大横川 2
小名木川と交差した後、大横川は更に南下する。
前項冒頭で説明したように、ここは亥ノ堀と呼ばれていた区間である。

途中、福寿橋という鋼製トラス橋が架かっている。
昭和4年(1929)、震災復興橋として架けられた橋で、今なお重厚な趣き
のある橋梁である。

福寿橋の次の大栄橋の南で、今度は仙台堀川と十字交差する。

仙台堀川と交差した先、大横川の右手には木場公園が広がる。
(公園は仙台堀川の北側にもあるが、大横川沿いからはやや離れている)
木場公園はもともと貯木場であった場所。
昭和44年(1969)、新木場への移転を受けて防災都市計画の一環として
大規模公園の設置が決まり、平成4年(1992)に開園した。

江戸時代初期、材木置場は日本橋に設けられていたが、寛永18年(1641)
の大火により焼失、それを契機に深川に木場が設けられ、その後、猿江
を経て元禄14年(1701)、当地に移った。
以来、新木場への移転までの約300年間、木材流通の中心地として機能した。
木場公園の南端付近で、左から横十間川が合流する。
合流とはいっても、ポンプを利用して横十間川の水を大横川へと放流している。
そのため、川底から泡が湧き出しているのを見ることができる。

この辺り、川沿いには河津桜が植えられている。
訪問時、ちょうど満開の時期であり、早春の街に鮮やかな彩りを添えていた。

永代通りが架かる沢海橋を越すと、川は右へ90度カーブして西へと向き
を変える。

そのカーブが終わった場所で、大横川南川支川を分ける。
支川は汐浜運河までの400メートルほどの水路、残念ながら水路沿いを
歩くことはできない。

なお、かつては支川との分岐点付近で、東から洲崎川が合流していたが、
現在、洲崎川は埋め立てられ、川跡には洲崎川緑道公園が続いている。
支川と分岐した先の左岸に洲崎神社が鎮座している。
五代将軍綱吉の生母桂昌院の守本尊である弁財天を、元禄13年(1700)
江戸城中紅葉山より遷宮、洲崎弁天社とした。
当時は海沿いにあり、潮干狩りなど行楽の名所であったという。


江戸名所図会『州崎 弁財天社』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
境内には東京都指定有形文化財の波除碑がある。
寛政3年(1791)、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、多くの死者・行
方不明者を出した。
幕府はその後、弁天社から西方一帯を買い上げ、空き地としたという。
波除碑はその空き地の北方の両端に2基建てられたもので、寛政6年頃
の建立である。

洲崎神社からすぐ先、大横川に赤い橋が架かっている。
新田橋という名前の橋で、木場の開業医、新田清三郎氏が、亡くなった
夫人の供養の意味を込めて、昭和7年(1932)に架橋したものである。
元々は新船橋という名であったが、人望が厚い新田医師は地域の人々
から愛され、新田橋と呼ばれるようになったという。

現在の橋は平成12年に架け替えられたものだが、以前の橋は八幡堀
遊歩道(後述)脇に移築・保存されている。

大横川は西へと直線的に進む。
先ほどの支川分岐点あたりからは、大島川と呼ばれていた区間だ。

今度は平久川と交差、平久川は仙台堀川と汐浜運河を南北に結ぶ水路である。

平久川を渡ると、もう1基の波除碑が保存されている。
洲崎神社内の波除碑より破損が激しい。

東富橋の南岸に松平定信の海荘跡に説明板がある。
寛政の改革で知られる松平定信(1759~1829)は造園家としても有名
だったようで、隠居後の文化13年(1816)に抱屋敷を入手した。
園内には二つの池を掘り、築山を配して、桜やツツジ、松や楓などの草木
を植えて楽しんだという。

海荘の様子は『深川入船町御邸松月斎真写之図』に描かれている。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
ここで、少し北にある富岡八幡宮に立ち寄ってみる。
寛永4年(1627)、永代島と呼ばれていたこの地に長盛法師により創建された。
江戸時代、将軍家の手厚い保護を受け、庶民にも信仰された。
現在でも多くの参拝客で賑わいを見せる。

