田無用水 1
玉川上水(新堀用水)から分かれる田無用水を取り上げる。
まずは田無用水開削の経緯について簡単に説明するが、その前提として
田無村の成立について触れておきたい。
慶長11年(1606)、幕府は江戸城改築のために青梅から運搬するために、
青梅街道(成木街道)を開設する。
田無村は中野、箱根ヶ崎などとともに街道の継場として設けられた。
しかしながら、当時は武蔵野の逃げ水と言われるほど水利が悪く、朝夕、
谷戸(現:西東京市谷戸町のことか)から水を汲み運んで飲み水とした。
承応2年(1653)に玉川上水が開通し、その3年後の明暦2年(1656)に
小川用水が開削されて、青梅街道の馬継場として新たに小川村が開村さ
れても、田無村の水事情は改善されないままだった。
田無用水開削の嘆願書が提出されて許可が下りたのは元禄9年(1696)
のことである。
田無用水は当初、田無村一村のための吞用水として開削された。
喜平橋下流で玉川上水から分水されたが、その樋口は四寸四方と他の
用水に比べて小さいものであった。(ちなみに野火止用水は六尺×2尺、
小川用水は一尺四方である。)
その後幕末から明治にかけて、吞用水だけではなく、廻田新田や田無村
の田用水としても利用されることとなる。
明治3年(1870)、玉川上水の通船を目的とした分水口改正が発せられ
て新堀用水が造られると、田無用水は小川用水や鈴木用水と同様に、
新堀用水から分水されるようになる。
また翌明治4年には上保谷村、関村、上石神井村、下石神井村から田無
用水の延長願いが提出される。
この願いをもとに現在の田無駅の北から田柄用水が開削され、その機に
田無用水も拡幅された。
開削から二百数十年間利用されてきた田無用水であるが、上水道の普及
とともに都市化の波が押し寄せ、生活排水が流れる水路と化してしまう。
昭和38、9年には田無駅付近の南北の用水路は暗渠化され、現在では
水路跡は遊歩道化されて市民に利用されている。
田無用水は喜平橋の北東付近から始まる。
新堀用水からの分水口周辺は個人宅の庭先となっており、残念ながら近
づくことはできない。

喜平町の住宅の中を流れていく田無用水。

その先は畑地と林の間を縫うように流れていく。
用水沿いの道路はないため、迂回しながら用水の流れを確認していく。

ここは何度か訪れているが、水が流れていない時もあった。
常時、水が流れているわけではないようだ。
一般道を渡り、その先は店舗の駐車場に沿って流れていく。

その先、氷川通りと称する道路沿いに流れていく。
暗渠と開渠を繰り返し、開渠部分には水生植物などが植えられており、環
境に配慮した歩道が続く。

その途中、道路の右側に回田氷川神社が鎮座する。
この辺りにあった廻田新田は、廻り田村(現東村山市)の斉藤忠兵衛が中
心となり、天保11年(1726)玉川上水北部の野中新田の土地を取得して
発足した新田である。
但し、新田といっても当初は草刈場(秣場)であったため、移住してくるもの
はなく、屋敷も皆無であったらしい。

この氷川神社は宝暦5年(1755)、新田の有力者である弥兵衛が土地を
提供し、氷川明神と稲荷明神を勧請して建てられた。
現在の社殿は安政6年(1859)に再建されたものと言われる。
道沿いの水路は更に続いている。

やがて氷川通りは新小金井街道に突き当たる。
ここで新小金井街道を南へ数分ほど歩いたところに鈴木遺跡資料館があ
るので立ち寄ってみた。

昭和49年(1974)、現在の鈴木小学校付近から多数の石器などが出土し、
発掘調査の結果、約3万年前から一万四千年前までの旧石器時代の遺跡
であることが判明した。
遺跡は南北670m、東西600mの範囲で馬蹄形に広がっている。
遺跡の東は窪地となっており、かつての石神井川の源流部であったとされ
ている。
資料館には数々の遺跡の他にも地層標本があり、新田の水路跡などを見
ることができるので、訪問することをお勧めしたい。
(開館日注意)
新小金井街道の東に広がる畑の中を田無用水は流れていく。

