三ヶ村用水 1

二ヶ村用水とともに、府中用水の末流である三ヶ村用水を2回に渡り紹介する。
三ヶ村用水は旧小田分村、上染谷村、下染谷村(現:小柳町、白糸台、押
立町)の田に給水するための水路である。
その流域には多くの支流があり、小柳町や押立町では多くの水路跡(暗渠)
を見ることができる。
まずは本流を下り、その後、私が探索した支流をご紹介することにしよう。

三ヶ村用水は、郷土の森公園東側の多摩川から取水され、また極楽橋付
近で妙観堀や新田川の水を集めていたという。

まずはその多摩川の取水口付近からスタートしよう。
その地は現在、新田川(第4都市下水路)が放水される是政排水樋管とな
っており、その跡は認められない。
写真は上流の大丸用水堰付近から、かつて取水口があったと思われる地
点を撮影したものである。
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その後、多摩川河川敷を北東方向へと流れていく。
ここは郷土の森公園のサッカーグラウンドとなっており、勿論、流路の痕跡
すらない。
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三ヶ村用水の水路跡が確認できるのは、南武線・武蔵野貨物線との交差
箇所付近から。
現在は歩行者道となっており、近隣住民の方々の自転車が往来する。
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その歩行者道は、北東へ延びている。
勾配がやや上りとなっているが、水が上っていくとは考えられないので、深
い用水路であったのだろうか。
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極楽橋で妙観堀新田川が合流し、三ヶ村用水および二ヶ村用水へと水
を分けていた。
府中用水の交差点ともいうべき地点で、どのように合流・分水をしていたの
かは不明だが、二ヶ村用水の項で少しばかり考察しているので、ご参照願いたい。
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遊歩道脇に佇む極楽橋の説明碑。
橋の名は、この辺りが寺との係りが深い地域であった土地であったことに
由来するという。
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遊歩道は蛇行しながら、東の府中街道へと向かう。
ここでは、三ヶ村用水と二ヶ村用水が並行して流れており、右の植栽の向
こうは二ヶ村用水の流路跡である。
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府中街道と交差した後、二ヶ村用水は右の二ヶ村緑道へと分かれていき、
三ヶ村用水は新小金井街道へと進んでいく。
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この北側には寺社が集まっている地域があるので、立ち寄ってみた。

まずは真言宗寺院の八流山龍泉寺
由緒は不明、次に紹介する是政八幡の別当寺であったようだ。
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次は是政八幡神社
天正18年(1590)、高橋兵部丞吉次なる人物が石清水八幡宮の分霊を
迎え、勧請した神社と言われている。
天明4年(1784)の多摩川洪水により社殿を流失、この地に遷座したらしい。
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是政八幡神社の境内に「是政」の地名の由来の説明板があったので紹介
しておこう。
古くは横山村と言われていたが、八王子城主北条氏照の家臣の井田是政
が、豊臣秀吉の小田原征伐後、この地で開拓したことに由来するという。
東京競馬場内には井田氏一族の墓があり、鎌倉・室町時代の板碑が出土
しており、井田氏は古くからの土豪であったことを物語っている。

是政八幡神社の南、数十メートルほど南に厄神社と称する小さな祠があった。
由緒は不明だが、位置的にみて是政八幡の場外末社であろうか。
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更には東へ300メートルほどいくと、真言宗の泰明山寶性院がある。
万治年間(1658~60)の創建と伝えられ、妙光院(妙光院下水系参照)
の末寺であったようだ。
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府中街道から600メートルほど歩いた先の是政2-15から、三ヶ村緑道
と称する緑道が始まる。
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100メートルほどで中央高速に達するが、高架下を潜り高速の北側に緑
道は続いている。
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是政の住宅地の中を進んでいく三ヶ村緑道。
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緑道は中央道の北から400メートル余り続き、一般道に出る。
その一般道は小田分道と呼ばれ、緑道から出た場所にその説明碑が建て
られている。
説明碑には。道路の名前がかつての小田分村を通っていたことに由来した
ことが記されている。
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ここで三ヶ村用水は西から流れてきた妙光院下水系の流れを取り込み、
南東方向へと向きを変える。
三ヶ村用水の本流は、蛇行しながら進んでいたようだ。
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その先、左右に畑地が広がるが、右手の畑の先に石井神社が鎮座している。
由緒は不明、小さな社だが、その割には立派な狛犬が目をひく。
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現在、この道路の下には第一都市下水路という下水道幹線が通っている
が、道路脇にはその説明が書かれている。
その説明書きによれば、以前は三ヶ村用水が流れていたが、都市化が進
むにつれて度々、浸水被害が発生、昭和47年(1972)に全長2380メー
トルの都市下水路を整備したという。
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先ほど分かれていった二ヶ村用水が南から近づき、ここから暫くの間、並
行して流れていたらしい。
写真の道路部分が三ヶ村用水、右の草地部分が二ヶ村用水であろう。
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二ヶ村用水と並行した後、150メートルほど歩くと、西武多摩川線に突き当
たる。
脇の歩道橋で渡ると小柳小学校の南に、二ヶ村用水の項でも取り上げた
幅広い暗渠が現れる。
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ここも2つの用水の水路跡であるが、現在は先ほどの第一都市下水路とし
て利用されているようだ。、
下水路はこの先で南に並行する中央道を潜り、多摩一号水再生センター
を経由して多摩川へと放流される。

