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三沢川 1

川崎市麻生区黒川の谷戸を水源として、多摩川へと注ぐ三沢川を辿ってみた。
三沢川の流域自治体は、川崎市麻生区→東京都稲城市→川崎市多摩区
となるが、一級河川としての三沢川は稲城市に入ってからであり、上流の
麻生区では準用河川および普通河川として管理されている。
名前の由来は「三つの沢を集めて流れる」という説があるという。

かつては三沢川は二ヶ領用水に注いでいたが、昭和18年(1943)、治水対
策のために多摩川へ直接注ぐように改修された。
但し、旧流路は「旧三沢川」として現存する。
また、多摩ニュータウンの開発に伴い、その雨水排水用として三沢川分水路
が昭和59年(1984)に造られ、トンネルを通じて稲城市大丸で多摩川へと放
流できるようになった。
なお、三沢川分水路については、分岐点を紹介する際に取り上げることとしよう。

このように三沢川を流れる水は、現在、直接多摩川へと流出されるが、改修
前には二ヶ領用水へと通じていたということから、本ブログでは『二ヶ領用水・
大丸用水水系』のカテゴリとして取り扱うこととしたい。

まずはその水源である谷戸からスタート。
調べてみると七ッ谷(ナナツヤト)と称する谷戸であるらしい。
残念ながら川の源である湧水には近づけない。
立ち入ることができる最上流部では、すでに川は梯子状の梁がある開渠とな
っている。
2016-02-27_6.jpg
ちなみに写真左手の崖上には国士館大学多摩キャンパスがあり、その崖淵
が東京都と神奈川県の都県境となっている。

三沢川は谷戸の中を流れていく。
周囲は田園が広がり、東京都に隣接する地区とは思えないのどかな風景が
展開する。
近隣の住民の方々が散策やジョギングを楽しんでいたりする。
2016-02-27_17.jpg

その先、明治大学黒川農場を右手に見ながら進んでいく。
ところどころで、小さな支流も流れ込む。
2016-02-27_21.jpg

その1つの右手から合流する支流との合流地点、写真は下流側から撮影し
たもので、写真左手の流れが支流である。
2016-02-27_29.jpg

その支流を追っていくと、西東京変電所の北へと達する。
こちらは石神谷戸という谷戸らしい。
上流は変電所敷地内へと消え、こちらも水源まで辿ることはできない。
2016-02-27_25.jpg

さらに辿ると、三沢川はコンクリート三面張りの小河川となっていく。
2016-02-27_32.jpg

谷戸の北側の丘の上には、毘沙門天堂という小さな祠がある。
2016-02-27_36.jpg
明治初期に廃寺となった金剛寺跡地に建てられた毘沙門天像を祀る堂である。
坂道とそれに続く階段を上っていくと、静寂につつまれた小さな境内があり、
心が洗われるような感覚になる。
写真に映る石仏は首が切り落とさており、これは廃仏毀釈の傷跡とも考えら
れているようだ。

谷戸の端を流れていく三沢川、やがて鶴川街道に達して三沢川は谷戸を抜
けることになる。
2016-02-27_40.jpg

鶴川街道に出たところに汁守神社が鎮座する。
創建年代は不詳、天明2年(1782)に社殿再建の記録があるという。
神社名の由来は、府中の大国魂神社(府中用水3参照)の末社として、くら
やみ祭において供え物の汁物を調える役目を担ったことから、汁盛、転じて
汁守神社となったとされる。
2016-02-27_48.jpg

鶴川街道と交差すると川の様相はガラリと変わる。
川の護岸に柵が設けられているが、残念ながら立ち入り禁止となっており、
川沿いを歩くことはできない。
写真奥に見える高架駅は、小田急多摩線の黒川駅である。
2016-02-27_51.jpg

黒川駅を過ぎた先の三沢川、ここも一見すると川沿いに歩行者道があるよ
うに見えるが、そこを歩くことはできない。
これだけの空間を遊歩道として整備・開放すればとも思うが、なにか事情が
あるのだろうか。
2016-02-27_64.jpg

