国分寺用水の分水である
恋ヶ窪用水(
恋ヶ窪村分水とも称される)を紹介しよう。
国分寺用水の項で記載したが、国分寺用水の開削を幕府に請願するにあ
たり、国分寺村、恋ヶ窪村、貫井村の三村共同で行われ許可されている。
そのことから、恋ヶ窪用水も国分寺用水とともに明暦3年(1657)に開削さ
れたものとみるべきであろう。
国分寺用水から分水される地点は国分寺市東恋ヶ窪4-24付近、国分寺
用水はその痕跡を残していないため、その分水口もはっきりしない。

国分寺用水の流路跡の道路の1ブロック南に、マンションの間を南へ通じ
る道がある。
この道路沿いに恋ヶ窪用水が流れていたのであろう。
道路の右側に小さな空間があるが、東京都水道局による不法投棄禁止の
看板があり、おそらくこの場所が用水の跡地なのであろう。

その道路を進むと道は下り、その先で畑地に突き当たる。
その畑地の中を帯状の雑用地が続いている。
早くも恋ヶ窪用水の跡地が顔を出したという感じだ。
ちなみに国分寺用水の方は宅地化などが進み、このような跡地を見つけ
ることはできない。

畑地の中へ入っていくことはできないが、その先へと迂回すると
住宅地の中に用水を渡る橋(仲よし橋)が架かっているのを目にすること
ができる。
用水は昭和四十年代初頭まで灌漑用水として使用されていたようで、そ
の名残が住宅街の中に未だにあるということは興味深い。

更に用水跡の水路敷は続く。
現在は水路沿いの住宅の方々が花壇や菜園として利用しているようだ。
姿見の池緑地(後述)内にある説明板によれば、かつてこの辺りに水車も
あったようだ。

水路敷は300メートルほど続いて、西武国分寺線の線路を渡る。
ここまでの水路跡は住宅の間を貫いており、迂回を強いられてしまうのが
ちょっと残念だ。

西武線を渡った先、恋ヶ窪用水の遺跡が現れる。
150メートルほどの区間であるが、深さ5mほどの素堀がほぼ完全な形で
残っているようだ。

ここはつい最近、平成29年12月に国分寺重要史跡として指定された。
現在は木々が生い茂り、堀の中を伺い知ることは難しいが、訪問した際は
整備工事中であった。
堀の中に生えた木々を伐採するようだが、工事後に再訪してみたい。

なお堀の西側に沿う道路は中世の鎌倉街道を踏襲した道で、江戸時代に
は川越街道と呼ばれる古道であったらしい。
昭和19年、府中街道の開通とともに、その役目を府中街道へと譲った。
下流側から覗き見た用水堀の様子。

用水堀跡地から道路を渡った場所に
恋ヶ窪熊野神社が鎮座する。
創建年代は不明せあるが、元弘元年(1331)新田義貞と鎌倉幕府軍の
戦いにおいて焼失されたとの記録があり、相当の古社であることがわかる。
その後、応永13年(1406)に再建、以降、何度か焼失と再建を繰り返し
ているようだ。

神社前の道路を南に進む。
左右の地は高台であり、用水は谷地を流れていたことが判る。
昔は谷筋に田園が続いていたのであろうか。

神社から200メートルほど歩くと、右手の段丘に真言宗豊山派寺院の
武野山東福寺が建てられている。
こちらも鎌倉時代前期の開山と伝えられる古刹で、享禄元年(1528)に中興、
江戸時代前期の元和七年(1621)に再興している。

やはり武蔵国分寺に近いという土地柄が、古くから社寺が建てられたとい
う史実につながっているのであろう。
更には古くから集落があり、国分寺用水や恋ヶ窪用水が早期の開削され
たことにもつながるような気がする。
東福寺の東側、姿見の池を中心とする
国分寺市立姿見の池緑地が広が
っている。
姿見の池は付近の湧水や用水の水が流れ込む池であったが、昭和40年
代に一度埋め立てられ、平成十年度に環境庁や東京都の井戸・湧水復
活事業の補助金を受けて再整備されたものである。
事実、平成元年より数年間、私も近隣に住んでいたが、この地は洗車場と
なっており、度々洗車で利用した記憶がある。
池の西側から、かつての恋ヶ窪用水をイメージした人工水路が公園内
へ流れている。
この水路を流れる水は付近を通り武蔵野線トンネルに湧出する水を利
用したもの。
1991年、地下水が大量に新小平駅へ流れ込み、数か月にわたって運休
するという事態が発生、その対策として導水工事が実施された。

園内の遊歩道沿いに流れる水路。

こちらがその
姿見の池、鎌倉時代、恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、
遊女達が自らの姿を水面に映し出してみていたという言い伝えに由来する。

またこの池は「一葉松」の伝承にも登場するが、現地にある説明板に言葉
を借りて説明することにしよう。
源平争乱の頃、遊女の夙妻太夫と坂東武者で名将といわれた畠山重忠
とが恋におちました。
ところが太夫に熱をあげるもう一人の男がいて、その男は重忠が平家と
の西国の戦で討ち死にしたと嘘をつき、あきらめさせようとしましたが、
深く悲しんだ太夫は姿見の池に身を投げてしまったと言い伝えられています。この辺りの風景は江戸名所図会にも描かれており、用水と思われる流
れや池が描かれ、先ほどの東福寺の文字も記載されている。
江戸名所図会『
恋が窪 阿弥陀堂 傾城松 牛頭天王』
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)池を出た水はJR中央線の線路沿いに流れていくが、こちらは先ほどの
事業によって整備されたもの。

本来の恋ヶ窪用水の水路跡は、その北にある住宅と住宅の間に水路敷
の空間として残っている。


JR沿いを流れてきた水路もやがて暗渠となり、築堤で通る西武線の下を
流れている。
西武線を交差すると日立中央研究所の敷地内を流れ、野川の源流付近
に水を落とす。
もちろん研究所内の流路を確かめることはできないが、水の流れる音は
この付近に広がっている。

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