二ヶ領用水 2

東名高速道路の高架橋から400mほどいくと、左岸から宿河原堀が合流する。
宿河原堰で多摩川から取水されて、この地で本流に合流する水路で、こちらも
水路沿いに遊歩道が続く。
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宿河原堀を合流後、久地駅の西側で南武線と交差する。
ここで久地駅周辺の寺社に立ち寄ってみた。
久地駅の北方にある天台宗の寺院、青龍山龍厳寺
鎌倉時代の創建と伝えられるが不詳、多摩川三十三ヶ所観音霊場15番に指
定されている。
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更に北へと向かうと堰稲荷神社が鎮座する。
こちらも創建は不詳、一説には山城国伏見稲荷大社を勧請して創建したと伝
えられ、堰村の鎮守とされてきた。
新編武蔵風土記稿によれば、家康が江戸へ入る前、七人の農民がこの地に
住み、開拓を始めたのが堰村の始まりとされる。
堰村の名前は、開拓にあたり多摩川に堰を築いたことが由来とされる。
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二ヶ領用水は東へと流れていく。
傾斜が無い地であるためか、水が流れる速度は僅かで、一見すると淀んでい
るようにも見える。
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流れに沿って800mほど歩くと、小さな祠の脇に久地の横土手と書かれた説
明板がある。
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江戸時代中期に築かれた旧堤防であり、当時は川の流れに対して直角に横
土手を築いて洪水時の水勢を弱めるという方法がとられた。
しかし、下流の溝口、二子などの村々が守られる一方、上流の堰村などが洪
水の危険にさらされるということとなり利害が対立、300m進んだところで工事
が中止されたという。

二ヶ領用水はその先で交差するが、その先、100mほど行ったところに久
分量樋跡
の説明碑がある。
分量樋は田中休愚が築いたもので、二ヶ領用水の水を四つの堀に分ける施
設で、各堀ごとの水量比率を保つ役割を担った。
昭和16年(1941)、久地円筒分水(後述)の完成により、分量樋は円筒分水
に役目を継ぎ、廃止された。
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こちらは円筒分水(後述)の脇に説明板に掲載されている明治43年の写真。
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なお、久地分量樋は溝口水騒動(川崎堀1参照)の原因ともなった。


いよいよ二ヶ領用水(本川)は平瀬川へと合流する。
写真の水門は久地円筒分水への取水施設。
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ゆっくり流れてきた水は平瀬川へと勢いよく合流する。
二ヶ領用水を流れてきた水のうち、8割ほどが平瀬川へ流れ、2割は円筒分水
を介して各掘へ分水されている。
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その久地円筒分水を見る前に、周辺にある久地神社と久地不動尊などを説明
しておこう。
久地神社は、合流地点の西側高台に位置する神社。
神社の創立年代は定かではないが、江戸期の神仏習合の時代には赤城社と
称され、溝口神社の兄弟社として、毘沙門天・弁財天を祀っていた。
明治の神仏分離後は、祭神を天照大神と改め、社名を久地神社と改称した。
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久地不動尊は、もとは浅草の新吉原にあったが、不動明王の吉原遊郭の喧
騒に耐え切れず静かな所に移せとのお告げにより移転したらしい。
ただ、計画中に関東大震災が発生し寺は全焼、不動明王は古井戸に飛び込
み、難を逃れたという逸話が残る。
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その久地不動尊へ向かう途中の道脇には弁天堂を祀る池がある。
池は日照りが続いても水が絶えることが無く、「雨乞い弁天」と呼ばれていたという。
柵があって立ち入ることは無いが、湧水池ということだろうか。
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さて、いよいよ久地円筒分水を見ることにしよう。
川崎市高津区水沢付近を水源とする平瀬川は、溝の口付近で洪水を度々起
こし、問題となっていた。
その問題を解決すべく、多摩川右岸農業水利改良事業として、昭和11年
(1936)から平瀬川の流路を変更し、津田山をトンネルで通し、多摩川へ放流
する計画が画策された。
しかし、トンネルの先には二ヶ領用水が久地分量樋で4本の水路に分かれた
二ヶ領用水と交差する必要がある。
そこで改良事務所長であり、土木技師の平賀栄治(1892~1982)は、二ヶ領
用水を平瀬川と交差させ、その下流側で用水を分けることとした。
そうして昭和16年(1941)に完成させたのが、久地円筒分水である。
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円筒分水は円筒に中心部へ水を導水して湧き出し、周辺部に落下して一定の
割合で水を公平に分ける施設で、大正期から各地で造られている。
久地円筒分水では、二ヶ領用水を流れてきた水をサイフォンの原理により平瀬
川を伏せ越して、円筒分水中央部に導水している。
そこから川崎堀根方十三ヶ村堀川辺六ヶ村堀久地・溝ノ口村堀に分け、
耕地面積に応じて、38.471:7.415:2.702:1.575の割合で分水している。
言葉だけではうまく説明できないので、現地の説明板に描かれた平面図・縦断
図を掲載しておこう。
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なお、久地円筒分水は平成10年、国登録有形文化財に指定されている。
現在、二ヶ領用水は殆どその用途を失っているので、円筒分水は土木遺産と
して保存されているのである。

