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大丸用水菅堀 1

稲城市を中心として張り巡らされている大丸用水を紹介しよう。
稲城市大丸の「一の山下」で多摩川から取水し、枝分かれを繰り返し、ま
た時には合流し、稲城市および川崎市多摩区を網の目状に流れていく。
その水路の延長は、幹線系および支堀を合わせて70キロにも及ぶという。
実際、現地を訪れると、分かれた水路が何処へ行き、何処から来た水路
が合流するのかわからないほどである。
その全てを追いかけることはとてもできないが、本ブログでは幹線系の水
路をいくつか紹介していくこととしよう。

大丸用水の開削時期や過程は残念ながらよくわからない。
参考資料に挙げた稲城市史でも「おそらく徳川家康の関東入府より十七
世紀までの間に、年貢徴収の前提としての農業生産力の上昇を目指して
大規模な治水・利水政策の一環として行われたものと考えられる。」と記
載されている。
江戸期には大丸村・長沼村・押立村・矢野口村・菅村・中野島村・菅生村・
五反田村・登戸村の九村による大丸用水九ヶ村組合が組織され、堰や
堀の修繕など維持管理が行われていた。
時には他の用水と同様、水を巡る争論がたびたびおこったという。

大丸用水の幹線系水路にはそれぞれ堀の名が付けられている。
前述の通り、いくつもの水路が分かれているので、どれが本流なのかは
決めかねるが、稲城市の観光パンフレットなどで大丸用水として紹介され、
比較的気軽に散策ができる水路という観点から、本ブログでは菅堀を基
幹として、徐々に他の堀を紹介しようと思う。

多摩川から用水への取り入れ口である大丸用水堰は、南武線鉄橋から
上流方向へ500メートルほどの地点、土手を歩いて向かうことになる。
こちらが用水堰の全景、多摩川の川幅いっぱいに堰が設けられている。
以前はやや下流にあったようだが、昭和18年(1943)この地に移された。
江戸時代には幅二間ほどの圦樋(水門)が設けられていたという。
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多摩川右岸には取水口があるが、取水口そのものを見ることはできない。
土手の道もここで行き止まり、それより上部は通行禁止である。
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用水はここから南武線鉄橋付近まで、多摩川に並行するように暗渠で流れていく。
そして鉄橋手前で顔を出し、線路沿いに流れる。
なお、菅堀と大堀の分量樋(後述)までの区間をうち堀と称される。
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水路沿いに歩くことはできないので、迂回していくと用水は線路と交差し、
南武線の北側へと出てくる。
この先は府中街道を渡り、南多摩駅の北口広場へと向かう。
駅前ということもあり、用水は再び暗渠となる。
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ここで南多摩駅周辺の史跡へと寄ってみよう。
南武線の南側には、天台宗の国宝山医王寺がある。
創建年代は不詳、延宝6年(1678)に了海が中興したという。
元々は300mほど東側にあったが、昭和52年(1977)川崎街道の道路拡
張工事に伴い、当地に移転した。
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更には南多摩駅南側の住宅地の一画に大丸城跡の説明板がある。
かつてはここから南東方向に城山と言われる丘陵があったそうだが、多摩
ニュータウン造成工事に伴い、姿を消した。
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山頂の主郭をおく山城で、南北朝時代から戦国期にかけて使用された見張
台程度の規模であったという。
造成工事に先立って行われた発掘調査では、古墳時代の横墳墓や奈良時
代の瓦窯跡などが発見された。
なお、説明板の西側には稲城市立中央図書館がある城山公園があるが、
位置的にいってこちらは城郭とは関係ないようだ。

南多摩駅北口の一画に菅堀大堀の分水地点がある。
かつては分量樋があったそうだが、駅前広場の工事により分量樋はなくなり、
単なる分岐点へと変わっていた。
遺跡としてなんとか残せなかったものかと思う。
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ここで大堀が南へと分かれていく。
大堀は主として大丸村用として、菅堀は菅村や長沼村・押立村など他村用
として、1:2の割合で分けられていた。

