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梶野新田分水 2

前項において、梶野新田分水は中央線との交差付近で水路が2本に分かれてい
たと書き、南へ向かう水路を追った。
本項では南東へと向かうもう1つの水路を追うことから始めよう。

2本に分かれた後、東小金井駅から続く富士見通りに沿って流れていた。
富士見通りには商店やマンションなどが続くが、分水の痕跡は認められない。
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富士見通りと西武多摩川線の踏切の先、南へと続く緑道がある。
梶野新田分水はここで南へと向きを変えていた。
緑道の両側にはサツキが植樹されている。
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途中、幼稚園で分断されるが、この緑道は連雀通りまで500mほどまっすぐ続く。
その幼稚園の手前にはこのような橋跡と思われるコンクリート舗装も見られる。
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幼稚園を迂回した先、住宅街の中を進む緑道。
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連雀通りに達すると、先ほど分かれたもう1つの水路と合流し、さらに連雀通り沿い
に東進することになる。
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連雀通りを歩いていくと、「三鷹市井口新田」と称する交差点に差し掛かる。
住所でいうと、北側が「武蔵野市境南町」、南側が「三鷹市井口」となるが、井口
新田という名前が交差点名として残っていることが嬉しい。
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井口新田は享保期(1725年頃)に、上連雀村の井口権三郎の従弟、加藤源五
郎左衛門によって開発された新田であり、権三郎組と五郎左衛門組に分かれていた。
享和元年(1801)には、48戸に達していたという。

さらに連雀通りを東へと歩く。
水路跡は認められないので単調になりがちだが、通り沿いの商店を見ながら歩けば
楽しいかもしれない。
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日赤病院南交差点を過ぎて200mほど行った先で、梶野新田分水は南へと折れ
るが、もう数十メートルほど歩いて井口大鷲神社を訪ねてみよう。
先ほど歩いていた富士見通りの延長と連雀通りがY字交差した地点に小さな祠がある。
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創建年代は不詳、もともと蓮華寺(廃寺)にあったものを明治9年(1876)、当地
へ遷座した。
神社の碑文は、武者小路実篤の揮豪によるもの。

連雀通りから右折した梶野新田分水は大沢方面を目指して流れていたようだ。
現在は武蔵境通りの西側の住宅街の中の道路の歩道となって続いている。
2015-12-26_22.jpg

途中、道路の左側に井口八幡神社が鎮座する。
元文元年(1736)に創建、上連雀村の井口院を別当寺とする。
明治の頃までは、祭礼時には井口院隣接の神明社の幟を持ってくるという行事が
おこなわれていたそうだ。
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井口と野崎の境付近まで南下すると、水路は変わった動きをする。
いったん、水路は西へと向きを変えた後、再び南へと向きを変え、その後東へと向か
うのである。
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野崎2丁目に入ると、住宅街の中に細い歩行者道が出現する。
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この先はカクカクと曲がりながら、南東方向へと進んでいく。
基本的には水路跡は住宅街の中の普通の道路となってしまっているが、場所によっ
ては歩行者道となっており、そのような道を探しながら歩くのも面白い。
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人見街道に出る手前には蓋暗渠の通路を見ることができる。
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そして、この先数十メートルで武蔵境通りと交差する野崎交差点となる。
寛文期から元禄期にかけて、甲州裏街道(=現人見街道)南側に集落が出来は
じめ、元禄8年(1695)の検地を経て野崎村として成立したらしい。
その後、享保の改革における新田開発奨励に伴い、街道北側が野崎新田として
開墾されていった。

前項冒頭に記載した通り、野崎から深大寺用水がひかれることになるが、深大寺
用水が開削されたのは、梶野新田分水ができてから150年ほど後の明治になって
からである。

《参考資料》
『三鷹市史』 三鷹市
『三鷹の民俗1 野崎』 井之口章次著(三鷹市教育委員会発行)
『三鷹の歴史』 宍戸幸七著(けやき出版)