こちらは桜の季節の円筒分水。
この季節ばかりは人も多く、イベントも行われるようだ。
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最後に二ヶ領用水が合流する平瀬川を見ておこう。
久地円筒分水のすぐ脇に、津田山を抜けた平瀬川のトンネルの出口がある。
その抗口は2つあるが、これは上流部の宅地開発により保水力が失われ、豪雨
時の増水でトンネル入口付近で氾濫を起こすようになったため、昭和45年(1970)
に新しいトンネル(写真右側)を造ったのだという。
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平瀬川は二ヶ領用水を合流したあと、久地地区北部を蛇行しながら流れ、新二子
橋の北で多摩川に合流する。
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《参考資料》
『二ヶ領用水知恵図改訂版』 川崎市建設緑政局編
『散策マップ 二ヶ領用水』 川崎市建設緑政局編
『川崎歴史ガイド 二ヶ領用水』 川崎市文化財団編



目次
  
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二ヶ領用水 1

川崎市内を流れる二ヶ領用水を辿ってみた。
最初に言っておくと、私は川崎という地に馴染みがない。
そのため、二ヶ領用水を歩く前に、宿河原堰そばにある二ヶ領せせらぎ館(登戸
駅下車徒歩10分)において数種類の小冊子を頂き、それに基づいて歩くこととした。
そのため、今回の記事を記すにあたり、それらの資料および図書館などで探した
資料を参考とし、近隣の史跡の紹介を付け足す方式で進めていっている。

まずは二ヶ領用水の歴史について説明しておこう。
徳川家康は天正18年(1590)、秀吉から関東への移封を命じられ、江戸城に入る。
折りしも、その前年、多摩川は流路が変わるほどの大洪水を起こし、周辺農民は
困窮する事態となった。
家康に随行して江戸へと入った小泉次大夫吉次(1529~1623)は、この様子を
見て、用水開削、および新田開発を家康に進言する。
家康より用水開削を命じられた次大夫は、慶長2年(1597)と翌年、稲毛・川崎お
よび世田谷・六郷の四ヶ領において測量を実施、慶長16年(1611)まで、14年
の歳月を費やして総延長32kmに及ぶ二ヶ領用水を完成させた。
工事は多摩川対岸の六郷用水と並行して進められたが、三ヶ月ごとに交互に行
う形で進行していったという。
これは、工事を行う農民の負担を考えてのことだったと思われる。

享保10年(1725)からは、田中休愚(丘隅)(1662~1729)による改修工事が
始まる。
休愚は、開削後100余年を経て荒廃した用水の改良工事を実施し、用水を再
生させた。
特に二ヶ領用水では、久地分量樋(次項にて紹介)を設け、下流域の各村への
水量の公平な分配に行い、関係各村の水争いの解消に寄与した。

昭和以降は、川崎臨海部の工業地帯化により、工業用水としても利用されたが、
現在は環境水路、および途中で合流する山下川、五反田川などの防災用水路
として利用されている。

二ヶ領用水という名前は、稲毛・川崎の両領を流れることに由来する。
多摩川対岸の六郷用水(世田谷領・六郷領)を併せて、四ヶ領用水とも呼ばれる。
六郷用水との大きな違いは、六郷用水が当初は世田谷領において水利権が
無かった(水利権が与えられたのは田中休愚以降)であるのに対し、二ヶ領用
水では開削当初から稲毛・川崎両領に水利権が与えられたことであろう。
そのため、六郷用水では世田谷区には支堀は少なく、六郷領に入ってから放
射状に分水されているのに対し、二ヶ領用水では上流域から多くの堀が分か
れている。(東京都側は国分寺崖線が多摩川沿いに迫るという地形的なことも
あるだろうが)