南多摩駅から、菅堀沿いに大丸親水公園が続く。
公園の説明板によれば、「光と清流と緑の小径」をテーマとし、用水沿いの
散策路を中心に小公園などを配置しているようだ。
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途中、吉田新田堀が菅堀の上を跨いでいく。
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吉田新田堀に水が流れるのは農繁期だけであり、農閑期になると下の写
真のように水路橋は空堀となってしまう。
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その先、押立用水堀が左へ分かれていく。
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押立用水堀と分かれた先には親水施設がある。
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石垣護岸が続く用水を見ながら、気持ちよく散策することができる。
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またもや分水箇所、ここでは新堀が右へと分かれていく。
新堀は稲城長沼駅方面へと向かい、再び菅堀へと戻ってくる水路である。
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菅堀は新堀と分かれた後、北へと大きく蛇行していく。
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ここでも小さな堀が右へと分水している。
分水が続き、読みにくい文章となり申し訳ないが、現地を歩いていても混乱
してしまう。

用水沿いに雁追橋跡の碑と説明板がある。
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江戸時代、御殿女中として働いていた女性がこの地に移り住んだ。
大変美しく気立てがよいので、男たちは野菜などを貢いだが、貞淑な女性で
あったため、男たちは帰されてしまった。
その様子から、「雁と同じように男たちが集まってくるが、すぐに追い返され
てしまう」と例えられたという。
女性は末永くこの地に住み、「鴈追婆さん」と呼ばれ、橋の由来となったという。

雁追橋跡を東へと入っていくと、上新田津島神社が鎮座する。
創建年代は不明、一説によると、は天慶8年(945)、多摩川の氾濫とその
後の病難から救うために牛頭天王を祀ったことに始まるともいう。
愛知県津島市の津島神社を分霊したと伝えられる。
明治初期の神仏分離令に伴い八坂神社と改称、その後、愛知の本社の改
称に伴い津島神社と再度改称した。
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菅堀はその後、一般道を越えてゆっくりとカーブして、向きを北東から南東
へと変える。
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その先、用水沿いの遊歩道はなくなり、住宅街の中へと入り込んでしまう。
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近くの道を迂回して、菅堀の行方を確認する。
先ほどまでの石積み護岸とはだいぶ雰囲気が変わってしまった。
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稲城長沼駅の北で、水路は再び北東へ向きを変えていく。
この辺りで菅堀は大きく蛇行しているのである。
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その先では畑が広がり、なんとその中を素掘の水路として流れていた。
大丸用水の原風景を見たような光景である。
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《参考資料》
『稲城市史』 稲城市
『稲城市の歴史と文化財』 稲城市教育委員会
『稲城市文化財地図』 稲城市教育委員会



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三田用水 白金村分水

三田用水白金村分水(白金分水とも称する)を取りあげる。
かつて、現在の日の丸自動車学校辺りの銭噛窪取水口で三田用水を分け、
古川へと流れ出ていた。
白金村分水は古川の北側に建てられた麻布御殿のための上水として開削さ
れたという。
分水は古川を掛樋として越えていたと推定されている。
麻布御殿は元禄11年(1698)、五代将軍徳川綱吉の別荘として建てられた
が、元禄15年(1702)、わずか4年後に焼失してしまう。
享保7年(1722)三田用水は廃止されるものの、その3年後に復活し、以降、
この分水も流域の灌漑用水として維持されていたものと思われる。

