新年あけましておめでとうございます。
今年も当ブログをよろしくお願いします。
さて、昨年に引き続き、新春企画として一文を記してみたいと思います。
今年のテーマは『用水へのいざない』、ご一読いただければ幸いです。以前のブログ(すでに廃止)時代から、河川や水路(開渠、暗渠を問わず)を休日に歩いて8年以上になる。
そのような中で、ここ1~2年、用水に虜になっている。
もちろん以前にも5年ほど前には玉川上水を羽村から四谷大木戸まで完歩したりしている。(その後、再び全区間完歩。)
特に昨年は主に用水を選んで散策するようになり、昨年に記載した記事の7割以上は用水に関するものであろう。
なぜ私が用水に魅せられたか、それは用水そのものに歴史を感じるからだ。
もちろん、自然河川にもいくらかの歴史はある。
しかしながら、用水は先人が苦労を重ねて築造してきたものであり、まさに水路そのものが歴史的遺産なのである。
しかも、玉川上水は現在でも都民の飲用水として利用され、また府中用水などでは田用水として使われるなど、数百年前に開削された用水がいまだに現役として利用されていることに驚嘆せずにはいられない。
現在、開渠、暗渠、水路跡など、用水は多様な姿でみることができる。
特に玉川上水およびその分水では、武蔵野の風景とも相まって、様々な形状で残っている。
遠く羽村取水堰で取り入れられた多摩川の原水が、小平や立川の住宅の間を縫うように流れているのに感動し、また水は流れていなくとも素掘を見つけると、いにしえの風景が目に浮かぶような感覚にとらわれる。
そしてそれらの用水を追うと、開削時における先人たちの技術や努力に驚かせられるのである。
本ブログでは、これまで六郷用水、二ヶ領用水、玉川上水、府中用水及びそれらの支流(分水路・支堀)について取り上げてきたが、それぞれの魅力について述べておきたい。
六郷用水と二ヶ領用水は、小泉次大夫が徳川家康の命を受けて慶長2年(1597)から同16年(1611)までの歳月を要して開削したものである。
二つの用水を合わせて四ヶ領用水とも呼ばれる。
東京側の六郷用水と川崎側の二ヶ領用水を同時並行(実際は領民の賦役を緩和するために、3ヵ月毎に交互に進行させたらしい)して行われたらしい。
この開削が行われた時代は、秀吉が死亡し(1598)、関ケ原において天下分け目の合戦が行われ(1600)、徐々に家康がその権力を増大していった時期である。
そして用水完成4年後の1615年には大阪夏の陣にて豊臣家は滅亡する。
歴史的には徳川VS豊臣という局面に目を向けられがちだが、そのような時期において、家康が着実に用水構築という大工事を通して自領の地盤固めを行っていたというのは驚愕に値する。
六郷用水において、現在開渠として残っているのは多摩川沿いの丸子川の部分のみであるが、その他にも部分的に水路跡が遊歩道として残っている。
また上流部においては国分寺崖線に沿って流れているため、崖線直下の湧水などを訪ねながら歩くこともできる。
大田区南部においては、支堀が放射状に広がっていたのでその痕跡を辿ってみるということも楽しい。
六郷用水一方、二ヶ領用水は現在においても上河原堰や宿河原堰において多摩川から取水され、川崎市北部を縦断して流れている。
農業用水として(その後、工業用水化)の役目は終えたが、現在は環境水路化され、水路沿いの多くの部分で遊歩道が設置され、また所々には親水設備が設置されている。
また、久地の円筒分水という歴史的文化財も残されているのも嬉しい。
二ヶ領用水次は玉川上水、羽村取水堰から水を取り込み江戸市民の飲用・生活用水として造られた約43kmに及ぶ用水路。
六郷・二ヶ領の各用水の完成から四十余年後の承応2年(1653)に開削された。
庄右衛門、清右衛門兄弟(完成後に玉川の姓を名乗る事が許される)の指揮のよって施工され、老中松平伊豆守信綱が総奉行として就任した。
工事は承応2年4月に着工し、8ヵ月後(同年は六月が閏月)の11月に完成したといわれている。
43キロほどの区間をこれだけの期間で施工し、なお且つ、玉川上水はところによっては10メートルを超える箇所もある。
私自身はちょっと首を傾げたくなる。というのは、この話は『上水記』に記載されているものであり、その上水記そのものは玉川上水開削後