さて、二ヶ領用水を辿り始めよう。
今回は本項と次項の2回に渡って、上河原堰から久地円筒分水までの区間を
追うこととし、その後、川崎堀など章を変えて紹介していくこととする。

こちらが多摩川から取水する中野島にある上河原堰である。
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二ヶ領用水の多摩川からの取り入れ口は、中野島の上河原堰と、下流の宿河
原堰の二ヶ所がある。
次大夫が当初、取入口としたのは上流側の上河原堰であり、その後、新田開
発による水需要の高まりに伴い、寛永6年(1629)に伊奈半十郎忠治の手代、
筧助兵衛により開削された。
但し、これには異論もあり、どちらが先に造られたのかは真偽は定かではない
らしい。

以前は竹を編んでつくった蛇籠に玉石を入れて河床に並べ流れを堰きとめる
という方式であったが、現在はコンクリート堰となっている。
これには昭和7年(1932)、多摩川上流の小河内ダムの建設計画が発表され
ると、多摩川の水位低下を懸念する水利紛争が東京都と神奈川県との間で
発生し、その打開策としてコンクリート堰の設置が決まり、安定供給を保証し
たものである。
その後、日中戦争勃発により資材調達が難航しながらも、昭和20年(1945)
に完成した。(なおその後、台風により被災、再建されている)

取水口から300メートルほど行くと、早くも見所がある。
三沢川との立体交差があり、二ヶ領用水はサイフォン式の伏越で、三沢川を
横断する。
もともと、三沢川はこの先で二ヶ領用水に接続していたが、昭和18年(1943)、
氾濫防止のため、三沢川を直接、多摩川へと放流したものである。
三沢川はこの下流側、数百メートルほど行った先で、多摩川へと繋がっている。
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更に200mほど歩くと、南武線と交差する。
手前にある水門は布田堰中野島新田堀が分岐していく。
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南武線を越えると、再び左岸に中野島堰の水門が見える。
こちらから分かれる水路は登戸川原堀、登戸川原堀は中野島新田堀と合流し、
登戸方面へと流れている。
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緑の中を流れていく二ヶ領用水、水路そのものは整備されたものだろうが、往
年の流れを彷彿とさせてくれる。
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中野島橋の先、東側から大丸用水が近づいてくる。
大丸用水は稲城市大丸で多摩川から取水され、矢野口を経て菅や中野島の
村々を潤していた用水である。
大丸用水の水を中野島方面へ送水するために、大正の中頃まで、掛樋を使っ
た用水の立体交差が見られたという。
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なお、写真にあるように、二ヶ領用水沿いの所々に、「川崎歴史ガイド」と称す
る説明板が建てられている。
この説明板を見ながら、用水沿いを歩くも楽しい。

さらにはその先、西から旧三沢川が合流する。
先ほど三沢川との伏越を紹介したが、こちらは元々の流路、水量は少ないも
のの旧川筋は残存している。
川崎市麻生区や稲城市を流域として流れる河川であり、二ヶ領用水はこの河
川の水も取り入れていたのであろう。
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用水路沿いには桜が植えられ、良き散歩道となっている。
宿河原堰から流れる宿河原掘や、下流の川崎掘を含めて、二ヶ領用水ではそ
の殆どの区間で川沿いを歩くことができる。
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川辺に降りて、水路脇を歩くこともできる。
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そのような環境が子供たちの絶好の遊び場となっているようである。
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紺屋橋の先、用水沿いの緑地が広がった場所に紺屋前堰があったという。
ここから新田堀、高田堀、水車堀、東堀、鮒堀などに分かれて登戸一帯の耕地
を潤していたようだ。
堰は昭和38年(1963)の水系統合により廃止された。
なお堰の名は付近に藍染屋があったことに由来する。
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紺屋橋の次、台和橋で西から山下川が合流する。
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その先で用水の左右にあった緑は途切れ、三面コンクリート張りの中小河川と
いう様相になってしまう。
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二ヶ領用水は、先に紹介した旧三沢川合流地点から、下流の平瀬川合流地点
に至るまで、河川法上は二ヶ領本川という一級河川として指定されている。
そのため、二ヶ領本川は平瀬川の支流であり、旧三沢川や山下川、そして後ほ
ど合流する五反田川は二ヶ領本川の支流という扱いになっている。

