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二ヶ領用水 江川堀

二ヶ領用水を東京湾まで追いたくなって、その末流、江川堀を歩いてみた。
前項、大師掘の文末で記した通り、花見橋バス停前交差点付近で、大師堀は殿
町堀と江川堀に分かれる。
殿町堀は多摩川沿いへと向かうが、残念ながら工場地帯となり行く手を阻まれる。
ということで、大師堀に続いて江川堀を追うこととした。
しかしながらその痕跡は全くといっていいほど無いため、いくつかの地図を参照
してみた。
ただ、二ヶ領用水の末流ということもあり改修されたようで、時代によってその
ルートは変わっているようであるが、今回は明治期の地形図を参考に辿ってみた。

※ 高津区と中原区の境を流れ、江川せせらぎ遊歩道で知られる江川とは
  別の水路である。江川についてはこちらをご覧頂きたい。

大師堀から分かれた殿町堀は味の素の工場の中へと入っていくが、江川堀は
大師道に沿って流れていたようだ。
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300mほど行くと京急大師線、川崎大師駅前に達する。
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駅から100mほど行くと若宮八幡宮が鎮座している。
創建年代は不詳、多摩川対岸の六郷神社(六郷用水中根堀参照)の氏子たち
が開拓のために大師河原へ移り住んだ際、、御祭神を分祀したのがはじまり
と言われる。
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境内には二ヶ領用水に架かっていた橋が移設・保存されている。(但し、欄干
は後から模造で造られたようである。)
ただ、どこに架かっていたものなのかは判らない。
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そしてもう一つ、境内社として金山神社がある。
もとは川崎大師駅東踏切付近にあったが、大正時代に八幡宮境内に遷座。
金山比古神と金山比売神を祀り、伊邪那美命が火の神カグツチを生んだ際、
下半身に大やけどを負い、両神が看護したという伝説から、お産・下半身の病
気の守護神ともされ、子授け・夫婦円満の神社とされる。
性信仰の神社ゆえに、境内には立派な男根の鋳物が奉納されている。
さすがに本サイトでの掲載は憚れるので、幟の絵柄だけに留めておこう。
毎年4月に行われる「かなまら祭」も有名で、外国人見学客も多いという。
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また、境内の建物には郷土資料室もあり、昔の漁具・生活用具などを展示して
おり、別室では性に関する器具の展示(こちらは十八禁)もあり興味深い。

駅前を通っていた江川堀は、大師線の南を東進する。
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500メートルほど行くと五差路があり、明長寺の裏を通る100メートルほどの歩
行者用道路がのびている。
明治期の地図と照合すると、この歩行者道は江川堀の水路と一致する。
江川堀の中で唯一、水路の痕跡が確認できる場所である。
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その恵日山明長寺は天台宗の寺院、文明年間(1469~87)に創建したと伝え
られる。
現在の本堂は明和2年(1765)に再建されたものである。
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ここで、関東三大師の一つ、川崎大師に立ち寄ってみた。
あまりにも有名かつ大規模な寺院であり、多くの参拝客が訪れ、参道には飴菓
子屋などの商店が建ち並ぶ。
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正式名を金剛山平間寺といい、創建は大治3年(1128)。
この地で漁労を業としていた平間兼乗が、夢枕に高僧のお告げを受けて海中
より、弘法大師の木像を引き揚げた。
諸国を廻っていた高野山の尊賢上人がこの地を訪れた際、木像を供養し、平
間寺を建立したのに始まるという。