並行する鶴川街道沿いに曹洞宗寺院の雲長山西光寺がある。
応永年間(1394~1427)、西庵雲長によって開基されたという。
2016-02-27_60.jpg

小田急線に続いて京王相模原線と交差する。
京王線の若葉台駅に近い。
交差した先で、神奈川県から東京都へと入る。
前述の通り、この都県境で三沢川は準用河川から一級河川へと変わる。
2016-02-27_68.jpg

一級河川へと変わった三沢川、とはいっても河川の護岸などが変わるわけ
でもない。
2016-02-27_73.jpg

暫くの間、川沿いを歩くことはできない。
仕方なく鶴川街道を歩き続け、川に交差する道路を見つけては、橋の上か
ら三沢川の情景を楽しむこととなる。
川は刻んだ谷の底を流れるようになり、川沿いを歩くことができないのも仕方
がない。
2016-02-27_79.jpg

さらに歩いていくと三沢川は渓谷の様相を見せてくる。
東京の多摩地方とは思えない光景である。
2016-02-27_84.jpg

左岸から支流の上谷戸川が合流する。
若葉台の北方から流れ出る1kmほどの小河川である。
その合流点を間近に見ることはできないが、下流側の橋から望むことは可能。
(写真右側の家屋の先)
2016-02-27_90.jpg

三沢川が鶴川街道を右から左へと交差し、数百メートルほど進むと新きさら
ぎ橋
という橋が架かっており、ようやく川沿いを歩く遊歩道が出現する。
川周囲の空間も広がり、人家も増えてくる。
川沿いを散策する方々も多く、鶴川街道を細々と下ってきた身にとっては何
かしらホッとする。
2016-02-27_96.jpg

その先で左手に三沢川分水路が分かれる。
2016-02-27_99.jpg
若葉台などの多摩ニュータウンの宅地造成を行うにあたり、三沢川下流の
稲城地区の洪水被害が発生すことが懸念された。
もともと三沢川は暴れ川としても有名で、流域では浸水被害もたびたび
起きており、宅地開発が行われれば拍車をかけることになる。
そこで多摩丘陵に2.9kmのトンネル河川を掘削し、多摩川へ直接放流
することにした。
2016-02-27_103.jpg

こちらは、トンネルを抜けてきた分水路が多摩川へと放流する地点。
ちょうど武蔵野貨物線・南武線の多摩川橋梁の脇(上流側)にあたる。
2016-03-26_26.jpg

三沢川は稲城の市街地へ向かって下っていく。
2016-02-27_108.jpg

《参考資料》
『三沢川河川整備計画』 東京都・神奈川県編



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二ヶ領用水 桜ウォーク 企画しました。

この企画は終了しました。
ご参加ありがとうございました。


いままで、一人で川沿いを歩き、桜をみてきましたが、
今年は二ヶ領用水の桜ウォーク イベントを企画してみました。

行程:登戸駅→二ヶ領用水せせらぎ館→二ヶ領用水宿河原堀
   →久地円筒分水→二ヶ領用水川崎堀→武蔵溝の口駅
   (概ね6km 2~3時間ほどの行程です) 

日時:2016年4月2日 AM10:30
   (小雨決行、悪天候の場合は翌日3日に延期)

参加費:無料

集合場所: 小田急線・JR南武線 登戸駅 
      小田急線改札外
      (当日は「二ヶ領用水 桜ウォーク」と記載した紙を
       持っている予定)

催行人員:最大20名程度

参加方法
  ■ Twitter_IDをお持ちの方
     Twiplaから参加をご表明ください。

  ■ Twitter_IDをお持ちでない方
     この記事のコメントにて参加をご連絡ください。
     1) 記事下部のCommentをクリック
     2) お名前、メールアドレスをご記載ください。
     3) 個人情報が含まれるため、非公開コメントとしてご投稿ください、
     ※ 集合方法、天候不順時等の対応などご連絡のため、メールアド
        レスは必須とさせていただきます。
       ご連絡のため以外にメールアドレス等個人情報は使用しません。

