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前谷津川 2

大宮バイパスを潜ると、右側の谷沿いに水車公園が広がる。
かつて前谷津川沿いに広がっていた水田と水車小屋を再現するために、
昭和60年(1985)に開設された公園。
近隣の小学校の児童たちの農作業体験の場として水田が設置されている。
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水車公園内に建つ顕彰碑は、四ツ葉道が前谷津川と交わる場所(公園の
西側)に架かっていた宮前橋を大正14年(1925)に架け替えるにあたって、
用地を提供した二人を顕彰するために建立されたもの。
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更には水車公園東側には徳水亭と称する日本庭園・茶室がある。
この庭園は徳丸石川土地区画整理事業の完成を記念して造られた。
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緑道の北側へ向かう道も坂となっており、前谷津川が流れていた谷を実
感できる。
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その先、石川橋公園という小公園を通過する。
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石川橋公園を過ぎると、再び緑道が続き東へと進んでいく。
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左手にある徳石公園内には徳丸石川土地区画整理組合完成記念碑が建
てられている。
碑文を要約すると、高度成長期の人口増加に伴い、前谷津川の整備改善と
降雨時の溢水対策、そして住宅地の宅地造成を目的として事業を実施した
という。
昭和38年(1963)に東京都知事の認可を受け、四半世紀にわたる大事業
であったようだ。
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北側の谷を上り、台地の上に鎮座する徳丸北野神社に立ち寄った。
長徳元年(995)、京都の北野天満宮より勧請したといわれる古社である。
当時、この地に疫病が流行った際、里人の一人の夢に大神が現れ、梅の
古木に祈願すりようお告げがあり、お告げの通りに祈願したところ疫病が
無くなったという。
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なお当神社に伝わる『田遊び神事』は国の重要無形民俗文化財に指定さ
れており、古くからこの地が田園地帯であったことを示すものであろう。

台地の上から眺めた前谷津川の谷、20m近くの高低差がある。
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再び谷を下りて緑道を辿ると、緑道脇に宮下大山不動明王碑が建っている。
文化元年(1804)、徳丸の羽黒山講中が大山参拝に行った記念に造立し
たもので、もとは宮下橋の袂に建っていた。
かつては上に不動明王像があったようだが、大水や改修工事によって像
は失われ、碑だけが残ったようだ。
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アーチ状の柱が緑道上に架かっている。
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緑道は左へカーブしながら北へと向きを変える。
この辺りで、南の東武練馬駅付近からの支流が合流していた。
かつては深い谷があり、現在の徳丸小学校付近には湧水を集めたツルマ
イ池があったとされるが、昭和30年代、ゴミ処理場として谷が埋め立てら
れ、その支流跡を辿ることは難しい。
この辺りの事情はyatoloveさんのブログ、水徒然での解析が詳しい。
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まるでトンネルのようなモニュメントの中を進んでいく。
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やがて緑道は首都高速5号池袋線へ突き当たる。
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首都高速の先、左手には高島平団地が広がっている。
かつて、この辺りは徳丸ヶ原という田園地帯で、前谷津川を流れてきた水
はいくつかの用水堀に分かれて田んぼに水を供給していたらしい。
ここから緑道は直線的になるが、これは昭和16年(1941)、徳丸区画整
理によって、新たに前谷津川が開削され川幅が広められた結果である。
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都営地下鉄三田線と交差する。
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三田線との交差後は、緑道の中に人工の水路が流れ、近隣住民の憩い
の場となっている。
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やがて前谷津川は新河岸川へと達し、その合流点には水門が設置されている。
但し水門とは言っても実は防潮扉である。
東京湾は遥か南であるが、地理院地図でみても海抜は4mほどしかない。
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新河岸川上流の徳丸橋から見た合流点、既に辺りは上流域や中流域で見
てきた谷地の雰囲気はない。
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《参考資料》
『いたばしの河川 その変遷と人びとのくらし』 板橋区教育委員会



目次
  
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前谷津川 1

板橋区赤塚新町2丁目付近を谷頭とし、四葉、徳丸、高島平を経て新河
岸川へと至る前谷津川、5km弱の小河川であるが、現在は全区間暗渠
となっている。
しのがやと公園より下流では前谷津緑道が続き、散策路として利用され
ている。
昭和初期頃までは川沿いに水田が広がり、農業用水や生活用水として
使用されていたという。
昭和12年、区画整理が行われ、蛇行していた川は直線化され、畑地化
されていくこととなる。
その後は多分に漏れず農地は宅地化され、川は暗渠化されて現在の
姿となっている。

前谷津川の水源はいくつかあり、かつては小さな流れを集めて前谷津
川として流路を形成していったのだろう。
その一つが、赤塚新町2-13付近のマンション脇の路地に残っている。
この小径はマンションに遮られるが、この辺りに湧水があったのかもしれない。
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道路は赤塚新町保育園の南側を東へと進む。
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その先、東武東上線と交差。
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線路と交差する手前に南の川越街道からの水路跡が続いている。
写真は川越街道脇の様子、進入禁止の看板には「ここは水路です」と記
載されているのが印象的だ。
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線路側から見た様子、暗渠蓋が続く細い道が続いている。
こちらからは立ち入ることができるが、草が生い茂り個人宅の裏となるので
奥深く入ることはお勧めできない。
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東上線と交差した北側には、短いながらも暗渠道が続いている。
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赤塚の住宅街の中を細い道路が続き、前谷津川の流路を辿っていくこと
ができる。
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その先、左手にしのがやと公園が広がる。
現地の説明板によれば、公園名として残る篠ケ谷戸は「篠竹が生い茂っ
ていた谷戸」が由来であるらしい。
現在でこそ、住宅が建ち並ぶ街となってしまっているが、周りを見渡すと
谷の形状であることがよくわかる。
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公園脇には前谷津川を再現した人工の水路が流れている。
近所の子供の水遊び場となっているのだろうが、資料の『いたばしの河川』
には「篠ケ谷戸から少し上流の洗い場付近では、子供達が水を堰き止め
てひざ位の深さのところでよく水遊びをしていた」という記述があり、今も
昔も子供の水遊び好きは変わらない。