大師堂
江戸名所図会大師河原 大師堂』  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

本殿の東につるの池と称する池がある。
その池の説明文の中に「往時は多摩川から分水した二ヶ領用水が池に入り、
鶴や鴨が悠々として遊んだという
」という記述がある。
どのようにして取り入れていたのかは判らないが、この付近には江川堀以外
にも大師掘から分かれた水路があり、恐らくそちらを経由して池に注がれてい
たのではないだろうか。
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さて江川堀に戻ろう。
明治期の地図では、さきほどの明長寺裏から円弧を描くように北へと向かい、
京急の東門駅脇を通って大師道へと出ている。
しかしながらこの付近は区画整理されており、そのルートの痕跡は全くない。
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大師道の北側に沿って建てられているのが、天台宗の千蔵寺がある。
江戸時代の創建とされるが、詳細は不明。
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門前にある説明によると本尊は厄神鬼王、のみと小槌で病根を削り取る厄除
けの鬼という。
そのため、節分祭では「鬼は内、福は外」と言って豆まきを行うそうだ。

江川堀は大師道の北側付近を流れていたらしい。
途中、首都高の大師インターを通るが、この敷地のどこかを流れていたのだろう。
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産業道路を過ぎると、向きを南東に変え、小島新田駅方面へと進んでいたようだ。
その途中にある江川ふれあい公園、この公園を横切るように水路があったの
であろうと思われる。
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公園を過ぎると京急大師線の終着駅である小島新田駅が見えてくる。
江川堀はこの線路の北側を流れていたようだ。
駅名ともなっている小島新田は、江戸時代後期に小島六郎左衛門と池上七左
衛門が干拓し新田開発を行ったことに由来する。
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江川堀を辿る際に、川崎市のサイトで、小島新田駅南側の遊歩道に江川堀に
架かる御鷹橋の遺構(石の橋板)が移設・保存されていることを知った。
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そこに辿りついてみると、残念ながらそこは京急の工事現場となっており、緑
道もろとも無くなっていた。
反対側の電柱には史跡の位置を示す案内が掲示されており、虚脱感を覚え
ることとなってしまった。
工事終了後、是非とも遺跡を復活させることを願うばかりである。

JRの貨物線を渡ると、東京湾は近い。
そこには川崎市の大師河原ポンプ場があるが、かつてここに江川堀がながれ
ていたことと関係があるのだろうか。
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ポンプ場の脇の道を通り、小さな造船所を回りこむと東京湾の入江に出る。
この辺りで二ヶ領用水 江川堀は海へと流れ出ていたのだろう。
現在は造船所や工場の中にあってその面影をみることは全くできないが、数
十キロを流れてきた用水の水が海へと流れ出る光景はどのようなものだった
のか、想像してみるのも楽しい。
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目次
   
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二ヶ領用水 大師堀

中原区上平間で二ヶ領用水川崎堀は大師堀と町田堀に分かれるが、今回はそ
の1つである大師堀を辿ってみることにする。
大師堀はまたの名を大師河原堀とも称するが、これについては本項末で考察し
てみたい。

こちらが川崎堀からの分水水門、なぜか判らないが、水門の上には鳥居風の
構造物がある。
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近くにある川崎歴史ガイドという説明板には「わが国最初の工業用水」と題して
下記のような記載がある。
鳥居の所で用水は町田掘と大師堀に分水、昭和一四年わが国最初の工業用
水として一日に二万七千トンの取水が行われ、四九年まで平間浄水場から臨
海部の工場地帯へと供給された。