小柳小学校の東の道路、この先のY字路で三ヶ村用水と二ヶ村用水は再
び流れを分ける。
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《参考文献》
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』 府中市教育委員会編



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二ヶ村用水

府中用水の下流部、府中市是政から押立にかけて流れていたに二ヶ村用水
その名は旧常久村、押立村の二つの村を流れていたことに由来する。
また押立村を流れることから、押立堀という別名もある。
古くは多摩川競艇場辺りで多摩川から取水されていたというが、多摩川の
水位が低下し、流路が南下することにより、府中用水の末流のような形に
なったという。

二ヶ村用水は西武多摩川線是政駅の西、400メートルほど西の是政3-32
附近から始まる。
そこは妙観堀(現:矢崎都市下水路)、新田川三ヶ村用水などが絡み合う地点。
この先のすぐ脇には極楽橋の碑が建てられている。
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現在、水が流れるのは、府中用水本流(市川)の末流やビール工場の排水
を多摩川へと流す矢崎都市下水路のみであり、その下水路もここから暗渠
となっている。
これらの用水がどのように合流し、二ヶ村用水や三ヶ村用水へ分かれてい
たのかは、現在では伺い知ることはできない。

水路の位置を下の模式図に表してみた。
(ここから多摩川へと向かう矢崎都市下水路は昭和39年(1964)に造ら
れたものである)
二ヶ村用水説明
資料とした『道・坂・塚・川・堰・橋の名前』の言葉を借りると、三ヶ村用水は
極楽橋のそばで、府中用水の残水である妙観堀の水を集めたといい、二ヶ
村用水は極楽橋の下で三ヶ村用水、府中用水(矢崎排水路、新田川)など
の残水を集めて始点としたという。
妙観堀や新田川が三ヶ村用水に合流した後、三ヶ村用水から二ヶ村用水
が分かれたように捉えられる。
当時の様子を知る方がおられたら、コメント頂ければ幸いである。