   
目次
  
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梶野新田分水 1

梶野新田分水は下小金井村地先で玉川上水を水を分け、梶野新田・染谷新田・
南関野新田・井口新田・野崎新田・上仙川村などに導水するために造られた
二里余り(8km)の吞用水である。
分水願いは享保十年(1725)から度々提出され、許可されたのは享保19年(1734)
、そしてまもなく用水路に水が流れたようである。
(許可年については三鷹市史の記載に基づくもので、築樋付近にある小金井市教
育委員会による説明板には享保17年という記載がある)

さらには明治4年(1871)、梶野新田分水の下流に深大寺用水を開削するにあた
り、上流部の砂川用水を含めて水路の拡張が行われた。
それまでの梶野新田分水は細い水路であったが、幅1.2m、深さ0.7~1.2mに掘
り下げたという。

それでは梶野新田分水を追うことをしよう。
開削当時の玉川用水からの取水口がどこにあったのかは、はっきりしない。
これは明治3年の分水口改正で、梶野新田分水を含めて国分寺用水や小金井
分水などの上水南側の分水が、砂川用水からの取水に改められたからである。
本ブログ 砂川用水の項では関野橋までを辿って紹介したので、その続きとして関
野橋から水路を追ってみることにしよう。

玉川上水に架かる関野橋の南側に空堀を見ることができる。
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その空堀は、玉川上水の南側に沿ってしばらく進んでいく。
写真でみるように玉川上水から一般道をはさんで水路が進んでいるが、玉川上水
が偉大すぎるため、地味なこちらの水路には目を向けにくい。
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その先で梶野新田分水は向きを東南方向へと変え、玉川上水から離れていく。
但し、水路沿いに歩くことはできないため、玉川上水沿いの道に戻りながらその用水
を追っていくことになる。
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梶野橋から南へ続く一般道へと顔を出した梶野新田分水の開渠。
まだ追い始めて数百メートルだが、開渠として確認できるのはここまで、この先は水
路跡として追っていくことになる。
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その一般道沿いに百メートルほど南へと進んだ後、再び南東へと進行方向を変える。
水路跡の草地が続いているが、ここには柵が張り巡らせれており立ち入ることはできない。
この先で仙川との築樋があるのだが、残念ながら大きく迂回を強いられる。
2015-12-19_19.jpg

そしてその仙川との築樋(つきどい)がこちら、ここで梶野新田分水は谷を渡り、
と立体交差することになる。
先ほど柵によって侵入が妨げられると言ったが、下流側からは柵もなく入ることができる。
とはいえ、水路沿いには住居が立ち並んでいるので、訪れる際は迷惑にならぬよう
に気をつけたい。
コンクリートの側壁は、近年になって付けられたものだろうか。
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こちらは下の仙川から見た築樋、その高さは4メートルほどである。
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この仙川、江戸期には長窪の水流と呼ばれる悪水路(排水路)であったが、築樋
と悪水路が梶野新田と下流の境村との抗争の種にもなった。
悪水路は大雨のたびにあふれ出て築樋を破壊してしまうのである。
その後、築樋の補強によって破壊することはなくなったが、その後も境村の農民が水
害にあうのを避けるために堤を築いたことが原因で、長雨時に溜まった悪水が勢い
よく堤を超え、築樋が壊されてしまうという事件も起こったようだ。

梶野新田分水は築樋の後、梶野地区を南下していく。
築樋のところにある説明文によると、「ほっこ抜き」と呼ばれる暗渠であったという。
現在は、水路跡とおぼしき歩道が続いているが、前述の明治期の水路拡張時に
開渠化したとも考えられる。
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なお梶野新田は上小金井村の名主、梶家により開発された新田であり、大麦・小
麦・粟・稗・菜・大根などが栽培されていたようだ。

