあえて取り上げるのは、この一帯が外国人居
留地
であり、史跡が多く存在することにある。

外国人居留地は、安政5年(1858)締結された日米修好通商条約に基づき、明
治元年(1868)に設けられた。
居留地内は治外法権が認められた地域であったが、明治32年(1899)の条約
改正とともに廃止された。

居留地には公使館や領事館が設けられ、教会や学校も多く造られた。
特にミッションスクールが設けられ、青山学院、立教学院、明治学院、女子学院、
雙葉学園などの発祥の地でもある。
また居留地設立以前には、福沢諭吉がこの地にあった中津藩奥平家の中屋敷
(現:聖路加国際病院内)に蘭学塾を開き、慶應義塾発祥の地ともなっている。
下の写真の左側は慶應、右は青山学院の発祥記念碑である。
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鉄砲洲川跡の西側には、カトリック築地教会聖堂がある。
明治4年(1871)に鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借り受けて開かれた「稲荷橋
教会」を前身とし、明治7年(1874)、この地に移転した。
明治11年建造のゴシック様式の聖堂は関東大震災に被災・焼失するが、その
後、昭和2年(1927)に再建された聖堂は戦災をまぬがれ、東京都の歴史的建
造物に指定されて現存している。
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築地川南支川

前述の築地川公園に戻り、公園を南へと足を運びながら、南支川を辿る。
南支川の延長は400m余、備前橋、門前橋、小田原橋が架かっていた。

緑に囲まれた築地川公園を辿っていくと、備前橋の欄干が見えてくる。
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その備前橋の先には、築地川第二駐車場が続く。
2014-07-19_138.jpg

駐車場の西に広大な敷地を持つのが、築地の中心ともいうべき、築地本願寺
である。
前編の冒頭で記したように、京都西本願寺の別院として、元和3年(1617)、
浅草横山町に建立されたのが、その始まりである。
明暦3年(1657)の大火により本堂を焼失、その後は同地での再建は認めら
れず、代替地として八丁掘の沖合を埋め立て、この築地の地に移転した。
現在の古代インド様式の本堂は、東京帝国大学工学部教授・伊東忠太による
設計のより昭和9年(1934)に落成したものである。
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銀座や築地市場に近いこともあってか、国内外の多くの観光客が訪れる。

西本願寺
江戸名所図会西本願寺』      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

晴海通りの先、フェンスで囲まれた駐車場跡地の脇には、かつての石垣護岸の
跡を確認できる。
2014-07-19_145.jpg

場外市場の波除通りを越すと、築地川南支川は東支川に合流して終了する。
2014-07-19_150.jpg

《参考文献》
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)


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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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