また同書によれば、二ヶ村用水は府中用水の残水を利用していたため、水
が枯れることが多く、昭和30年頃には井戸を掘って水を流していたという。

さてそろそろ、二ヶ村用水を追って歩き始めよう。
東の府中街道へ向かって緑道が続く。
中央の緑地帯を挟んで、右が二ヶ村用水、左が三ヶ村用水の水路跡である。
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数分ほど歩くと、人工のせせらぎが始まり、汲み上げられた地下水が流れ始める。
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府中街道の是政交番前交差点手前の草叢の中に亀里橋の碑があり、碑文
には亀里橋は三ヶ村用水と二ヶ村用水に架かる橋であり、橋名は小字の亀
里に由来する旨が記されている。
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この府中街道の交差点で二ヶ村用水と三ヶ村用水は別れていく。
二ヶ村用水は是政駅のすぐ北を通り、二ヶ村緑道という名の緑道が西武
線の北側に続く。
緑道に沿って、先ほどの親水路が流れている。
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その先、水路に水は無くなってしまう。
ネットで調べてみると、亀裂が目立つため水を流すのを中止したとのこと
だが、もったいない話である。
緑道は左へカーブして北東へと向かう。
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緑道の右側は多摩川競艇場、モーターボートの音が是政のマンション街に響く。
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緑道は是政緑道と名を変え、中央高速道路に突き当たるまで続く。
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中央高速道路の南側を進み、府中スマートICの東側で高速の北側へと出る。
高速道路の高架下では、このような光景が見られる。
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北を迂回してきた三ヶ村用水と再び出会い、並行して流れていたようだ。
この道路はこの先で西武多摩川線に突き当たる。
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西武線を越した先、小柳小学校と高速道路の間には、幅広い暗渠が出現する。
その幅は10メートル近くはあるだろうか。
ただ2つの用水が並行して流れていたことを考えると、その幅も納得できる。
現在は三ヶ村用水跡の下に新たに設置された第一都市下水路として利
用されているのだろう。
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その先で南へと新田の堀という支流を分けていたが、高速道路の南側に
その流路を見ることができる。
第一都市下水路のルートとして利用され暗渠化されており、北多摩一号
水再生センターへに敷地へと続いている。
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高速北側の本流に戻る。
小柳小学校の東、200メートルほどの場所でまた三ヶ村用水と別れる。
写真左の道路が三ヶ村用水、右が二ヶ村用水である。
この辺りから押立町へと入っていく。
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水路は高速道路の南へ進み、水再生センターとの間を進んでいたと想像
されるが、水路跡は見当たらない。
稲毛大橋北側の歩道橋を渡って、多摩川河川敷へと出てみると、大橋の
下流側に水再生センターから多摩川へ放流する排水樋門がある。
多摩川の流れをみながら、少し休憩するのもよい。
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さて多摩川沿いの道路にコンクリート蓋が続く水路がある。
稲城大橋の付近では一時、流路を見失ったが、ここで再び二ヶ村用水の
水路を見つけることができた。
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その先で左折して畑の中を入っていく。
道路にはグレーチングの水路蓋があるが、残念ながら水の流れを確認す
ることはできない。
現在は用水というよりも、雨水排水路化しているのであろう。
府中用水上流では田圃が見られるが、この押立地区まで来ると畑作のみ
となり、用水を使う必要性はないのかもしれない。
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とはいえ、その先には「用水」と書かれたマンホールを見つけた。
水は流れていなくても、ここが二ヶ村用水であった証拠である。
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ここで押立地区の寺社を巡ってみよう。

まずは押立神社、慶長年間(1596~1615)に、山城国稲荷大神(現:京
都伏見稲荷大社)の分霊を鎮祭のが創建とされる。
当社は多摩川辺りに鎮座していたが、正保年間(1645~48)の大洪水
の後、当地に遷座されたという。
万葉の昔から「てつくりの里」と歌われた土地柄ゆえに手津久里稲荷と称
していたが、明治14年(1881)、押立地区と改称した。
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なお、押立という地名は多摩川南岸の稲城市にもあり、これは度重なる多摩
川氾濫によって流路が変更となり、ついには寛文年間(1661~73)の洪水の
のより多摩南北に分断されてしまった結果である。

押立神社から東へ100mほど行くと、本村神社と龍光寺がある。
本村神社は龍光寺の門の脇に鎮座する小さな神社。
由緒は不明だが、多摩川北岸の押立を「本村」、南岸を「向押立」と呼ばれ
たことにより、神社の名となったと言われる。
この辺りが押立「本村」の中心地だったようだ。
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神社に隣接する天台宗寺院は神明山龍光寺、こちらも創建は不明だが、
江戸期には深大寺の末寺だったらしい。

この龍光寺には東京都旧跡に指定されている川崎平右衛門定孝(1694~
1767)の墓所がある。
川崎平右衛門は押立村の名主の家の生まれで、新田開発や多摩川の治
水に取り組み、また武蔵野新田世話役として私財を投じて貧窮農民の救
済を行った。
これが幕府に称されて代官に任ぜられ、美濃国の長良川水系の治水工事、
さらには勘定吟味役兼石見銀山奉行となって、銀山開発に尽力した。
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用水の話に戻そう。
二ヶ村用水本流は中央高速付近まで北上した後、東南方向へと向きを変える。
そこには、細い暗渠沿いに歩行者道が続いていた。
緑道としての整備はなされていないが、なかなか雰囲気のよい道路である。
なおこの歩行者道は府中市と調布市の境界となっており、道路の右が府
中市、左が調布市である。
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その歩行者道は、左から来る蓋暗渠にぶつかって終わる。
この暗渠は早川と呼ばれ、中央高速道路付近から蓋暗渠が続いている。
この水路に川と名が付いているが実態は用水であり、中央高速付近で三ヶ
村用水の流末に始まり、この地で二ヶ村用水と合流している。
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用水の末流であることは合流地点から40メートルほど下ったところにある
東橋の碑(写真右)の説明文に示されている。
この橋は二か村用水の本流「押立堀」に架かる東橋です。橋の名は、橋
が押立の東の端に位置することに由来します。二か村用水は旧常久村、
押立両村のかんがい用水です。