その先、道路の左側に白い塀が続く場所が、曹洞宗の恵日山長昌寺である。
梶野新田における菩提寺として、明和4年(1767)、栢間村(現埼玉県菖蒲町)
から引寺してきたという。
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北大通りを越えてJR中央線までの区間は並木道が続く。
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JR中央線の北側で、梶野新田分水はそのまま南下して連雀通り沿いに進む水路と、
富士見通り沿いに南東方向へ進む水路に分かれていたようだ。
まずは前者の水路を追ってみて、後者の水路は次項で紹介することにしよう。
(2本の水路は、東町2丁目で再び合流する。)
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中央線の南へと出て、日本歯科大グラウンドの東側の歩行者道が梶野新田分水
の跡のようだ。
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その歩行者道を辿って更に進むと、住宅街の中に水路跡の空間を見つけることができる。
残念ながら柵があって立ち入ることはできない。
どうやら水路跡沿いのお宅が菜園に利用しているようだ。
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迂回していくと、小金井市立東小学校の西側の一般道へと出る。
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やがて道路は西武多摩川線の新小金井駅前へと出る。
小金井市文化財センターに展示されている古い小金井市の地図を見ると、水路は
線路沿いに流れていたようだ。
普通に考えればそのまま直進するのが自然かと思われるが、鉄道開通時に流路変
更が行われたのかもしれない。
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新小金井駅から100メートルほど行くと、連雀通りに出る。
ここで梶野新田分水は、西から流れてきた小金井分水の末流と合流し、向きを東
へと変え、連雀通りに沿って流れていた。
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その連雀通りの南側にあるのが笠森稲荷神社
縁起・由緒などは明らかではないが、元文元年(1736)の創建といわれる。
小さな社殿だが、参道に続く赤い鳥居が目立つ。
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その先、連雀通りの北側には菅原道真を祭神とする南関野天神社が鎮座する。
境内にある石碑には次のように由緒が記載されている。
関野新田(南関野)開発に当り守護神として奉斎す。
享保7年正月中創建と伝う。
   ※享保7年=1722年
本殿は小金井神社から祠を移築したという。
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連雀通りは三鷹市方面へ東進する。
残念ながらというべきか、当然のことというべきか、通り沿いに梶野新田分水を思わ
せるものは何一つない。
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《参考資料》
『小金井市誌Ⅱ 歴史編』 小金井市
『小金井市の歴史散歩』 小金井市教育委員会編
『三鷹市史』 三鷹市
『対話 深大寺用水』 調布市郷土博物館編



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いもり川

青山学院大学構内を水源とするいもり川は2km弱の渋谷川の支流である。
現在は全区間、川跡(暗渠)となっているが、途中には谷地形も見られ、散策す
るには手頃で、飽きを感じさせない。

かつて青山学院大学東側に存在していた池から、いもり川が流れ出していたという。
青山学院大学の敷地は、江戸期は伊予西条藩松平家の上屋敷が存在し、明
治16年(1883)、築地にあった前身の東京英学校がこの地に移転した。
現在はキャンパス内に校舎が立ち並ぶだけとなっているが、東門から構内をうかがう
と、わずかに坂となっておりかつての谷頭を彷彿とさせる。
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青山学院の東側に沿っての道路を南下していく。
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六本木通りを過ぎると、常陸宮邸を右に見ながら進む。
道路の形状が僅かに蛇行しているのは、いもり川の形状に沿っているからだろうか。
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その先で東四丁目交差点に出るが、ここで右側の坂を上って白根記念渋谷区郷
土博物館・文学館
を訪れることをお勧めしたい。
交差点からは歩いて数分の距離である。
渋谷区の歴史をあまねく紹介しており、展示や資料の中には渋谷川水系に関する
ものもある。
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東四丁目交差点の脇には階段に続く細い路地があり、いもり川の流路跡とされる。
この路地はカクカクと曲がりながら数十メートルほど続き、一般道へと戻る。
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さらに一般道を進んでいく。
写真奥に見える校舎は東京女学館、ここの南側にも羽沢の池と呼ばれる池があり、
いもり川へと注いでいたという。
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道路は東京女学館の南西脇でT字路となり、その先はいもり川階段と名づけられ
た階段を下りて、水路跡の細い道となる。
暗渠ファンには有名な場所だ。
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道沿いには石積の護岸跡も残っている。
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階段から続く細道は、その先、広尾3丁目の住宅街へと入っていく。
道の左側には写真のような階段もあり、谷間であることを感じさせる。
ちなみにここの谷は「羽沢の谷」と呼ばれていた。
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谷の西側には、かつて羽沢ガーデンと呼ばれる日本庭園を持つ宴会場があった。
東京市長などを歴任した中村是公の邸宅であった敷地を料亭として始めたもので、
大正時代の日本家屋や庭園を持つものであったという。
平成17年(2005)に閉業後も色濃い緑が残っていたが、残念ながらマンションに
変わってしまった。(写真は2011年訪問時に撮影)
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前掲のいもり階段の左側も新しいマンションが建てられた。
広尾という土地柄、この付近の環境もこの先も変わっていくかもしれない。

