府中用水の下流部、府中市是政から押立にかけて流れていたに
二ヶ村用水、
その名は旧常久村、押立村の二つの村を流れていたことに由来する。
また押立村を流れることから、押立堀という別名もある。
古くは多摩川競艇場辺りで多摩川から取水されていたというが、多摩川の
水位が低下し、流路が南下することにより、府中用水の末流のような形に
なったという。
二ヶ村用水は西武多摩川線是政駅の西、400メートルほど西の是政3-32
附近から始まる。
そこは
妙観堀(現:
矢崎都市下水路)、
新田川、
三ヶ村用水などが絡み合う地点。
この先のすぐ脇には極楽橋の碑が建てられている。

現在、水が流れるのは、府中用水本流(市川)の末流やビール工場の排水
を多摩川へと流す矢崎都市下水路のみであり、その下水路もここから暗渠
となっている。
これらの用水がどのように合流し、二ヶ村用水や三ヶ村用水へ分かれてい
たのかは、現在では伺い知ることはできない。
水路の位置を下の模式図に表してみた。
(ここから多摩川へと向かう矢崎都市下水路は昭和39年(1964)に造ら
れたものである)

資料とした『道・坂・塚・川・堰・橋の名前』の言葉を借りると、三ヶ村用水は
極楽橋のそばで、府中用水の残水である妙観堀の水を集めたといい、二ヶ
村用水は極楽橋の下で三ヶ村用水、府中用水(矢崎排水路、新田川)など
の残水を集めて始点としたという。
妙観堀や新田川が三ヶ村用水に合流した後、三ヶ村用水から二ヶ村用水
が分かれたように捉えられる。
当時の様子を知る方がおられたら、コメント頂ければ幸いである。
また同書によれば、二ヶ村用水は府中用水の残水を利用していたため、水
が枯れることが多く、昭和30年頃には井戸を掘って水を流していたという。
さてそろそろ、二ヶ村用水を追って歩き始めよう。
東の府中街道へ向かって緑道が続く。
中央の緑地帯を挟んで、右が二ヶ村用水、左が三ヶ村用水の水路跡である。

数分ほど歩くと、人工のせせらぎが始まり、汲み上げられた地下水が流れ始める。

府中街道の是政交番前交差点手前の草叢の中に
亀里橋の碑があり、碑文
には亀里橋は三ヶ村用水と二ヶ村用水に架かる橋であり、橋名は小字の亀
里に由来する旨が記されている。

この府中街道の交差点で二ヶ村用水と三ヶ村用水は別れていく。
二ヶ村用水は是政駅のすぐ北を通り、
二ヶ村緑道という名の緑道が西武
線の北側に続く。
緑道に沿って、先ほどの親水路が流れている。

その先、水路に水は無くなってしまう。
ネットで調べてみると、亀裂が目立つため水を流すのを中止したとのこと
だが、もったいない話である。
緑道は左へカーブして北東へと向かう。

緑道の右側は多摩川競艇場、モーターボートの音が是政のマンション街に響く。

緑道は是政緑道と名を変え、中央高速道路に突き当たるまで続く。

中央高速道路の南側を進み、府中スマートICの東側で高速の北側へと出る。
高速道路の高架下では、このような光景が見られる。

北を迂回してきた三ヶ村用水と再び出会い、並行して流れていたようだ。
この道路はこの先で西武多摩川線に突き当たる。

西武線を越した先、小柳小学校と高速道路の間には、幅広い暗渠が出現する。
その幅は10メートル近くはあるだろうか。
ただ2つの用水が並行して流れていたことを考えると、その幅も納得できる。
現在は三ヶ村用水跡の下に新たに設置された第一都市下水路として利
用されているのだろう。

その先で南へと
新田の堀という支流を分けていたが、高速道路の南側に
その流路を見ることができる。
第一都市下水路のルートとして利用され暗渠化されており、北多摩一号
水再生センターへに敷地へと続いている。

高速北側の本流に戻る。
小柳小学校の東、200メートルほどの場所でまた三ヶ村用水と別れる。
写真左の道路が三ヶ村用水、右が二ヶ村用水である。
この辺りから押立町へと入っていく。

水路は高速道路の南へ進み、水再生センターとの間を進んでいたと想像
されるが、水路跡は見当たらない。
稲毛大橋北側の歩道橋を渡って、多摩川河川敷へと出てみると、大橋の
下流側に水再生センターから多摩川へ放流する排水樋門がある。
多摩川の流れをみながら、少し休憩するのもよい。