   コメントでのご参加の方は前日22時まで、
    Twitter_IDでのご参加の方は当日朝9時まで受付可能です。

注意事項等
  1) 歩きやすい服装、靴でご参加ください。
  2) 配布資料はありませんが、せせらぎ館で二ヶ領用水に関する
    パンフレット等を入手可能です。
  3) 途中、2箇所程度で休憩をとります。
  4) 歩行中の喫煙・飲酒はご遠慮ください。

イベントの企画は初めてなので、至らぬ点があるかと思いますが、
ご容赦ください。

ご参加をお待ちしています。
   

深大寺用水西堀 2

前半では殆ど痕跡がなかった深大寺用水西堀も、国分寺崖線を下ると、とこ
ろどころにその跡を見ることができる。
柴崎2丁目3番地のコンクリート工場裏手にある水路跡。
2016-02-13_52.jpg

上の写真の坂道を上ると眼下には開渠が続いていた。
用水跡というよりは、正確にいうと用水跡を利用した雨水排水路というべきだろうか。
水は流れていない。
2016-02-13_56.jpg

工場やスーパーを迂回していくと、水路は柴崎稲荷神社の下に蓋暗渠として
現れる。
2016-02-13_58.jpg

その脇の高台に鎮座するのが柴崎稲荷神社、柴崎地区の鎮守社である。
創建年代は不詳だが、小田原北条氏や江戸期の地頭佐橋氏から、社地の
保護を受けたという記録もあり、室町末期には成立していたとみてよいだろう。
2016-02-13_61.jpg

この柴崎稲荷神社の下で、水路は2つに分かれていたようだ。
神社から南へ向かう水路と、そのまま東へと向かう水路である。

南へと向かう水路は、道路沿いの歩道を蓋暗渠として続いている。
2016-02-13_63.jpg

その先は一般道になって痕跡はなくなるが、甲州街道の手前にある蛇行す
る道路形状にその面影をみることができる。
2016-02-13_65.jpg

一方、東へと進む水路は現在の柴崎2丁目、そして西つつじヶ丘1丁目の
住宅街の中を進んでいたようだ。
2016-02-13_66.jpg

柴崎稲荷神社から200メートルほどの地に、金子厳島神社がある。
こちらも創建は不詳、境内の由緒説明には「推古の頃との説もある」との一
文もあるが、いかがなものであろうか。
ただ、風土記稿には義経一行が奥羽へ落ち延びる途中、武蔵坊弁慶が池
の水で大般若経を書写したという伝説が記されているという。
2016-02-13_71.jpg

弁慶が書写に使用した水の池とは、神社東方にあった100平方メートルほ
どの湧水池であったらしい。
金子厳島神社も以前は「弁財天稲荷合社」と称し、農耕や生活に不可欠な
湧水を、村民が崇めて弁天祠を設立したのが神社の始まりとも伝えられている。
現在は鳥居の脇に小さな池があるが、水はなく、残念ながら湧水は絶えて
しまったようだ。
2016-02-13_73.jpg

この先の深大寺用水はこの湧水池からの小河川を利用したのかもしれない。
こちらも一般道となって殆ど痕跡はないが、僅かに水路跡らしき細い道が
甲州街道西側の住宅地の中に残っていた。
2016-02-13_77.jpg

再び転じて申し訳ないが、先ほど柴崎稲荷から南へと向かった水路は、
甲州街道を渡ると、再び蓋暗渠としてその姿を現す。
そしてこの先で2つに分かれた水路は合流し、東進する。
2016-02-13_80.jpg

住宅街の中を歩道として続く暗渠。
2016-02-13_82.jpg

水路は京王線の線路に達する。
2016-02-13_85.jpg

線路で行く手を遮られてしまうため、Uターンして迂回し柴崎駅側の踏切を
経由してその先を辿っていく。
京王線の反対側には小さな畑があり、畑の中を蛇行する水路を見ることが
できる。
2016-02-13_90.jpg