県道世田谷町田線を渡り、100メートルほど行くと旧津久井道と交わる小泉橋
が架かる。
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小泉橋は天保15年(1844)、豪農小泉利左衛門によって架橋された。
利左衛門は登戸に33の石橋を架けた言われ、小泉橋もその一つ。
利左衛門の四代後の小泉弥左衛門のよって改修されたが、橋の裏には天保、
明治の文字が彫られていたという。
残念ながら小泉橋は最近架け替えられてしまった(欄干には「平成二六年三月」
と記されている)が、橋脇の説明文はそのままになっており、虚しさを感じさせる。

向ヶ丘遊園駅の西で小田急線を越えると右岸から五反田川が合流する。
川崎市麻生区細山付近を水源として小田急線沿いに流れる河川である。
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また合流地点の少し上流側(写真奥の浮輪がある場所)で五ヶ村堀を分ける。
五ヶ村堀は元々、先ほどの小泉橋のすぐ下流にある榎戸堰で取水されていた
が、河川改修によって取水口は小田急線の南側へ移されたようだ。

向ヶ丘遊園の街の南側を流れる二ヶ領用水。
右岸には府中街道が、左岸には五ヶ村堀緑地という小公園がある。
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先ほど分岐した五ヶ村堀はしばらく本川と並行して流れており、その間の空間
に設けられたのが五ヶ村堀緑地である。
掘そのものは緑地の下を暗渠として流れているが、通路沿いには人工のせせ
らぎが流れている。
駅からも近く、行き交う人々も多い。
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五ヶ村堀緑地に続いて、水路沿いにはばら苑アクセスロードという遊歩道が続く。
ここはかつて向ヶ丘遊園(現:生田緑地)へと向かっていた跨座式モノレールの
跡地である。
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そのアクセスロードの途中の本村橋の東側には浄土宗寺院の無量山龍安寺がある。
天正年間に空誉上人によって開山されたという古寺である。
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二ヶ領用水に戻って更に歩いていくと、右側に白い建物の藤子・F・不二雄ミュ
ージアム
が見えてくる。
藤子・F・不二雄(1933~96)は長年、川崎市に居住し、没後、妻の正子から
川崎市へ原画の公開を申し入れたことがきっかけという。
川沿いの柵にはドラえもんなどのシルエットが施され、癒してくれる。
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大谷橋から先は左岸の遊歩道は無くなり、右岸に沿っている府中街道を歩くこ
とになる。
歩道は川の反対側に設置されており、且つ交通量が多いため、水の流れを見
ながら歩くことはできない。
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長尾橋の手前には5連の水門がある。
これは用水を流れる水の一部を、地下の導管を通じて多摩川へ流しているとのこと。
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豊年橋の橋詰に「長尾の天然水」と記された説明板がある。
この辺りでは、日当たりの悪い山かげを利用して、二ヶ領用水から汲み上げた
水を水溜に張り、氷を作っていたという。
その氷を切り出して氷倉で貯蔵し、夏になると神田・龍閑町や八丁堀、芝・明舟
町などの販売所へと卸されていた。
明治20年頃から農家の副業として始められたもので、長尾の氷は良質とされ
たらしいが、大正10年ごろまでに氷の生産は機械化され、途絶えたようだ。
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その先、東名高速道路の高架橋が横切っていく。
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《参考資料》
『二ヶ領用水知恵図改訂版』 川崎市建設緑政局編
『散策マップ 二ヶ領用水』 川崎市建設緑政局編
『川崎歴史ガイド 二ヶ領用水』 川崎市文化財団編
『二ヶ領用水400年~よみがえる水と緑~』 神奈川新聞社編



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野中用水 2

さて、消防署の東側の分水地点に戻り、野中用水の本流を追うことにしよう。
用水の空堀は、相変わらず青梅街道の南側、数十メートルの辺りを空堀となっ
て続いており、街道から回りこみながら用水を確認していくことになる。
その途中には写真のように素堀の区間がある。
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花6親水公園という小公園があり、水路内に降りれるようになっていた。
もちろん水路には水が流れていないが、公園の看板には水遊びに関する注意
書きが書かれている。
この公園がいつ頃できたものかは判らないが、少なくとも開園当時は野中用水
に水が流れていたのであろう。
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小金井街道を越えると水路は暗渠となる。
西武新宿線の花小金井駅から歩いて5分ほどの距離にあり、そのような環境が
暗渠化されてしまった原因なのかもしれない。
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暗渠道は数十メートルという短い区間で、その先の小平合同庁舎に行く手を阻
まれる。

