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恋ヶ窪用水

国分寺用水の分水である恋ヶ窪用水恋ヶ窪村分水とも称される)を紹介しよう。
国分寺用水の項で記載したが、国分寺用水の開削を幕府に請願するにあ
たり、国分寺村、恋ヶ窪村、貫井村の三村共同で行われ許可されている。
そのことから、恋ヶ窪用水も国分寺用水とともに明暦3年(1657)に開削さ
れたものとみるべきであろう。

国分寺用水から分水される地点は国分寺市東恋ヶ窪4-24付近、国分寺
用水はその痕跡を残していないため、その分水口もはっきりしない。
2017-12-16_1.jpg


国分寺用水の流路跡の道路の1ブロック南に、マンションの間を南へ通じ
る道がある。
この道路沿いに恋ヶ窪用水が流れていたのであろう。
道路の右側に小さな空間があるが、東京都水道局による不法投棄禁止の
看板があり、おそらくこの場所が用水の跡地なのであろう。
2017-12-16_4.jpg

その道路を進むと道は下り、その先で畑地に突き当たる。
その畑地の中を帯状の雑用地が続いている。
早くも恋ヶ窪用水の跡地が顔を出したという感じだ。
ちなみに国分寺用水の方は宅地化などが進み、このような跡地を見つけ
ることはできない。
2017-12-16_5.jpg

畑地の中へ入っていくことはできないが、その先へと迂回すると
住宅地の中に用水を渡る橋(仲よし橋)が架かっているのを目にすること
ができる。
用水は昭和四十年代初頭まで灌漑用水として使用されていたようで、そ
の名残が住宅街の中に未だにあるということは興味深い。
2017-12-16_14.jpg

更に用水跡の水路敷は続く。
現在は水路沿いの住宅の方々が花壇や菜園として利用しているようだ。
姿見の池緑地(後述)内にある説明板によれば、かつてこの辺りに水車も
あったようだ。
2017-12-16_9.jpg

水路敷は300メートルほど続いて、西武国分寺線の線路を渡る。
ここまでの水路跡は住宅の間を貫いており、迂回を強いられてしまうのが
ちょっと残念だ。
2017-12-16_11.jpg

西武線を渡った先、恋ヶ窪用水の遺跡が現れる。
150メートルほどの区間であるが、深さ5mほどの素堀がほぼ完全な形で
残っているようだ。
2017-12-16_17.jpg

ここはつい最近、平成29年12月に国分寺重要史跡として指定された。
現在は木々が生い茂り、堀の中を伺い知ることは難しいが、訪問した際は
整備工事中であった。
堀の中に生えた木々を伐採するようだが、工事後に再訪してみたい。
2017-12-16_21.jpg
なお堀の西側に沿う道路は中世の鎌倉街道を踏襲した道で、江戸時代に
は川越街道と呼ばれる古道であったらしい。
昭和19年、府中街道の開通とともに、その役目を府中街道へと譲った。

下流側から覗き見た用水堀の様子。
2017-12-16_28.jpg

用水堀跡地から道路を渡った場所に恋ヶ窪熊野神社が鎮座する。
創建年代は不明せあるが、元弘元年(1331)新田義貞と鎌倉幕府軍の
戦いにおいて焼失されたとの記録があり、相当の古社であることがわかる。
その後、応永13年(1406)に再建、以降、何度か焼失と再建を繰り返し
ているようだ。
2017-12-16_33.jpg

神社前の道路を南に進む。
左右の地は高台であり、用水は谷地を流れていたことが判る。
昔は谷筋に田園が続いていたのであろうか。
2017-12-16_37.jpg

神社から200メートルほど歩くと、右手の段丘に真言宗豊山派寺院の
武野山東福寺が建てられている。
こちらも鎌倉時代前期の開山と伝えられる古刹で、享禄元年(1528)に中興、
江戸時代前期の元和七年(1621)に再興している。
2017-12-16_39.jpg

やはり武蔵国分寺に近いという土地柄が、古くから社寺が建てられたとい
う史実につながっているのであろう。
更には古くから集落があり、国分寺用水や恋ヶ窪用水が早期の開削され
たことにもつながるような気がする。

東福寺の東側、姿見の池を中心とする国分寺市立姿見の池緑地が広が
っている。
姿見の池は付近の湧水や用水の水が流れ込む池であったが、昭和40年
代に一度埋め立てられ、平成十年度に環境庁や東京都の井戸・湧水復
活事業の補助金を受けて再整備されたものである。
事実、平成元年より数年間、私も近隣に住んでいたが、この地は洗車場と
なっており、度々洗車で利用した記憶がある。

