川崎市内を流れる
二ヶ領用水を辿ってみた。
最初に言っておくと、私は川崎という地に馴染みがない。
そのため、二ヶ領用水を歩く前に、宿河原堰そばにある二ヶ領せせらぎ館(登戸
駅下車徒歩10分)において数種類の小冊子を頂き、それに基づいて歩くこととした。
そのため、今回の記事を記すにあたり、それらの資料および図書館などで探した
資料を参考とし、近隣の史跡の紹介を付け足す方式で進めていっている。
まずは二ヶ領用水の歴史について説明しておこう。
徳川家康は天正18年(1590)、秀吉から関東への移封を命じられ、江戸城に入る。
折りしも、その前年、多摩川は流路が変わるほどの大洪水を起こし、周辺農民は
困窮する事態となった。
家康に随行して江戸へと入った小泉次大夫吉次(1529~1623)は、この様子を
見て、用水開削、および新田開発を家康に進言する。
家康より用水開削を命じられた次大夫は、慶長2年(1597)と翌年、稲毛・川崎お
よび世田谷・六郷の四ヶ領において測量を実施、慶長16年(1611)まで、14年
の歳月を費やして総延長32kmに及ぶ二ヶ領用水を完成させた。
工事は多摩川対岸の六郷用水と並行して進められたが、三ヶ月ごとに交互に行
う形で進行していったという。
これは、工事を行う農民の負担を考えてのことだったと思われる。
享保10年(1725)からは、田中休愚(丘隅)(1662~1729)による改修工事が
始まる。
休愚は、開削後100余年を経て荒廃した用水の改良工事を実施し、用水を再
生させた。
特に二ヶ領用水では、久地分量樋(次項にて紹介)を設け、下流域の各村への
水量の公平な分配に行い、関係各村の水争いの解消に寄与した。
昭和以降は、川崎臨海部の工業地帯化により、工業用水としても利用されたが、
現在は環境水路、および途中で合流する山下川、五反田川などの防災用水路
として利用されている。
二ヶ領用水という名前は、稲毛・川崎の両領を流れることに由来する。
多摩川対岸の六郷用水(世田谷領・六郷領)を併せて、四ヶ領用水とも呼ばれる。
六郷用水との大きな違いは、六郷用水が当初は世田谷領において水利権が
無かった(水利権が与えられたのは田中休愚以降)であるのに対し、二ヶ領用
水では開削当初から稲毛・川崎両領に水利権が与えられたことであろう。
そのため、六郷用水では世田谷区には支堀は少なく、六郷領に入ってから放
射状に分水されているのに対し、二ヶ領用水では上流域から多くの堀が分か
れている。(東京都側は国分寺崖線が多摩川沿いに迫るという地形的なことも
あるだろうが)
さて、二ヶ領用水を辿り始めよう。
今回は本項と次項の2回に渡って、上河原堰から久地円筒分水までの区間を
追うこととし、その後、川崎堀など章を変えて紹介していくこととする。
こちらが
多摩川から取水する中野島にある
上河原堰である。

二ヶ領用水の多摩川からの取り入れ口は、中野島の上河原堰と、下流の宿河
原堰の二ヶ所がある。
次大夫が当初、取入口としたのは上流側の上河原堰であり、その後、新田開
発による水需要の高まりに伴い、寛永6年(1629)に伊奈半十郎忠治の手代、
筧助兵衛により開削された。
但し、これには異論もあり、どちらが先に造られたのかは真偽は定かではない
らしい。
以前は竹を編んでつくった蛇籠に玉石を入れて河床に並べ流れを堰きとめる
という方式であったが、現在はコンクリート堰となっている。
これには昭和7年(1932)、多摩川上流の小河内ダムの建設計画が発表され
ると、多摩川の水位低下を懸念する水利紛争が東京都と神奈川県との間で
発生し、その打開策としてコンクリート堰の設置が決まり、安定供給を保証し
たものである。
その後、日中戦争勃発により資材調達が難航しながらも、昭和20年(1945)
に完成した。(なおその後、台風により被災、再建されている)
取水口から300メートルほど行くと、早くも見所がある。
三沢川との立体交差があり、二ヶ領用水はサイフォン式の伏越で、三沢川を
横断する。
もともと、三沢川はこの先で二ヶ領用水に接続していたが、昭和18年(1943)、
氾濫防止のため、三沢川を直接、多摩川へと放流したものである。
三沢川はこの下流側、数百メートルほど行った先で、多摩川へと繋がっている。

更に200mほど歩くと、南武線と交差する。
手前にある水門は
布田堰、
中野島新田堀が分岐していく。

南武線を越えると、再び左岸に
中野島堰の水門が見える。
こちらから分かれる水路は
登戸川原堀、登戸川原堀は中野島新田堀と合流し、
登戸方面へと流れている。

緑の中を流れていく二ヶ領用水、水路そのものは整備されたものだろうが、往
年の流れを彷彿とさせてくれる。

中野島橋の先、東側から
大丸用水が近づいてくる。
大丸用水は稲城市大丸で多摩川から取水され、矢野口を経て菅や中野島の
村々を潤していた用水である。
大丸用水の水を中野島方面へ送水するために、大正の中頃まで、掛樋を使っ
た用水の立体交差が見られたという。