迂回していくと、黄檗宗の野中山円成院がある。
この寺院は、前項冒頭で記した野中新田の開発を画策した大堅により、享保12
年(1727)、上谷保村から引寺し、実山道伝を勧請して開山した。
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大堅が新田開拓に力を入れた背景として、17世紀半ばに中国から伝来し当時
はまだ新興宗派であった黄檗宗を、新田に移り住んでくる農民に広めようとす
る思惑があったらしい。
但し現地の教育委員会の説明板の言葉を借りると、「開拓地全域の農民を自ら
の檀家とする理想は果されませんでしたが、多くの農民から帰属を得て今日に
至っています」とのこと。
とはいえ、円成院は花小金井の地に今なお荘厳な寺院として建ち続けている
ことには間違いない。

円成院の東側から、野中用水は再び暗渠として現われる。
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その先は歩行者道となって150mほど続いた後、一般道へと出る。
そこで野中用水は左へと折れていたようだ。
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その一般道はその先、北東方向へと向きを変えるが、周辺に水路の痕跡は見
出せない。
ただ、この道路が小平市と西東京市(旧田無市)の市境となっており、恐らく野
中用水の水路を基準として境界線が設定されたのであろう。
2015-10-10_34.jpg

東京街道を過ぎると住宅が途切れ、田無タワーが目前に見える。
前項でとりあげた分水路は、この辺りで再び合流していたようだ。
2015-10-10_44.jpg

そのまま道路を進むと、多摩六都科学館の脇を通り過ぎ、田無タワーの足元
(写真右側の骨組み)で新青梅街道に出てくる。
街道の手前、100mほどの区間は道幅が細くなり、いかにも水路跡という雰囲
気を醸し出している。
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新青梅街道を渡った先、水路跡の道は更に雑然としてくる。
道脇には雑草が生い茂り、殆ど利用されない歩行者道ではないだろうか。
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その道を抜けると芋窪道と称された古道の道路に出る。
その芋窪道に出たところにあった地蔵、由緒は不明。
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用水は東へと向きへ変え、芋窪道沿いを数百メートルほど流れていたようだ。
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ここから北へ5分ほど行ったところに、小学校の旧校舎を利用した西東京市の
郷土資料室がある。
田無用水に関する展示もあり、足を伸ばしてみるのもいいかもしれない。

さて、ここから先が難題である。
野中用水は、南へと向きを変えて、再度、新青梅街道を渡り、現けやき小学校
の敷地内を通っていたようだ。
西東京市中央図書館(地域・行政資料室)で見つけた地図資料をもとに、周辺
を歩き回ったが、周囲は住宅街となり、部分的に農地は残っているものの、用
水の痕跡は全く判らなかった。
なおGoogleMapに記したルートは、その資料から推測したものである。
2015-10-10_67.jpg
小平市では条例を制定して用水を歴史的遺産として保全しているのに対して西
東京市ではそういった対応がなされていないためかもしれない。
それぞれの自治体にはそれなりの事情もあり対応方法が異なるだろうから、対
応の良し悪しを云々することはできないが、市を跨ぐと一変してしまうというのも
なかなか興味深いところではある。

野中用水の流末は、田無橋場で田無用水へと注いでいたようだ。
残念だが、現在ではその様子を伺い知ることはできない。
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目次
   

野中用水 1

小平市東部から西東京市へ至る野中用水を追ってみた。
野中用水の開削は享保14年(1729)、鈴木用水とともに開削されたと言われる。

他の用水同様、まずは野中新田の成立から説明していくこととしよう。
野中新田開発の契機は、多摩郡上谷保村(現国立市)の円成院(後述)の僧大堅
と、同村居住の矢沢藤八である。
大堅は享保7年(1722)、先手観音の御神籤と毘沙門天の夢のお告げを受けた
として、新田開発の起請文を書いた。
それをもとに、谷保村の百姓ならびに江戸の商人らの証文を取り付け、幕府(代
官岩手役所)へ新田開発の願書を提出する。
翌8年、代官と江戸町奉行与力による検分が行われるが、冥加金(権利金)とし
て250両の上納を求められ、問題が発生する。
そこで、当時、隣接する鈴木新田に出資をしていた上総国万国村(現木更津市)
の野中屋善左衛門に、新田に善左衛門の名を冠し、開発地を割り当てることを
条件として出資を依頼する。
かくして享保9年(1724)、幕府から513町歩の新田開発が許可された。