その先、道の左手には石積みの擁壁が続く。
一番、羽沢の谷が実感できる場所ではないだろうか。
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いもり川の右手、数十メートルほど行ったところに臨済宗の禅河山東北寺がある。
寛永6年(1629)、美濃国関ヶ原宿出身の僧、至道無難が麻布桜田町に東北
庵を創建したことに始まる。
その後、出羽米沢藩第ニ代藩主上杉定勝の側室、生善院が中興開基し、元禄
9年(1696)に当地に移転、東北寺と改称したという。
その関係から上杉定勝や生善院などの墓所がある。
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特筆すべきは、赤穂事件の当事者である吉良義央(上野介)の妻、富子の墓(写
真右)があること。
吉良富子(梅嶺院 1643~1704)は上杉定勝の四女で義央に嫁いだ。
松の廊下刃傷事件の後、義央は隠居、本所松阪町へ移されるが、富子は義央に
同行せずに上杉家に戻ったため、ここに墓があるようだ。
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いもり川は谷を抜けた後、臨川小学校の西側を南進する。
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明治通りを渡った先、広尾一丁目児童遊園地と称する小さな児童遊園を抜ける
渋谷川へと突き当たる。
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反対側へと回ってみると、児童遊園の下に小さな吐口を見ることができる。
水は出ていないので、現在では単に雨水吐として設置されているものであろう。
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《参考文献》
『「春の小川」はなぜ消えたか』 田原光泰著 (之潮 刊)


  
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二ヶ領用水 宿河原堀

多摩川の水を宿河原堰から取り込んむ二ヶ領用水 宿河原堀を歩いてみた。
登戸駅から多摩川沿いに十数分ほど下流方向へと歩くと、宿河原取水口(堰)が
見えてくる。
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宿河原堀は、上流の上河原堰(中野島取入口)から二ヶ領用水が開削されて十
数年後の寛永6年(1629)、用水周辺の新田開発が進み、水の需要が多くなって
きたため、その補完として、関東郡代伊奈半十郎忠治の手代、筧助兵衛の指揮
のもと、開削されたといわれている。
但し、二ヶ領用水の中興の祖と言われる田中休愚が後に中野島取入口を造ったと
の記録もあり、真偽のほどは明らかではないようだ。