池の西側から、かつての恋ヶ窪用水をイメージした人工水路が公園内
へ流れている。
この水路を流れる水は付近を通り武蔵野線トンネルに湧出する水を利
用したもの。
1991年、地下水が大量に新小平駅へ流れ込み、数か月にわたって運休
するという事態が発生、その対策として導水工事が実施された。
2017-12-16_43.jpg

園内の遊歩道沿いに流れる水路。
2017-12-16_46.jpg

こちらがその姿見の池、鎌倉時代、恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、
遊女達が自らの姿を水面に映し出してみていたという言い伝えに由来する。
2017-12-16_52.jpg
またこの池は「一葉松」の伝承にも登場するが、現地にある説明板に言葉
を借りて説明することにしよう。
源平争乱の頃、遊女の夙妻太夫と坂東武者で名将といわれた畠山重忠
とが恋におちました。
ところが太夫に熱をあげるもう一人の男がいて、その男は重忠が平家と
の西国の戦で討ち死にしたと嘘をつき、あきらめさせようとしましたが、
深く悲しんだ太夫は姿見の池に身を投げてしまったと言い伝えられています。


この辺りの風景は江戸名所図会にも描かれており、用水と思われる流
れや池が描かれ、先ほどの東福寺の文字も記載されている。
恋が窪阿弥陀堂傾城松牛頭天王
江戸名所図会恋が窪 阿弥陀堂 傾城松 牛頭天王
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

池を出た水はJR中央線の線路沿いに流れていくが、こちらは先ほどの
事業によって整備されたもの。
2017-12-16_65.jpg

本来の恋ヶ窪用水の水路跡は、その北にある住宅と住宅の間に水路敷
の空間として残っている。
2017-12-16_63.jpg

2017-12-16_69.jpg

JR沿いを流れてきた水路もやがて暗渠となり、築堤で通る西武線の下を
流れている。
西武線を交差すると日立中央研究所の敷地内を流れ、野川の源流付近
に水を落とす。
もちろん研究所内の流路を確かめることはできないが、水の流れる音は
この付近に広がっている。
2017-12-16_71.jpg



目次
  
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国分寺用水

国分寺用水は鷹の台駅の東、久右衛門橋付近で玉川上水から取水されて
現在の東恋ヶ窪、国分寺市本町および南町を流れ、国分寺崖線を落ちて野
川に至る用水である。
国分寺用水の開削は明暦3年(1657)と早く、玉川上水の開通(承応2年
(1653))から4年後のことである。
数ある玉川上水の分水に中で野火止用水、小川用水に次いで3番目(砂川
分水も同年の開削)である。
砂川分水や小川用水は吞用水として造られたが、国分寺用水は田用水で
あり、国分寺村、恋ヶ窪村および貫井村の懇願によるものである。
これは国分寺村が野川や崖線からの湧水を利用して古くから存在した村で
あり(武蔵国分寺に近いということもあっただろう)、玉川上水の開通を契機
に台地上の開発のために国分寺用水が造られたものと思われる。
元々は玉川上水から直接取水されていたが、明治3年(1870)、玉川上水
の通船事業のために分水口改正(統合)が行われ、砂川用水経由で取水
されることとなった。

分水口改正以前は玉川上水の久右衛門橋(府中街道との交差)辺りで取
水されていたようだが、現在その取水口を確認することはできないし、また
そこからのルートも不明である。
そこで今回は砂川用水からの分水口から辿っていくことにする。

最初に断っておくが、国分寺用水の跡は殆どなく、僅かに用水跡に造られ
た道路を辿っていくこととなる。
(国分寺用水から分かれた恋ヶ窪用水にはその痕跡がいくつも見ることが
できるのだが)

砂川用水からの分水口は五日市街道沿い、東戸倉二丁目地先の交差点
の辺りにあったと思われるが、やはりその痕跡は何も残っていない。
2017-12-02_13.jpg


その交差点から南東方向へ真っすぐ続く道がある。
ここに国分寺用水が流れていたようだ。
2017-12-02_16.jpg

その先、道路の左手には窪東公園が広がる。
園内には人工水路があるが、これは関係なさそう。
2017-12-02_18.jpg

やがて道路は府中街道と交差する恋ヶ窪交差点に達するが、その手前に
厳島大弁財天が祀られている。
2017-12-02_20.jpg
その由緒は不明であるが弁財天は水の神であり、この先で用水が貫井村
分水や恋ヶ窪用水に分かれることを考えると、水の要所に建てられたとい
うのが実情であろう。
以前訪れた時(写真左下)のものより祠が新しくなっていたが、これは2013
年頃に道路工事に伴う一時的に移され、新築の祠に戻ってきたということらしい。

