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江川

川崎市高津区と中原区の境界を流れる江川を歩いてみた。
もともと、江川は根方十三ヶ村堀の下流にある水路であり、悪水堀(排水路)
として位置づけられる。
根方十三ヶ村堀は網の目状に広がり、末長、千年、子母口、新城などの水
田を潤していたようだが、資料(『二ヶ領用水支流水路復元図』)を見ると、
その多くは江川へと流れ込んでいる。
周辺の都市化に伴い、多分に漏れず江川も汚染化していき、また雨水が
多量に流れ込み、浸水被害を発生した。
そのため、江川の地下には内径8.5m、延長1.5 ㎞の雨水貯留用の埋設
管が設置されることとなった。
埋設管の跡には遊歩道が設置されることになり、平成8年(1996)に事業
認可、翌9年から着手し、平成115年に供用開始された。

注目すべきは、遊歩道設置事業にあたり、地元住民から請願書が出され、
設計段階より事業が進められ、自然と調和した素晴らしい遊歩道が出来
上がったことである。
人工のせせらぎが流れ、周辺住民の散策路や憩いの場として、また子供
たちの遊び場として親しまれている。
今回は見事に整備された遊歩道をもつ江川を紹介することとしたい。

その前に少しだけ上流部の用水堀を紹介しよう。
溝ノ口の東側、大形ショッピングセンターの北側に水門があるが、ここで新
城方面への水路が分かれていく。
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前述のように水路は多くの水路に枝分かれし、所々に暗渠蓋が続く道が残
っている。
前掲の資料では新城堀という記載も見られる。
宅地開発に伴い区画整理されたため、水路のルートは昔日とは多少、変
わってしまったのかもしれない。
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さていよいよ、江川せせらぎ遊歩道を辿っていくこととしよう。
遊歩道は南武線武蔵新城駅の南西、新城4丁目5番から始まる。
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遊歩道は「湧水の小径」「桜のプロムナード」「散策の道」「ふれあい広場」
「せせらぎ広場」「清流の道」「あぜの道」「河原の道」と名付けられた8つの
ゾーンに分かれ、それぞれ特徴のある空間が造られている。
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道路脇に流れる水路、水面を覗くとアメンボが生息している。
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江川のせせらぎを流れる水は等々力水処理センターの高度処理水を導
水している。
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桜並木が続く「桜のプロムナード」ゾーン、遊歩道が出来てからまだ十数
年ほどしか経っていないため若木だが、何十年か後には立派な桜並木
に成長することだろう。
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道路との交差箇所には、所々にかつての橋名を記した石碑が建てられている。
こちらは厳川橋跡。
その先に見えるのは、ザリガニ釣りに興ずる家族連れ。
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タチアオイが咲く岸辺。
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こちらは菖蒲。
6月半ばであったので、ちょっと時期が遅かったのか。
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暗渠を緑道化し人工の水路を設置するというのは、目黒川上流の北沢川
や烏山川、葛飾区内の曳舟川(葛西用水)など他にもあるが、ここまで自然
と調和したせせらぎを再現したのは珍しいかと思う。
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水面には青空が映り込む。
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下流にある「清流の道」ゾーンでは木製の遊歩道が続き、また
違った雰囲気を醸し出している。
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鈴なりとなったアジサイが河辺を彩る。
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江川を泳いでいたカルガモの親子に出会った。
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尻手川崎道路と交差する場所には井田橋跡の碑が建てられている。
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井田の住宅街を進む江川、合流先の矢上川はもうすぐだ。
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矢上川への合流地点の直前、江川を流れてきた水は吸い込まれてしまう。
この左岸には地下の雨水貯水管の水を汲み上げる江川ポンプ場がある。
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そして矢上川へと合流する。
合流口は想像以上に大きいものであった。
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目次
  