現在の堰は平成6年(1994)に造られた可動堰である。
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それ以前は、安定した取水量を確保するために昭和24年(1949)に造られた固定
堰であったが、これが災いして昭和49年(1974)、台風16号による出水により、対
岸の狛江市において民家19軒が流出する甚大な被害が発生した。
『岸辺のアルバム』としてテレビドラマ化された水害であるため、ご記憶の方も多いだろう。
その多摩川水害により、固定堰から可動堰に変更されたというわけである。
(下の写真は。堰の説明板に掲載されている当時の航空写真)
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宿河原堰の管理所を利用して、二ヶ領せせらぎ館が設置されている。
自然や環境を主とした展示のほか、二ヶ領用水に関する資料が頒布・販売されて
おり、また閲覧も可能なので是非とも立ち寄りをお勧めしたい。
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せせらぎ館から数十メートルほど下流、多摩川の河川敷内に船島稲荷大明神
鎮座している。
治水興農の守り神として祀られ、地元では沓稲荷とも呼ばれているという。
創建年代は不明だが、鷹狩に訪れた殿様の愛馬の病を治した馬医が、褒美を貰
い、京都の伏見稲荷に参詣して勧請したと伝えられている。
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宿河原堰は多摩川から分流して、南東方向へと向かう。
水路の両岸には、桜が植樹され、桜の名所としても名高い。
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こちらは桜の季節に訪れたときの風景。
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水路脇には遊歩道が続いており、東名高速との交差部までの間、宿河原堀の殆ど
の区間で設置されている。
中野島からの二ヶ領用水本流にも、このような親水路があるが、歩きやすさから言え
ば、こちらに軍配が上がるであろう。
(なお桜の時期は親水路は花見会場と化す。)
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堰から500メートルほど行くと、JR南武線の鉄橋がある。
遊歩道は鉄橋の下を抜けているが、かがんで通るようになっている。
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さらに桜並木の下に続く遊歩道。
宿河原堀沿いのソメイヨシノは昭和33年から二回に分けて植えられたもので、四百
本余りが植えられたという。
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宿河原駅の東側では一時的に南武線に接近する。
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その先、八幡下橋の脇に八幡下圦樋の記念碑がある。
洪水による下流の水害を防ぐため、圦樋を造って宿河原堀の水を堰き止め、余水
を多摩川へ放流する施設で、明治34年(1910)に竣工したという。
しかしながら、近年、かえって圦樋が原因で近隣に水害を起こし、昭和63年(1988)
年頃に取り除かれたらしい。
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川崎市緑化センター沿いでは、向ヶ丘遊園付近で二ヶ領用水本流から分水された
五ヶ村堀が掛樋で交差をしている。
水路と水路の立体交差は、見ていても飽きない。
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その先、左岸に大きな塔をもつ寺院が見えてくる。
大正元年(1912)に開基された新明国上教会であり、発足して百年ほどの比較
的新しい宗教の寺院らしい。
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稲荷橋の横に小さな稲荷神社があったが、
由緒は不明、写真左の小さな祠は「歳の神御神体」。
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東名高速道路の高架橋の下に徒然草の石碑がある。
兼好法師により記された徒然草第115段に書かれている宿河原を紹介したもので
あり、次の書き出しで始まる。
宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り
来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ね
ければ、
(以下略)
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遁世者(浮浪者)が師の仇討ちをする話であるが、冒頭に出てくる宿河原が当地
であるということから、碑が建立された。(一説には大阪府茨木市宿川原町とも)
碑の横にある説明文によると、中世において「宿」は河川の渡河地点など要衝地
に設けられ、市が開かれ人々が移住するほか、道場や寺院が建てられたという。

東名高速を過ぎて、流れる宿河原堀。
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そこから300mほど過ぎると、二ヶ領用水本流(二ヶ領本川)へと合流する。
合流地点からJR南武線久地駅は近い。
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《参考資料》
『二ヶ領用水知恵図改訂版』 川崎市建設緑政局編
『川崎歴史ガイド 二ヶ領用水』 川崎市文化財団編


  
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《2016年新春企画》 用水へのいざない

新年あけましておめでとうございます。
今年も当ブログをよろしくお願いします。
さて、昨年に引き続き、新春企画として一文を記してみたいと思います。
今年のテーマは『用水へのいざない』、ご一読いただければ幸いです。


以前のブログ(すでに廃止)時代から、河川や水路(開渠、暗渠を問わず)を休日に歩いて8年以上になる。
そのような中で、ここ1~2年、用水に虜になっている。
もちろん以前にも5年ほど前には玉川上水を羽村から四谷大木戸まで完歩したりしている。(その後、再び全区間完歩。)
特に昨年は主に用水を選んで散策するようになり、昨年に記載した記事の7割以上は用水に関するものであろう。

