六郷用水 新田川
下丸子駅の北、光明寺付近で六郷用水本流から分水し、現在の下丸子と矢
口の町境を流れていた新田川を紹介する。
南久が原2-30付近に「六郷用水物語」の案内板が建っている。
ます、その説明文を引用することからはじめよう。
『光明寺大門前の堰と水車』
このあたりに六郷用水を西側に分流していた光明寺大門前の堰が設けら
れており、堰の上流で分流された用水は根岸耕地(現在の千鳥町三丁目、
頓兵衛地蔵の東側の耕地)を灌漑していました。さらに、分流された間際の
光明寺門前には、米穀卸を家業としていた鵜ノ木の天明家が所有していた
水車が設けられていて、精米用に使われていました。
新田川という名称は、参考資料として挙げた『大田区の文化財 第26
集 地図で見る大田区』に掲載されている昭和12年の地図に記載されて
いたものである。
写真中央に見える道路が新田川の跡、その先の自動車が走る道路が環
状八号線であり、その環八の西側には光明寺(六郷用水5参照)がある。
案内板に記載されている水車は、環八の辺りにあったのであろうか。

この後、新田川は下丸子の街中を通り、下丸子・武蔵新田間で東急蒲田
線と交差する。
写真はその交差している場所を下流側から撮影したもの、写真に写って
いるコンクリート片は何か意味があるのか判らない。

その交差箇所の東側に先ほどの説明に出てきた、頓兵衛地蔵がある。
新田義興謀殺に加担した船頭が、その罪を悔いて、その冥福を祈って建
てたものと伝えられる。(新田義興謀殺については、後述)
頓兵衛という名は、この事件をもとに、江戸時代に平賀源内によってつく
られた浄瑠璃『神霊矢口渡』に出てくる登場人物の名である。

先ほどの目黒線の交差へと戻り、新田川を追っていく。
狭い道路ながらも、街路樹が植えられているということが、いかにも水路跡
であることを感じさせる。

その先も歩道が続く。

左手の駐車場との高低差は1.5メートルほどあるだろうか。
前述の昭和12年の地図を見る限り、細いながらも川に沿って帯状に水田
が続いている。
おそらく駐車場そのものは埋め立てたものであろうが、川沿いに低地が続
いていたものと思われる。

ここは新田神社の裏手にあたり、東へ迂回すると武蔵新田の商店街に面
して新田神社が鎮座している。
正平13年(1358)の創建とされるが、その由緒については新田義興の謀
殺事件について語らなければならない。

新田義貞の子、義興(1331~58)は父・義貞の死後も南朝方の武将とし
て活躍した。
一時は鎌倉を奪還するが、足利尊氏の反撃にあい鎌倉を追われる。
鎌倉公方・足利基氏と関東管領の畠山国清は、北朝方に寝返った竹沢
右京亮と江戸遠江守に命じて、義興の殺害を狙う。
正平13年10月10日、江戸氏の案内で義興は多摩川の矢口渡から舟
に乗りだすと、船頭は川に飛び込み、予め船底に穴を開けていた栓を抜
いて、義興を謀殺した。
義興の死後、江戸遠江守は狂死し、また義興の怨念が矢口付近に光り
物となって現れたため、義興の御霊を鎮めるために、「新田大明神」とし
て社祠が建てられたという。
なお、新田神社の壁には絵巻としてこの話が詳しく書かれており、面白い。
新田川は緩やかなカーブを描いて南西方向へと向かう。

矢口2丁目34辺りで道路に突き当たり、左折する。

ここには右手方向から、前述の光明寺境内にある池から流れ出た水路
が合流していたようだ。
資料とした『六郷用水』の地図には光明寺流れとして記されている。
ここで光明寺流れを少しだけ紹介しておこう。
その水源は光明寺池、かつては多摩川が蛇行していた跡とされ、光明
寺池は河跡湖とも言われている。
ただ、残念ながら光明寺池は非公開であり、多摩堤通り沿いには無情
とも言えるほどに、フェンスで立ち入りを拒絶している。

光明寺流れの跡は、目黒線を越えたあと、新田川同様にカーブを描く
道路として残っている。

その先は下丸子公園やキャノン本社の前を通る一般道を南東へと進み、
先ほどの地点で新田川と合流していたようだ。
ただ、一般道沿いには水路跡を感じさせるようなものはなかった。

新田川と光明寺流れが合流したら、ゴールの多摩川はまもなくだ。
水路は道路の右側に沿って流れていたようである。

多摩川の土手沿いの道路に設置されている歩道橋。
歩道橋の下、何気に水路跡の雰囲気が漂う。
なおこの左側には下水道局の矢口ポンプ場で、鵜の木・下丸子・千鳥町・
矢口周辺の下水処理を担っている。

多摩川の土手に出てみると矢口ポンプ場排水樋菅と称する水門が
あった。
対岸の川崎市のビル群を望むことができ、眺望はよい。

《参考資料》
『大田区の文化財 第26集 地図で見る大田区』 大田区教育委員会編
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編
『大田の史跡めぐり』 大田区教育委員会 郷土資料館編