早川ではなく二ヶ村用水本流と記されていることが気になるが、小河川の
呼称など、昔は特に決められていなかったのだろうか。
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さらに早川を150メートルほど下ると開渠となるが、その手前で南から二
ヶ村用水の支堀である前堀と合流する。
前堀は多摩川の土手沿いで本流から分け、前掲の龍光寺の前を通っている。
堀の名の由来は、押立の部落の前を通っていたためだという。
(写真は前堀を上流方向に少し歩いた地点の様子)
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飛田給3-35辺りから早川は開渠となる。
開渠となり100mほど進んだところで、早川は北から流れてきた長瀞川
に合流する。
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更には長瀞川を500メートルほど下った先で根堀川へと合流し、用水を流
れていた水が再び多摩川へと戻るのは3km以上先の地点である。

《参考文献》
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』 府中市教育委員会編



目次

大丸用水新堀

大丸用水菅堀から分かれて稲城長沼駅周辺を流れ、再び菅堀へと戻る
1.5kmほどの水路、大丸用水新堀を紹介しよう。
南武線南多摩駅から大丸用水親水公園沿いに歩くこと約1km、大丸地区
会館の先で、菅堀から新堀が分かれていく。(駅は稲城長沼の方が近い)
写真左側が新堀である。
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短い区間ではあるが、水路沿いに遊歩道が設けられている。
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その先の橋の脇では、宿堀からの水が流れ込んでいる。
宿堀は大堀の上流部で水を分け、南武線と交差した後は、線路北側の道
路沿いを暗渠で流れる水路である。
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その橋から西へ100mほど歩いた場所に但馬稲荷神社が鎮座する。
創建年代はわからないが、社殿の扁額には文久2年(1862)の文字が見
えるので江戸期からあった神社であろう。
赤い小さな社が印象的な神社である。
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南武線の脇まで来ると、その先は暗渠となってしまう。
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稲城長沼の南口に水が流れていない堀をみることができる。
駅南口の整備事業に伴い、流路変更が行われたためである。
現在は空堀となっているが、今後の行方が気になる。
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流路変更された水路は線路沿いにながれ、駅前広場を過ぎると、真新しい
開渠となって現れる。
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その先、新堀は再び暗渠として続いている。
所々にある点検口から水の流れを確認しながら歩いていく。
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左手に石橋供養塔や庚申塔、馬頭観世音塔などを集めた石塔群がある。
説明板などは特にないが、集められた石塔は見ごたえがある。
多摩川近くの北堀沿いにも馬頭観世音塔を集めた場所があるが、このよ
うに集められて大切に保存されているのは嬉しい。
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途中、何本か新堀からの支流が分かれていくのを目にする。
ただ、分水された支流には水は流れていないようだ。
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稲毛大橋へ続く都道と交差した先には、蔵がある旧家などもある。
この新堀に沿う道は旧川崎街道であり、かつては相応の往来があったの
かもしれない。
今は住宅地の中の道路となっており、時折、自動車が通る程度である。
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その旧川崎街道をなおも歩いていくと新堀は開渠となり、道路脇に清らか
な流れを見せる。
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道路の左側に、北を大きく迂回してきた菅堀が接近してくる。
写真左、ピンクの花が咲いている脇に菅堀が流れている。
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そこで新堀が菅堀に合流しているのが判る。
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ただ、合流の様子は水が多い農繁期よりも、水が少なく周りの緑も少ない
農閑期の方が見やすいかもしれない。
(上の写真は5月中旬、下は3月下旬の様子である。)
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ただ、道路脇の水路はさらに続き、そこを水が流れ続ける。
ここから先は新堀の支流である落堀という区間である。
資料等で予備知識がないと、依然として新堀が続いていると誤解してしま
うだろう。
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その落堀は100mほど流れると暗渠となり、南武線高架化に伴い新しく造
られた道路の下を進んでいる。
残念ながら道路下に隠れて、その様子を確認することはできない。
落堀は新設された線路沿いに進み、300メートルほど東、菅堀が南武線と
交差する箇所で合流しているようだ。
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そこは菅堀も暗渠となっている場所で、地下での合流を道路の上から想像
するしかない。
《参考資料》
『稲城市文化財地図』 稲城市教育委員会

