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桜川(八丁堀)

日本橋川から流れる楓川と外堀からの京橋川が合流して、東の亀島川を目指して
流れる桜川を追うことにしよう。
とはいっても、この桜川も現在は全区間埋め立てられているので、その痕跡を辿る
ことになる。

桜川公園(後述)に掲示されている中央区教育委員会による説明板よると、江戸
初期、京橋川下流から隅田川への通船のための開削され、八丁掘と称していた。
八丁掘の開削年や由来には諸説あるが、慶長17年(1612)に開削されたと言
われる。
また八丁掘という名称は、長さが八丁(約870m)あるという説が有力である。
(公的延長は740m)

桜川という名称は、明治以降の命名であり、新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁掘橋・
稲荷橋の5つが架橋されていた。
下の写真は、桜川公園の説明板に描かれていた地図である。
2014-07-05_20.jpg
昭和35年(1960)以降、中ノ橋より上流側が順次埋め立てられ、その後、桜橋
第2ポンプ場の建設とともに、昭和61年(1961)、完全に消失した。

桜川は、楓川京橋川の合流地点から始まる。
現在、桜川は首都高速都心環状線、京橋川は東京高速道路線(通称会社線)
となっており、水や船に変わって自動車が往来している。
桜川の入口は現在、警視庁高速道路交通警察隊新富分駐所となっている。
2014-07-05_5.jpg

そのビルの東側の一般道には新桜橋が架かっていた。
現在でも道路が僅かに凸状に膨らんでいるが、橋の名残であろうか。
2014-07-05_3.jpg

その先の桜川は下水道局の桜橋ポンプ場、そして空き地となっており、旧河川
上を歩くことはできない。2014-07-05_9.jpg

八丁掘と言えば、時代小説などで「八丁堀の旦那」と呼ばれる与力・同心を思い
浮かべる方も多いだろう。
八丁掘の地は始めは寺町だったが、寛永12年(1635)に江戸城下の拡張計画
が行われ、与力・同心の町として成立、茅場町・八丁堀一帯に広がった。
与力は徳川家の直臣、同心はその配下の侍衆であり、粋な庶民の味方として人
々の信頼を得たという。
江戸初期には、与力10人、同心50人から始まって、南北奉行所成立後は、与力
50人、同心280人に増加した。
与力は300~500坪、同心は100坪ほどの屋敷地を与えられていたという。
京華スクエア(旧京華小学校)の前には『八丁堀の与力・同心組屋敷跡』の説
明板が掲げられている。
2014-07-19_72.jpg

新大橋通り手前には、築地川へと通じる入船川という水路が分岐していた。
明治元年(1868)に新富町付近に新島原遊郭が開設された際に開削された郭
掘で、「おはぐろどぶ」と称されていたという。
その後、明治15年(1882)に拡幅されて、入船川となった。
しかし、震災後の大正13年(1924)復興区画整理事業で埋め立てられ、現在
は新大橋通りの西に並行するビル街となっている。
(築地川に通じる水路としては、その後、昭和5年(1930)に楓川・築地川連絡
運河が開削されている。)
2014-07-19_76.jpg

新大橋通りを渡ると桜川公園となるが、その脇に入一地蔵菩薩がある。
(「入一」とは入船一丁目の意)
三体の菩薩の脇にある石は、「むしば祈祷石」がある。
歯痛に悩んだ昔日の人々は、ここで願をかけたのであろうか。
2014-07-05_12.jpg

そして桜川公園、数種類の遊具が設置されている。
かつての桜川を偲ぶことができる貴重な空間である。
2014-07-05_16.jpg

桜川公園を過ぎると桜橋第二ポンプ所、中央区の女性センターも建物内に設
置されている。
下水道の京橋幹線・茅場町幹線・霊岸島幹線を集め、雨水は隅田川に放流し、
汚水は芝浦幹線を経由して芝浦水再生センターへと送水している。
2014-07-05_18.jpg

ポンプ場の上は屋上公園となっており、木々が植えられ、水路も設けられている。
ちょっとした癒しの空間である。
2014-07-05_24.jpg

その屋上庭園から東側に下りると、亀島川が見える。
その手前の道路に架かっていたのが稲荷橋、少し南へ行った歩道脇に稲荷橋
の橋名標がひっそりと保存されている。
2014-07-05_44.jpg

その稲荷橋の由来となったのは、鉄砲洲稲荷神社である。
その神社は稲荷橋から南へと百メートルほど進んだ湊一丁目交差点の先にある。
鉄砲洲稲荷神社は承和8年(841)、凶作に悩む住民が産土の国魂神を祀った
ことに始まると伝えられる。
寛永元年(1624)頃に稲荷橋南東詰に遷り、明治元年(1868)に現在地に移転
した。
江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきたという。
(江戸後期には湊神社とも称された。)
2014-07-05_33.jpg

境内には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、この地の富士信仰の場であった。
末社として、鉄砲洲富士浅間神社が鎮座する。
2014-07-05_40.jpg

江戸名所図会湊神社』には、稲荷橋とともに神社が描かれ、境内には富士塚
も見ることができる。
湊稲荷神社
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

また、歌川広重(1797~1858)も、名所江戸百景の1つに『鉄炮洲稲荷橋湊
神社
』として取り上げており、稲荷橋から桜川へ出入りする船が描かれている。
桜川を盛んに船が往来していたことが見てとれる。
鉄砲洲神社
        (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

そして桜川は亀島川に合流する。
亀島川はこの部分が広がっており、かつての合流部を見ることができる。
2014-07-05_28.jpg

《参考文献》
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)


より大きな地図で 【川のプロムナード】日本橋川・亀島川周辺マップ ‎ を表示

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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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