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谷端川 2

下板橋駅の西側で東武東上線と交差すると、谷端川は東のJR埼京線の
板橋駅へ向かって流れていた。
下板橋~板橋間の谷端川跡にも300メートルほどの緑道があり、欄干を
模した車止めには、一の橋、二の橋、三の橋といったかつての橋名が記
されている。
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その緑道の先、板橋駅の南側で埼京線と交差する。
その脇の看板には「矢畑川自由通路地下道ガード」と書かれているが、
矢畑川という名称はここ以外に見当たらず、誤記の可能性もあるのかも
しれない。
2016-11-05_7.jpg

板橋駅の東口前には、新撰組隊士供養塔がある。
新撰組局長の近藤勇は、慶応4年(1868)、板橋刑場にて斬首となった。
首級は京都に送られ三条河原でさらし首にされたが、胴体はこの地に埋
められ、明治9年(1876)、新選組隊士・永倉新八が発起人となり、旧幕府
典医松本順の協力を得て建てられたという。
但し、近藤勇の墓所は各地にあり、真偽のほどは定かではない。
(当ブログでも三鷹市の龍源寺(野川2参照)を墓所の一つとして紹介)
2016-11-05_9.jpg
なお、この地は石神井川沿いの寿徳寺(石神井川6参照)の境外墓地でもある。

板橋から向きを南東方向へと変えて進んでいく。
今までとは異なり一般道が続き、僅かにカーブにその痕跡をみる程度である。
また、目にすることはできないが、この通りが北区と豊島区の境界線である
ことも川の痕跡と言ってよいだろう。
2016-11-05_14.jpg

この通りが谷端川跡であることの唯一の証しである道沿いの豊島区教育
委員会による説明板。
2016-11-05_19.jpg

道路を進んでいくと、やがて都道436号線に出る。
その交差点脇に宮仲公園がある。
ごく普通の小公園であるが、昭和13年(1938)、渋沢栄一の三男・渋沢
正雄氏によって東京市に寄付され、児童遊園地として整備されたもの。
また、園内には、昭和18年、皇后が豊島授産場付近で隣組の防空訓練
を視察、その際に詠んだ歌碑が建てられている。
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その先、谷端川は都道沿いに大塚駅方面へと流れていた。
2016-11-05_25.jpg

大塚駅の北口、都電の線路沿いのビルの中に滝不動が鎮座している。
かつて谷端川沿いに石造不動明王立像があり、川の流れが小さな滝のよ
うになっていた場所にあったため、滝不動と呼ばれていたという。
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昭和10年(1935)、谷端川の暗渠化に伴い滝不動は近隣居住者の個人
所有となり敷地内に移されるが、その後、空襲により破損してしまう。
昭和30年頃、所有者が再建立、さらには平成11年に所有者寺社ビルの
建築に伴い、この地に移設された。
かつて谷端川沿いにあった滝不動は、60余年の時を経て、再びかつての
川沿いに移されたというわけだ。

大塚駅付近で山手線の内側に入ると、谷端川跡は大塚三業通りとなって現れる。
ここでも蛇行する道筋に川跡を感じさせる。
三業とは料理屋・待合茶屋・芸者置屋のことで、いわゆる花街を意味する。
現在は花街ではなくなっているが、今も飲食店が通り沿いに立ち並ぶ。
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巣鴨小学校の東側の高台の上に、真言宗豊山派の観光山東福寺が建つ。
創建年代は明らかではないが、永禄5年(1562)に良賢和尚が中興したと
伝えられる古寺である。
小石川大塚にあったが、元禄4年(1691)に当地へ移転されたという。
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この辺りから谷端川の左右には台地が広がり、川が谷底を流れていたこ
とが実感できるようになる。
三業通りから続く一般道、相変わらず、道路がクネクネしている。
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不忍通りとの交差地点には猫又橋の親柱の袖石が保存されている。
昭和9年(1934)に暗渠化された際、地元の工事相談役の方が自宅に保
管していたもの。
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また猫又橋には伝説があるので、現地の説明板を引用してみよう。
このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。
ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の
茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川に
はまった。
それから、この橋は、猫貍(ねこまた)橋(猫又橋)といわれるようになった。
猫貍は妖怪の一種である。

(ここの説明板では、谷端川を別名の千川と表記している。)