白金村分水は前述の通り、恵比寿目黒間の日の丸自動車学校で分水されていた。
その南側には山手貨物線(埼京線)の長者丸踏切がある。
分水はこのやや北側を流れていたと思われるが、線路を渡るにはこの踏切を
利用するしかない。
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線路を渡り、山手線の内側に入った後、目黒区三田と上大崎の間を進んでいく。
かつてはかつて白金長者丸という地名であり、住居表示により上大崎二丁
目という変哲もない町名に変わってしまったが、その名前の良さからか付近
のマンションなどに「長者丸」を冠したものが多い。
なお白金長者については、後ほど自然教育園を紹介する際に述べることとする。
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北東へと辿っていくと、上大崎の住宅街の中に突如として暗渠が現れる。
残念ながら、柵があってその先を辿ることはできない。
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こちらは途中の脇道から入り込んだところ。
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柵で封じられた区間を過ぎると、細い暗渠道が続いている。
いつの日なのだろうか、新しいアスファルト舗装が施されていた。
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白金村分水はこの後、並行する道路に出てきていたようだ。
この先で首都高速2号線(目黒線)と交差する。
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首都高速と交差した先で、行く手に森が見えてくる。
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国立科学博物館付属自然教育園である。
20万平方メートルの園内には武蔵野の自然が残り、数多くの動植物が生
息し、入園するとここが都会であることを忘れさせてくれる。
ここで自然教育園について、紹介しておこう。

寛文4年(1664)、この地に高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷が建てられた。
明治4年(1871)、松平家から明治政府へ返納されると海軍火薬庫、陸軍
兵器支廠として利用され、大正2年(1913)以降は天皇御料地となった。
戦後、文部省の所管となり、昭和24年(1949)には天然記念物及び史跡
に指定、以後、国立自然教育園として公開され現在に至る。
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園内に入ると土塁が至るところにあるのに気づく。
柳下上総之助という者が応永年間(1394~1428)、白金の地に移り住み、
この地に館を築いたという話が伝わる。
以後、柳下家は代々郷士として、元和年間(1615~24)近隣の地に移住す
るまでの間、「白金長者」と言われるまでに富豪として繁栄したという。
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土塁は野火止め、あるいは館の防御のために造られたと想定されている。

また園内には3か所の湧水があって、池を作っている。
(写真は「水鳥の沼」と称する園西部の池)
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3つの湧水から出た水は合流し、湿地帯の中を小流となって流れ、園北部
へと向かっている。
その先には土塁が立ちはだかるのだが、土塁の下には木管が設けられ、
水は木管を通って外部へと流されているという。
その木管を閉じれば土塁内の湿地帯は堀となり、館の防御力が上がると
いう用途もあったらしい。
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現在はそのまま下水道へと流されているのだろうか。
園の北側の湿地帯は立入禁止区域なので、流れを追うことはできない。

自然教育園の北側に戻って、白金村分水を追っていこう。
水路は北の古川に向かって進んでいく。
おそらく自然教育園からの湧水も白金分水に合流していたのだろう。
分水開削以前に湧水からの流れがあったはずだから、この先の分水は元
々あった小川の流路を利用して造られたということも考えられる。
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水路からちょっと外れた路地にあった井戸、充分、現役のようだ。
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その先で再び細くて蛇行した道路が続くこととなる。
こちらも先ほどと同様、新しく舗装が施されたらしい。
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この暗渠道には、古い燈孔(昭和初期に造られた管渠内の照明用蓋)が残
っている。
舗装が新しくなっても、こちらは無事に残されたようだ。
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都道305号線を越してさらに北へと向かう。
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再び首都高速と交差して、その先、狸橋の下流で、白金村分水は古川に合
流していた。
狸橋から下流側を見ると右岸に吐口が見えるが、ここが合流地点である。
冒頭に記載したように、当初は掛樋で渡り対岸の麻布御殿に水を引きいれ
ていたと思われるが、どのような風景だったのか知る術はない。
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《参考文献》
『港区の文化財第6集 高輪・白金』 港区教育委員会編