畑のために水路沿いに歩くことは出来ず、迂回しながら用水を追っていくこ
ととなる。
但し、武蔵野の新田の特徴である縦に長い区割を残した道路となっている
ため、大きく迂回することとなり、追跡に苦労する。

畑を過ぎると、再び住宅地の中に入っていく。
ただ、その水路を見ると水が流れていない。
畑の中を流れている間に排水されたのであろうか。
ちょうど水路沿いの雑草を刈っている近隣の方にお話を伺うことができたが、
住宅地の中には殆ど水は流れてこないという。

水は流れていないとはいえ水路としては残っており、その水路は住宅地の
中を続いて進んでいる。


用水は北東方面に進んでいき、やがて鈴木用水と交差する。
そこには「昭和五年十月成」と書かれた掛樋がある。
掛樋で上を通っているのが鈴木用水、但し鈴木用水にも水は流れておらず、
2つの用水の往年の姿を残す貴重な遺跡である。

鈴木用水は田無用水と同じく玉川上水から分かれる用水であり、この辺り
では鈴木街道の南と北に分かれて流れており、この掛樋は南側の水路と
の交差である。
田無用水は北側の水路とも交差していたが、その交差箇所は鈴木町交
差点の北側の道路(小金井街道)にあたると推定され、その姿をみるこ
とは出来ない。
鈴木街道に出てくる田無用水、歩道を暗渠蓋が横切る光景に出くわす。

その反対側、駐車場脇にある水路敷。
この先、田無用水は暗渠となってしまうため、往年の水路として確認でき
る最後の地点となる。

《参考資料》
『小平市史 近世編』 小平市史編さん委員会
『歴史のなかの田無』 増渕和利著
『鈴木遺跡解説』 小平市教育委員会

まずは田無用水開削の経緯について簡単に説明するが、その前提として
田無村の成立について触れておきたい。
慶長11年(1606)、幕府は江戸城改築のために青梅から運搬するために、
青梅街道(成木街道)を開設する。
田無村は中野、箱根ヶ崎などとともに街道の継場として設けられた。
しかしながら、当時は武蔵野の逃げ水と言われるほど水利が悪く、朝夕、
谷戸(現:西東京市谷戸町のことか)から水を汲み運んで飲み水とした。
承応2年(1653)に玉川上水が開通し、その3年後の明暦2年(1656)に
小川用水が開削されて、青梅街道の馬継場として新たに小川村が開村さ
れても、田無村の水事情は改善されないままだった。
田無用水開削の嘆願書が提出されて許可が下りたのは元禄9年(1696)
のことである。
田無用水は当初、田無村一村のための吞用水として開削された。
喜平橋下流で玉川上水から分水されたが、その樋口は四寸四方と他の
用水に比べて小さいものであった。(ちなみに野火止用水は六尺×2尺、
小川用水は一尺四方である。)
その後幕末から明治にかけて、吞用水だけではなく、廻田新田や田無村
の田用水としても利用されることとなる。
明治3年(1870)、玉川上水の通船を目的とした分水口改正が発せられ
て新堀用水が造られると、田無用水は小川用水や鈴木用水と同様に、
新堀用水から分水されるようになる。
また翌明治4年には上保谷村、関村、上石神井村、下石神井村から田無
用水の延長願いが提出される。
この願いをもとに現在の田無駅の北から田柄用水が開削され、その機に
田無用水も拡幅された。
開削から二百数十年間利用されてきた田無用水であるが、上水道の普及
とともに都市化の波が押し寄せ、生活排水が流れる水路と化してしまう。
昭和38、9年には田無駅付近の南北の用水路は暗渠化され、現在では
水路跡は遊歩道化されて市民に利用されている。
田無用水は喜平橋の北東付近から始まる。
新堀用水からの分水口周辺は個人宅の庭先となっており、残念ながら近
づくことはできない。

