府中から調布にかけて流れ、調布市染地で多摩川へ合流する
根堀川を追
ってみた。
途中、府中用水の二ヶ村用水や三ヶ村用水を合わせ、多摩川の北岸を流れ
ていく。
現在、それらの用水には殆ど水は流れず、雨水排水路化しているため雨天
時を除き用水の水が流れ込むことはないと思うが、国土地理院の地形図な
ど一部の地図では「府中用水」と表記されている。
根堀川は府中崖線に沿って流れているが、その水源はというと府中崖線の
湧水と言われる。
根堀川の由来も、崖線の下である「根」を流れることから来ており、またハケ
(崖線)から転じて、「ハケタの川」「はけ下堀」という別称を持つ。
現在でこそ、崖線沿いには住宅が立ち並び、湧水を確認することはできない
が、その地形を見るために、京王線の武蔵野台駅から歩き始めることとした。
駅の降り立ち、南東方向へと歩いていくと、すぐに府中崖線を確認すること
がある。
崖線直下の児童公園から眺めた崖線。

その崖線の上には浄土宗の
八幡山本願寺が建てられている。
起源は源頼朝の奥州征伐の際、彼の地より持ち帰った藤原秀衡の守本尊
と伝えられる薬師如来をまつったことに始まる。
その後焼失したが、永正13年(1516)、大久保彦四郎が再建、鎌倉光明
寺の僧、教誉良懐上人を迎えて中興した。
境内はもともと白糸台の市立第四小の西側にあったが、天正2年(1574)、
家康の家臣で当地の領主であった宮崎泰重が境内、堂宇を寄進し当地へ
移転したと伝わる。

なお、周辺の地名である「車返」は、前述の薬師如来移送の際、移送を担
当した畠山重忠が当地で野営をした際、夢告によってこの地に安置し、車
は返したことに由来するという。
本願寺に隣接して
車返八幡神社が鎮座する。
こちらの由緒は不明だが、天正年間(1573~92)に創建されたと言われる
ので、本願寺移転と時を同じくして本願寺守護神として建立されたようである。

さて、本願寺の前の道を東へ向かうと、市道をオーバークロスし、坂を下る。
この坂を
おっぽり坂といい、坂の下にある説明板には興味深い記述がある。
この坂名は、大雨の折に野水の流れによって自然に掘られた大堀に由来
すると言われます。この坂の道筋は昔から、あふれた野水の流路になって
いたそうです。「おおぼり坂」が転じて「おっぽり坂」と呼ばれたそうだが、この大堀は根堀
川の水源の一部であったと考えることもできる。

崖線の下、車返団地の北側の道路にコンクリ蓋が続く歩道があるが、こち
らは府中用水の末流の一部であろう。
資料とした『府中市内旧名調査報告書』には本願寺下の湧水を水源とした
庚申堀があったと記載されているが、殆ど壊されているとも記してあり、そ
の通り、庚申堀を確認することはできない。

崖線下の住宅街に沿って東へと進んでいく。

市道(しみず下通り)と交差する脇には、
車返福徳弁財天と称する小さな祠
が建っている。
脇に建つ遷宮碑によると、元禄の頃から福徳の神として崇拝され、明治時
代には栄えたといわれる。
豊かな自然林に囲まれ、周囲の堀は川魚の宝庫であったという。
都市計画道路の建設により、隣接地である当地に遷社した。
鳥居手前の小さな堀(水はない)がなんとなく気になる。

道路を渡ると、
白糸台第三公園という児童公園があり、その公園からよう
やく根堀川の川筋が現れる。
写真右手のフェンスの向こうには
三ヶ村用水(
裏堀)の暗渠が通っている。

その先で裏堀が合流、さらに南東へと向かっていく。

ゴルフ練習場の駐車場を過ぎ、100メートルほど進むと右へ分かれる道がある。
長瀞川という水路であり、1kmほど下流で再び根堀川へと合流する。
水路探索としては長瀞川へと向かう方の面白いのだが、長瀞川については、
この章の末尾で記載することとし、このまま真っすぐ住宅街の中を歩きつづけよう。

長瀞川との分岐から250メートルほどは左手(崖線側)に住宅街が続くが、
その先でようやく川跡らしき空間が現れる。

マンション脇でも河川部分は杭が建てられて、分けられている。

更に進むと中央高速の高架下では、根堀川が開渠となって現れる。
根堀川として開渠が確認できる再上流部ではないだろうか。
残念ながら水は確認できない。

中央高速との交差後も緑に覆われた崖線が数十メートルほど
続くが、水車橋という橋から開渠としての根堀川が始まる。

こちらの開渠は先ほどと違い、水が流れている。
地下水を汲み上げて、根堀川に流しているようだ。
おそらく、水を流すことにより、環境を維持させているのだろう。
京王多摩川駅より上流側では、川沿いに歩く区間は殆どない。
ここも左手の崖上の道路を迂回して辿ることになる。
凸凹山児童公園という面白い名称の公園沿いに流れていく根堀川。

その凸凹山児童公園の東で、先ほど分かれた長瀞川が右から合流してくる。
長瀞川上流に戻って今度は
長瀞川を追っていくことにしよう。
長瀞堀とも称する。
「長瀞」と言えば秩父を思い出すが、秩父の長瀞の由来は緩やかな流れ
(=瀞場)が長い区間続くことから名がついたらしい。
こちらの長瀞川の由来は不明だが、寛永12年および延宝6年の下染屋村
の検地帳の中に「なかと路」という小字名があるという。
根堀川から分かれた水路跡の道は、ゴルフ練習場の脇を暗渠として進んでいく。

ゴルフ練習場の先は畑となる。
この辺り、根堀川と長瀞川が並行して南東方向へと向かうが、このような
風景を目にすると、長瀞川は農業用水路として開削されたのではないだろうか。
先ほど「長瀞堀」という別称があると記したが、そうなると堀と称した方が
適しているかもしれない。

その先、中央高速を挟んで、長瀞川は短い緑道となって現れる。

緑道が終わる飛田給小学校の手前で、突如として黄色い水門が現れる。
長瀞川は当然のことながら暗渠であるので、奇妙な光景である。

長瀞川はそのまま小学校の校庭へと入っていくが、迂回していくと開渠と
して出現する。
残念だが、そこに水の流れは確認できず、前日に降った雨の水溜りがあ
るだけだ。

数十メートルほどいくと、右から
早川が合流してくる。
(下流側から撮影のため、写真では左からの合流となる。)
府中用水の二ヶ村用水および三ヶ村用水の末流で、こちらも川と名がつ
くものの実態は用水路である。
ただ、二ヶ村用水も三ヶ村用水も現在は水は流れておらず、雨水排水路
化している。
そのためこちらの早川にも水は流れていない。

写真左は長瀞川と早川にある、古めかしい大きな水門。
かつての川には用水の水が流れ込み、水量調節が必要だったほどであっ
たことを想像させる。

その先、はしご状開渠が続いている。
その梁を利用して、プランターを並べているお宅があった。
暗渠などではその空間を利用して、家庭菜園などを楽しんでいるお宅を見
かけることがあるが、ここまで大胆なものは見たことがない。

川沿いには人ひとりが通れるほどの歩行者道が続いており、川は蛇行
しながら進んでいく。

その先で凸凹山児童公園の南沿いを流れ、その先で先ほどの根堀川との
合流点に到達する。

《参考文献》
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』 府中市教育委員会編
『調布の古道・坂道・水路・橋』 調布市教育委員会編
『川の地図辞典 多摩東部編 』 菅原 健二著 (之潮)