日本橋川から流れる楓川と外堀からの京橋川が合流して、東の亀島川を目指して
流れる
桜川を追うことにしよう。
とはいっても、この桜川も現在は全区間埋め立てられているので、その痕跡を辿る
ことになる。
桜川公園(後述)に掲示されている中央区教育委員会による説明板よると、江戸
初期、京橋川下流から隅田川への通船のための開削され、八丁掘と称していた。
八丁掘の開削年や由来には諸説あるが、慶長17年(1612)に開削されたと言
われる。
また八丁掘という名称は、長さが八丁(約870m)あるという説が有力である。
(公的延長は740m)
桜川という名称は、明治以降の命名であり、新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁掘橋・
稲荷橋の5つが架橋されていた。
下の写真は、桜川公園の説明板に描かれていた地図である。

昭和35年(1960)以降、中ノ橋より上流側が順次埋め立てられ、その後、桜橋
第2ポンプ場の建設とともに、昭和61年(1961)、完全に消失した。
桜川は、
楓川と
京橋川の合流地点から始まる。
現在、桜川は首都高速都心環状線、京橋川は東京高速道路線(通称会社線)
となっており、水や船に変わって自動車が往来している。
桜川の入口は現在、警視庁高速道路交通警察隊新富分駐所となっている。

そのビルの東側の一般道には新桜橋が架かっていた。
現在でも道路が僅かに凸状に膨らんでいるが、橋の名残であろうか。

その先の桜川は下水道局の桜橋ポンプ場、そして空き地となっており、旧河川
上を歩くことはできない。

八丁掘と言えば、時代小説などで「八丁堀の旦那」と呼ばれる与力・同心を思い
浮かべる方も多いだろう。
八丁掘の地は始めは寺町だったが、寛永12年(1635)に江戸城下の拡張計画
が行われ、与力・同心の町として成立、茅場町・八丁堀一帯に広がった。
与力は徳川家の直臣、同心はその配下の侍衆であり、粋な庶民の味方として人
々の信頼を得たという。
江戸初期には、与力10人、同心50人から始まって、南北奉行所成立後は、与力
50人、同心280人に増加した。
与力は300~500坪、同心は100坪ほどの屋敷地を与えられていたという。
京華スクエア(旧京華小学校)の前には『
八丁堀の与力・同心組屋敷跡』の説
明板が掲げられている。

新大橋通り手前には、築地川へと通じる
入船川という水路が分岐していた。
明治元年(1868)に新富町付近に新島原遊郭が開設された際に開削された郭
掘で、「おはぐろどぶ」と称されていたという。
その後、明治15年(1882)に拡幅されて、入船川となった。
しかし、震災後の大正13年(1924)復興区画整理事業で埋め立てられ、現在
は新大橋通りの西に並行するビル街となっている。
(築地川に通じる水路としては、その後、昭和5年(1930)に楓川・築地川連絡
運河が開削されている。)

新大橋通りを渡ると桜川公園となるが、その脇に
入一地蔵菩薩がある。
(「入一」とは入船一丁目の意)
三体の菩薩の脇にある石は、「むしば祈祷石」がある。
歯痛に悩んだ昔日の人々は、ここで願をかけたのであろうか。

そして
桜川公園、数種類の遊具が設置されている。
かつての桜川を偲ぶことができる貴重な空間である。

桜川公園を過ぎると
桜橋第二ポンプ所、中央区の女性センターも建物内に設
置されている。
下水道の京橋幹線・茅場町幹線・霊岸島幹線を集め、雨水は隅田川に放流し、
汚水は芝浦幹線を経由して芝浦水再生センターへと送水している。

ポンプ場の上は屋上公園となっており、木々が植えられ、水路も設けられている。
ちょっとした癒しの空間である。

その屋上庭園から東側に下りると、亀島川が見える。
その手前の道路に架かっていたのが
稲荷橋、少し南へ行った歩道脇に稲荷橋
の橋名標がひっそりと保存されている。

その稲荷橋の由来となったのは、
鉄砲洲稲荷神社である。
その神社は稲荷橋から南へと百メートルほど進んだ湊一丁目交差点の先にある。
鉄砲洲稲荷神社は承和8年(841)、凶作に悩む住民が産土の国魂神を祀った
ことに始まると伝えられる。
寛永元年(1624)頃に稲荷橋南東詰に遷り、明治元年(1868)に現在地に移転
した。
江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきたという。
(江戸後期には湊神社とも称された。)

境内には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、この地の富士信仰の場であった。
末社として、鉄砲洲富士浅間神社が鎮座する。
江戸名所図会『
湊神社』には、稲荷橋とともに神社が描かれ、境内には富士塚
も見ることができる。
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)また、歌川広重(1797~1858)も、名所江戸百景の1つに『
鉄炮洲稲荷橋湊
神社』として取り上げており、稲荷橋から桜川へ出入りする船が描かれている。
桜川を盛んに船が往来していたことが見てとれる。
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)そして桜川は
亀島川に合流する。
亀島川はこの部分が広がっており、かつての合流部を見ることができる。

《参考文献》
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)
より大きな地図で 【川のプロムナード】日本橋川・亀島川周辺マップ を表示
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