目次

小名木川 2

引き続き小名木川を東へ向かって歩いていく。
川の両岸に遊歩道が続き、散策を楽しむ近隣住民の方も多い。
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四ツ目通りが架かる小名木川橋の北詰には五本松跡と五百羅漢道標がある。
江戸時代、北岸の九鬼家の屋敷に老松があり、三代将軍家光が感嘆した
こともあって小名木川五本松として小名木川の名所となった。
芭蕉も「川上と この川しもや 月の友」という句を詠んでいる。
残念ながら、明治末期に松は枯死してしまった。
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こちらは江戸名所図会に描かれた五本松、芭蕉の句も添えられている。
小名木川 五本松
江戸名所図会小名木川五本松』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

そして現地の説明板に掲載されている明治時代の写真。
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前掲の写真左端に写っているのが五百羅漢道標、もともとは50mほど東
にあった庚申堂の前に建てられていた。
大島の五百羅漢寺と亀戸天神への道を示したもの。
五百羅漢寺は明治41年(1908)に目黒へ移転、羅漢寺川の名前の由来
ともなっている。(羅漢寺川参照)
道標の建立年代は不明だが、三回ほど再建され、現在の道標は文化2年
(1805)に再建されたもの。

小名木川橋から300メートルほど行くと、横十間川と交差、その交差箇所
には小名木川クローバー橋が架かる。
以前に記載した横十間川の項ではパノラマ写真を掲載してみたが、今回
は四方を撮影・掲載してみた。
上部は小名木川(左:西方向、右:東方向)、下部は横十間川(左:北方向、
右:南方向)である。
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クローバー橋から更に東へと歩くと、越中島支線というJRの貨物線の鉄
橋がある。
かつては、この南には小名木川駅という貨物駅があったが、平成12年
(2000)に廃止され、跡地はショッピングモールなどへと再開発された。
現在は越中島貨物駅から1日数往復程度、レール輸送の工事臨時列車
が走る程度となっている。
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鉄橋の先、南岸沿いに釜屋の渡し跡の説明板がひっそりと建っている。
上大島村(大島1丁目)と八衛門新田(北砂1丁目)を結ぶ営業渡船で、
北岸に鋳物師、釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったことが
その名の由来となっていたようだ。
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明治通りが架かる進開橋から撮影した小名木川の風景。
前項で説明した通り、内部河川の水位は引き下げられたが、橋の高さは
そのままであるので、橋は水面から高い位置にあり、見通しがよい。
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この辺りの遊歩道は小名木川が行徳の塩の運搬を目的として開削され、
塩の道とも呼ばれていたこたことに因み、小名木川しおのみちと名付けら
れている。

その遊歩道(南側)には、かつてのかさ上げ護岸が保存・展示されている。
地下水の汲み上げを原因とした地盤沈下により、小名木川の護岸は幾度
か嵩上げを繰り返した。
その嵩上げにより護岸は脆弱化し、大地震発生時には護岸崩壊の危険性
も懸念された。
内部河川の水位低下対策も、このかさあげ護岸への対応という一面もあっ
たようだ。
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丸八橋から東を見ると、小名木川の終点である旧中川との合流点、そして
その先の大島小松川公園の丘が見渡せる。
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その丸八橋の北詰に大島稲荷神社が鎮座する。
慶安年間(1648~52)の創建と伝えられ、当時、小名木川や近くの海辺
が津波に襲われ、耕地が荒廃し、悪疫が流行ったため、村人が伏見稲荷
の分霊を祀ったのが始まりという。
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境内には芭蕉像とともに女木塚句碑(写真左)が保存されている。
これは、元禄5年(1692)、芭蕉が深川から小名木川を川下りする途中、
当神社に立ち寄り、境内から川を眺めながら次の句を詠んだことに因むという。
秋に添て 行はや末は 小松川
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右岸に仙台堀川を分ける。
ただ、横十間川から東側は殆ど埋め立てられ、現在は仙台堀川公園とな
っている。
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小名木川の北に慶長15年(1610)創建の真言宗寺院、稲荷山宝塔寺がある。
境内には「塩舐め地蔵」と呼ばれる地蔵があり、現地の説明板に石井某
によって小名木川から掘り出されたと伝えられ、宝塔寺に治められたと
伝えられるという。
小名木川の開削と宝塔寺の開創がほぼ同時期であるため、小名木川開
削中に発掘され、宝塔寺に安置されたものと思われる。
供えられた塩をつけるとイボが取れると言われ、疣取り地蔵とも呼ばれる
ほか、商売繁盛、航海安全の御利益にも授かるとされる。
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現在でも地蔵の脇には塩の袋が積まれているのが印象的だ。