目次
  

三沢川 3

大丸用水の合流地点から100メートルほどいくと、三沢川は新旧2本の河川
に分かれる。
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もともと三沢川は二ヶ領用水へと流れ込んでいたが、冒頭に記したように、
昭和18年(1943)、治水対策として多摩川へ直接流れ出る水路が造られた。
現在、三沢川の水は新三沢川経由で多摩川へと流れ出る。
とはいえ、新三沢川は直線的であるのに対し、旧三沢川は蛇行し、また寺
社等の旧跡も多く、散策としてはこちらの方が面白味がある。
ここでは、旧三沢川、新三沢川をそれぞれの辿って紹介することとしよう。

■ 旧三沢川
旧三沢川には、普段、三沢川の川は流れ込んでいないようである。
合流点からの水路には水が流れてはおらず、川歩きとしてはちょっと失望する。
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しかし、そんな心配は無用、150メートルほどいくと支流の水が流れ込んでくる。
この支流はよみうりランド北の菅仙谷の谷戸から流れ出て、農地や住宅街
を通って旧三沢川へ合流する。
菅仙谷の谷戸は前項で記した小沢城址の南側に位置する。
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その先、指月橋の橋詰には「指月橋塔」と記された石碑が建っている。
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その脇には「小沢城址里山の会」による説明があり、指月橋の由来が記さ
れていたので、以下に要約しよう。
奥州に逃亡する源義経一行が、一夜の宿を寿福寺(この南、菅仙谷地区
にある)に求めてこの橋まで来た。
しかし、橋板が朽ちて穴があいており、馬の足がはまる危険があったので、
馬から降りて点検することとした。
ふと夜空を見上げると満月が輝いており、指を指したことから、この地の橋
を指月橋と名付けられたという。
各地によくある義経伝説の一つであり、俄かには信じがたいが面白い話である。

川は蛇行しながら住宅街の中を進んでいく。
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川の南側には多摩丘陵が迫ってくるが、そのような土地柄のためなのか、
周辺には寺社が多い。
(川沿いの寺社は小高い位置に建てられている場合が多い)
暫くの間、寺社の紹介が多くなるが、お付き合いいただきたい。

まず、大谷橋の左岸に、臨済宗の延命山長松寺が見えてくる。
天文年間(1532~55)、南樹法泉禅師により開山された。
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川を挟んで南側、坂を上っていくと菅薬師堂がある。
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文治3年(1187)、この地の領主であった稲毛三郎重成が建立されたとされる。
この薬師堂には「菅獅子舞」という伝統行事が伝わり、明和8年(1771)の
古文書に復活興行の願いがあることから、古くからの行事であることが判
っているという。
現在でも保存会によって毎年九月に催行され、神奈川県の指定無形民俗
文化財の指定を受けている。

大谷橋の先の右手の崖線には菅北浦緑地が広がる。
ここを歩いた時は早春であったが、河津桜が咲いていた。
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更にはその先、子之神橋の右手には法泉寺・子之神社・福昌寺という寺社
が集中している。

天台宗の大谷山法泉寺は、小沢城を築城した稲毛三郎重成が、妻が亡く
なった際(建久6年(1195))に埋葬し、極楽寺を建立したことに始まるしたという。
ちなみに稲毛重成の妻は北条政子の妹である。
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法泉寺の南、階段を昇っていくと子之神社が鎮座する。
創建は不明だが、鎌倉期には小沢郷7か村の総鎮守であったと伝えられ、
江戸期には菅村の鎮守だった。
もともと根ノ上社・根上明神・根之神社などと呼ばれていたが、明治10年
(1877)頃に現在の子之神社と改称された。
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法泉寺の東には、同じく天台宗寺院の金剛山福昌寺がある、
こちらの創建年代は不明だが、こちらも相当な古刹であろう。
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この3つの寺社は江戸名所図会法泉寺』に描かれている。
現在は住宅地に隣接する崖地に建てられている寺社であるが、江戸時代
には相当な名所だったのだろうか。
中央には法泉寺、上部には子之神社(「根上明神」と記載)、左側には福
昌寺が描かれている。
図の下部には三沢川の流れも確認できる。
法泉寺
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