もちろん元々は江戸期から川崎北東部の田畑へ農業用水として開削されたも
のであり、昭和以降、農業用水から工業用水へと転換されたということである。

現在、大師堀そのものは残っておらず、これからは堀跡(とはいっても痕跡は
殆ど無い)を追うということになる。
川崎堀から分かれた大師堀は緑道となっており、JR南武線の東側を鹿島田
駅方面へと進む。
その緑道には人工のせせらぎが設けられており、緑道は良き散策道となっている。
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訪れた時は晩秋であったが、夏には子供たちの水遊びの姿が見られるようである。
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その緑道は一般道に突き当たり、せせらぎは道路の歩道沿いの親水路として
続いている。
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歩道沿いの水路は300mほど続き、道路の左右を行ったり来たりしながら進
んでいく。
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人工水路が終わると道路の北側に平間小学校が見えてくるが、その北に平間
山稱名寺
がある。
浄土真宗大谷派の寺院で創建年代は不詳であるが、応永元年(1394)寂の
円山によって創建されたものという。
赤穂浪士に所縁がある寺としても有名で、大石内蔵助一行が江戸入り前に平
間村に10日間逗留していたといい、その関係から「紙本着色四十七士像」が
当寺に所蔵され、川崎市指定文化財となっている。
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大師掘跡の道路は蛇行しながら、東南へと進んでいく。
堀はこの道路の右側を流れていたようだ。
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道路の西側、住宅地を数十メートルほど入ったところには古川神明神社が鎮座する。
小さな神社であり、由緒は不明。
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さらに道路を辿っていくと、道路沿いに長屋門が保存されている。
説明板によると、北条氏政を祖先とする石井家の長屋門で、文政三年(1820)
の再建という。
思わぬところでこのような文化財に巡り会えたが、かつては門前を大師堀が流
れていたのだろうかと想像するのも楽しい。
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幸区役所入口交差点で府中街道に出る。
大師堀はこの先、府中街道の右側に沿って流れていたようだ。
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しばらくは府中街道を歩くこととなる。
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やがて多摩川の右岸沿いに出ることになるが、その手前、河原町交差点を左
折し、川沿いを600mほど北上した日蓮宗の田中山妙光寺に立ち寄ってみた。
妙光寺の創建は不詳だが、江戸初期だと思われる。
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大師堀からはかなりルートを外れることになるが、あえてここに立ち寄ったのは
二ヶ領用水中興の祖、田中休愚の墓があるからだ。
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田中休愚(1662~1730)は、武蔵国多摩郡平沢村(現あきるの市)に生まれ、
絹商人として訪れていた川崎の田中兵庫の養子となり家督を継ぐ。
享保6年(1721)、農政・民政の意見書『民間省要』の執筆をする。
これが八代将軍吉宗に認められ、多摩川、酒匂川、六郷用水そして二ヶ領用
水の改修を命じられる。
二ヶ領用水では、宿河原取入れ口の改修、久地分量樋の設置をはじめとして、
用水全体の改修により二ヶ領用水をよみがえらせた。

ついでと言ってはなんだが、二ヶ領用水を開削した小泉次大夫(1539~1623)
の墓所も紹介しておこう。
こちらはずっと離れるが、川崎駅東口から800mほど東、第一京浜を越えた先
長経山妙遠寺にある。
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次大夫は小杉陣屋(川崎堀2参照)近くの廃寺を妙泉寺として再興し、その後、
川崎宿砂子に移して妙遠寺と改名した。
また、次大夫は三男古勝に家督を譲った後、妙泉寺へ隠居、晩年を過ごしたという。

話を大師堀に戻そう。
府中街道はJR東海道線鉄橋の手前で多摩川沿いに差しかかるが、ここでも
道路の右側を流れていたようだ。
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JRに続いて京急本線と交差後、南から京急大師線が近づいている。
その京急大師線が第一京浜(六郷橋)と交差する付近に六郷橋駅の跡がある。
六郷橋駅は大師電気鉄道の六郷橋停留所として明治32年(1899)に開業し
たが、昭和24年(1949)に廃止された。
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現在、大師線の地下化工事が行われており、ルートも南へと移される予定だ
が、その後の扱いが気になる。