その先は菊野台第2緑道として続く。
2016-02-13_91.jpg

品川道路を渡った先、フェンスに囲まれた遊歩道。
2016-02-13_96.jpg

この遊歩道の南には天台宗の無楽山清教寺がある。
創建年代は不明だが、江戸期にはこの地にあったようだ。
2016-02-21_5.jpg

遊歩道は市民大町スポーツ施設で途切れ、その先は施設の南側に沿って
進むことになるが、その前に八剱神社に立ち寄ってみよう。
建武年間(1334~38)、鎌倉幕府の家臣が原野を開き、この地に一村(旧
大町村)を起こした。
村民がその功績を讃え、8名の佩刀(はいとう)を神宝として産土神に奉祀
したのが始まりと由緒板に記されている。
以来、は旧大町村(現菊野台)の鎮守社として、この地に鎮座している。
2016-02-21_1.jpg

大町スポーツ施設の南側に続く暗渠、写真でわかるように横に隙間が開い
ており、中を覗くと梁が見える。
2016-02-13_100.jpg

スポーツ施設の東側で、東堀の大町分水を合流し、調和小学校の西を野川
へと進んでいく。
2016-02-13_103.jpg

箕和田橋と小金橋の間で、深大寺用水西堀は野川へと落ちていた。
現在は雨水路の吐口として、金属製の弁が取り付けられている。
東堀の合流口(野川下流、小金橋脇)とは、100メートルほどの位置関係である。
2016-02-13_105.jpg

《参考文献》
『調布市史 民族編』 調布市編
『調布の古道・坂道・水路・橋』 調布市教育委員会編



目次
  

深大寺用水西堀 1

深大寺用水東堀に引き続き、深大寺用水西堀を辿ってみた。
(深大寺用水開削の経緯については、深大寺用水東堀1の項参照)

三鷹市野崎で梶野新田用水から分けた深大寺用水は、東八道路の南側で東
堀と西堀に分かれる。
大型ディスカウントストアの南側に沿って、柵に囲まれたスペースがある。
東京都水道局の敷地となってはいるが、西堀の跡地であろうか。
但し数十メートル先には野崎一号水源というポンプ井戸があるのだが、柵内の空
地と用水との関係は不明。
2016-02-13_1.jpg

水源の先、武蔵境通りにぶつかる。
深大寺用水西堀は武蔵境通りに沿って南下していたようだ。
道路も拡張され、用水の痕跡は一切ない。
2016-02-13_4.jpg

武蔵境通りの西側に冨士嶽浅間神社が鎮座する。
明治14年(1881)に浅間神社教会が設立、地元の青木九左衛門により社殿
が寄贈・建立されたという。
調べてみると、かつて境内には深大寺用水西堀の土を盛って造られたと言われる
富士塚があったようだが、残念ながら武蔵境通り拡張時に壊されたらしい。
2016-02-13_7.jpg

しばらく武蔵境通りを進んだあと、神代植物公園北交差点を左折、植物公園の
北側の通りを進む。
神代植物公園は、もとは東京都の街路樹などを育てるための苗圃であったが、
戦後に神代緑地として公開、その後昭和36年(1961)に植物公園として開園
された。
2016-02-13_11.jpg
この道路沿いにも深大寺用水の痕跡は一切ない。
ただ、道路に沿って歩くだけの単調なものになるが、道路北側の自由広場など
に立ち寄って休息をとるのもいいかもしれない。

やがて三鷹通りと交差する深大寺五差路交差点が見えてくる。
2016-02-13_16.jpg

深大寺五差路の先、深大寺浄水所の脇を進んでいく。
道路右側の歩道が水路跡なのであろうか。
2016-02-13_17.jpg

深大寺五差路から200メートルほど歩くと歩道が途切れる。
深大寺用水はここを右へ入っていったようだ。
2016-02-13_21.jpg

道路が蛇行し、ようやく水路跡のような感じになってくる。
この辺りは調布市絵堂地区といい、深大寺の絵馬堂があったことがその由来で
あるらしい。
2016-02-13_22.jpg

その先、道路は私有地に突き当たって終わってしまう。
用水はこの私有地の中を通っていた。
2016-02-13_25.jpg

迂回して中央高速の脇に出ると、調布市指定天然記念物の絵堂のカゴノキがある。
カゴノキはクスノキ科の常緑樹で、樹皮が円い薄片がはげ落ち、鹿の子斑状に
なるので、「鹿子の木」と名がつけられたようだ。
当地にあるカゴノキは樹齢300年ほどという。
2016-02-13_32.jpg
脇にある調布市教育委員会による説明板には深大寺用水を開削した富沢家
についての記載もあったので、それを引用してみよう。