なおも寺社の紹介が続いて恐縮だが、もう一つ、臨済宗の洞雲山玉林寺
紹介しておこう。
こちらも東菅小学校の南の緩やかな階段を昇っていったところにある。
川崎市教育委員会の掲示のよると、『紙本着色 仏涅槃図』が所蔵されてお
り、川崎市重要歴史記念物に指定されている。
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旧三沢川は東菅小学校の西で向きを北へと転ずる。
菅北浦一号橋の手前で2本の用水路が分かれていく。
三沢川は水門のある写真右側の水路、現地で目にすると駅構内で線路が
分岐する場面に似たような光景に感じる。
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府中街道を渡ると再び向きを東に変え、その後も蛇行しながら東進する。
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昭和十年竣工の古い三沢川橋をくぐるとその先で、旧三沢川は二ヶ領用水
へ合流する。
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■ 新三沢川
新旧三沢川の分岐点へと戻り、今度は新三沢川を追っていくことにしよう。
蛇行しながら流れていた旧川とは対象的に、こちらは多摩川へ向かってほ
ぼ真っすぐな河川となっている。

分岐地点から最初の橋である新指月橋では、大丸用水の支流の水が流れ込む。
その次の天宿橋の橋詰には菅親水広場が設置され、川脇に降りられるよう
になっている。
地域の人々の要望で、近年設置されたようだ。
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コンクリート壁には「稲田堤の桜」「菅薬師の獅子舞」「多摩川の梨」の写真
パネルが飾られ、特に「多摩川の梨」では昭和30年代のポスターやチラシ
が掲示され、見入ってしまうほどユニークだ。

府中街道と交差する新三沢橋の脇には第四地蔵が建つ。
かつて菅村の人々によって府中街道沿いに建てられた「菅の六地蔵」のうち
の一つだそうで、宝永4年(1707)の建立である。
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地蔵の横にある第四地蔵世話人と称する方による碑文によると、地蔵の痛
みがひどく、昭和36年(1961)に地蔵が立て替えれ、旧地蔵(写真中央)は
川崎市民家園に移された。
その後、この付近で交通事故が多発し、地蔵を戻すことが検討され、昭和57
年(1982)にこの地に再び戻されたという。

川沿いには所々に写真のような古めかしい設備がある。
大丸用水の支堀に関する施設であろうか。
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三面コンクリート張りの新三沢川沿いを歩いていく。
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やがて南武線が新三沢川を渡る鉄橋へと達する。
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その鉄橋の先、左側から大丸用水北堀)が合流する。
大丸用水はもともと中野島方面へと続き、この北堀は中野島用水とも称さ
れたが、新三沢川の建設によって分断された形となった。
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さらに歩くと二ヶ領用水との交差がある。
こちらは二ヶ領用水が伏越で三沢川の下を潜り横断している。
写真左の青い構造物は、二ヶ領用水上流側の除塵機。
この先にはゴール地点の水門も見えてくる。
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そしてついに三沢川の多摩川への吐口の水門へと達する。
二ヶ領用水上河原堰から150メートルほど下流の地点である。
巨大な水門の先に多摩川を望むことができる。
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目次
 

《番外編》 二ヶ領用水桜ガイド

川崎市を南武線沿いに南北に縦断する二ヶ領用水、水路沿いは川崎の桜の
名所ともなっている。
本記事では開渠として流れている二ヶ領用水本流、宿河原堀、および川崎堀
沿いの桜を紹介しよう。
※ 二ヶ領用水を二週にわたり歩いてみましたが、後半は散り気味になってし
  まい、一部、綺麗な桜がお見せできなくなってしまったことをご了承ください。