そしてその六郷橋、江戸時代には東海道の六郷の渡しとして賑わいをみせた
のだろう。
付近の掲示板によると、慶長5年(1600)に六郷大橋が架けられたものの、
元禄元年(1688)の大洪水で流され、以降、明治に入るまで架橋はされず、
船による渡しとなったとのこと。
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六郷橋を過ぎ、大師線の南の住宅街の中の道路を進んでいく。
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道路を辿っていくと、港町駅の南で道幅が狭くなり、水路跡であることを感じさ
せてくれる。
道路右側にある寺院は浄土真宗大谷派の羽田山徳泉寺
開山は不詳、その山号で判るように当初は羽田にあったが、寛永4年(1627)
の多摩川の洪水で水没、対岸の川崎宿に移転したと伝えられる。
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その道を抜けると府中街道から続く大師道に出てくる。
久根崎交差点の右側には広い境内を持つ天台宗の薬王山医王寺がある。
延暦24年(805)、春光坊法印祐長がに開山したと伝わる。
古刹であるということからか、寺にまつわる2つの話も伝わる。
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一つは『塩どけ地蔵』、久根崎村で流行ったできものが子供達を苦しめていた
ので、村人が地蔵に清め塩をかけて願掛けをしたところ、病気が直ったという。
その後、噂を聞いた親たちが願掛けをおこなったため、地蔵は塩で融けてや
せ細ったという。
上の写真の左、幟がある堂の中に塩どけ地蔵が安置されている。

もう1つは『赤い蟹伝説』、境内の鐘つき堂の傍に池があり、たくさんの蟹が住
みついていた。蟹は鐘の音により、空を飛ぶサギから守られていた。
ある日、寺の近くで火事が発生、蟹はあぶくを出しながら鐘つき堂を守った。
火事が治まった後、和尚が堂の下に死んでいるたくさんの蟹を見つけ、蟹が
鐘つき堂を守ったと感謝し、カニ塚を立てて供養したという。
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これらの話は境内に絵本風の鉄板の説明板に記されている。

なお医王寺の鐘は溝口水騒動(川崎堀1参照)の際、その合図として撞かれた
ものである。

大師道を東へと向かう。
大師堀は大師道の右側を流れていたようだが、道路の右側が1mほど低くな
っている。
果たして大師堀はここを流れていたのだろうか。
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現在の大師道(国道409号線)は左へゆっくりとカーブするが、これも大師堀
に沿った道がそのまま現在の道路となったようだ。
なお、「二ヶ領用水環境マップ」(二ケ領用水ワークショップ参加者編)によれば
川中島掘、北東堀などを分けていたようだ。
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やがて、花見橋バス停前という交差点に達する。
ここでさらに北の多摩川沿いへ向かう殿町堀と東進する江川堀という二手に
分かれていたようだ。
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大師堀と言っても、まだ川崎大師には達していない。
いくつかの資料を見てみたが、大師堀の終端がどこであるのかは判らなかった。
本ブログではここを大師堀の終端とし、川崎大師方面への水路を江川堀とし
て別項に記載することとした。
大師堀であるのに大師まで追わないのは何故かと疑問を抱くかもしれないが、
この地は既に旧大師河原村の村域内にある。
大師堀の別名が大師河原堀であることは冒頭にも書いたが、もしかしたら大
師河原堀が正式名で、略称を大師堀といい、略称が今では公称として通じて
いるのかもしれない…私自身、そう考えるに至った。

《参考資料》
『二ヶ領用水知恵図改訂版』 川崎市建設緑政局編


  
目次
  

二ヶ領用水 川崎堀 2

二ヶ領用水 川崎堀は中原街道を越えて南東方向に進むが、追う前にこの付
近の史跡を紹介しておこう。

中原街道手前の左岸、川崎堀と府中街道に挟まれて立地しているのが、浄土
真宗の覚王山高元寺、二ヶ領用水の開削時期にあたる慶長年間(1596~1615)
に建立されたらしい。
帯刀を許された家来もいることから「侍寺」と呼ばれ、泉澤寺や西明寺とともに
小杉御殿(ともに後述)を守護する役割を果たしていた。
また、用水の利水などの争いの調停役として住職があたることもあったという。
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江戸中期には川崎最古の寺子屋が開かれ、明治5年(1872)には「宮内学舎」
と称されるなど、近世から近代初期にかけて教育の場でもあったようだ。