その恋ヶ窪交差点で貫井村分水を左に分けていた。
貫井村分水の跡は現在の連雀通り(写真左側の道路)であり、国分寺市
本多を抜けて貫井村の田畑へ水を供給していたようだ。
2017-12-02_21.jpg

国分寺用水は府中街道沿いを150メートルほど流れた後に東へと向きを
変え、その先で恋ヶ窪用水を分ける。
こちらは現在の府中街道を南下し、JR中央線の北にある姿見の池付近
で東へと向きを変え、野川に注ぐ。
西武国分寺線を越えた辺りには水路跡が残され、また姿見の池緑地内には
用水を再現した水路も造られている。
2017-12-02_23.jpg

国分寺用水跡の一般道に沿って東進する。
住宅街の一本道を進んでいくだけとなるが、道路沿いには昔ながらの建
築の銭湯(孫の湯)があり、目の保養ともなる。
2017-12-02_26.jpg

道の右側に歩道が続いているが、この歩道が用水だったのであろうか。
2017-12-02_28.jpg

国分寺市立第三小学校の手前で向きを南へと変え、S字カーブとなり、よう
やく水路跡らしい道筋となる。
左手には東京都水道局東恋ヶ窪浄水所がある。
2017-12-02_29.jpg

S字カーブを抜けると新しいマンション群が建ち並ぶ。
個人的な話で恐縮だが、筆者は平成元年から数年間、東恋ヶ窪付近に住
んでおり、その頃はこの付近には畑地が広がっていた。
道路形状は現在と変わらず、畑地の中にある道路であった。
2017-12-02_32.jpg

その先、日立製作所中央研究所の東側の道路を南下していた。
2017-12-02_34.jpg
日立製作所中央研究所の敷地内には野川の水源である大池がある。
野川1参照)
普段は立ち入ることはできないが、毎年春と秋に1日ずつ行われる一般公
開には多くの来場者で賑わう。
研究所の正門から200メートルほど行くと本町四丁目公園があり、公園内
柄鏡形敷石住居跡の復元模型が展示されている。
2017-12-02_39.jpg
古代史跡には疎いので、ここは国分寺市教育委員会による説明板の一部
を引用させて頂く。

ここに展示された「柄鏡形敷石住居跡」は都営国分寺本町4丁目アパート
建設に伴う事前調査によって発見された5軒の内、最も保存状態が良好で
あった第19号住居跡を再生復元しました。大きさは南北約5.6m、円形の
部分で直径約3.8mあり、深さは約50cmです。
「柄鏡形敷石住居跡」は、今から約4千年前、縄文時代中期末葉から後期
初頭の頃のもので、関東地方から中部地方にかけての広い範囲で発見さ
れています。市内ではこれまでの調査で恋ヶ窪遺跡に2軒、羽根沢遺跡に
3軒、恋ヶ窪東遺跡に1軒の合計11軒が発見されています。この住居の特
徴は、床面に平らな河原
石を敷き、入口となる長い張出し部を持っていることで、その形が丸い鏡面
に長方形の柄をつけた「柄鏡」に似た形をしていることからこの名前が付け
られました。


JR中央線および西武国分寺線を跨ぐ花沢橋に出る。
鉄道は堀割を造ってここを通しているが、当然のことながら用水より鉄道の
方が後にできている。(中央線の前身である甲武鉄道が開通したのは明治
22年(1889)である。)
鉄道を通すにあたり、なんと用水をサイフォン式の伏越にして線路の下を通
していたようである。
2017-12-02_41.jpg

中央線を越した後も更に南下していくが、そこには国分寺崖線が続いており、
おそらく用水を流れていた水は急速に落下していたに違いない。
なお、崖線付近では坂を上下しやすいように道路が通されているので、流
路を見失う。
2017-12-02_46.jpg

崖線下の道路を進むと野川が見えてきた。
2017-12-02_47.jpg

国分寺用水は不動橋付近で野川に水を落としていたようだ。
こちらも合流部の跡は見当たらず、この付近であろうと想像するしかない。
2017-12-02_51.jpg

【参考資料】
『国分寺市史』 国分寺市
『国分寺村の用水路について』 内藤 豊三郎
『玉川上水の分沿革と概要』 小坂 克信



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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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