当屋敷の富沢家は、深大寺用水をつくった名主富沢松之助の家で代々名主
をつとめた。
当家の家系書に多摩市連光寺の富沢家から久太夫が分家し深大寺の小字
「里」に住み後に崖上に移ったとある。
その年代は正保または元禄年間(1644~1703)と推定される。


このカゴノキにある屋敷が、富沢家代々の敷地であり、深大寺用水西堀がその
屋敷地内を流れていたということになる。

中央高速の切り通しを越えた先も、用水は民有地の中に入ってしまう。
近くの道路を経て、深大寺自然広場内のカニ山へと迂回する。
廻り込んだ先、キャンプ場への入り口脇では、なんと深大寺用水の素掘を見る
ことができるのだ。
年月を経ているためにかなり埋もれているが、わずかに窪地として残っている。
暗渠として続く東堀とは異なり、スタート地点から殆ど痕跡がない西堀において、
いきなりこのような場面に出くわすとは感激もひとしおである。
2016-02-13_37.jpg
このカニ山の南側は国分寺崖線となっており、崖下はマセ口川の上流部となっている。

深大寺用水西堀は東進し、晃華学園および市立神代中学校の敷地内へと
入ってしまう。
晃華学園内には明治33年(1900)に造られた竹内水車があり、生糸の揚げ返
しが行われていたという。
2016-02-13_44.jpg

上の写真の先で道路は崖線を下るが、かなりの急坂となっている。
坂の途中には小さな祠の樫の木稲荷があり、その稲荷から「樫の木稲荷の坂」と
呼ばれている。
2016-02-13_47.jpg

この辺りで、用水は国分寺崖線を下っていたようだ。
高低差から想像すると、相当速い水流となって崖線を駆け下りていたのであろう。
崖線を下った先、神代中学校の東南に水路跡の空き地があった。
2016-02-13_50.jpg

《参考文献》
『調布の古道・坂道・水路・橋』 調布市教育委員会編



次へ 目次
 

深大寺用水東堀 2

引き続き、深大寺東堀を追っていく。
柴崎緑道は公園の東側で終わってしまうが、その先も歩行者用道路として柴崎2
丁目の住宅街の中を続いている。
2016-01-31_85.jpg

堀跡の歩行者道は宮の上交差点付近でいったん一般道に合流、そして交差点
から東へ100メートルほど行った地点で再び暗渠道が左へと折れる。
2016-01-31_90.jpg

ここの歩行者道は未舗装、左側の擁壁は古い護岸跡であろうか。
2016-01-31_93.jpg

その先の左側に寺院が三軒ほどある一画がある。
まずは仏迎山延浄寺、浄土真宗の寺院で、寛永9年(1632)、西照坊の開基
により日本橋浜町に建立。
その後、明暦の大火により築地に移転、当地には関東大震災後の区画整理の
ため、昭和4年(1930)に移転してきた。
2016-01-31_106.jpg

坂を上ると、光源寺(写真手前)と寿林寺(写真奥)が並んで建つ。
2016-01-31_104.jpg
光明寺光源寺は元和元年(1615)、佐々木専祐により日本橋浜町に建立。
平源山寿林寺は永禄7年(1564)、寿林尼により芝金杉に創建された寺院。
延浄寺同様、ともに関東大震災後にこの地に移転してきたという。
ただ、どちらも鉄筋コンクリートに建て替えられおり、古刹のような奥深さは感
じられない。

中央高速道路より北側では、東堀は入間川沿いに設けられていたが、この付近
では光源寺や寿林寺付近を尾根として、北に入間川、南に深大寺用水と、別々
の谷を流れている。
ともに10メートルほどの谷であるが、用水路が谷を造るわけではないので、
もともとこの地を流れていた川を利用して、深大寺用水が開削されたのだろう。