中原街道が架かる神地橋の右岸には、浄土宗の寺院、宝林山泉澤寺がある。
延徳3年(1491)、武蔵国多摩郡烏山(現世田谷区)に世田谷領主の吉良氏の
菩提寺として、吉良頼高が開山した。
その後、天文18年(1549)に堂宇が焼失、翌年、吉良頼康がこの地にに新しく
建立したという。
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川崎堀からは少し離れるが、中原街道を多摩川方面へ向かい、住宅地の中に
御主殿稲荷陣屋稲荷)という小さな祠がある。
小さな祠なのでちょっとわかりづらいが、小杉陣屋町中公園を目指すとよい。
二ヶ領用水を造った小泉次大夫は、ここに陣屋を設け、工事の指揮をしたという。
現在、この辺りの町名である小杉陣屋町もこれに因む。
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その南西、龍宿山西明寺は真言宗智山派の寺院。
創建年代は不明だが、弘法大師がこの地に滞在し高弟泰範上人に命じて堂宇
を建立したとも、北条時頼が開基もしくは中興したとも言われる。
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またこの付近には江戸初期慶長13年(1608)、将軍・大名の宿泊施設として
建てられた小杉御殿があった。
東海道整備以前、中原街道は江戸と西国を結ぶメインルートであり、おそらく
家康もこの中原街道を往来したことであろう。
中原街道はここでカギ型に曲がっているが、これは城下町に見られる防御の
ための工夫であるとされる。
こちらも小杉陣屋町と同じく、小杉御殿町として町名にその名を残す。

さて、川崎堀を辿っていくことにしよう。
武蔵小杉の街に近いためか、ここから先、平和公園あたりまでの区間、ところ
どころに親水用の階段などがみられる。
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その先の右岸に鎮座する今井神社、境内には児童遊具もあり、児童公園とし
ての役割も兼ねているようだ。
創建は不明だが、この地方を一時支配した平重盛が崇拝したと伝えられている。
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南武線と交差した先、右に渋川を分ける。
渋川は元住吉を経て鶴見川へ注ぐ。
川崎堀を流れてきた水の6~7割は渋川へと流れていくようである。
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大半の水を渋川に取られて、川崎堀の水路は細くなる。
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こちらは階段を下りて撮影したもの、玉石張りの護岸は昭和61年以降の親水
化工事で設置されたものだが、二ヶ領用水という歴史的遺産に風情を持たせている。
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やがて鉄道の高架橋が見えてくるが、これは東急東横線・目黒線。
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東急線を越え綱島街道と交差した先、水路沿いに中原平和公園が広がる。
ここには戦前、東京航空計器工場があり、戦後はGHQに接収されて米陸軍出
版センターがあったところで、昭和50年に変換後、平和公園として整備・開放
されたところである。
綱島街道沿いには川崎市平和館が建っている。
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公園内にもこのような親水施設が設置されている。
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公園を過ぎると二ヶ領用水はコンクリート三面張りの水路となる。
またしても取水門が見えてくるが、調べてみるとどうやら鹿島田堰のようだ。
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川崎堀は東海道新幹線の高架下を抜け、蛇行しながら中原区市ノ坪と苅宿の
間を進んでいく。
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その先で横須賀線と交差するが、ここは堀沿いに進めないので南側の御幸跨
線橋へと迂回することになる。
その跨線橋から見た横須賀線をくぐる川崎堀。
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横須賀線と南武線の間を南東方向へと進んでいく。
ここにも、水路際に下りる階段が何箇所か設けられている。
水路沿いには桜が植えられており、水路側へ枝を伸ばしている。
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すっと府中街道の南側を並行して流れてきた川崎堀だが、鹿島田橋で府中街
道の反対側に出る。
その鹿島田橋には古い欄干が残る。
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この先で南武線と交差するが、水路沿いを歩けないので再び迂回していくと、
線路沿いに大師掘町田堀分岐水門がある。
ここで川崎堀は、大師掘(左)と町田堀(右)の二本の堀に分かれていた。
柵に囲まれてうまく写真が撮れず恐縮だが、水門の上は鳥居風になっている。
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道路を隔てて反対側には平間配水所がある。
ここはもともと平間浄水場として昭和14年(1939)に造られたもので、我が国
初の公営工業用水水道事業の浄水場として設立された。
昭和初期、臨海部での地下水汲み上げによる地盤沈下が問題となり、二ヶ領
用水の余剰水ならびに15ヶ所のさく井を水源として、ここ
から工業用水が臨海部の京浜工業地帯に供給されたという。
産業構造の変化に伴う水使用の合理化や工場移転により、平成15年(2003)
に浄水場としての機能が廃止、以降配水所と変更された。
上の写真のコーンに囲まれた箇所が、浄水場の取水口跡である。