富岡八幡宮の東側には八幡堀遊歩道が200メートルほど続く。
八幡堀は北を流れていた油川(現:首都高速深川線)の支堀であり、
八幡宮を取り囲むように造られていた。
震災復興事業などで埋め立てられたが、東側の一部だけ遊歩道として
整備されている。

遊歩道の中ほどに架かっているのは八幡橋、もとは楓川(現在は首都高
速都心環状線の一部)に架けられていた弾正橋を昭和4年(1929)に移
設したものだ。
明治11年(1878)に製造された単径間アーチ形式の鉄橋であり、国の
重要指定文化財に指定されている。
大横川へと戻ろう。
東富橋から川沿いに遊歩道が設けられている。
木場公園の南から暫くは川沿いを歩けない区間が続いているので、久々
の水辺の遊歩道という感がある。

巴橋の南に牡丹住吉神社と称する小さな祠が鎮座する。
享保4年(1719)、佃島漁民の網干場の土地が与えれれ、深川佃町と称した。
当地に佃島住吉神社から分霊した小祠を祀ったと言われる。
深川佃町はその後、「つくだ」または「あひる」と呼ばれる花柳街へと発展
し、明治維新まで繁栄した。

石島橋の親柱は異色の存在、思わず目をひかれる。

石島橋の先、東側には古石場川親水公園がある。
古石場川は大横川と平久川を結ぶ短い堀で、河川名の古石場は江戸時
代に石置場があったことに由来する。
古石場川は埋め立てられたが、現在、公園内には人工水路が設けられて
おり、憩いの場となっている。

清澄通りが架かる黒船橋から西側を望む。

越中島橋の先、左岸には古い倉庫が並んでいる。

隅田川の手前、右から大島川西支川が合流する。
現在、支川は屋形船などの停泊地として利用されている。
仙台堀川と結ぶ800メートルほどの支堀、前項記載の通り、大島川は河
川法改正により大横川に改名されたが、なぜかここだけは旧名称が残っている。

そして大島川水門、昭和33年(1958)、高潮の侵入などから地域を守る
ために造られた。
水門の先で大横川は隅田川へと合流する。

《参考資料》
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)

前項冒頭で説明したように、ここは亥ノ堀と呼ばれていた区間である。

途中、福寿橋という鋼製トラス橋が架かっている。
昭和4年(1929)、震災復興橋として架けられた橋で、今なお重厚な趣き
のある橋梁である。

福寿橋の次の大栄橋の南で、今度は仙台堀川と十字交差する。

仙台堀川と交差した先、大横川の右手には木場公園が広がる。
(公園は仙台堀川の北側にもあるが、大横川沿いからはやや離れている)
木場公園はもともと貯木場であった場所。
昭和44年(1969)、新木場への移転を受けて防災都市計画の一環として
大規模公園の設置が決まり、平成4年(1992)に開園した。

江戸時代初期、材木置場は日本橋に設けられていたが、寛永18年(1641)
の大火により焼失、それを契機に深川に木場が設けられ、その後、猿江
を経て元禄14年(1701)、当地に移った。
以来、新木場への移転までの約300年間、木材流通の中心地として機能した。
木場公園の南端付近で、左から横十間川が合流する。
合流とはいっても、ポンプを利用して横十間川の水を大横川へと放流している。
そのため、川底から泡が湧き出しているのを見ることができる。

この辺り、川沿いには河津桜が植えられている。
訪問時、ちょうど満開の時期であり、早春の街に鮮やかな彩りを添えていた。

永代通りが架かる沢海橋を越すと、川は右へ90度カーブして西へと向き
を変える。

そのカーブが終わった場所で、大横川南川支川を分ける。
支川は汐浜運河までの400メートルほどの水路、残念ながら水路沿いを
歩くことはできない。

なお、かつては支川との分岐点付近で、東から洲崎川が合流していたが、
現在、洲崎川は埋め立てられ、川跡には洲崎川緑道公園が続いている。
支川と分岐した先の左岸に洲崎神社が鎮座している。
五代将軍綱吉の生母桂昌院の守本尊である弁財天を、元禄13年(1700)
江戸城中紅葉山より遷宮、洲崎弁天社とした。
当時は海沿いにあり、潮干狩りなど行楽の名所であったという。