その先の北側にはつつじヶ丘公園があり、その窪地の中にらんせん池と呼ばれる
池がある。
明治期末期から昭和にかけての政治活動家である田中澤二(1887~1955)
が当地に居を構え、湧水を利用して自然庭園を造り、池を掘ったという。
らんせん池の由来は田中澤二のペンネームである蛍澤藍川に因み、彼の死後に
弟子たちによって名づけられたものである。
2016-01-31_95.jpg

東堀に戻り、進んでいくと道路脇に緑地帯がある。
緑地帯の中にはマンホールがあり、ここが東堀の跡であることを語ってくれている。
2016-01-31_108.jpg

その先の道路の左側には窪地となり、その窪地の中を蓋暗渠が続いているが、こ
れは入間川の支流。
深大寺用水と間違えやすいが、暗渠はその先、入間川が流れる東へと曲がって
いくのですぐにわかる。
2016-01-31_110.jpg

深大寺用水は甲州街道に出るが、その西側にあるのが曹洞宗の大雲山金龍寺
栄西禅師により建永元年(1206)に開基されたというから、相当の古刹である。
もともとは金子弁財天社(現金子厳島神社 深大寺用水西堀2参照)に安置さ
れた南光坊と称する堂宇であったらしい。
2016-01-31_118.jpg
もとは臨済宗の寺院であったが、文禄3年(1594)に曹洞宗に改宗、寛文5年
(1665)に当地に移された。

甲州街道に達した深大寺用水東堀は、街道の南沿いを西へと進む。
この辺りは旧金子村、深大寺用水開削以前の天保14年(1843)に描かれた
「金子村絵図」には既に水路が記載されている。
これは品川用水の分水である根田耕地用水であり、深大寺用水はこの水路を
流用したものであるらしい。
2016-01-31_121.jpg

しばらく甲州街道沿いを歩き、坂を下っていくと、その先で左に入る。
道路沿いにはコンクリートの歩道が続く。
京王線のガードの手前で、本流から右へ大町分水が分かれていた。
その水路名は現菊野台付近にあった大町村にもとづくもの。
2016-01-31_155.jpg

先にその大町分水を追ってみよう。
未舗装の道を数十メートルほど歩くと、畑が広がり、道が二又に分かれる。
ここで水路は2つに分かれていたようであるが、左は京王線に突き当たって終わって
しまうので、ここは右側の道を進んでいく。
2016-01-31_149.jpg

畑の脇の道を進んでいくが、その道の中央には明らかに用水の護岸壁とわかるコン
クリート壁跡が続いている。
なお、京王線はこの道路を小さな架道橋で越えているので、このまま進めば線路
の反対側へと出ることができる。
2016-01-31_147.jpg

線路を越えた後はしばらく一般道が続くが、品川通りを越えた先、大町分水は、
菊野台第3緑道として現れる。
2016-01-31_142.jpg
緑道は100メートルほど続き、市民大町スポーツ施設に突き当たる。
スポーツ施設の敷地内には水路跡は確認できないが、その南側を流れていた
大寺用水西堀
と合流し、野川へと向かっていた。

さて、大町分水との分岐点へと戻り、深大寺用水東堀の本流を辿る。
京王線を越えた先、西つつじヶ丘4丁目の住宅街に歩行者道が続く。
こちらの歩行者道は、道路の中央部に幅数十センチのアスファルト舗装が続くと
いうもの。
2016-01-31_128.jpg

本流も先ほどの大町分水と同様に品川通りを越えて東へと進む。
2016-01-31_132.jpg

その先は調布市と狛江市に跨る巨大な神代団地、昭和40年(1965)に完成した。
団地ができる前は「金子田んぼ」と呼ばれる田園地帯であったようだが、今では水
路跡さえ確認できない。
2016-01-31_133.jpg

深大寺用水は小金橋脇で野川へと合流する。
以前は雨水管のごく普通の吐口があるだけだったが、平成25年、入間川下流
部の浸水被害を防ぐために入間川分水路が建設され、その吐口として改修された。
2016-01-31_137.jpg
かつては入間川源流の枯渇が一因として開削された深大寺用水、その
東堀の吐口が近年、このように利用されたということに。入間川との
因縁を感じざるを得ない。

《参考文献》
『調布の古道・坂道・水路・橋』 調布市教育委員会編



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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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