なぜ私が用水に魅せられたか、それは用水そのものに歴史を感じるからだ。
もちろん、自然河川にもいくらかの歴史はある。
しかしながら、用水は先人が苦労を重ねて築造してきたものであり、まさに水路そのものが歴史的遺産なのである。
しかも、玉川上水は現在でも都民の飲用水として利用され、また府中用水などでは田用水として使われるなど、数百年前に開削された用水がいまだに現役として利用されていることに驚嘆せずにはいられない。

現在、開渠、暗渠、水路跡など、用水は多様な姿でみることができる。
特に玉川上水およびその分水では、武蔵野の風景とも相まって、様々な形状で残っている。
遠く羽村取水堰で取り入れられた多摩川の原水が、小平や立川の住宅の間を縫うように流れているのに感動し、また水は流れていなくとも素掘を見つけると、いにしえの風景が目に浮かぶような感覚にとらわれる。
そしてそれらの用水を追うと、開削時における先人たちの技術や努力に驚かせられるのである。

本ブログでは、これまで六郷用水、二ヶ領用水、玉川上水、府中用水及びそれらの支流(分水路・支堀)について取り上げてきたが、それぞれの魅力について述べておきたい。

六郷用水と二ヶ領用水は、小泉次大夫が徳川家康の命を受けて慶長2年(1597)から同16年(1611)までの歳月を要して開削したものである。
二つの用水を合わせて四ヶ領用水とも呼ばれる。
東京側の六郷用水と川崎側の二ヶ領用水を同時並行(実際は領民の賦役を緩和するために、3ヵ月毎に交互に進行させたらしい)して行われたらしい。
この開削が行われた時代は、秀吉が死亡し(1598)、関ケ原において天下分け目の合戦が行われ(1600)、徐々に家康がその権力を増大していった時期である。
そして用水完成4年後の1615年には大阪夏の陣にて豊臣家は滅亡する。
歴史的には徳川VS豊臣という局面に目を向けられがちだが、そのような時期において、家康が着実に用水構築という大工事を通して自領の地盤固めを行っていたというのは驚愕に値する。

六郷用水において、現在開渠として残っているのは多摩川沿いの丸子川の部分のみであるが、その他にも部分的に水路跡が遊歩道として残っている。
また上流部においては国分寺崖線に沿って流れているため、崖線直下の湧水などを訪ねながら歩くこともできる。
大田区南部においては、支堀が放射状に広がっていたのでその痕跡を辿ってみるということも楽しい。
160101_1_六郷
六郷用水

一方、二ヶ領用水は現在においても上河原堰や宿河原堰において多摩川から取水され、川崎市北部を縦断して流れている。
農業用水として(その後、工業用水化)の役目は終えたが、現在は環境水路化され、水路沿いの多くの部分で遊歩道が設置され、また所々には親水設備が設置されている。
また、久地の円筒分水という歴史的文化財も残されているのも嬉しい。
160101_2_二ヶ領
二ヶ領用水

次は玉川上水、羽村取水堰から水を取り込み江戸市民の飲用・生活用水として造られた約43kmに及ぶ用水路。
六郷・二ヶ領の各用水の完成から四十余年後の承応2年(1653)に開削された。
庄右衛門、清右衛門兄弟(完成後に玉川の姓を名乗る事が許される)の指揮のよって施工され、老中松平伊豆守信綱が総奉行として就任した。
工事は承応2年4月に着工し、8ヵ月後(同年は六月が閏月)の11月に完成したといわれている。
43キロほどの区間をこれだけの期間で施工し、なお且つ、玉川上水はところによっては10メートルを超える箇所もある。
私自身はちょっと首を傾げたくなる。というのは、この話は『上水記』に記載されているものであり、その上水記そのものは玉川上水開削後
百四十年ほど経て寛政3年(1791)に書かれたものであり、その信憑性には疑問を投げかけたい。
いくらなんでも、この大事業をわずか8ヵ月で完成したとは信じがたいのである。