さて、小名木川は旧中川にT字交差して終了する。
以前はこの先、新川が更に東へと延びていたが、昭和5年(1930)、荒川
放水路の開削により分断、その後も小松川閘門・小名木川閘門で荒川と
の間を結んでいたが、地盤沈下や舟運の衰退により昭和50年代に閉鎖、
現在は荒川との間に防災市街地再開発事業の一環として設置された
立大島小松川公園
が存在する。
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旧中川との交差部の北側には、中川船番所があった。
前項で述べたように、寛文元年(1661)、隅田川側の萬年橋脇の深川口
人改之御番所から移転、明治2年(1869)に廃止されるまで、江戸に出入
りする船舶の監視・取り締まりが行われた。

こちらは江戸名所図会に描かれた中川船番所。
中河口
江戸名所図会中河口』    (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

今、その跡には旧中川・川の駅という休憩施設と中川船番所資料館が建っている。
資料館には中川船番所のほか、江戸の水運に関する展示があり、ジオラマ
などもあって楽しめる。
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小名木川を歩いた後、川の駅で足を休め、資料館で知識を深めるというの
もいいかもしれない。

《参考資料》
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編



目次
   

小名木川 1

小名木川は隅田川と旧中川を結ぶ4.64kmの運河である。
途中、大横川および横十間川と交差する。

徳川家康は江戸入府直後、行徳の塩を江戸に運ぶために運河を開削させた
と言われ、それが現在の小名木川である。(旧中川以東は新川(行徳川))
当時、塩を輸送するためには海沿いに運搬するしかなかったが、江戸川など
の河口部の潮流や暴風雨による危険を避けて、安定した水路の確保が必要
だった。
開通した年は正確にはわからないが、既に慶長年間(1596~1615)には開
削されていたという。
川名の由来は開削を担当した代官、小名木四郎兵衛の名前からとも、「ウナ
ギザヤ」という地名からとも言われる。

小名木川が果たした役割は大きい。
北海道(松前藩)や東北地方から江戸へ物資を運ぶ輸送路として、東廻り航
路が設定されたが、航路は利根川・江戸川を経由してこの小名木川を通り、
江戸へと至った。
そのため小名木川沿いには船番所(後述)が設けられ、水路を往来する人
や物資のチェックが行われている。

隅田川から東へ向かって、河川沿いの史跡などを紹介しながら辿ることにしよう。

まずは隅田川からの入口にある芭蕉庵史跡展望庭園から訪ねてみる。
公園には隅田川へ向かって芭蕉像が建てられ、隅田川クルーズなどで
ご覧になった方も多いことだろう。
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松尾芭蕉は延宝8年(1680)、37歳の時に日本橋小田原町からこの地に
移り住み、元禄7年(1694)までの15年間、当地に居住した。
門人杉風が所有していた生簀の番小屋草庵の提供を受け、深川芭蕉庵
として営まれた。
有名な句、「古池や蛙飛びこむ水の音」は蕉庵で催した発句会で詠まれ、
「おくの細道」の旅もここから旅立った。
なお芭蕉の死後の元禄10年(1697)、この地は松平遠江守の屋敷となり、
芭蕉庵は深川森下町へ移築されている。
芭蕉庵
江戸名所図会芭蕉庵』   (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