《参考資料》
『二ヶ領用水知恵図改訂版』 川崎市建設緑政局編
『散策マップ 二ヶ領用水』 川崎市建設緑政局編
『川崎歴史ガイド 二ヶ領用水』 川崎市文化財団編


   
目次
   

二ヶ領用水 川崎堀 1

二ヶ領用水 川崎堀は、久地円筒分水から鹿島田の大師堀・町田堀分岐門
までのおよそ9kmの区間である。
二ヶ領用水は久地円筒分水で川崎堀と、根方堀、六ヶ村堀、久地堀に配分される
が、他の堀が暗渠化されているのに対し、川崎堀だけが開渠として残存している。
沿岸地域の急速な開発と人口開発によりかつての清流はドブ川化し、川崎堀
だけがかろうじて暗渠化を免れた形となっているが、昭和61年(1986)以降親
水化工事が行われ、現在は周辺住民の散策路として、またカモなどの休息地
として清流が戻りつつある。

久地円筒分水から南東方向へと流れ出る川崎堀、円筒分水を通る水のうち76
%以上が、川崎堀へ分水されている。
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川崎堀は直線的に流れていく。
もともと堀は蛇行して流れていたが、昭和16年、臨海工業地帯のために工業
用水化されるにあたり、直線化されたことによる。
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国道246号線を過ぎると、水辺に降りる階段なども設置され、親水化された区
間となる。
溝の口駅にも近く、水路沿いを歩く人は多い。
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こちらは桜の時期に、国道に架かる歩道橋から撮影した風景。
この辺りの水路には枝垂れ桜が植えられている。
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濱田橋脇には石のレリーフがある。
濱田橋は溝の口出身の陶芸家で第1回人間国宝ならびに文化勲章受章者の、
濱田庄司(1894~1978)の功績が記され、もともと無名橋であったこの橋も氏
の名を冠して名付けられた。
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その先、大山街道に架かる大石橋に達する。
ここは溝口・二子宿があった場所で、橋の北東部には宿の問屋役(人足や馬を
用意する)をつとめ、名主を兼ねた丸屋・鈴木右衛門の屋敷があったという。
但し、大山街道はあくまでも脇街道であり、宿の規模も小さく、丸屋の本業は秦
野の煙草や厚木の麦を扱う卸問屋であったようだ。
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ここで、二ヶ領用水の歴史を語る上で避けては通れない溝口水騒動について
触れておきたい。
文政4年(1821)、長期間日照りが続き、大旱魃が関東を襲った。
多摩川の水量は激減、小河川も枯渇するといった状況で、田用水はおろか飲
料水にまで事欠く状況にあった。
そのような状況の中、川崎領各村の農民たちは公平な水分配を御普請役人に
訴えた。
訴えに基づき調査を行ったところ、溝口村の名主鈴木七右衛門と久地村の農
民たちが久地用水樋(二ヶ領用水2参照)の堰を不法に止めていたことが発覚する。
7月6日、医王寺(現川崎区)の鐘を合図に、川崎領の農民達は一斉に溝口
村へ襲撃、七右衛門宅と隣家2軒を打ち壊すという事態に発展した。
更には七右衛門の不在を知った農民たちは、出先の江戸馬喰町の御用屋敷
にまで追いかけたという。