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葛西用水 5

常磐線を越えて、葛西用水は更に南下していく。
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その常磐線を越えた辺りで、葛西用水は古上水堀中井堀中居堀)、
井堀
西井堀に分水され、西井堀から更には千間堀が分かれていた。
古上水堀の東側には中井堀が四ツ木付近まで流れており、二条の水路と
なっていた。
下図は、資料とした『葛西用水 -曳舟川をさぐるー』に描かれていた昭
和初期の地図を基に記載してみたものである。
亀有堀

常磐線交差地点から300メートルほど行くと、江北橋通りとの交差点があり、
そこから3kmほどに渡り、曳舟川親水公園が続く。
ここから先は葛西用水というより、曳舟川の名称の方が一般的かもしれない。
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ここで曳舟川の由来について簡単に触れておこう。
引舟は亀有村と篠原村(現四ツ木)の間の28間(約3km)ほどの水路を
利用して、「サッパコ」という小舟に人を乗せ、土手の上から綱で小舟をひ
くという交通事業である。
帝釈天詣や水戸街道に出る旅人の交通手段として利用されていた。
この引舟が転じて、曳舟川という名前が付けられた。
葛飾区の説明板では四ツ木までと記載されているが、墨田区にも曳舟川
通りなどの道路名も残っているので、小梅(現墨田区向島)辺りまでは行わ
れていたようである。

安藤広重の名所江戸百景にも引き舟の様子が描かれている。
四ツ木通用水引ふね
名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね』 
           (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

公園内には人工のせせらぎが流れており、周辺住民の憩いの場として活
用されている。
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前述の通り、古上水堀と中井堀の2つの水路が並行して存在していたよう
だが、現在ではそれぞれの堀を見出すことはできない。
左右の通りが水路跡ということになるのだろうか。

緑道の東側に浄土真宗大谷派の本多山蓮光寺がある。
蓮光寺は江戸初期。三河国 刈谷の領主・本多忠春により岡崎に開基、
慶長14年、三河より神田に移された。
その後、浅草を経て、昭和3年(1928)亀有の地に移転した。
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曳舟川親水公園には3箇所の水遊び場がある。
訪問したのは6月上旬であったので水は無かったが、夏場には子供たちの
恰好の遊び場になるのであろう。
所々に東屋風の休憩所があり、散策の足を休めることができるのは有難い。
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水遊び場以外の場所には人工のせせらぎが続く。
ザリガニ採りに興じる家族連れも何組か目にすることができた。
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再び水遊び場が広がる。
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やがて左手にドームがある建物が見えてくる。
葛飾区郷土と天文の博物館である。
プラネタリウムを有し、家族連れを中心として来訪者は多い。
殆どの来訪者はプラネタリウムを目的としているが、郷土展示のコーナーも
充実しており、観覧をお勧めする。
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その先の緑道内に、田圃が現れた。
これは博物館が体験学習のために設置しているものである。
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お花茶屋駅の東側で京成本線を渡る。
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この辺り一帯は、江戸時代、将軍の鷹狩り場であった。
八代将軍吉宗は、鷹狩の際に腹痛を起こし、近くの新左衛門茶屋に駆け込んだ。
茶屋の娘、お花の手厚い看病により将軍は快癒し、将軍から「お花茶屋」
の名を授かったという話がこの地名の由来である。

緑道の1ブロック西にも、明らかに暗渠と判る道路が続く。
本記事冒頭の地図で紹介した千間堀である。
千間堀は亀有から並行して西側を流れ、この先で右へと離れていく。
『葛西用水 -曳舟川をさぐるー』では、農業用水ではなく、鷹狩用の鴨の
餌付け場として掘られたものと推察しており、興味深い。
(後年、農業用水路に転用)
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京成線を渡った先、なおも親水公園が続く。
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四ツ木へと入ると、緑道に吉野園を紹介する説明板があるので、引用して
紹介してみよう。
吉野園は江戸時代には吉野屋といい、四ツ木通りの曳舟川(古上水堀)
沿いの「藤棚の茶屋」として知られていました。明治時代になると「四ツ木
の花屋敷」と称され、20年代には吉野園を開園、堀切とともに東京名所
のひとつに数えられました。
(中略)
昭和10年代には戦時下の影響を受けて相次いで閉園し、江戸期以来の
伝統と繁栄に幕が下されました。