百四十年ほど経て寛政3年(1791)に書かれたものであり、その信憑性には疑問を投げかけたい。
いくらなんでも、この大事業をわずか8ヵ月で完成したとは信じがたいのである。
玉川上水を歩いてみると、まずその規模に驚かせられる。
100万とも言われる当時の江戸の人口の水需要を考えれば、当然のことかもしれないが、重機などない時代にこれだけ大規模な用水路を造ったものだと感心する。
そして、測量技術の正確さ、分水嶺を巧みに通し、43kmの区間で高低差わずか96mという当時の技術からすれば完璧といった事業であったであろう。
玉川上水上流部(羽村付近)と中流部(小金井公園付近)玉川上水沿いでは、その区間の多くで木々が植えられており、遊歩道が設置されている。
ところによっては鬱蒼とした林のように感じ、武蔵野の自然が残されている。
数十キロメートルに及ぶグリーンベルトと言っていいだろう。
他の用水に比べて、グループでウォーキングを楽しんでいる方々やウォーキングイベントなどを見かけることも多い。
都内近郊という場所柄、気軽に行ける隠れたレジャースポットとしてもお勧めである。
玉川上水のもう1つの魅力として、分水の存在がある。
もちろん他の用水にも分水路があるが、玉川上水における分水ではそれぞれにその歴史がある点だ。
前述のように玉川上水は江戸市民の飲料用として造られたが、その後、武蔵野の農業用水、飲用水としても分水が開削された。
野火止用水や小川用水など、玉川上水完成直後に分水されたものもあるが、享保7年(1722)、享保の改革の政策の1つとして新田開発奨励の高札が日本橋に掲げられたことにより、武蔵野の新田開発が進められ、分水が許可されたというものも多い。
現在でも玉川上水から分かれた小流が道路沿いや住宅の間を通り抜けている。
また水が流れていない区間においても、水路がそのまま保存され、
素掘のある場所を見つけると、思わず声をあげたくなる。
特に小平市では条例により用水路の保存・環境保全が実施され、一部は緑道として親水整備が行われている。
玉川上水分水 -小川用水(上)と野中用水(下)-また、分水路周辺の寺社を訪れてみると、新田開発に伴って創建されたという由緒を持つものが多い。
開発に伴い入村してきた農民などの信仰のために神社や寺院が造られ、それが今に至っている。
なかには、野中新田における円成院のように、布教(黄檗宗)を目的として新田開発が行われたというケースもみられ、興味深い。
府中用水については、その成立は不詳である。
玉川上水開削時の失敗談になぞらえて、玉川兄弟が当初、府中から取り入れようとしたことをその起源とする説があるが、失敗談
そのものが疑わしい。
ただし、府中用水は六郷用水や玉川上水と同様、十七世紀前半に開削されたであろうと言われている。
府中用水は現在でも農業用水として現役の用水路である。
水路は四方八方へと分かれ、その全てを追うことはとても難しい。
しかしながら、水が音をたてて流れる様を見ていると、とても東京都内とは思えず、ゆったりとした気分にさせてくれる。
なお、さすが現役の農業用水ということもあり、湧水を水源とする矢川、清水川などからの水が流れる区間を除いて、水が流れる時期は5月中旬から9月上旬に限られるので注意が必要。
府中用水以上、4つの用水を紹介してみたが、歴史的遺産ということもあり、それぞれの自治体やNPOなどが観光資源として、説明板の設置、観光案内パンフレット等の出版を行ない、力を入れている。
それらを見ながら歩き、その地域(もしくは地元)の地史に触れていくというのも楽しい。
六郷用水(左)と二ヶ領用水(右)の説明板一般河川に見られるような地形的な面白さには欠けるが、歴史に触れ、水や緑を味わうという体験を是非とも味わって頂きたい。
私自身、これまでいくつかの用水を歩き、ブログで紹介してきたが、まだまだ数多くの用水が存在する。
これからもそれらを追って、紹介していきたいと思う。
各用水の歴史・見どころは、ブログのそれぞれの記事で紹介しています。
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