なお、写真にあるように、二ヶ領用水沿いの所々に、「川崎歴史ガイド」と称す
る説明板が建てられている。
この説明板を見ながら、用水沿いを歩くも楽しい。
さらにはその先、西から
旧三沢川が合流する。
先ほど三沢川との伏越を紹介したが、こちらは元々の流路、水量は少ないも
のの旧川筋は残存している。
川崎市麻生区や稲城市を流域として流れる河川であり、二ヶ領用水はこの河
川の水も取り入れていたのであろう。

用水路沿いには桜が植えられ、良き散歩道となっている。
宿河原堰から流れる宿河原掘や、下流の川崎掘を含めて、二ヶ領用水ではそ
の殆どの区間で川沿いを歩くことができる。

川辺に降りて、水路脇を歩くこともできる。

そのような環境が子供たちの絶好の遊び場となっているようである。

紺屋橋の先、用水沿いの緑地が広がった場所に
紺屋前堰があったという。
ここから新田堀、高田堀、水車堀、東堀、鮒堀などに分かれて登戸一帯の耕地
を潤していたようだ。
堰は昭和38年(1963)の水系統合により廃止された。
なお堰の名は付近に藍染屋があったことに由来する。

紺屋橋の次、台和橋で西から
山下川が合流する。

その先で用水の左右にあった緑は途切れ、三面コンクリート張りの中小河川と
いう様相になってしまう。

二ヶ領用水は、先に紹介した旧三沢川合流地点から、下流の平瀬川合流地点
に至るまで、河川法上は二ヶ領本川という一級河川として指定されている。
そのため、二ヶ領本川は平瀬川の支流であり、旧三沢川や山下川、そして後ほ
ど合流する五反田川は二ヶ領本川の支流という扱いになっている。
県道世田谷町田線を渡り、100メートルほど行くと旧津久井道と交わる
小泉橋が架かる。

小泉橋は天保15年(1844)、豪農小泉利左衛門によって架橋された。
利左衛門は登戸に33の石橋を架けた言われ、小泉橋もその一つ。
利左衛門の四代後の小泉弥左衛門のよって改修されたが、橋の裏には天保、
明治の文字が彫られていたという。
残念ながら小泉橋は最近架け替えられてしまった(欄干には「平成二六年三月」
と記されている)が、橋脇の説明文はそのままになっており、虚しさを感じさせる。
向ヶ丘遊園駅の西で小田急線を越えると右岸から
五反田川が合流する。
川崎市麻生区細山付近を水源として小田急線沿いに流れる河川である。

また合流地点の少し上流側(写真奥の浮輪がある場所)で
五ヶ村堀を分ける。
五ヶ村堀は元々、先ほどの小泉橋のすぐ下流にある榎戸堰で取水されていた
が、河川改修によって取水口は小田急線の南側へ移されたようだ。
向ヶ丘遊園の街の南側を流れる二ヶ領用水。
右岸には府中街道が、左岸には
五ヶ村堀緑地という小公園がある。

先ほど分岐した五ヶ村堀はしばらく本川と並行して流れており、その間の空間
に設けられたのが五ヶ村堀緑地である。
掘そのものは緑地の下を暗渠として流れているが、通路沿いには人工のせせ
らぎが流れている。
駅からも近く、行き交う人々も多い。

五ヶ村堀緑地に続いて、水路沿いには
ばら苑アクセスロードという遊歩道が続く。
ここはかつて向ヶ丘遊園(現:生田緑地)へと向かっていた跨座式モノレールの
跡地である。

そのアクセスロードの途中の本村橋の東側には浄土宗寺院の
無量山龍安寺がある。
天正年間に空誉上人によって開山されたという古寺である。

二ヶ領用水に戻って更に歩いていくと、右側に白い建物の
藤子・F・不二雄ミュ
ージアムが見えてくる。
藤子・F・不二雄(1933~96)は長年、川崎市に居住し、没後、妻の正子から
川崎市へ原画の公開を申し入れたことがきっかけという。
川沿いの柵にはドラえもんなどのシルエットが施され、癒してくれる。

大谷橋から先は左岸の遊歩道は無くなり、右岸に沿っている府中街道を歩くこ
とになる。
歩道は川の反対側に設置されており、且つ交通量が多いため、水の流れを見
ながら歩くことはできない。

長尾橋の手前には5連の水門がある。
これは用水を流れる水の一部を、地下の導管を通じて多摩川へ流しているとのこと。

豊年橋の橋詰に「
長尾の天然水」と記された説明板がある。
この辺りでは、日当たりの悪い山かげを利用して、二ヶ領用水から汲み上げた
水を水溜に張り、氷を作っていたという。
その氷を切り出して氷倉で貯蔵し、夏になると神田・龍閑町や八丁堀、芝・明舟
町などの販売所へと卸されていた。
明治20年頃から農家の副業として始められたもので、長尾の氷は良質とされ
たらしいが、大正10年ごろまでに氷の生産は機械化され、途絶えたようだ。

その先、東名高速道路の高架橋が横切っていく。

《参考資料》
『二ヶ領用水知恵図改訂版』 川崎市建設緑政局編
『散策マップ 二ヶ領用水』 川崎市建設緑政局編
『川崎歴史ガイド 二ヶ領用水』 川崎市文化財団編
『二ヶ領用水400年~よみがえる水と緑~』 神奈川新聞社編