◆ 二ヶ領用水本流
二ヶ領用水本流は稲田堤・中野島間にある上河原堰から、久地の平瀬川合
流地点までの区間である。

上河原堰からスタートすると、すぐに右手の川崎市上下水道局稲田取水所
沿いに桜が立ち並ぶ。
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取水口から200メートルほど行くと、二ヶ領用水は三沢川を潜る。
その手前には除塵機があり、桜の花びらが溜まっている。
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さらに150メートルほど行くと南武線と交差する。
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こちらは旧三沢川が二ヶ領用水に合流する辺り。
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二ヶ領用水上流部では宿河原堀のように桜並木が延々と続く
というわけではなく、所々に数本の桜が植えてあるという様相である。
それでも、それぞれに異なる風景を見せてくれて飽きない。
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ようやく紺屋前橋付近からは桜並木が続き、水路沿いには提灯も飾られている。
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紺屋前堰跡では、芝生の斜面が桜の花弁の絨毯と化していた。
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山下川が合流した後も数百メートルほど桜並木は続く。
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県道と交差する手前で、二ヶ領用水は三面コンクリート張りの無機質な中小
河川と様変わりするが、その後は川沿いには全くといっていいほど桜はなくなる。
僅かに藤子・F・不二雄ミュージアム前に1本の桜が立っているのと、久地駅
の先、久地さくら緑地と称する小公園に数本の桜が立っているだけとなる。
写真はミュージアム前の桜、川沿いの柵にドラえもんのシルエットが施されている。
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◆ 宿河原堀
登戸の東、400メートルほど東の宿河原堰から久地に向かう宿河原堀の桜、
ほぼ全域にわたり桜並木が続く。
二ヶ領用水の桜の名所と言えば、一般的にここの桜を指す。

その桜は早くも多摩川河川敷から始まる。
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水路沿いに見事な桜並木が続く。
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南武線が宿河原堀を渡る鉄橋、桜の時期には南武線の撮影の名所として
挙げられる。
2016-04-02_14.jpg

水路脇に立つ川崎歴史ガイドの説明によれば、昭和33年、地元有志の手
でおよそ3kmの区間、両岸に400本あまりが植えられたという。
それから六十年ほど経った現在、見事な桜並木として我々の目を楽しませ
てくれているわけだ。
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遊歩道は所々、花見客に占領されている。
おそらく近隣の人々の毎年恒例の楽しみになっているのであろう。
ここは地元の方に譲って、水路脇の道を歩いていきたい。
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桜並木は東名高速と交差する地点まで続く。
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宿河原堀はその先、数百メートルほどで本流に合流するが、その区間には
桜はない。

◆ 川崎堀
久地円筒分水から溝の口、武蔵小杉を経て、鹿島田に至る川崎堀、現在は
環境用水路の色彩が強く、水路沿いには木々が植えられており、こちらも
花見ウォークとしてお勧めのコースだ。

まずは始点の久地円筒分水。
敷地内には桜は3本のソメイヨシノが植えられてだけだが、枝が伸び、円筒
分水の周囲は緑地があり、花見客も見られる。
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国道246号線の手前がら桜が始まり、国道を渡ると枝垂れ桜の桜並木が続く。
写真は国道の跨ぐ歩道橋から眺めた桜並木。
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東急田園都市線と交差した後も枝垂れ桜の並木は続く。
ソメイヨシノよりやや開花時期は遅いようだ。
桜並木は境橋まで続く。
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第三京浜との交差前後は桜がなくなるが、中原区宮内に入ると桜が再び続
くようになる。
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ピンクの桜に交じって紅い花が所々に目立つが、これは「黒川矢口」という
花桃の代表的品種だそうだ。
中原は大正から昭和にかけて桃の産地だったようで、地元有志の会が桃
の里であったことを後世に伝えるべく、植樹しているようだ。
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こちらは「菊桃」という花桃。
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いろいろな桜や桃など、ピンクや紅白の花が続き、見ていて飽きない。
ソメイヨシノの桜並木だけではなく、色々な種類の花が続くというものもいい。
種類によって花期も異なるので、長く楽しめるのかもしれない。

