大丸用水の合流地点から100メートルほどいくと、
三沢川は新旧2本の河川
に分かれる。

もともと三沢川は二ヶ領用水へと流れ込んでいたが、冒頭に記したように、
昭和18年(1943)、治水対策として多摩川へ直接流れ出る水路が造られた。
現在、三沢川の水は新三沢川経由で多摩川へと流れ出る。
とはいえ、新三沢川は直線的であるのに対し、旧三沢川は蛇行し、また寺
社等の旧跡も多く、散策としてはこちらの方が面白味がある。
ここでは、旧三沢川、新三沢川をそれぞれの辿って紹介することとしよう。
■ 旧三沢川旧三沢川には、普段、三沢川の川は流れ込んでいないようである。
合流点からの水路には水が流れてはおらず、川歩きとしてはちょっと失望する。

しかし、そんな心配は無用、150メートルほどいくと支流の水が流れ込んでくる。
この支流はよみうりランド北の菅仙谷の谷戸から流れ出て、農地や住宅街
を通って旧三沢川へ合流する。
菅仙谷の谷戸は前項で記した小沢城址の南側に位置する。

その先、
指月橋の橋詰には「指月橋塔」と記された石碑が建っている。

その脇には「小沢城址里山の会」による説明があり、指月橋の由来が記さ
れていたので、以下に要約しよう。
奥州に逃亡する源義経一行が、一夜の宿を寿福寺(この南、菅仙谷地区
にある)に求めてこの橋まで来た。
しかし、橋板が朽ちて穴があいており、馬の足がはまる危険があったので、
馬から降りて点検することとした。
ふと夜空を見上げると満月が輝いており、指を指したことから、この地の橋
を指月橋と名付けられたという。
各地によくある義経伝説の一つであり、俄かには信じがたいが面白い話である。
川は蛇行しながら住宅街の中を進んでいく。

川の南側には多摩丘陵が迫ってくるが、そのような土地柄のためなのか、
周辺には寺社が多い。
(川沿いの寺社は小高い位置に建てられている場合が多い)
暫くの間、寺社の紹介が多くなるが、お付き合いいただきたい。
まず、大谷橋の左岸に、臨済宗の
延命山長松寺が見えてくる。
天文年間(1532~55)、南樹法泉禅師により開山された。

川を挟んで南側、坂を上っていくと
菅薬師堂がある。

文治3年(1187)、この地の領主であった稲毛三郎重成が建立されたとされる。
この薬師堂には「菅獅子舞」という伝統行事が伝わり、明和8年(1771)の
古文書に復活興行の願いがあることから、古くからの行事であることが判
っているという。
現在でも保存会によって毎年九月に催行され、神奈川県の指定無形民俗
文化財の指定を受けている。
大谷橋の先の右手の崖線には
菅北浦緑地が広がる。
ここを歩いた時は早春であったが、河津桜が咲いていた。

更にはその先、子之神橋の右手には法泉寺・子之神社・福昌寺という寺社
が集中している。
天台宗の
大谷山法泉寺は、小沢城を築城した稲毛三郎重成が、妻が亡く
なった際(建久6年(1195))に埋葬し、極楽寺を建立したことに始まるしたという。
ちなみに稲毛重成の妻は北条政子の妹である。

法泉寺の南、階段を昇っていくと
子之神社が鎮座する。
創建は不明だが、鎌倉期には小沢郷7か村の総鎮守であったと伝えられ、
江戸期には菅村の鎮守だった。
もともと根ノ上社・根上明神・根之神社などと呼ばれていたが、明治10年
(1877)頃に現在の子之神社と改称された。

法泉寺の東には、同じく天台宗寺院の
金剛山福昌寺がある、
こちらの創建年代は不明だが、こちらも相当な古刹であろう。

この3つの寺社は
江戸名所図会『
法泉寺』に描かれている。
現在は住宅地に隣接する崖地に建てられている寺社であるが、江戸時代
には相当な名所だったのだろうか。
中央には法泉寺、上部には子之神社(「根上明神」と記載)、左側には福
昌寺が描かれている。
図の下部には三沢川の流れも確認できる。
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)なおも寺社の紹介が続いて恐縮だが、もう一つ、臨済宗の
洞雲山玉林寺を
紹介しておこう。
こちらも東菅小学校の南の緩やかな階段を昇っていったところにある。
川崎市教育委員会の掲示のよると、『紙本着色 仏涅槃図』が所蔵されてお
り、川崎市重要歴史記念物に指定されている。

旧三沢川は東菅小学校の西で向きを北へと転ずる。
菅北浦一号橋の手前で2本の用水路が分かれていく。
三沢川は水門のある写真右側の水路、現地で目にすると駅構内で線路が
分岐する場面に似たような光景に感じる。

府中街道を渡ると再び向きを東に変え、その後も蛇行しながら東進する。

昭和十年竣工の古い三沢川橋をくぐるとその先で、旧三沢川は
二ヶ領用水へ合流する。
■ 新三沢川新旧三沢川の分岐点へと戻り、今度は新三沢川を追っていくことにしよう。
蛇行しながら流れていた旧川とは対象的に、こちらは多摩川へ向かってほ
ぼ真っすぐな河川となっている。
分岐地点から最初の橋である新指月橋では、大丸用水の支流の水が流れ込む。
その次の天宿橋の橋詰には菅親水広場が設置され、川脇に降りられるよう
になっている。
地域の人々の要望で、近年設置されたようだ。

コンクリート壁には「稲田堤の桜」「菅薬師の獅子舞」「多摩川の梨」の写真
パネルが飾られ、特に「多摩川の梨」では昭和30年代のポスターやチラシ
が掲示され、見入ってしまうほどユニークだ。
府中街道と交差する新三沢橋の脇には
第四地蔵が建つ。
かつて菅村の人々によって府中街道沿いに建てられた「菅の六地蔵」のうち
の一つだそうで、宝永4年(1707)の建立である。

地蔵の横にある第四地蔵世話人と称する方による碑文によると、地蔵の痛
みがひどく、昭和36年(1961)に地蔵が立て替えれ、旧地蔵(写真中央)は
川崎市民家園に移された。
その後、この付近で交通事故が多発し、地蔵を戻すことが検討され、昭和57
年(1982)にこの地に再び戻されたという。
川沿いには所々に写真のような古めかしい設備がある。
大丸用水の支堀に関する施設であろうか。

三面コンクリート張りの新三沢川沿いを歩いていく。

やがて南武線が新三沢川を渡る鉄橋へと達する。

その鉄橋の先、左側から
大丸用水(
北堀)が合流する。
大丸用水はもともと中野島方面へと続き、この北堀は中野島用水とも称さ
れたが、新三沢川の建設によって分断された形となった。

さらに歩くと
二ヶ領用水との交差がある。
こちらは二ヶ領用水が伏越で三沢川の下を潜り横断している。
写真左の青い構造物は、二ヶ領用水上流側の除塵機。
この先にはゴール地点の水門も見えてくる。

そしてついに三沢川の多摩川への吐口の水門へと達する。
二ヶ領用水上河原堰から150メートルほど下流の地点である。
巨大な水門の先に多摩川を望むことができる。