江戸名所図会『州崎 弁財天社』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
境内には東京都指定有形文化財の波除碑がある。
寛政3年(1791)、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、多くの死者・行
方不明者を出した。
幕府はその後、弁天社から西方一帯を買い上げ、空き地としたという。
波除碑はその空き地の北方の両端に2基建てられたもので、寛政6年頃
の建立である。

洲崎神社からすぐ先、大横川に赤い橋が架かっている。
新田橋という名前の橋で、木場の開業医、新田清三郎氏が、亡くなった
夫人の供養の意味を込めて、昭和7年(1932)に架橋したものである。
元々は新船橋という名であったが、人望が厚い新田医師は地域の人々
から愛され、新田橋と呼ばれるようになったという。

現在の橋は平成12年に架け替えられたものだが、以前の橋は八幡堀
遊歩道(後述)脇に移築・保存されている。

大横川は西へと直線的に進む。
先ほどの支川分岐点あたりからは、大島川と呼ばれていた区間だ。

今度は平久川と交差、平久川は仙台堀川と汐浜運河を南北に結ぶ水路である。

平久川を渡ると、もう1基の波除碑が保存されている。
洲崎神社内の波除碑より破損が激しい。

東富橋の南岸に松平定信の海荘跡に説明板がある。
寛政の改革で知られる松平定信(1759~1829)は造園家としても有名
だったようで、隠居後の文化13年(1816)に抱屋敷を入手した。
園内には二つの池を掘り、築山を配して、桜やツツジ、松や楓などの草木
を植えて楽しんだという。

海荘の様子は『深川入船町御邸松月斎真写之図』に描かれている。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
ここで、少し北にある富岡八幡宮に立ち寄ってみる。
寛永4年(1627)、永代島と呼ばれていたこの地に長盛法師により創建された。
江戸時代、将軍家の手厚い保護を受け、庶民にも信仰された。
現在でも多くの参拝客で賑わいを見せる。

富岡八幡宮の東側には八幡堀遊歩道が200メートルほど続く。
八幡堀は北を流れていた油川(現:首都高速深川線)の支堀であり、
八幡宮を取り囲むように造られていた。
震災復興事業などで埋め立てられたが、東側の一部だけ遊歩道として
整備されている。

遊歩道の中ほどに架かっているのは八幡橋、もとは楓川(現在は首都高
速都心環状線の一部)に架けられていた弾正橋を昭和4年(1929)に移
設したものだ。
明治11年(1878)に製造された単径間アーチ形式の鉄橋であり、国の
重要指定文化財に指定されている。
大横川へと戻ろう。
東富橋から川沿いに遊歩道が設けられている。
木場公園の南から暫くは川沿いを歩けない区間が続いているので、久々
の水辺の遊歩道という感がある。

巴橋の南に牡丹住吉神社と称する小さな祠が鎮座する。
享保4年(1719)、佃島漁民の網干場の土地が与えれれ、深川佃町と称した。
当地に佃島住吉神社から分霊した小祠を祀ったと言われる。
深川佃町はその後、「つくだ」または「あひる」と呼ばれる花柳街へと発展
し、明治維新まで繁栄した。

石島橋の親柱は異色の存在、思わず目をひかれる。

石島橋の先、東側には古石場川親水公園がある。
古石場川は大横川と平久川を結ぶ短い堀で、河川名の古石場は江戸時
代に石置場があったことに由来する。
古石場川は埋め立てられたが、現在、公園内には人工水路が設けられて
おり、憩いの場となっている。

清澄通りが架かる黒船橋から西側を望む。

越中島橋の先、左岸には古い倉庫が並んでいる。

隅田川の手前、右から大島川西支川が合流する。
現在、支川は屋形船などの停泊地として利用されている。
仙台堀川と結ぶ800メートルほどの支堀、前項記載の通り、大島川は河
川法改正により大横川に改名されたが、なぜかここだけは旧名称が残っている。

そして大島川水門、昭和33年(1958)、高潮の侵入などから地域を守る
ために造られた。
水門の先で大横川は隅田川へと合流する。

《参考資料》
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)

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