口の町境を流れていた新田川を紹介する。
南久が原2-30付近に「六郷用水物語」の案内板が建っている。
ます、その説明文を引用することからはじめよう。
『光明寺大門前の堰と水車』
このあたりに六郷用水を西側に分流していた光明寺大門前の堰が設けら
れており、堰の上流で分流された用水は根岸耕地(現在の千鳥町三丁目、
頓兵衛地蔵の東側の耕地)を灌漑していました。さらに、分流された間際の
光明寺門前には、米穀卸を家業としていた鵜ノ木の天明家が所有していた
水車が設けられていて、精米用に使われていました。
新田川という名称は、参考資料として挙げた『大田区の文化財 第26
集 地図で見る大田区』に掲載されている昭和12年の地図に記載されて
いたものである。
写真中央に見える道路が新田川の跡、その先の自動車が走る道路が環
状八号線であり、その環八の西側には光明寺(六郷用水5参照)がある。
案内板に記載されている水車は、環八の辺りにあったのであろうか。

この後、新田川は下丸子の街中を通り、下丸子・武蔵新田間で東急蒲田
線と交差する。
写真はその交差している場所を下流側から撮影したもの、写真に写って
いるコンクリート片は何か意味があるのか判らない。

その交差箇所の東側に先ほどの説明に出てきた、頓兵衛地蔵がある。
新田義興謀殺に加担した船頭が、その罪を悔いて、その冥福を祈って建
てたものと伝えられる。(新田義興謀殺については、後述)
頓兵衛という名は、この事件をもとに、江戸時代に平賀源内によってつく
られた浄瑠璃『神霊矢口渡』に出てくる登場人物の名である。

先ほどの目黒線の交差へと戻り、新田川を追っていく。
狭い道路ながらも、街路樹が植えられているということが、いかにも水路跡
であることを感じさせる。

その先も歩道が続く。

左手の駐車場との高低差は1.5メートルほどあるだろうか。
前述の昭和12年の地図を見る限り、細いながらも川に沿って帯状に水田
が続いている。
おそらく駐車場そのものは埋め立てたものであろうが、川沿いに低地が続
いていたものと思われる。

ここは新田神社の裏手にあたり、東へ迂回すると武蔵新田の商店街に面
して新田神社が鎮座している。
正平13年(1358)の創建とされるが、その由緒については新田義興の謀
殺事件について語らなければならない。

新田義貞の子、義興(1331~58)は父・義貞の死後も南朝方の武将とし
て活躍した。
一時は鎌倉を奪還するが、足利尊氏の反撃にあい鎌倉を追われる。
鎌倉公方・足利基氏と関東管領の畠山国清は、北朝方に寝返った竹沢
右京亮と江戸遠江守に命じて、義興の殺害を狙う。
正平13年10月10日、江戸氏の案内で義興は多摩川の矢口渡から舟
に乗りだすと、船頭は川に飛び込み、予め船底に穴を開けていた栓を抜
いて、義興を謀殺した。
義興の死後、江戸遠江守は狂死し、また義興の怨念が矢口付近に光り
物となって現れたため、義興の御霊を鎮めるために、「新田大明神」とし
て社祠が建てられたという。
なお、新田神社の壁には絵巻としてこの話が詳しく書かれており、面白い。
新田川は緩やかなカーブを描いて南西方向へと向かう。

矢口2丁目34辺りで道路に突き当たり、左折する。

ここには右手方向から、前述の光明寺境内にある池から流れ出た水路
が合流していたようだ。
資料とした『六郷用水』の地図には光明寺流れとして記されている。
ここで光明寺流れを少しだけ紹介しておこう。
その水源は光明寺池、かつては多摩川が蛇行していた跡とされ、光明
寺池は河跡湖とも言われている。
ただ、残念ながら光明寺池は非公開であり、多摩堤通り沿いには無情
とも言えるほどに、フェンスで立ち入りを拒絶している。

光明寺流れの跡は、目黒線を越えたあと、新田川同様にカーブを描く
道路として残っている。

その先は下丸子公園やキャノン本社の前を通る一般道を南東へと進み、
先ほどの地点で新田川と合流していたようだ。
ただ、一般道沿いには水路跡を感じさせるようなものはなかった。

新田川と光明寺流れが合流したら、ゴールの多摩川はまもなくだ。
水路は道路の右側に沿って流れていたようである。

多摩川の土手沿いの道路に設置されている歩道橋。
歩道橋の下、何気に水路跡の雰囲気が漂う。
なおこの左側には下水道局の矢口ポンプ場で、鵜の木・下丸子・千鳥町・
矢口周辺の下水処理を担っている。

多摩川の土手に出てみると矢口ポンプ場排水樋菅と称する水門が
あった。
対岸の川崎市のビル群を望むことができ、眺望はよい。

《参考資料》
『大田区の文化財 第26集 地図で見る大田区』 大田区教育委員会編
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編
『大田の史跡めぐり』 大田区教育委員会 郷土資料館編

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