公園から見た隅田川、清州橋の向こうに箱崎のビル群を望むことができる。
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展望庭園から数十メートルほどの所に芭蕉稲荷神社がある。
これは大正6年(1917)、この地から芭蕉愛好の石造の蛙が発見され、同
10年、芭蕉稲荷を創建したという。
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その手前に正木稲荷神社が鎮座する。
創建年代は不明だが、文久2年(1862)の江戸切絵図「本所深川絵図」に
記載されていることから、江戸期には存在していたようだ。
昔、柾木の大木のがあったことから、神社の名の由来となった。
また柾木の果が腫れ物によく効くことから、できものの治療祈願として、女
性の参拝が多かったという。
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芭蕉稲荷の東側に、小名木川1番目の橋である萬年橋が架かる。
現在の橋梁は昭和5年(1930)に架けられたタイドアーチ橋であり、美しい
形をしている。
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この萬年橋の北に川船番所跡(深川口人改之御番所)の説明板がある。
前述の通り、江戸へと入口として、小名木川を通る船に搭乗する人や積
載荷物を検査した番所であり、いわゆる川の関所である。
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番所の創建年は不明だが、正保4年(1647)には川番に任命が行われて
いることから、それ以前に造られたことがわかる。
明暦の大火(1657)の後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成を受け
て、番所は小名木川の反対側の入口である中川口の中川番所(次項参照)
へと移転された。

萬年橋から東側を見ると新小名木川水門が見える。
この左側(北側)には、以前、六間堀という堀割が分かれ、竪川へと通じて
いたが、戦後の瓦礫処理で埋められてしまった。
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次の高橋まで、南側の道路沿いに歩いて2つの神社を訪れてみよう。
まずは深川稲荷神社、寛永7年(1630)の創建で、旧町名の西大工町に
因み、西大稲荷という俗称で呼ばれていたという。
深川稲荷神社は深川七福神の布袋尊とされている。
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その東側には小さな三穂道別稲荷神社が鎮座する。
慶長元年(1596)創建と伝えられる。
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小名木川南岸は海浜に面しており、この辺りには船大工が多く住んでいた
ことから、「海辺大工町」と呼ばれていたという。

小名木川沿いには一部の区間を除いて遊歩道が設けられており、川沿い
を歩くことができる。
付近住民の散策やジョギングなどの場として利用されている。
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やはり川沿いを歩くのは気持ちがよい。
川面を渡る風を浴びながら歩くのは楽しいものである。
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新高橋を過ぎると、南北に流れる大横川と交差する。
大横川の北方面を見ると、遠くにスカイツリーを望むことができる。
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大横川との交差箇所の東、新扇橋の北詰に猿江船改番所跡の説明板が
ひっそりと建っている。
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その説明板によると、元禄から享保期(1688~1736)、ここには中川番所
の出先機関である猿江船改番所が設置されていたという。
さきほど説明したように、江戸への物資輸送を取り締まるために川船番所
が設けられたが、この船改番所はそれとは別に川船行政を担当する機関
であったようだ。
江戸を出入りする船には極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていた。
船を新造や売買した場合には届け出が義務づけられており、船改番所
の仕事は船稼ぎを統制し、年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極
印の検査を行うことだったそうである。

さて新扇川の先には、大きな水門がある。
新扇橋と小松橋との間に、小名木川の名所ともいえる扇橋閘門である。
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江東地区では地下水の汲み上げを主因とする地盤沈下により、いわゆる
江東デルタ地帯というゼロメートル地帯が生じ、たびたび洪水や高潮の被
害に見舞われることとなった。
その対策として、江東東部の内部河川では水位を下げて一定に保つ(A.P.
-1.0m)という対策がとられた。
当然のことながら、外部とは水位差が生じ、船舶の航行に障害が生じる
ことになる。
そこで約5年の歳月をかけて、昭和52年(1977)に閘門施設が造られた。

閘門の仕組みは、船を中(閘室)に入れて扉を閉め、閘室内の水位を上
下させるというもので、パナマ運河で採用されている方式と同様のものである。
閘門脇の説明板に描かれた絵を掲載しておこう。
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外からでは残念ながら閘門内の様子を伺うことはできない。
毎年8月の土日には見学会(無料)が開催されるので、ご覧になりたい方
は東京都のホームページをチェックすることをお勧めする。
下の写真は以前、見学会に訪れた際の写真である。
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閘門によって川沿いを歩けなくなるため、ここは迂回をしなければならない。
北側への迂回の途中、閘門の北東に猿江神社が鎮座する。
創建年代は不明、源頼義・義家による奥州討伐(前九年の役(1051~
62)で活躍した猿藤太という武将の屍が附近の入江に漂い着き、村人が
丁重に葬ったことに始まるという。
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なおこの地の猿江という地名は、猿藤太の「猿」と入江の「江」を結合して
付けられたとのことである。

小名木川へと戻り、水位が下がった川を更に東へと辿っていく。
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《参考資料》
『資料ノート 小名木川と五間堀・六間堀』 江東区深川江戸資料館編
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編



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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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