大栗川は八王子市大塚の地に入り、右へ大きくカーブする。

川沿いに遊歩道が続き、のどやかな雰囲気を味わうことができる。

川の北側、大塚山と称する台地の上に鎮座する
大塚八幡神社、慶長12
年(1607)領主の濱田郷左衛門が京都の岩清水八幡宮より勧請して創建
したという。

今度は左へとカーブする。
そのカーブに差し掛かる地点で、塩釜谷戸からの支流が左岸に流れ込む。

右岸の高台に真言宗智山派の
和中山高蔵院がある。
創建年代は不明だが、嘉暦4年(1329)の板碑が発見されており、室町
期には草庵がまれていたようだ。
天正19年(1591)地頭の山中新右衛門が再興し、慶安元年(1648)には
幕府より寺領五石の朱印地を賜った。

和田公園脇では桜並木が続いている。
桜の季節にはさぞ鮮やかな風景が見られることであろう。

野猿街道と交わる殿田橋の西側に大乗寺と十二神社がある。
日蓮宗の
経王山大乗寺は、明治16年(1883)、浅草猿屋町に本化正統
経王会として創立された寺院。
戦後、駒込における再建を経て、昭和46年(1971)、当地へ移転してきた。

大乗寺に隣接する
十二社は、小さい社ながらも応永27年(1420)創建と
伝えられる古社。
和田地区の鎮守社として、地域の人々から信仰を集めてきたのだろう。
社殿は平成18年に再建されている。

大栗川は多摩川まで1kmほどの地点まで近づくが、その先の小高い山に
阻まれ、東へと向きを変える。

そのカーブの手前、新堂橋付近で新堂谷戸からの支流が合流する。
百草園の南辺りを水源とする河川で、水量もそれなりに多い。

宝蔵橋で再び野猿街道と交差すると、その先から新たに改修された護岸
の区間が始まる。
川辺に下りることができる階段も設けられ、親水を考慮して造られている。

大栗川はゆっくりと左へカーブする。
左岸には遊歩道が続き、散策やジョギングには最適な環境である。

川の北側に聖蹟桜ヶ丘駅付近のビル群が見えてくる。
写真の奥に見えているのは霞ヶ関橋。

その霞ヶ関橋の北側には曹洞宗の
瑠璃光山観蔵院が建っている。
建長7年(1255)、有山修理太夫により真言宗寺院として開山、寛永2年
(1625)含室傳秀大和尚が曹洞宗寺院として改宗開山している。

更にはその先、小さな祠の関戸九頭龍神社が鎮座する。
創建年代は不明、多摩川の大洪水の折、川上から九つの頭を持つ龍の
ようなものが流れつき、ご神体として祀ったという伝説がある。

そして今度は霞ヶ関橋の南にそびえたつ舌状台地を訪ねてみる。
この聖蹟桜ヶ丘付近はジプリアニメ『耳をすませば』のモデルとなっており、
作品中にも大栗川が描かれている。

橋から台地の上まで60メートルの高低差があり、いろは坂という急坂が
むすんでいる。(写真上)
アニメに出てくる台地の上にあるロータリー(写真左下)
いろは坂を上った地点にある金毘羅宮(写真右下)は、作品の中で主人
公月島雫が同級生杉村から告白されるシーンとして登場する。
小さい祠ながらアニメの聖地として訪れる人も多いようで、御御籤の自販
機が設置されているのも面白い。
いろは坂の途中にあるいろは坂桜公園から大栗川を望む。

金毘羅宮から数十メートルほど進んだ場所に天守台(関戸城跡)の説明
碑が建っている。
物見台的役割を担う城塞であり、多摩川を望み、急変時には狼煙を上げる
通信拠点であったという。
右下の絵図は、その説明碑に記載されていた調布玉川惣画図、江戸後期
(1845年頃)の作で天守台が描かれている。

川へと戻り、再び遊歩道沿いに歩いていく。

霞ヶ関橋の次、大栗橋から南へ150メートルほど行った場所に
関戸古戦
場跡の碑がある。
鎌倉幕府末期、鎌倉軍と新田軍が戦いとなり、分倍河原(
新田川参照)と
関戸の地で戦いが広げられた。
戦いに勝利した新田軍はそのまま鎌倉を攻め、鎌倉幕府が滅亡したことは
言うまでもない。
分倍河原の方は立派な石碑が建立されているが、こちらは小さな供養碑と
地蔵が建てられているだけだ。

新大栗橋と向ノ岡大橋の間で右から
乞田川が合流する。
写真は下流の向ノ岡大橋から撮影した合流部の様子で、左手が乞田川となる。
乞田川の方が直線方向であり川幅が広く、どちらが本流かわかりずらい。

大栗川最下流の橋である報恩橋の先、右手は小高い丘陵となり、左岸の
土手の上を歩く形となる。

川沿いの道は多摩川との合流地点まで辿ることはできない。
多摩川の河川敷が自然保護地域となっており、立入禁止となっているた
めである。
多摩川沿いの道路との合流地点には野鳥観察台なども設けられている。
地図を見ると合流地点までまだ500メートル近くあるが、ここで大栗川散
策は終わることとなる。

《参考資料》
『大栗川・乞田川 流域の水と文化』 小林宏一著
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