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その先で水戸街道に突き当たり、亀有から続いてきた曳舟川親水公園は
終了する。
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その南側の住宅街の中に四つ木白髭神社が鎮座する。
承応3年(1654)四つ木村が立石村から分村した際に、四つ木村の鎮守
として勧請された神社。
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水戸街道を渡った先で、冒頭に紹介した古上水堀と中井堀が分かれる。
写真中央のマンションの右側が古上水堀、左側の自動車が停車している
道が中井堀の跡である。
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水戸街道の先にも四つ木めだかの小道と称する小さな親水公園が続く。
行く手の先には東京スカイツリーを望むことができ、こちらにもせせらぎが
流れている。
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親水公園の南側には、天台宗寺院の超越山西光寺がある。
嘉禄元年(1225)、関東の豪族である葛西三郎清重の創建と伝えられ、
西光寺は清重の閑居の地でもあった。
もともとは浄土真宗の寺院であったが、国府台合戦(永禄7年(1564))
や水害により衰退、寛永年間(1624~43)天台宗寺院として中興した。
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親水公園の中ほどに、古代東海道の説明板があった。
街道については詳しくないが、説明板によれば、大化の改新(645)以降に
全国に交通路が整備され、宝亀2年(771)には葛飾区内を東西に横断す
る東海道が造られ、武蔵国府と下総国府・常陸国府を結んだという。
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四つ木めだかの小道は200メートルちょっとの短い緑道であり、綾瀬川手
前で終わってしまう。
荒川沿いに走る首都高速中央環状線も間近に見えるようになってきた。
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新四ツ木橋への取り付け道路の下には、水が溜まっている場所がある。
水は緑色で淀んでいる。
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そして、こちらが綾瀬川への水門。
ここで葛西用水(曳舟川)は綾瀬川で合流していた。
今回の葛西用水の紹介はここで一応の終了としたい。
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但し、都区内における葛西用水の前身である亀有用水は、綾瀬川とクロス
した後、業平橋方面へと続いていた。
また明治期の地形図でも、その先に「古上水」の文字を付した水路を確認
できる。
新四ツ木橋で荒川を渡り(荒川放水路は大正13年(1924)の完成であり、
明治後半までは存在していない)、その先を歩いてみた。
曳舟川通りと名付けられた道路が続き、また途中、曳舟川を由来とする東
武線の曳舟駅や、京成線の京成曳舟駅の駅名以外には、これといった痕
跡は見られなかった。
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《参考資料》
『葛西用水 -曳舟川をさぐるー』 葛飾区郷土と天文の博物館


 
目次
  

葛西用水 4

葛西用水はつくばエクスプレス線をくぐって更に南へと流れていく。
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つくばエクスプレスとの交差地点から400メートルほど行くと、桁川と合流する。
桁川は綾瀬川の旧流路であり、東へ流れる中川へ通じている。
川沿いには糸を垂れている太公望の方々を見ることができる。
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既に記した通り、亀有溜井への補給を目的として造られた葛西用水であっ
たため、開削当初の葛西用水はこの地で終わる。
しかしながら、葛西用水に並行して造られていた亀有上水が享保7年(1722)
に廃止されたため、ここから先は亀有上水が農業用水として転用された区
間とうことになるであろう。