武蔵小杉の高層ビル群が遠くに見えてくる。
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紅い黒川矢口の向こうに咲く白い花桃は「残雪枝垂れ」。
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中原街道を渡った先の水路沿いに今井上町緑道が続き、桜並木が現れる。
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南武線の高架橋を望む。
南武線を越えた後、右に渋川が分かれるが、渋川沿いにも今井桜、住吉桜
と呼ばれる桜の名所がある。
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渋川には折れずそのまま直進する。
川崎堀は武蔵小杉の南側を流れていき、こちらにも所々に桜が連なる。
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川崎堀が中原平和公園を通っていく。
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中原平和公園を過ぎると、暫く桜は見られない。
僅かに新幹線の高架脇に桜が水路へと枝を伸ばしていた。
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JR横須賀線との交差後、再び桜並木が始まる。
平間の閑静な住宅街の中を800mほど桜並木は続き、花見ウォークを楽し
むことができる。
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その桜並木は、府中街道と交わる鹿島田橋まで続く。
川崎堀はその先、南武線と交差し、開渠としての二ヶ領用水は終わる。
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目次
  

三沢川 2

三沢川は、稲城の市街地へ向かって緩やかに下っていく。
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勾配は緩やかであり、歩いている限りは下っているという感覚はあまりないが、
ところどころにある段差が、そのことを教えてくれる。
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行く手に武蔵野南線(貨物線)が見えてくる。
貨物線はこの三沢川の谷を渡るためにトンネルから出て、三沢川や京王線
を高架で渡った後、再びトンネルへと突入する。
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武蔵野南線をくぐった先でようやく谷を抜け、稲城の市街地へと出てくる。
黒川から北東へと向かって流れていた三沢川はここで東へと向きを変える。
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そのカーブの手前、亀山橋の脇に長沼城・報恩寺跡地の碑がある。
現在の稲城駅から、かつては北にのびる舌状台地があり、亀山と呼ばれていた。
碑文には、「この地はその昔、源頼朝に仕えた武将、長沼五郎宗政一族の館
(長沼城)とはいわれ(中略)、また江戸時代中期建立され、明治の末年廃寺
となった報恩寺の跡地でもある。」と書かれている。
但し、『武蔵名所図会』には武蔵七党(武蔵国を中心とした同族的武士団)の
うちの西党であった長沼二郎大夫職人の子孫の館跡であり、「城地といふに
あらず」とも記載されているという。
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長沼城跡とされていた台地は、昭和38年(1963)、砂利採掘工事のために
切り崩され、残念ながら今となってはその跡を知る術はない。

川沿いには桜並木が続く。
両岸には歩道が続き、ジョギングやウォークキングなどを楽しむ人が多い。
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欄干橋のたもとには、地蔵菩薩が建っている。
明和元年(1764)、長沼村の願主29名により建立されたという。
三沢川はかつて蛇行しており、南にある常楽寺の参道の川沿いに建ってい
たが、川の改修とともに当地へ移設された。
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その天台宗の樹光山常楽寺は欄干橋から100mほど南へ行ったところにある。
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行基が天平年間(729~749)に庵を造ったという伝説があるが定かではない。
永禄元年(1558)、比叡山で修行した僧、良順が再興したという。
阿弥陀堂には東京都有形指定文化財の阿弥陀如来像と両脇侍像が安置
されており、平安末期の制作と伝わるという。

稲城市役所の南をさらに東進していく三沢川。
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南の丘陵からはどころどころに小さな支流が合流している。
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また稲城の名産として梨があるが、川沿いにも所々に梨畑を見ることができる。

