常磐線を越えて、
葛西用水は更に南下していく。

その常磐線を越えた辺りで、葛西用水は
古上水堀、
中井堀(
中居堀)、
東
井堀、
西井堀に分水され、西井堀から更には
千間堀が分かれていた。
古上水堀の東側には中井堀が四ツ木付近まで流れており、二条の水路と
なっていた。
下図は、資料とした『葛西用水 -曳舟川をさぐるー』に描かれていた昭
和初期の地図を基に記載してみたものである。

常磐線交差地点から300メートルほど行くと、江北橋通りとの交差点があり、
そこから3kmほどに渡り、
曳舟川親水公園が続く。
ここから先は葛西用水というより、
曳舟川の名称の方が一般的かもしれない。

ここで曳舟川の由来について簡単に触れておこう。
引舟は亀有村と篠原村(現四ツ木)の間の28間(約3km)ほどの水路を
利用して、「サッパコ」という小舟に人を乗せ、土手の上から綱で小舟をひ
くという交通事業である。
帝釈天詣や水戸街道に出る旅人の交通手段として利用されていた。
この引舟が転じて、曳舟川という名前が付けられた。
葛飾区の説明板では四ツ木までと記載されているが、墨田区にも曳舟川
通りなどの道路名も残っているので、小梅(現墨田区向島)辺りまでは行わ
れていたようである。
安藤広重の名所江戸百景にも引き舟の様子が描かれている。

『
名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね』
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)公園内には人工のせせらぎが流れており、周辺住民の憩いの場として活
用されている。

前述の通り、古上水堀と中井堀の2つの水路が並行して存在していたよう
だが、現在ではそれぞれの堀を見出すことはできない。
左右の通りが水路跡ということになるのだろうか。
緑道の東側に浄土真宗大谷派の
本多山蓮光寺がある。
蓮光寺は江戸初期。三河国 刈谷の領主・本多忠春により岡崎に開基、
慶長14年、三河より神田に移された。
その後、浅草を経て、昭和3年(1928)亀有の地に移転した。

曳舟川親水公園には3箇所の水遊び場がある。
訪問したのは6月上旬であったので水は無かったが、夏場には子供たちの
恰好の遊び場になるのであろう。
所々に東屋風の休憩所があり、散策の足を休めることができるのは有難い。

水遊び場以外の場所には人工のせせらぎが続く。
ザリガニ採りに興じる家族連れも何組か目にすることができた。

再び水遊び場が広がる。

やがて左手にドームがある建物が見えてくる。
葛飾区郷土と天文の博物館である。
プラネタリウムを有し、家族連れを中心として来訪者は多い。
殆どの来訪者はプラネタリウムを目的としているが、郷土展示のコーナーも
充実しており、観覧をお勧めする。

その先の緑道内に、田圃が現れた。
これは博物館が体験学習のために設置しているものである。

お花茶屋駅の東側で京成本線を渡る。

この辺り一帯は、江戸時代、将軍の鷹狩り場であった。
八代将軍吉宗は、鷹狩の際に腹痛を起こし、近くの新左衛門茶屋に駆け込んだ。
茶屋の娘、お花の手厚い看病により将軍は快癒し、将軍から「お花茶屋」
の名を授かったという話がこの地名の由来である。
緑道の1ブロック西にも、明らかに暗渠と判る道路が続く。
本記事冒頭の地図で紹介した
千間堀である。
千間堀は亀有から並行して西側を流れ、この先で右へと離れていく。
『葛西用水 -曳舟川をさぐるー』では、農業用水ではなく、鷹狩用の鴨の
餌付け場として掘られたものと推察しており、興味深い。
(後年、農業用水路に転用)

京成線を渡った先、なおも親水公園が続く。

四ツ木へと入ると、緑道に吉野園を紹介する説明板があるので、引用して
紹介してみよう。
吉野園は江戸時代には吉野屋といい、四ツ木通りの曳舟川(古上水堀)
沿いの「藤棚の茶屋」として知られていました。明治時代になると「四ツ木
の花屋敷」と称され、20年代には吉野園を開園、堀切とともに東京名所
のひとつに数えられました。(中略)
昭和10年代には戦時下の影響を受けて相次いで閉園し、江戸期以来の
伝統と繁栄に幕が下されました。
その先で水戸街道に突き当たり、亀有から続いてきた曳舟川親水公園は
終了する。

その南側の住宅街の中に
四つ木白髭神社が鎮座する。
承応3年(1654)四つ木村が立石村から分村した際に、四つ木村の鎮守
として勧請された神社。

水戸街道を渡った先で、冒頭に紹介した古上水堀と中井堀が分かれる。
写真中央のマンションの右側が古上水堀、左側の自動車が停車している
道が中井堀の跡である。

水戸街道の先にも
四つ木めだかの小道と称する小さな親水公園が続く。
行く手の先には東京スカイツリーを望むことができ、こちらにもせせらぎが
流れている。

親水公園の南側には、天台宗寺院の
超越山西光寺がある。
嘉禄元年(1225)、関東の豪族である葛西三郎清重の創建と伝えられ、
西光寺は清重の閑居の地でもあった。
もともとは浄土真宗の寺院であったが、国府台合戦(永禄7年(1564))
や水害により衰退、寛永年間(1624~43)天台宗寺院として中興した。

親水公園の中ほどに、古代東海道の説明板があった。
街道については詳しくないが、説明板によれば、大化の改新(645)以降に
全国に交通路が整備され、宝亀2年(771)には葛飾区内を東西に横断す
る東海道が造られ、武蔵国府と下総国府・常陸国府を結んだという。

四つ木めだかの小道は200メートルちょっとの短い緑道であり、綾瀬川手
前で終わってしまう。
荒川沿いに走る首都高速中央環状線も間近に見えるようになってきた。

新四ツ木橋への取り付け道路の下には、水が溜まっている場所がある。
水は緑色で淀んでいる。

そして、こちらが
綾瀬川への水門。
ここで葛西用水(曳舟川)は綾瀬川で合流していた。
今回の葛西用水の紹介はここで一応の終了としたい。

但し、都区内における葛西用水の前身である亀有用水は、綾瀬川とクロス
した後、業平橋方面へと続いていた。
また明治期の地形図でも、その先に「古上水」の文字を付した水路を確認
できる。
新四ツ木橋で荒川を渡り(荒川放水路は大正13年(1924)の完成であり、
明治後半までは存在していない)、その先を歩いてみた。
曳舟川通りと名付けられた道路が続き、また途中、曳舟川を由来とする東
武線の曳舟駅や、京成線の京成曳舟駅の駅名以外には、これといった痕
跡は見られなかった。

《参考資料》
『葛西用水 -曳舟川をさぐるー』 葛飾区郷土と天文の博物館