深大寺用水東堀を追った。
深大寺用水については、既に本ブログからリンクさせて頂いている
tokyoriverさんや
imakenpressさんが丹念に調査され、記事を書かれている。
今回、深大寺用水を辿るにあたり、とても参考になるサイトであり、紹介させて
頂くとともに、この場を借りて御礼申し上げたい。
まずは深大寺用水の歴史について触れておこう。
深大寺用水は江戸期に造られた他の多くの玉川上水の分水とは異なり、明治
4年(1871)に開削された田用水である。
深大寺用水開削のきっかけとしては、2つの要因があるとされる。
1つは安政2年(1855)に発生した安政大地震であり、入間川の源流域であ
る深大寺村字野ヶ谷の湧水群(釜と呼ばれる)が地震によって枯渇してしまった
という事象である。
入間川流域にはその湧水を利用して水田地帯が広がっていたが、荒れ地となっ
てしまったという。
もう1つは明治維新による行政事情およびそれに伴う租税の重税化である。
江戸期、この辺りは天領(幕府直轄地)や旗本知行地であり、年貢もそれほど
重いものではなかった。
明治維新後、調布付近は品川県に所属することとなったが、品川県の財政悪
化という事情もあって重税が課せられることとなった。
そのため、荒廃地の復活、水田の拡張の必要性に迫られた。
深大寺村名主である富澤松之助を中心に明治3年末に富澤松之助(1844
~1926)を中心に、当時、野崎村(現三鷹市野崎)まで引水されていた梶野
新田分水の水の利用を品川県へ懇願した。
翌4年4月には認可が下り、早速、工事が開始された。
前年の明治3年、分水口改正が施行され、玉川上水南部の分水は砂川村
の取水口から取水、砂川用水を通して配水されるようになっていたが、砂川用
水ならびに梶野新田分水を拡張する必要があった。
富澤松之助の記録によれば砂川用水取水口から梶野新田までの14キロ弱
の区間をわずか2日間で、その先、野崎までの5.5キロの区間を7日間で堀割
を行ったとされる。
また、深大寺用水については、トンネル開削、築土手などを約10日間で完成
させたといわれる。
但し、用水として機能するまでには2ヵ月近い歳月が必要であったようだ。
これらの工事は富澤松之助の私財を投じて行われ、「生命が終わるか、身上
が終わるか」というのが松之助の口癖であったという。
なお、既存の野崎村までは飲用水としての用水であり洗い物が禁止されてい
たが、野崎村以降は田用水として利用され、洗い物も許可されていたという。
おそらく、現在のように洗剤を使用しない洗い物であれば、田用水には影響し
なかったということであろう。
さて、三鷹市野崎から深大寺用水東堀を追ってみよう。
野崎交差点の辺りで、
梶野新田用水から深大寺用水が分かれていたという。
さらには、東八道路の南側で東掘と西堀が分かれる(水分れ)が、今回は野崎
交差点から歩き始めることにする。
野崎交差点から武蔵境通りを南へ歩き出すと、通り沿いに
野崎八幡社がある。
深大寺用水は野崎八幡社の東側(写真左)の道路を通っていた。

野崎村の創設は元禄8年(1695)の検地の際と言われているが、野崎八幡の
創建はその6年前の元禄2年(1689)のことだという。
社地が深大寺末寺の池上院に寄進され、同院が八幡社を勧請したとのこと。
八幡社の境内には薬師如来を祀る薬師殿があり、江戸末期(文久期)に三河
国鳳来寺の尼僧、梅風尼によってもたらされたという。
以来、眼病などに効能があるとされる「だんごまき」の行事が継承され、現在でも
十月八日に行われて三鷹市の無形文化財として登録されている、

野崎八幡の南に通る東八道路を渡り、数十メートルほど進むと、
東堀と
西堀の
分岐点である水分れに達する。
今回は東堀を辿っていくので、左折してそのまま進むこととする。

東八道路の南を東進していく。

その先、一般道は南へとカーブするが、深大寺用水の跡は未舗装の歩行者道と
して残っている。

その先、未舗装の道は短い坂を下り、いよいよ野ヶ谷の谷戸に入っていく。
ここで東堀は谷戸の東西の2つの流路に分かれていたようだが、ここはそのまま南
へと向かうこととしよう。

南へ向かう道路の右側に歩道が続く。
写真の赤い家の道を左へと曲がると、数十メートル先に
入間川の水源地(「釜」
と呼ばれる)であったことを説明する説明碑が立っている。
(
入間川1参照)

歩道はところどころ車道と段差が生じているが、かつての用水の護岸の名残のようだ。

用水沿いの道路は300メートルほど続く。
歩道が尽きる場所に五叉路があるが、ここは斜め左の道へと入っていく。

その道を辿っていくと、諏訪神社の東側で三鷹通りへと出てくる。
諏訪神社の由来については、入間川の項(前出)で説明したので、ここでは境内
にある石柱や石塔について紹介する。
上記写真の鳥居のを入ると、左側に1基の石橋と5基の庚申塔を見ることができる。
写真手前の石柱には「すわまえばし」と記載されており、現三鷹通りが深大寺用
水東堀に架かっていた橋の親柱である。
5基の庚申塔は近隣地域よりここに移されたもので、一番古いものは寛文6年
(1666)の建立で、調布市内最古の庚申塔であるらしい。

諏訪神社の先も歩道がある道が続く。
先ほどの歩道とは違って、整然とした感じの道である。

梅の湯という銭湯を過ぎると、再び蓋暗渠の歩道が出現する。

途中、右手にある
きつね山児童遊園から眺めた光景、手前の道路が辿っている
深大寺用水東堀、奥に見える道路が入間川の流路跡である。
このように用水と入間川は数十メートルほどの間隔で並行している。

その道路は原山通りに合流して終わるが、原山通りを数十メートルほど南下すると、
左に折れる住宅街の道路に流路跡を見出すことができる。

更に辿っていくと、中央高速道路の北側、深大寺3丁目内14番に水路跡がある。
深大寺用水はここから179メートルの隧道となっていたらしい。
現在、この先で中央高速が切り通しとなって貫いており(写真奥の柵の向こう)、
その隧道を窺い知ることはできない。
さらには、前掲のtokyoriverさんやimakenpressさんの記事にある隧道につ
いての説明碑がなくなっていた。

たまたま近くで農作業をされていた方にお話を伺うと、この水路跡は民間に払い下
げられたとのこと。(基本的に水路は公用地)
もしかしたら、数年後、この水路跡そのものが消滅してしまうかもしれない。
中央高速を跨道橋で渡ると小さな谷を下る。
隧道はこの谷下に抜けていたようだが、出口側も確認することはできない。
この谷を蛇窪といい、この辺りの旧字名を蛇久保と称していた。
その谷下を通る道路の南側から
柴崎緑道が始まる。

緑道は
柴崎公園の北沿いに沿って進んでいる。
深大寺用水東堀はこの辺りから南東方向へ、甲州街道を目指して流れていた。

《参考文献》
『調布の古道・坂道・水路・橋』 調布市教育委員会編
『対話 深大寺用水』 調布市郷土博物館編
『調布市の歴史』 中西駿郎著
『三鷹の民俗1 野崎』 井之口章次著(三鷹市教育委員会発行)
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