こちらは江戸名所図会に描かれた『猫貍橋
猫貍橋
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

更に谷端川跡の道路は、続いていく。
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この先で谷端川は並行する都道436号線に出てくる。
谷端川はこの都道、およびその南側の住宅地付近を蛇行しながら流れて
いたようだ。
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小石川植物園の手前、谷端川の北の台地の上に簸川神社が鎮座する。
第五代孝昭天皇の頃の創建と伝えられる古社であり、源義家が奥州平定
の際に参詣したとも伝えられる。
元禄12年(1699)に小石川植物園の地から当地に移転したと伝えられ、
巣鴨の鎮守として江戸名所の一つであったという。
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都道に沿って歩いていくと共同印刷の大きな建物が見えてくる。
2016-11-05_60.jpg
この小石川周辺は印刷・製本業の街として知られ、街中にはフォークリフト
が走りまわる。
印刷には大量の水が必要なことから、谷端川沿いのこの地に印刷業が発
達したのであろう。
同じく、少し南へ行った同じ文京区の神田川沿いにも印刷業の工場が多く
存在する。

さて、ここで谷端川北側に広がる小石川植物園へと立ち寄ってみよう。
正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園と称し、植物の研究施
設であり、園内には自然が豊富に残っている。
谷端川が流れる谷地およびその上に広がる白山台地を含んだ16万平方
メートルの敷地を持つ。
台地の崖線には湧水があり、台地下にはそれを集めた池が複数存在する。
2016-11-05_70.jpg

植物園の前身は幕府によって開設された小石川御薬園、貞享元年(1684)
それまで麻布にあった薬園を、5代将軍綱吉の別邸であった白山御殿の
この地に移設したのが始まりである。
その後8代将軍吉宗の時代に拡張、また薬園内に小石川養生所が開設
され、江戸庶民の診療所として機能した。
写真は旧養生所の井戸で、関東大震災の際には被災者の飲用水として
も役立ったという。
2016-11-05_73.jpg
なお、平成24年、「小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」として国の名
勝および史跡に指定された。

小石川の地を歩いていると寺院が多いことに気づく。
長くなってしまうので個々の紹介は省略させて頂くが、写真左上は日々山新
福寺
、右上は天皇山安閑寺、下は瑞雲山念速寺、共に真宗大谷派の寺院
である。
2016-11-05_79.jpg

谷端川はやがて向きを南へと向け、南へと流れる神田川を目指す。
行く手には、文京シビックセンターの建物が見えてくる。
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その先の右手には「こんにゃく閻魔」の名で知られる浄土宗寺院の常光山
源覚寺
がある。
寛永元年(1624)、定誉随波上人によって創建された。
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「こんにゃく閻魔」の由来は、眼病を患った老婆が閻魔大王像に祈願してい
たところ、閻魔大王が右眼を与え、以後老婆が感謝のしるしとして、自分の
好物であるこんにゃくを絶ち、こんにゃくを備え続けたという逸話による。

シビックセンターの南、地下鉄丸の内線の高架付近で、千石付近を源流と
して白山を経由して流れてくる東大下水を合流する。

更には東京ドームシティの中を南下する。
くしくも、東京ドームシティの人工水路が、谷端川の流路の跡地となってい
るが、人工水路は谷端川を意識して造られたものであろうか。
2016-11-05_105.jpg

外堀通りの先で谷端川は神田川へと合流していた。
その流出口は確認できず、現在、その地は防災用の船着き場となっている。
手前の外堀通りの下には、神田川の水道橋分水路が暗渠として流れてお
り、おそらく分水路へ合流しているのであろう。
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目次
  
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谷端川 1

かつて豊島区要町を水源として板橋、大塚を経て神田川へ流れ出ていた
谷端川を取り上げる。
現在、神田川の支流(開渠)としては善福寺川や妙正寺川が知られるが、
それよりも長く、神田川最長の支流であったが、下流域では昭和10年前後
から、上流域も戦後に暗渠化工事が行われ、昭和39年(1964)に全域が
暗渠化されてしまった。
現在は道路や緑道にその跡を残すのみである。

水源は要町二丁目にある粟島神社(後述)境内の弁天池とされるが、宝永
4年(1707)、奉行所に北方を流れる千川上水に樋を設けることを願い出て、
以降、千川上水から分水した水(長崎村分水)を合わせて流域の田畑を潤した。
谷端川は豊島区や板橋区など上流域での名称で、下流の文京区内では
小石川(もしくは礫川)と呼ばれていた。
また千川上水から水をひいていたため、江戸期の文書には千川分水とも
記されているという。(現在でも「千川」と表記している説明板もある。)
このように谷端川には様々な呼称がつけられているが、特に小石川とい
う名前は地名として現在も残っているので、こちらの方が馴染みがある
かとも思う。