さらに川沿いを歩いていくと三沢川親水公園があり、子供たちの歓声が聞こ
えてくる。
芝生のスロープが広がり、付近住民の憩いの場となっているようだ。
これまで、様々な川の親水公園を見てきたが、かなりハイレベルの親水公園
だと思う。
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三沢川親水公園は京王よみうりランド駅の北に位置するが、駅の西にある
臨済宗の雲騰山妙覚寺に立ち寄ってみる。
室町末期、足利義晴(第12代将軍 1511~50)の開山で、鎌倉の建長寺
の末寺として建立された。 
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境内には享徳3年(1454)、逆修供養(自己の極楽往生を祈願すること)
のために建てられた「板碑」(写真左)や、学業指導の功績と徳をたたえて
嘉永7年(1854)に建立された「筆塚」など文化財も多い。
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境内には梅林もあり、梅の名所としても有名である。

三沢川に戻って下流に歩いていくと京王線と交差する。
その先、南側にはこんもりとした天神山と呼ばれる丘陵が迫る。
この丘陵には穴澤天神社や小沢城址などみるべきところが多い。

まずは川沿いの湧水から見てみよう
穴澤天神社の湧水と称され、東京の名水57選の一つに指定されている。
ここの湧水は次々と水を汲みに人が訪れ、訪問時にもシャッターチャンスに
困るほどだった。
写真の鳥居の先には弁天洞窟があり、石仏を安置した跡が見られる。
(石仏は明治4年(1872)、南西に位置する威光寺に移転)
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湧水の裏手の階段を上っていくと、山の中腹に鎮座する穴澤天神社の境内
に出る。
創建は孝安天皇4年(紀元前389)というが、縄文時代にあたり、これはなに
がなんでも疑わしい。
元禄7年(1694)、社殿を改修して菅原道真公を合祀した。
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穴澤天神社は江戸名所図会にも描かれている。
三沢川が流れ、その上には先ほどの洞窟が「巌窟」として描かれている。
左上には穴澤八幡の社殿があり、現在の位置関係ともマッチしている。
三沢川の対岸には「水車」と書かれた家屋(画面中央下)があり、三沢川の
流れを利用した水車があったことが判り、興味深い。
谷之口穴沢天神社
江戸名所図会『谷之口 穴沢天神社(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

天神社から更に上っていき、小沢城址を目指す。
境内から直接上っていく道はかなりの急傾斜、遠回りしても裏の道路から
アプローチしたほうが楽であろう。
城跡には詳しくないが、神社から上がる道は縦堀(空堀)のようである。
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山の上の城跡は緑地公園として保存され、物見櫓や土塁などの遺構が残る。
現地の説明板によると、鎌倉初期に源頼朝の重臣で小沢郷の領主、小沢
三郎重成(もしくはその子の小次郎)の居城として造られたという。
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小沢城の付近は度々、合戦の舞台となった。
元弘3年(1333) 分倍河原の戦い(新田義貞VS北条高時)
観応2年(1351) 足利尊氏による弟義に対する追討(尊氏方武将は高麗経澄)
永正元年(1504) 北条早雲と山内上杉顕定の戦い(長享の乱の一戦)
享禄3年(1530) 小沢原の戦い(北条氏康VS扇谷上杉朝興)

三沢川を下っていくと、東京都と神奈川県の都県境となり、再び神奈川県
(川崎市多摩区)へと入っていく。
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小沢城址の山の下を流れる三沢川、川沿いには歩行者道が続いている。
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左岸から大丸用水大堀清水川)が合流する。
大丸用水大堀は、南武線鉄橋の上流にある大丸用水堰で多摩川から取水し、
南多摩駅北口付近の分量樋で分かれ、大丸村の田畑を潤していた用水である。
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三沢川は大丸用水からの水を受け入れ、稲田堤方面へと向かう。

《参考資料》
『稲城市史』 稲城市編
『稲城市の歴史と文化財』 稲城市教育委員会編




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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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