大石橋から西へ数分ほど行ったところに鎮座するのが溝口神社
創建年代は不明だが、棟札には宝永5年(1709)の記載があり、少なくともそ
れ以前の造営だという。
江戸時代は赤城大明神と称し、溝口村の鎮守であったが、明治維新後、神
仏分離により溝口村・下宿・中宿・上宿・六軒町・六番組の各部落を統合、伊
勢神宮より新たに御分霊を奉迎し、溝口神社と改称したという。
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大石橋の先で東急田園都市線と交差し、溝の口の街の東側を流れていく。
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直線的な水路が続くが、これは二ヶ領用水が工業用水として転換する過程で
昭和16年(1941)に改修されたもののようだ。
その証として、平成橋から南に住宅街の道を進むと、古い橋の欄干が残って
いる。
橋の向こう側は畑になっているが、ここはかつて平瀬川と二ヶ領用水が合流
していた箇所で弁慶島といわれていたそうである。
(平瀬川は流路変更され、津田山をトンネルで潜り、多摩川へと流れる)
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その先は、恐らく旧平瀬川の流路を利用したのであろう。
河川の流路を利用するいう手法は六郷用水にも見られ、六郷用水では野川や
仙川の流路を一部利用して造られている。

その下流では、住宅やマンションの間に水路跡が残っている。
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旧水路はその先、二子坂戸緑道となって続いている。
写真に映る標識や車止めに見られるように、なんとなく古めかしい緑道だ。
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その緑道が現在の川崎堀に出てくる場所に石橋供養塔が建っている。
その脇に架かる坂戸橋は、江戸時代、坂戸村(現川崎市坂戸)から二子方面に
向かう唯一の橋であり、寛政5年(1793)、木橋から石橋に架け替えられた
のを機に、安全祈願をこめて建てられたものだという。
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さらに下流へ進み、第三京浜の高架橋と交差。
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第三京浜を越えて300mほど行くと、水辺に緑地が設けられている場所がある。
石積護岸が続く用水沿いを歩いていて、このような空間があると何かしらホッと
する気分になる。
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川崎堀を歩いていると、分水の取水口や合流口をいくつか見ることができる。
こちらは竹橋の上流部にある井田堰跡、ここから取水された井田堀は井田地
区を潤したという。
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大ヶ谷戸橋の手前には宮内水門があり、その脇には「八ツ目土と水道水源地
と記載された説明板がある。
かつてこの付近は蛇行する多摩川の直撃を受け、何回も堤が破られた地であった。
「八ツ目土」とは八回目の土手という意味らしい。
今でこそ、多摩川まで1km弱の距離があるが、明治期の地形図で確認してみ
ると、東京府と神奈川県の境界が多摩川を越えてこの付近を通っており、(現
在の高津区下野毛が東京都であり、明治45年境界変更実施)、古くは多摩川
がここまで蛇行していたことがうかがえる。
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こちらは木月堀取水口跡。
2015-10-31_99.jpg

左岸に並行する府中街道を渡ると、常楽寺と宮内春日神社が鎮座する。
真言宗智山派の春日山常楽寺の創建年代は不詳だが、奈良時代に聖武天皇
の御願所として行基菩薩によって開基されたという。
昭和43年の本堂改修の際に、住職と親交のあった漫画家達が本堂の襖など
に漫画を描いたため、「マンガ寺」と呼ばれるようになった。
2015-10-31_110.jpg

隣接する宮内春日神社の創建も不明だが、平治元年(1159)~承安元年(1171)
頃にこの付近に稲毛荘と呼ばれる荘園が成立、奈良春日大社のの分霊を勧請
したものと推定される。
2015-10-31_113.jpg

川崎堀を歩いていくと、この辺りには前方に武蔵小杉の高層ビル群が見える
ようになる。
2015-10-31_114.jpg

《参考資料》
『川崎の歴史 -水と共同体-』 川崎市市民ミュージアム編
『二ヶ領用水知恵図改訂版』 川崎市建設緑政局編
『散策マップ 二ヶ領用水』 川崎市建設緑政局編
『川崎歴史ガイド 二ヶ領用水』 川崎市文化財団編



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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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