楓川
江戸橋の下流側で、日本橋川から分流していた楓川、京橋川や桜川、三十間掘と
の分岐部までの約1.2kmの河川であった。
過去形で記載したのは、楓川は埋め立てられて首都高速になってしまったからだ。
楓川は天正10年(1590)に家康が江戸入りした際の江戸前島の東側の海岸線で、
水路を残して沖合いに埋め立てることによって形成された川であるといわれている。
この区間に兜橋、海運橋、千代田橋、新場橋、久安橋、宝橋、松屋橋、弾正橋が
架けられている。(兜橋、千代田橋、宝橋は明治以降の架橋)
昭和35年(1960)に埋立免許が下りて。その後に首都高速が建設され、楓川と
いう水路は消滅した。
日本橋川に架かる江戸橋から、かつての分岐点を見る。
首都高中央環状線が南に分岐している。

この辺りの光景は江戸名所図会「四日市」にも描かれている。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
絵の下部に描かれている橋は江戸橋、その左側に日本橋川から分かれる楓川
が見える。
江戸橋南交差点を左折していくと、そこは兜橋跡。

その兜橋の北側に兜神社がある。
明治11年(1878)、兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けら
れるにあたり、取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営
した。

写真左の兜岩は前九年の役の頃、源義家が東征の際、この岩の兜を懸けて戦勝
を祈願したことに伝えられ、兜町という町名はこの兜岩に因んで付けられたという。
1ブロック歩くと海運橋、そこには海運橋の親柱が保存されている。
江戸時代初期には高橋と呼ばれていたが、橋の東側に御船手頭向井将監忠勝
(『亀島川』参照)の屋敷があったことから、将監橋とか海賊橋(御船手頭は幕府
の海軍で、海賊衆と呼ばれていたため)と呼ばれていた。
明治以降、海運橋と改称され、石橋に架け替えられた。
関東大震災で破損し、昭和2年(1927)に鉄橋が架けられたが、石橋の親柱が
記念として残された。

この付近の楓川の左右に「郵便発祥の地」と「銀行発祥の地」がある。

写真左の郵便発祥の地は、楓川の西、現在は日本橋郵便局となっている。
明治4年(1871)、前島密の創意により東京・大阪間で郵便事業が始まった。
日本橋郵便局前には、その前島密の銅像が安置されている。
写真右の銀行発祥の地は海運橋から数十メートルほど東に行ったみずほ銀行
兜町支店にあり、明治6年(1873)、我が国最初の銀行である第一国立銀行が
創立された場所である。
こちらは、建物横に銅版のプレートが設置されているのみである。
永代通りとの交差する場所にあるのが千代田橋、首都高の下に欄干が残され
ている。
永代通りの開通に伴い、昭和3年(1928)に架橋された。

千代田橋の南にある大原稲荷神社、創建年代・由緒は不明。

その先にあるのが坂本町公園は明治22年(1889)に開園された東京における
最初の市街地小公園である。
開園当時は和風庭園だったが、関東大震災後、仮設の収容施設や校舎などの
敷地として利用され、その後の復興事業により、洋風公園となった。

隣接する阪本小学校は、明治6年(1873)、「第一大学区 第一中学区 第一
番官立小学 阪本学校」として開校、公立学校創生期において「一・一・一」を
冠する唯一の小学校であったという。
新場橋から見る首都高の脇には石垣があった。
かつての楓川の護岸跡であろうか。

宝橋の橋詰には宝地蔵尊がある。
昭和29年(1954)、近くに住む子供が楓川に落ちて死亡するという事故が起こ
り、子供の安全を祈願して建立されたものだそうだ。

そして、楓川の最下流の橋である弾正橋、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があっ
たことに由来する。

京橋川の白魚橋、三十間掘の真福寺橋と共に、三つの橋がコの字状に架けられ
ており、「三ツ橋」と総称されていた。
こちらは江戸名所図会に描かれた「三ツ橋」。
手前の橋が弾正橋、右上が白魚橋、左が真福寺橋である。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
明治11年(1878)には、我が国最初の鉄橋として架橋されたが、大正15年
(1926)に架け替えられた。
旧橋梁は江東区の富岡八幡宮脇に移設され、八幡橋として八幡堀遊歩道に架
けられている。(下記写真)

楓川は弾正橋の先で終わり、京橋川、桜川、三十間掘へと分岐していた。
また、昭和5年には楓川・築地川連絡運河が開削され、築地川へも通じるこ
とになり、それが現在の首都高のルートへと変貌している。
《参考文献》
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)
より大きな地図で 【川のプロムナード】日本橋川・亀島川周辺マップ を表示

