二ヶ領用水 根方十三ヶ村堀 1
久地円筒分水から分水される二ヶ領用水の1つ、根方十三ヶ村堀を取り上げる。
その名前である十三ヶ村とは、久本、溝口、坂戸、末永、新作、清沢、厳川、
子母口、明津、新城、上小田中、神地、下小田中の各村である。(清沢、厳川
は明治8年合併して千年村となる。)
概ねの地域で言えば、JR南武線の武蔵溝ノ口駅から武蔵中原駅付近まで、
流末は南を流れる江川に流れ込む。
資料とした『二ヶ領用水支流水路復元図』には、溝ノ口付近からいくつもの支
流に分かれ、何本もの水路が江川へと向かって流れている。
また明治から昭和前期の地形図を見てみると、そこには水田が広がってい
るのがわかる。
現在でも地方の農村へ行けば、水田が広がり給水排水の水路が縦横に流
れているのを目にすることができるが、そのような風景がこの高津の地にも
展開されていたのではないだろうか。
そしてそれらの水路を総称して、根方十三ヶ村堀と呼ばれていたと推察できる。
現在は住宅が建ち並び、メインの水路を特定することは難しいが、前掲資
料をもとに円筒分水から暗渠を辿り、根方十三ヶ村堀(以降、根方堀と略
して称する)として紹介することにした。
まず久地円筒分水からスタートする。
円筒分水からは川崎堀をはじめとして、久地・溝ノ口村堀や川辺六ヶ村堀
が分かれているが、根方堀はいちばん南側(写真奥)から流れ出る。

円筒分水から流れ出た根方十三ヶ村堀は、川崎堀の南側の道路を暗渠と
して溝ノ口方面へと進んでいく。

百メートルほど行くと、道の右側に日蓮宗の秋興山浄元寺が建つ。
創建年代は不明、津田山(七面山)の麓にある寺院である。

暗渠は道路の歩道として続いており、その境にはかつての護岸の名残のよ
うな構造物を見ることができる。

さらに歩いていくと、道の真ん中に電柱が立つ光景に出会う。

府中街道へと出ると、大山街道との交差点脇に、さかえ橋の親柱が保存
されている。
溝口村上宿と下作延村片町の境にあったので「境橋」、転じて「栄橋」と命
名されたものらしい。

この付近は、また根方堀と旧平瀬川との交差地点であった。
現在、平瀬川は津田山をトンネルで潜り、円筒分水脇を流れて多摩川へ
と達しているが、以前は溝ノ口方面へと流れていた。
根方堀が掛樋で平瀬川を渡っていたのであろうか。
暗渠を追いながら溝ノ口駅付近へと向かうと、水路は溝の口駅西口商店
街の中へと入っていく。

昭和の時代の香りが残る商店街であるが、飲み屋街となっており、今な
お活気がある商店街だ。
根方堀はそんな商店街と南武線の線路の間を流れていく。
暗渠ファンには有名な場所である。

その後、駅構内へと入ってしまうため、水路の行方を見失うが、根方堀は
ポレポレタウンと称する商店街の中を進んでいく。

買い物客で賑わう商店街であり、水路であることが全く感じられないが、
そんな商店街の入口近くに、「南田の堰」と書かれた
二ヶ領用水の説明板がひっそりと立っている。
ここの堰から南の久本方面へ向かう分水があり、説明板によれば明治末
期に溝口と久本との間に大きな水騒動があったようだ。

商店街を抜け、大型スーパーの北側を進んでいくと、道の右側に突如とし
て青い水門が現れる。
駅から暗渠らしき形跡がないこともあり、唐突な出現である。

水門の数十メートル先にY字路があるが、そのY字路を右へと流れていく
支堀に設けられた水門のようだ。
その支堀は坂戸や新城へと続く流れのようで、前掲の支流水路復元図を
見ると、現在のビジネスパーク辺りでは縦横に水路が展開していたようだ。

上のY字路の先から、暗渠の証であるコンクリート舗装の歩道が再び出現する。

しばらくは暗渠上の歩道をたんたんと進んでいく。
特に周辺に史跡もなく歩いていくだけなので、ちょっと飽きてしまうかもしれない。

水門から800メートルほど歩くと三叉路があり、そこを左へと曲がる。

暗渠蓋が続く道が50メートルほど続き、その先は住宅と住宅の間に入り
込んでいく。

その北側にある真言宗の安養院(御嶽山真性寺)は慶長15年(1610)の
創建、由緒碑には「享保2年徳川七代将軍が有章院殿大居士に対して坂
戸村が芝増上寺の御霊屋料となるに伴い安養院と改称しました。」とある。

