板橋区赤塚新町2丁目付近を谷頭とし、四葉、徳丸、高島平を経て新河
岸川へと至る
前谷津川、5km弱の小河川であるが、現在は全区間暗渠
となっている。
しのがやと公園より下流では前谷津緑道が続き、散策路として利用され
ている。
昭和初期頃までは川沿いに水田が広がり、農業用水や生活用水として
使用されていたという。
昭和12年、区画整理が行われ、蛇行していた川は直線化され、畑地化
されていくこととなる。
その後は多分に漏れず農地は宅地化され、川は暗渠化されて現在の
姿となっている。
前谷津川の水源はいくつかあり、かつては小さな流れを集めて前谷津
川として流路を形成していったのだろう。
その一つが、赤塚新町2-13付近のマンション脇の路地に残っている。
この小径はマンションに遮られるが、この辺りに湧水があったのかもしれない。

道路は赤塚新町保育園の南側を東へと進む。

その先、東武東上線と交差。

線路と交差する手前に南の川越街道からの水路跡が続いている。
写真は川越街道脇の様子、進入禁止の看板には「ここは水路です」と記
載されているのが印象的だ。

線路側から見た様子、暗渠蓋が続く細い道が続いている。
こちらからは立ち入ることができるが、草が生い茂り個人宅の裏となるので
奥深く入ることはお勧めできない。

東上線と交差した北側には、短いながらも暗渠道が続いている。

赤塚の住宅街の中を細い道路が続き、前谷津川の流路を辿っていくこと
ができる。

その先、左手に
しのがやと公園が広がる。
現地の説明板によれば、公園名として残る篠ケ谷戸は「篠竹が生い茂っ
ていた谷戸」が由来であるらしい。
現在でこそ、住宅が建ち並ぶ街となってしまっているが、周りを見渡すと
谷の形状であることがよくわかる。

公園脇には前谷津川を再現した人工の水路が流れている。
近所の子供の水遊び場となっているのだろうが、資料の『いたばしの河川』
には「篠ケ谷戸から少し上流の洗い場付近では、子供達が水を堰き止め
てひざ位の深さのところでよく水遊びをしていた」という記述があり、今も
昔も子供の水遊び好きは変わらない。
しのがやと公園から先、
前谷津川緑道が始まる。
緑道は、新河岸川合流地点まで続いているので、ここから先は迷わずに
川筋を辿ることができる。

緑道の北に真言宗寺院の
崇福山泉福寺がある。
創建年は不明だが、近隣の松月院大堂(後述)にある歴応3年(1340)
鋳造の梵鐘の銘文中に「泉福寺」の名があることから鎌倉時代には創建
されていたようだ。
明治9年(1872)には下赤塚学校が本寺を借りて開校、赤塚小学校が
開校されるまでの15年間、授業が行われていた。

泉福寺の東には、松月院大堂が建っている。
大堂は阿弥陀堂のことで、大同年間(806-810)の創建とされる板橋区
内最古の寺院である。
建武・延元の頃(1334~40)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったため、
大堂と称された。
永禄4年(1561)、長尾景虎(後の上杉謙信)の北条・小田原攻めの際、
焼き討ちにあって焼失した。
江戸期に、北方にある松月院の管理下に置かれた。
なお、大堂が建つこの地は、古墳の上とされている。

境内東側にある
赤塚八幡神社は下赤塚の鎮守社であり、著名であった
大堂の阿弥陀如来像とともに、江戸時代には多くの参拝者があったという。

江戸名所図会『
松月院大堂』
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載) 緑道に戻り、下流方向へと再び辿っていこう。

緑道は近隣住民のよき散策道として利用されており、ウォーキングやジョ
ギングをしている方々ともすれ違う。

新大宮バイパスの高架橋を潜り、緑道は更に東へと続いている。

《参考資料》
『いたばしの河川 その変遷と人びとのくらし』 板橋区教育委員会