さて多摩川沿いの道路にコンクリート蓋が続く水路がある。
稲城大橋の付近では一時、流路を見失ったが、ここで再び二ヶ村用水の
水路を見つけることができた。

その先で左折して畑の中を入っていく。
道路にはグレーチングの水路蓋があるが、残念ながら水の流れを確認す
ることはできない。
現在は用水というよりも、雨水排水路化しているのであろう。
府中用水上流では田圃が見られるが、この押立地区まで来ると畑作のみ
となり、用水を使う必要性はないのかもしれない。

とはいえ、その先には「用水」と書かれたマンホールを見つけた。
水は流れていなくても、ここが二ヶ村用水であった証拠である。

ここで押立地区の寺社を巡ってみよう。
まずは
押立神社、慶長年間(1596~1615)に、山城国稲荷大神(現:京
都伏見稲荷大社)の分霊を鎮祭のが創建とされる。
当社は多摩川辺りに鎮座していたが、正保年間(1645~48)の大洪水
の後、当地に遷座されたという。
万葉の昔から「てつくりの里」と歌われた土地柄ゆえに手津久里稲荷と称
していたが、明治14年(1881)、押立地区と改称した。

なお、押立という地名は多摩川南岸の稲城市にもあり、これは度重なる多摩
川氾濫によって流路が変更となり、ついには寛文年間(1661~73)の洪水の
のより多摩南北に分断されてしまった結果である。
押立神社から東へ100mほど行くと、本村神社と龍光寺がある。
本村神社は龍光寺の門の脇に鎮座する小さな神社。
由緒は不明だが、多摩川北岸の押立を「本村」、南岸を「向押立」と呼ばれ
たことにより、神社の名となったと言われる。
この辺りが押立「本村」の中心地だったようだ。

神社に隣接する天台宗寺院は
神明山龍光寺、こちらも創建は不明だが、
江戸期には深大寺の末寺だったらしい。
この龍光寺には東京都旧跡に指定されている川崎平右衛門定孝(1694~
1767)の墓所がある。
川崎平右衛門は押立村の名主の家の生まれで、新田開発や多摩川の治
水に取り組み、また武蔵野新田世話役として私財を投じて貧窮農民の救
済を行った。
これが幕府に称されて代官に任ぜられ、美濃国の長良川水系の治水工事、
さらには勘定吟味役兼石見銀山奉行となって、銀山開発に尽力した。

用水の話に戻そう。
二ヶ村用水本流は中央高速付近まで北上した後、東南方向へと向きを変える。
そこには、細い暗渠沿いに歩行者道が続いていた。
緑道としての整備はなされていないが、なかなか雰囲気のよい道路である。
なおこの歩行者道は府中市と調布市の境界となっており、道路の右が府
中市、左が調布市である。

その歩行者道は、左から来る蓋暗渠にぶつかって終わる。
この暗渠は
早川と呼ばれ、中央高速道路付近から蓋暗渠が続いている。
この水路に川と名が付いているが実態は用水であり、中央高速付近で三ヶ
村用水の流末に始まり、この地で二ヶ村用水と合流している。

用水の末流であることは合流地点から40メートルほど下ったところにある
東橋の碑(写真右)の説明文に示されている。
この橋は二か村用水の本流「押立堀」に架かる東橋です。橋の名は、橋
が押立の東の端に位置することに由来します。二か村用水は旧常久村、
押立両村のかんがい用水です。早川ではなく二ヶ村用水本流と記されていることが気になるが、小河川の
呼称など、昔は特に決められていなかったのだろうか。

さらに早川を150メートルほど下ると開渠となるが、その手前で南から二
ヶ村用水の支堀である
前堀と合流する。
前堀は多摩川の土手沿いで本流から分け、前掲の龍光寺の前を通っている。
堀の名の由来は、押立の部落の前を通っていたためだという。
(写真は前堀を上流方向に少し歩いた地点の様子)

飛田給3-35辺りから早川は開渠となる。
開渠となり100mほど進んだところで、早川は北から流れてきた長瀞川
に合流する。

更には長瀞川を500メートルほど下った先で根堀川へと合流し、用水を流
れていた水が再び多摩川へと戻るのは3km以上先の地点である。
《参考文献》
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』 府中市教育委員会編