しのがやと公園から先、前谷津川緑道が始まる。
緑道は、新河岸川合流地点まで続いているので、ここから先は迷わずに
川筋を辿ることができる。
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緑道の北に真言宗寺院の崇福山泉福寺がある。
創建年は不明だが、近隣の松月院大堂(後述)にある歴応3年(1340)
鋳造の梵鐘の銘文中に「泉福寺」の名があることから鎌倉時代には創建
されていたようだ。
明治9年(1872)には下赤塚学校が本寺を借りて開校、赤塚小学校が
開校されるまでの15年間、授業が行われていた。
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泉福寺の東には、松月院大堂が建っている。
大堂は阿弥陀堂のことで、大同年間(806-810)の創建とされる板橋区
内最古の寺院である。
建武・延元の頃(1334~40)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったため、
大堂と称された。
永禄4年(1561)、長尾景虎(後の上杉謙信)の北条・小田原攻めの際、
焼き討ちにあって焼失した。
江戸期に、北方にある松月院の管理下に置かれた。
なお、大堂が建つこの地は、古墳の上とされている。
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境内東側にある赤塚八幡神社は下赤塚の鎮守社であり、著名であった
大堂の阿弥陀如来像とともに、江戸時代には多くの参拝者があったという。
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大堂松月院
江戸名所図会松月院大堂』  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載) 

緑道に戻り、下流方向へと再び辿っていこう。
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緑道は近隣住民のよき散策道として利用されており、ウォーキングやジョ
ギングをしている方々ともすれ違う。
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新大宮バイパスの高架橋を潜り、緑道は更に東へと続いている。
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《参考資料》
『いたばしの河川 その変遷と人びとのくらし』 板橋区教育委員会


 
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中井(中居)堀

亀有で葛西用水から分かれ、小村井方面へと流れていた中井堀の跡を
辿ってみた。
葛飾区内では中井堀と称しているが、墨田区では中居堀と表記されている。

中居堀の成立は、亀有溜井の廃止によって古隅田川が中川と分断され
たため、堀を開削する必要が生じたためと言われる。
亀有堰で分水された中居堀は、四ツ木まで古上水堀曳舟川)の東側を
5~6mの間隔で流れ、四ツ木から南へと向かっていた。

亀有から四ツ木の区間は葛西用水の項で紹介しているので、今回は四
ツ木から北十間川合流までの区間を紹介していこう。

水戸街道の四ツ木付近で、中井堀は古上水堀と分かれ南へと向かっていた。
写真右側の歩道が古上水堀、中井堀の跡は左側の一般道となっている。
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その一般道は京成押上線四ツ木駅北側の商店街となっている。
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古上水堀との分岐点から500メートルほどいくと綾瀬川および荒川放水
路に突き当たる。
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中井堀は綾瀬川と交差し更に南へと下っていた。
写真は荒川に架かる木根川橋から上流方向を撮影したもの。
大正13年(1924)に完成した荒川放水路により、中井堀は分断してしまった。
以前は京成線の橋梁付近を斜めに横断していたはずだ。
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木根川橋を渡った先に八広日枝神社が鎮座する。
慶長19年(1614)の創建と言われる。
境内社に木下稲荷神社があるが、これは社地が荒川放水路となってしま
うため、当地に移転したものである。
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荒川の西側、中井堀は小村井方面へ真っすぐと延びる道路として残っている。
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この通りは中居堀通りという名が付けられている。
住宅やマンションなどが建ち並ぶ道路であるが、水路の痕跡は全くなく、
道路にその名を残すのみである。
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周囲に神社仏閣などの旧跡があるわけでもなく、延々と歩くことになる。
なお、東側数百メートルほど行くと旧中川が流れている。
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やがて中居堀通りは明治通りと交差する。
その交差点名は「向島警察署入口」であるが、中居堀通りの西に並行す
る道路との交差点の名が「中居堀」となっている。
この先、左手に警察署があるので実用的な「向島警察署入口」と称し、
「中居堀」という交差点名を隣の交差点に譲ったのだろうか。
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明治通りを渡って歩いていくと、東武亀戸線の踏切となり、踏切の左側に
小村井駅がある。
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更にその先、左手に小村井香取神社が鎮座する。
創建年代は不明だが、平安時代末期、当地開拓のために千葉県香取郡
から六軒の人々が移住し、小村井の氏神様として鎮守したのが始まりという。
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境内に小村井梅園の説明板が立っている。
かつて神社の東隣には江戸時代に造られた小村井梅園があった。
三千三百坪の広さをもち、将軍の御成りがあるほどの名所であったらしい。
園内には築山や池のほか、釣り堀もあって、多くの人で賑わったようだ。
残念ながら明治43年(1910)の大水で廃園となってしまった。
なお、神社の一画に香梅園という梅園が造られ、かつての小村井梅園を
再現している。
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香取神社を過ぎると、ゴールの北十間川も近い。
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中井堀は境橋脇で北十間川へと水を落としていたようだ。
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残念ながら水路の痕跡を見ることはできないが、かつての中井堀の流路
は道路として現代に残されている。

《参考資料》
『葛西用水 -曳舟川をさぐるー』 葛飾区郷土と天文の博物館


 
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過去記事はこちらから。
水系ごとに体系化しています。

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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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