住宅地の中に入っていった水路は、坂戸御嶽神社の脇へ出てくる。

その坂戸御嶽神社の由緒は不明、大田区北嶺町の御嶽神社より分祠さ
れたとの言い伝えがあるそうだ。

暗渠となった根方掘は神社脇を進んでいく。

そこを辿っていくと、前方に第三京浜の高架橋が現れる。

《参考資料》
『二ヶ領用水支流水路復元図』 ※川崎市立中原図書館所蔵

その名前である十三ヶ村とは、久本、溝口、坂戸、末永、新作、清沢、厳川、
子母口、明津、新城、上小田中、神地、下小田中の各村である。(清沢、厳川
は明治8年合併して千年村となる。)
概ねの地域で言えば、JR南武線の武蔵溝ノ口駅から武蔵中原駅付近まで、
流末は南を流れる江川に流れ込む。
資料とした『二ヶ領用水支流水路復元図』には、溝ノ口付近からいくつもの支
流に分かれ、何本もの水路が江川へと向かって流れている。
また明治から昭和前期の地形図を見てみると、そこには水田が広がってい
るのがわかる。
現在でも地方の農村へ行けば、水田が広がり給水排水の水路が縦横に流
れているのを目にすることができるが、そのような風景がこの高津の地にも
展開されていたのではないだろうか。
そしてそれらの水路を総称して、根方十三ヶ村堀と呼ばれていたと推察できる。
現在は住宅が建ち並び、メインの水路を特定することは難しいが、前掲資
料をもとに円筒分水から暗渠を辿り、根方十三ヶ村堀(以降、根方堀と略
して称する)として紹介することにした。
まず久地円筒分水からスタートする。
円筒分水からは川崎堀をはじめとして、久地・溝ノ口村堀や川辺六ヶ村堀
が分かれているが、根方堀はいちばん南側(写真奥)から流れ出る。

円筒分水から流れ出た根方十三ヶ村堀は、川崎堀の南側の道路を暗渠と
して溝ノ口方面へと進んでいく。

百メートルほど行くと、道の右側に日蓮宗の秋興山浄元寺が建つ。
創建年代は不明、津田山(七面山)の麓にある寺院である。

暗渠は道路の歩道として続いており、その境にはかつての護岸の名残のよ
うな構造物を見ることができる。

さらに歩いていくと、道の真ん中に電柱が立つ光景に出会う。

府中街道へと出ると、大山街道との交差点脇に、さかえ橋の親柱が保存
されている。
溝口村上宿と下作延村片町の境にあったので「境橋」、転じて「栄橋」と命
名されたものらしい。

この付近は、また根方堀と旧平瀬川との交差地点であった。
現在、平瀬川は津田山をトンネルで潜り、円筒分水脇を流れて多摩川へ
と達しているが、以前は溝ノ口方面へと流れていた。
根方堀が掛樋で平瀬川を渡っていたのであろうか。
暗渠を追いながら溝ノ口駅付近へと向かうと、水路は溝の口駅西口商店
街の中へと入っていく。

昭和の時代の香りが残る商店街であるが、飲み屋街となっており、今な
お活気がある商店街だ。
根方堀はそんな商店街と南武線の線路の間を流れていく。
暗渠ファンには有名な場所である。

その後、駅構内へと入ってしまうため、水路の行方を見失うが、根方堀は
ポレポレタウンと称する商店街の中を進んでいく。

買い物客で賑わう商店街であり、水路であることが全く感じられないが、
そんな商店街の入口近くに、「南田の堰」と書かれた
二ヶ領用水の説明板がひっそりと立っている。
ここの堰から南の久本方面へ向かう分水があり、説明板によれば明治末
期に溝口と久本との間に大きな水騒動があったようだ。

商店街を抜け、大型スーパーの北側を進んでいくと、道の右側に突如とし
て青い水門が現れる。
駅から暗渠らしき形跡がないこともあり、唐突な出現である。

水門の数十メートル先にY字路があるが、そのY字路を右へと流れていく
支堀に設けられた水門のようだ。
その支堀は坂戸や新城へと続く流れのようで、前掲の支流水路復元図を
見ると、現在のビジネスパーク辺りでは縦横に水路が展開していたようだ。

上のY字路の先から、暗渠の証であるコンクリート舗装の歩道が再び出現する。

しばらくは暗渠上の歩道をたんたんと進んでいく。
特に周辺に史跡もなく歩いていくだけなので、ちょっと飽きてしまうかもしれない。

水門から800メートルほど歩くと三叉路があり、そこを左へと曲がる。

暗渠蓋が続く道が50メートルほど続き、その先は住宅と住宅の間に入り
込んでいく。

その北側にある真言宗の安養院(御嶽山真性寺)は慶長15年(1610)の
創建、由緒碑には「享保2年徳川七代将軍が有章院殿大居士に対して坂
戸村が芝増上寺の御霊屋料となるに伴い安養院と改称しました。」とある。

住宅地の中に入っていった水路は、坂戸御嶽神社の脇へ出てくる。

その坂戸御嶽神社の由緒は不明、大田区北嶺町の御嶽神社より分祠さ
れたとの言い伝えがあるそうだ。

暗渠となった根方掘は神社脇を進んでいく。

そこを辿っていくと、前方に第三京浜の高架橋が現れる。

《参考資料》
『二ヶ領用水支流水路復元図』 ※川崎市立中原図書館所蔵


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