喜平町の住宅の中を流れていく田無用水。

その先は畑地と林の間を縫うように流れていく。
用水沿いの道路はないため、迂回しながら用水の流れを確認していく。

ここは何度か訪れているが、水が流れていない時もあった。
常時、水が流れているわけではないようだ。
一般道を渡り、その先は店舗の駐車場に沿って流れていく。

その先、氷川通りと称する道路沿いに流れていく。
暗渠と開渠を繰り返し、開渠部分には水生植物などが植えられており、環
境に配慮した歩道が続く。

その途中、道路の右側に回田氷川神社が鎮座する。
この辺りにあった廻田新田は、廻り田村(現東村山市)の斉藤忠兵衛が中
心となり、天保11年(1726)玉川上水北部の野中新田の土地を取得して
発足した新田である。
但し、新田といっても当初は草刈場(秣場)であったため、移住してくるもの
はなく、屋敷も皆無であったらしい。

この氷川神社は宝暦5年(1755)、新田の有力者である弥兵衛が土地を
提供し、氷川明神と稲荷明神を勧請して建てられた。
現在の社殿は安政6年(1859)に再建されたものと言われる。
道沿いの水路は更に続いている。

やがて氷川通りは新小金井街道に突き当たる。
ここで新小金井街道を南へ数分ほど歩いたところに鈴木遺跡資料館があ
るので立ち寄ってみた。

昭和49年(1974)、現在の鈴木小学校付近から多数の石器などが出土し、
発掘調査の結果、約3万年前から一万四千年前までの旧石器時代の遺跡
であることが判明した。
遺跡は南北670m、東西600mの範囲で馬蹄形に広がっている。
遺跡の東は窪地となっており、かつての石神井川の源流部であったとされ
ている。
資料館には数々の遺跡の他にも地層標本があり、新田の水路跡などを見
ることができるので、訪問することをお勧めしたい。
(開館日注意)
新小金井街道の東に広がる畑の中を田無用水は流れていく。

畑のために水路沿いに歩くことは出来ず、迂回しながら用水を追っていくこ
ととなる。
但し、武蔵野の新田の特徴である縦に長い区割を残した道路となっている
ため、大きく迂回することとなり、追跡に苦労する。

畑を過ぎると、再び住宅地の中に入っていく。
ただ、その水路を見ると水が流れていない。
畑の中を流れている間に排水されたのであろうか。
ちょうど水路沿いの雑草を刈っている近隣の方にお話を伺うことができたが、
住宅地の中には殆ど水は流れてこないという。

水は流れていないとはいえ水路としては残っており、その水路は住宅地の
中を続いて進んでいる。


用水は北東方面に進んでいき、やがて鈴木用水と交差する。
そこには「昭和五年十月成」と書かれた掛樋がある。
掛樋で上を通っているのが鈴木用水、但し鈴木用水にも水は流れておらず、
2つの用水の往年の姿を残す貴重な遺跡である。

鈴木用水は田無用水と同じく玉川上水から分かれる用水であり、この辺り
では鈴木街道の南と北に分かれて流れており、この掛樋は南側の水路と
の交差である。
田無用水は北側の水路とも交差していたが、その交差箇所は鈴木町交
差点の北側の道路(小金井街道)にあたると推定され、その姿をみるこ
とは出来ない。
鈴木街道に出てくる田無用水、歩道を暗渠蓋が横切る光景に出くわす。

その反対側、駐車場脇にある水路敷。
この先、田無用水は暗渠となってしまうため、往年の水路として確認でき
る最後の地点となる。

《参考資料》
『小平市史 近世編』 小平市史編さん委員会
『歴史のなかの田無』 増渕和利著
『鈴木遺跡解説』 小平市教育委員会


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