玉川上水を歩いてみると、まずその規模に驚かせられる。
100万とも言われる当時の江戸の人口の水需要を考えれば、当然のことかもしれないが、重機などない時代にこれだけ大規模な用水路を造ったものだと感心する。
そして、測量技術の正確さ、分水嶺を巧みに通し、43kmの区間で高低差わずか96mという当時の技術からすれば完璧といった事業であったであろう。
160101_3_玉川
玉川上水上流部(羽村付近)と中流部(小金井公園付近)

玉川上水沿いでは、その区間の多くで木々が植えられており、遊歩道が設置されている。
ところによっては鬱蒼とした林のように感じ、武蔵野の自然が残されている。
数十キロメートルに及ぶグリーンベルトと言っていいだろう。
他の用水に比べて、グループでウォーキングを楽しんでいる方々やウォーキングイベントなどを見かけることも多い。
都内近郊という場所柄、気軽に行ける隠れたレジャースポットとしてもお勧めである。

玉川上水のもう1つの魅力として、分水の存在がある。
もちろん他の用水にも分水路があるが、玉川上水における分水ではそれぞれにその歴史がある点だ。
前述のように玉川上水は江戸市民の飲料用として造られたが、その後、武蔵野の農業用水、飲用水としても分水が開削された。
野火止用水や小川用水など、玉川上水完成直後に分水されたものもあるが、享保7年(1722)、享保の改革の政策の1つとして新田開発奨励の高札が日本橋に掲げられたことにより、武蔵野の新田開発が進められ、分水が許可されたというものも多い。

現在でも玉川上水から分かれた小流が道路沿いや住宅の間を通り抜けている。
また水が流れていない区間においても、水路がそのまま保存され、
素掘のある場所を見つけると、思わず声をあげたくなる。
特に小平市では条例により用水路の保存・環境保全が実施され、一部は緑道として親水整備が行われている。
160101_4_分水
玉川上水分水 -小川用水(上)と野中用水(下)-

また、分水路周辺の寺社を訪れてみると、新田開発に伴って創建されたという由緒を持つものが多い。
開発に伴い入村してきた農民などの信仰のために神社や寺院が造られ、それが今に至っている。
なかには、野中新田における円成院のように、布教(黄檗宗)を目的として新田開発が行われたというケースもみられ、興味深い。

府中用水については、その成立は不詳である。
玉川上水開削時の失敗談になぞらえて、玉川兄弟が当初、府中から取り入れようとしたことをその起源とする説があるが、失敗談
そのものが疑わしい。
ただし、府中用水は六郷用水や玉川上水と同様、十七世紀前半に開削されたであろうと言われている。

府中用水は現在でも農業用水として現役の用水路である。
水路は四方八方へと分かれ、その全てを追うことはとても難しい。
しかしながら、水が音をたてて流れる様を見ていると、とても東京都内とは思えず、ゆったりとした気分にさせてくれる。
なお、さすが現役の農業用水ということもあり、湧水を水源とする矢川、清水川などからの水が流れる区間を除いて、水が流れる時期は5月中旬から9月上旬に限られるので注意が必要。
160101_6_府中用水
府中用水

以上、4つの用水を紹介してみたが、歴史的遺産ということもあり、それぞれの自治体やNPOなどが観光資源として、説明板の設置、観光案内パンフレット等の出版を行ない、力を入れている。
それらを見ながら歩き、その地域(もしくは地元)の地史に触れていくというのも楽しい。
160101_5_説明板
六郷用水(左)と二ヶ領用水(右)の説明板

一般河川に見られるような地形的な面白さには欠けるが、歴史に触れ、水や緑を味わうという体験を是非とも味わって頂きたい。
私自身、これまでいくつかの用水を歩き、ブログで紹介してきたが、まだまだ数多くの用水が存在する。
これからもそれらを追って、紹介していきたいと思う。

各用水の歴史・見どころは、ブログのそれぞれの記事で紹介しています。
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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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