桁川への合流地点の対岸に水門があり。この先、再び葛西用水が始まる。
桁川が都県境となっており、いよいよ埼玉県から東京都足立区へと入っていく。
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水路沿いは緑地として整備され、訪れた際にはキショウブが咲き、周辺住
民の方々の目をひいていた。
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その先には親水ゾーンと称された場所があり、用水の水面近くまで下りる
ことができる。
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六木地区を南下していく葛西用水。
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桁川から700メートルほど行くと、葛西用水は再び水路と交差する。
花畑運河(花畑川とも称される)であり、葛西用水は伏越で花畑運河を越える。
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花畑運河は昭和6年(1931)、綾瀬川と中川を結ぶ運河として開削された。
荒川放水路(大正13年完成)により中川が分断され、北関東と東京を結ぶ
舟運(農作物や肥料を運搬)に支障をきたしたため、開削された運河である。
水運事業は衰退し、現在では無駄に広い水路と化してしまった感があるが、
川沿いの看板によれば、将来は水辺環境事業により、市民の憩いの場と
して整備されるようである。
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花畑運河を渡ると「あれ、水が流れていない?}。
ご安心を、これは暗渠の上に造られた親水施設、夏になれば子供たちが
水遊びに興ずるのだろうか。
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その先、再び葛西用水は顔を見せる。
写真左側に並行する道路は、その名も葛西用水桜通り、用水に沿って真
っすぐに延びる道路である。
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葛西用水沿いには足立区立郷土博物館が建っている。
足立区の歴史や生活・文化を展示しており、用水に関わる展示や資料な
どもそろっているので時間があれば訪問をお勧めしたい。
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こちらは博物館裏に併設されている東渕江庭園、回遊式日本庭園で散策
の休憩がてら立ち寄るのもいい。(庭園は入園無料)
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用水沿いの各所に、写真に見られるような鉄道建設促進の幟などが立て
られている。
地下鉄8号線(有楽町線)の早期延伸を要望する運動で、豊洲から分岐し
て亀有へと延伸する路線が計画されており、その先、葛西用水沿いに八
潮市、野田市方面への延伸も検討されているようだ。
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用水の東側に真言宗の阿遮山福寿院がある。
創建は不明、参道入口にある地蔵は「旧中川のいぼとり地蔵」と言われ、
塩を供えた後、その塩を患部に塗ることにより、皮膚病に効果があるとの
言い伝えがある。
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やがて環状七号線へと近づき、用水はいったん暗渠となる。
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環七の大谷田橋交差点の北にそびえたつ銀河の塔
説明板によると、葛西用水親水水路の完成を記念して作られたシンボル
タワーとのことだ。
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交差点の先、亀戸方面へ向けて緑地帯が続き、その中を葛西用水が流れる。
亀戸駅まで1kmほどとなり、駅周辺への人々の往来も多くなる。
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用水沿いにある東和親水公園
用水とは関係はないと思われるが、噴水やじゃぶじゃぶ池などもあって楽
しそうな公園だ。
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親水公園から数十メートルほどいくと、八ヶ村落堀と交差する。
八ヶ村落堀は六木から大谷田、東和を通り綾瀬で古隅田川に落ちる悪水
掘(排水用水路)、現在は環七以南で八ヶ村落し親水緑道として整備され
ている。
交差点付近に碇伏越橋と記された親柱が保存されていたので、2つの水
路は伏越で交差していたことが判る。
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そこから200メートルほど行ったところで、葛西用水は暗渠となってしまう。
この先、曳舟川親水公園などに水路があるが、人工水路であるため、葛西
用水の水路として目にすることができるのはここが最後である。
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遊歩道沿いにある大きな水車のオブジェ。
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さきほどの八ヶ村落堀に続いて、今度は古隅田川と交差する。
近くには古隅田川についての説明板があり、以下のように記載されている。
古隅田川はかつて利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河であり
ましたが、中川の灌漑事業等により水量を失い、やせていったものと考え
られています。
近代に至っては、雑排水路として利用されてきました。

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現在、古隅田川跡は足立区と葛飾区の境界となっており、ここから葛飾区
となる。

暗渠となった葛西用水の上は広い歩道となり、南へと続いている、
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歩道脇にあった両さん像、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の両津
勘吉像は、亀有駅前にある像が有名だが、小さな像も周辺にいくつか建て
られているようだ。
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そして常磐線のガードが見えてくる。
亀有駅の東側で葛西用水は常磐線と交差していた。
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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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