の分岐部までの約1.2kmの河川であった。
過去形で記載したのは、楓川は埋め立てられて首都高速になってしまったからだ。
楓川は天正10年(1590)に家康が江戸入りした際の江戸前島の東側の海岸線で、
水路を残して沖合いに埋め立てることによって形成された川であるといわれている。
この区間に兜橋、海運橋、千代田橋、新場橋、久安橋、宝橋、松屋橋、弾正橋が
架けられている。(兜橋、千代田橋、宝橋は明治以降の架橋)
昭和35年(1960)に埋立免許が下りて。その後に首都高速が建設され、楓川と
いう水路は消滅した。
日本橋川に架かる江戸橋から、かつての分岐点を見る。
首都高中央環状線が南に分岐している。

この辺りの光景は江戸名所図会「四日市」にも描かれている。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
絵の下部に描かれている橋は江戸橋、その左側に日本橋川から分かれる楓川
が見える。
江戸橋南交差点を左折していくと、そこは兜橋跡。

その兜橋の北側に兜神社がある。
明治11年(1878)、兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けら
れるにあたり、取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営
した。

写真左の兜岩は前九年の役の頃、源義家が東征の際、この岩の兜を懸けて戦勝
を祈願したことに伝えられ、兜町という町名はこの兜岩に因んで付けられたという。
1ブロック歩くと海運橋、そこには海運橋の親柱が保存されている。
江戸時代初期には高橋と呼ばれていたが、橋の東側に御船手頭向井将監忠勝
(『亀島川』参照)の屋敷があったことから、将監橋とか海賊橋(御船手頭は幕府
の海軍で、海賊衆と呼ばれていたため)と呼ばれていた。
明治以降、海運橋と改称され、石橋に架け替えられた。
関東大震災で破損し、昭和2年(1927)に鉄橋が架けられたが、石橋の親柱が
記念として残された。

この付近の楓川の左右に「郵便発祥の地」と「銀行発祥の地」がある。

写真左の郵便発祥の地は、楓川の西、現在は日本橋郵便局となっている。
明治4年(1871)、前島密の創意により東京・大阪間で郵便事業が始まった。
日本橋郵便局前には、その前島密の銅像が安置されている。
写真右の銀行発祥の地は海運橋から数十メートルほど東に行ったみずほ銀行
兜町支店にあり、明治6年(1873)、我が国最初の銀行である第一国立銀行が
創立された場所である。
こちらは、建物横に銅版のプレートが設置されているのみである。
永代通りとの交差する場所にあるのが千代田橋、首都高の下に欄干が残され
ている。
永代通りの開通に伴い、昭和3年(1928)に架橋された。

千代田橋の南にある大原稲荷神社、創建年代・由緒は不明。

その先にあるのが坂本町公園は明治22年(1889)に開園された東京における
最初の市街地小公園である。
開園当時は和風庭園だったが、関東大震災後、仮設の収容施設や校舎などの
敷地として利用され、その後の復興事業により、洋風公園となった。

隣接する阪本小学校は、明治6年(1873)、「第一大学区 第一中学区 第一
番官立小学 阪本学校」として開校、公立学校創生期において「一・一・一」を
冠する唯一の小学校であったという。
新場橋から見る首都高の脇には石垣があった。
かつての楓川の護岸跡であろうか。

宝橋の橋詰には宝地蔵尊がある。
昭和29年(1954)、近くに住む子供が楓川に落ちて死亡するという事故が起こ
り、子供の安全を祈願して建立されたものだそうだ。

そして、楓川の最下流の橋である弾正橋、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があっ
たことに由来する。

京橋川の白魚橋、三十間掘の真福寺橋と共に、三つの橋がコの字状に架けられ
ており、「三ツ橋」と総称されていた。
こちらは江戸名所図会に描かれた「三ツ橋」。
手前の橋が弾正橋、右上が白魚橋、左が真福寺橋である。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
明治11年(1878)には、我が国最初の鉄橋として架橋されたが、大正15年
(1926)に架け替えられた。
旧橋梁は江東区の富岡八幡宮脇に移設され、八幡橋として八幡堀遊歩道に架
けられている。(下記写真)

楓川は弾正橋の先で終わり、京橋川、桜川、三十間掘へと分岐していた。
また、昭和5年には楓川・築地川連絡運河が開削され、築地川へも通じるこ
とになり、それが現在の首都高のルートへと変貌している。
《参考文献》
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)
より大きな地図で 【川のプロムナード】日本橋川・亀島川周辺マップ を表示

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