今回は千川上水からの分水地点からスタートすることとしよう。
東京メトロ有楽町線・副都心線の千川駅の小竹向原寄りに千川用水跡の
道路がある。
おそらくここが、用水からの分水地点と推定してよいのではないだろうか。
2016-10-29 10 30 29

その地点から要町通りを250メートルほど南進すると、斜め右へと入って
いく道路がある。
千川上水からの分水はここを流れていたようだ。
2016-10-29 10 46 51

更に200メートルほど進むと、左手に粟島神社が鎮座している。
境内の由緒碑には次のように記されている。
ここは清水の湧出する静謐の地であった
泉は溢れ川となってこの地を潤し のちに谷端川の源泉ともなった。
清泉をめぐって樹木が鬱蒼と茂り 神韻の地として畏敬された。

境内には小さな池があるが、現在は住宅地の中の社であり、往年の雰
囲気を感じることはできない。
2016-10-29 10 50 57
創建年代は不詳だが、鎌倉の末期頃から罔象女(水の神)が祀られ、い
つしか弁天様として地元民に親しまれるようになったらしい。
また、江戸期から大正末期まで、雨乞祈祷の聖地となっていたと由緒碑
に記されている。

粟島神社の先、一般道を更に歩き続ける。
この辺りでは、谷端川が流れていた形跡を見つけることはできない。
2016-10-29 11 37 23

途中、左手に千早フラワー公園という児童公園があり、園内には都営大
江戸線(当時は12号線と称した)の試作車が展示してある。
平成3年に豊島区が東京都交通局から譲り受け、公開・展示しているものだ。
2016-10-29 11 45 46

谷端川跡の道路を歩いていくと、そのまま椎名町駅北口のサンロード商
店街に入っていく。
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粟島神社から谷端川は南下を続けてきたが、西武池袋線を渡る東へと
向きを変え、更には山手通りを越えた先で北へと流れを変える。
この辺り、北から舌状台地が張り出し、川はその台地に沿うように流れていた。
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椎名町駅の北、舌状台地の先端に真言宗豊山派の金剛院がある。
大永2年(1522)、聖弁和尚によって長崎村に開創された。
当初は現在地より北西へ800mほどの場所にあったが、延宝年間(1673
~81)火災にあい、現在地へ移転した。(元禄年間という説もあるようだ)
2016-10-29 12 09 23

金剛院の門前には、道標地蔵尊が建てられている。
寛政8年(1796)の建立で、道標を兼ねており、左右には「北・下板橋道、
南・ほりのうち道」と刻まれている。
2016-10-29 12 06 35

山手通りを超えて、400メートルほど行くと向きを北へと変え、西武池袋
線の線路に突き当たる。
道路は行き止まりとなるが、手前には児童遊具があり、ちょっとした遊び
場となっている。
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再び西武線を迂回すると、谷端川緑道が始まる。
ちょうど山手通りの東側に沿うように続く緑道で、東武東上線の下板橋ま
で3kmほどの長い緑道だ。
(厳密には、川越街道を境に谷端川南緑道と谷端川北緑道に分けられている。)
緑道沿いの所々に緑道散歩マップが掲示されており、マップにはかつて
谷端川に架けられていた橋の名前が記載されている。
2016-10-29 12 31 26

線路との交差部から150メートルほど行った道路沿いに羽黒神社が鎮座する。
延宝年間の創建とされ、山形の出羽三山より分霊された。
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緑道は立教大学の西側、西池袋の住宅街の中を進んでいく。
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途中には、水生動物をイメージしたタイルなどもあり、淡々と歩いているわ
りには飽きない。
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行く手に首都高速池袋線の高架橋が見えてくる。
谷端川緑道は豊島区と板橋区との区境となっており、川が行政界を分け
る典型的な例である。
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川越街道を越すと谷端川北緑道、とはいっても相変わらず住宅街の中を
進むタイル張りの緑道が続く。
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途中の車止めには、かつてのいる橋の名が記されてものもある。
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東武東上線まで北上したあと、進路を北から東へと進み東上線の留置線
沿いを進んでいく。
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下板橋駅の西側踏切脇で谷端川は東上線と交差していた。
かつて橋梁があった場所の手前は、現在、自転車置き場として活用されている。
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《参考資料》
『旧谷端川の橋の跡を探る』 豊島区立郷土資料館友の会



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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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