その後、上谷保村出身の百姓三名による土地の手放し(彼らはもともと土地売
買による利益を目的としたらしい)や、鈴木利左衛門の開発場取り上げ(鈴木
用水1参照)などの経緯を経て、野中新田が成立する。
野中新田は玉川上水の北側、青梅街道沿いを中心に位置する北野中新田、そ
して上水南側の南野中新田と、飛び地状に形成された。

こうして出来上がった野中新田であるが、その広大さゆえに年貢納入などの管
理に不便であることを理由として享保17年(1732)、与右衛門・善左衛門・
六左衛門・利左衛門の4名が名主役となり、与右衛門組、善左衛門組、六左衛
門組および鈴木新田(利左衛門管理)に分けられ、組ごとに年貢の取立てから
上納までを行うようになった。

野中用水は、青梅街道の天神町バス停の南側にある天神町分岐水門大沼
田用水
から分かれる。
流れてきた水はそのまま大沼田用水(写真奥)へと流れており、野中用水(写
真手前)へは流れこまない。
そのため、現在、野中用水は空堀として続いている。
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野中用水は、青梅街道の南側を東へと進んでいく。
この付近、青梅街道を挟んで、北に大沼田用水、南に野中用水が流れている。
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新小金井街道と交わる天神町1丁目交差点の手前では、一度、青梅街道沿い
に顔を出す。
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交差点の先では、素堀の区間も見られる。
但し、そこは私有地であるため、金網越しに眺めるということになる。
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その北側、多摩湖自転車道沿いには小平ふるさと村があり、小平市内の古民
家などを移築復元して保存・展示をしている。
小川新田の名主である小川家住宅の玄関棟や旧小平小川郵便局舎などがあ
り、立ち寄ることをお勧めしたい。
写真は旧神山家住宅主屋。
2015-10-03_114.jpg

また園内には復元した水車小屋もある。
水車は主に脱穀・製粉に利用され、玉川上水の分水各所に設けられたようだ。
同園設置のリーフレットには小平市内の水車について以下の通り記載されている。
小平でも、明和元年(1764)に小川村名主弥次郎が小川の分水を利用して
水車一台を仕掛けたのを皮切りに、明和9年(1772)には大沼田新田に、安
永4年(1775)には小川新田に、寛政10年(1798)、12年(1800)、享保3年
(1803)には野中新田にそれぞれ分水を利用した水車が仕掛けられています。

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野中用水に戻ってみると、相変わらず空堀が東へと進んでいく。
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青梅街道と多摩湖自転車道が交差した先、街道の北側に武蔵野神社が鎮座する。
野中新田開発時の享保9年(1724)、上谷保村から毘沙門天を野中新田に村
の鎮守として遷宮したことに始まる。
以来、円成院(後述)が管理していたが、明治維新の際に分離独立、猿田彦大
神を村鎮守に祭祀して、社号を武蔵野神社としたという。
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青梅街道から南へ通じる道にある橋跡。
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小金井消防署花小金井出張所の東で、水路は2つに別れる。
残念ながら、その分岐を見ることはできない。
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野中用水の本流は真っ直ぐに進んでいくが、北へと分岐した水路は青梅街道
と交差し、街道の北側を東へと流れていた。

先に分水を見ておこう。
青梅街道の北に面した駐車場の奥にはかなり古めかしい橋が残っている。
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さらにはその先、住宅街の中にある駐車場の脇をクランク状に進んでいく。
2015-10-10_10.jpg

小金井街道まで達すると分水は北に方向を変える。
ただ、水路跡は現在、小金井街道の下に埋もれてしまってるようだ。
2015-10-10_15.jpg

小金井街道を東京街道との交差点である北野中交差点まで達すると、今度は
右折して、東京街道の北側を東進するようになる。
そして、この辺りも新興住宅などのため、水路は殆ど残されていないが、一箇
所だけ水路敷が確認できる場所があった。
2015-10-10_40.jpg

分水路はそのまま900mほど続いて、再び本流へと合流していたようだが、そ
の場所については次項で紹介しようと思う。

《参考文献》
『小平市史 近世編』 小平市編


  
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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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