旧江戸川と中川を結ぶ
新川を追った。
もともとは東の旧江戸川から古川を経由して西へ流れる河川があり、船堀川
と呼ばれていた。
天正18年(1590)、江戸に入城した徳川家康は、道三堀、小名木川とともに
行徳までの航路として新川の開削を命じ、寛永六年(1629)、現在の新川橋
以東の一直線の水路が完成した。
新川は行徳の塩の輸送路として、また東北方面と江戸を結ぶ舟運(利根川
~江戸川~新川~小名木川)のルートの一部として重要な役割を担うこと
となる。
明治以降も蒸気船を使った定期船の航路となり、妻沼や銚子、霞ケ浦など
を結んでいた。
しかしながら陸上交通の発達とともに昭和19年(1944)までに廃止され、
通運としての新川は役目を終えた、
現在は散策路が川沿いに設けられ、周辺住民の憩いの場として水をたた
えている。
新川は新川東水門で旧江戸川から取水され,西の中川へと排水される。
ということで、東から西へと歩いていくこととした。
こちらが
旧江戸川との交差箇所に設けられている新川東水門。
近づいてみるとかなり大きな水門だ。

こちらはこの付近(もしくは少し南の妙見島辺りとも)を描いたと言われる歌
川広重の『
名所江戸百景 利根川ばらばら松』。
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)新川口児童公園という川の上に造られた小公園の西側で、水が勢いよく新川
に流れ込んでいる。

ここから中川との合流部まで約3kmの水路が続く。
平均幅員は約30m、広い川幅がかつて船舶が往来したことを彷彿とさせる。
現在は両岸に散策路が続く水路として、住民の憩の場となっている。

環七が架かる新川大橋を過ぎる。
両岸には桜の樹々が続く。
これは新川千本桜計画という事業により整備されたものであり、平成19年
からスタートし、平成26年までに耐震護岸や遊歩道の整備を中心に、江戸
情緒あふれる街並みとして整備されたものだという。

新川橋の手前で、北東から
古川が合流していた。
現在古川は埋め立てられて古川親水公園として整備されているが、これは
冒頭に記したかつての河道である。
新しい川を新川、旧河川を古川として称されることになったという。

新川沿いの遊歩道は歩きやすくて快適、所々、釣り糸を垂らして休日を楽
しむ方々も見かける。

桜橋のたもとでは
新川さくら館という施設があり、休み処や広場等の施設
があり、散策の休憩所となっているとともに、多目的ホールなどを持つ集会
施設として活用されている。

小江戸橋という人道橋の橋詰、江戸時代にタイムスリップしたような場所だ。
新川に架かる人道橋には、このほかにも櫓橋、擬宝珠橋、忍者橋など江戸
の風情を再現した橋があり、橋を見て歩くだけでも楽しめる。


新渡橋付近ではかつて
一之江境川が合流していた。
東一之江村と西一之江村の境を流れることからその名があり、用水路や
舟運路として利用されていた。
昭和中期以降、家庭排水が流れ込むようになり水質が悪化、埋め立てられた。
現在は一之江境川親水公園として整備され、新中川から取り入れた自
然水が公園内をせせらぎとして流れている。

新渡橋から更に西へと歩いていく。

川沿いの道路から地下へ降りていくスロープがある。
新渡橋から宇喜田橋の間、新川の下には有料駐車場があるのだ。
一級河川ではない全国で初めての地下駐車場だという。

荒川と中川の間を通る首都高速中央環状線が見えてきた。
右側にはスカイツリーも望むことができる。

宇喜田橋の南に
豊栄稲荷神社が鎮座する。
小さな社だが元禄3年(1690)の創建と伝えられる古刹である。

行く手に火の見櫓が見えてきた。

この火の見櫓は新川西水門広場の一画に新川千本桜のモニュメントとして
造られたもの。
明暦の大火(1657)の翌年、幕府直属の定火消が設けられた際に四箇所
の火の見櫓が設けられ、それを模してこの地に設置されたという。

こちらは新川西水門、この排水機場できる。新川の水は中川放水路へと
排水される。

こちらは
中川放水路との合流点、荒川の向こうに荒川ロックゲートなどを
見渡すことができる。
荒川放水路が完成したのは大正13年(1924)、それ以前は旧中川と交
差し、小名木川とつながり、江戸市中への航路が続いていた。

《参考資料》
えどがわ発見!解説シート №4-3 江戸川区郷土資料室
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