大沼田用水

大沼田用水は、小平市回田町で鈴木用水から分岐して北へと流れて同市大沼
町へと至る用水路である。
現在でも、玉川上水から新堀用水・鈴木用水を経由してきた多摩川の水が流れ
ている。
かつては大沼田新田への田用水、吞水として利用された。

まず最初に大沼田新田の成立から説明しておくことにしよう。
大沼田新田のおおよその地域は、現在の小平市大沼町、美園町のほか、天神
町や花小金井の一部である。
小平市に隣接する東村山市の東部には、野火止用水の開削を契機にひらかれ
た入間郡大岱村(現恩多町付近)という村があった。
享保7年(1722)、日本橋に新田開発の高札が揚げられると、同9年(1724)、
大岱村にも隣接する17町歩が割り渡された。
これが大沼田新田のはじまりとされる。
大岱村の名主、當麻弥左衛門は勝楽寺村(現所沢市)など周辺地域に割り当
てられた開発地を購入するなど、土地を売買して買占めを行っていった。
同様に大岱村の半次郎も開発場の買占めを行い、弥左衛門と半次郎の二人
によって買い集められた土地によって形成されていったという。
享保14年(1729)の時点で、その面積は132町歩に達したとされる。

そのような状況下において、大沼田用水が開削された。
開削時期は資料によって異なるが、享保14年(1729)もしくは同19年(1734)
とされる。
なお、広い大沼田新田の地域にはこの他にも水路が開かれ、小川用水の末流
(現在の小平駅北方)や、野中用水から分岐され江戸街道(現東京街道)に沿っ
て流れる水路もあり、前者を大沼田上分分水、後者を大沼田下分分水とも称される。

さて、大沼田用水を辿っていくことにしよう。
スタートは小平団地の東側、回田町分岐水門鈴木用水から水を分ける。
ここでは鈴木用水沿いに遊歩道が設けられ、水門を観察しやすい。
水路を流れる水のうち、6~7割程度は大沼田用水の方に流れるだろうか。
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私有地を抜け、鈴木街道を渡ると、北へと流れていく大沼田用水が現われる。
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その先は300mほどの蓋暗渠が続く。
暗渠は住宅街の道路の歩道となっており、普通の歩道よりやや高いような気もする。
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蓋暗渠の先は再び開渠となり、住宅の間を抜けていく。
回田道(めぐりだどう)に迂回していくと、鈴木町のマンション街にある鈴木親水
公園
の中を更に北へと進んでいく。
公園には水路脇に下りる階段や、水路を渡る橋の遊具などが設置され、親水
性が高い。
訪れた時は休日ということもあって、多くの子供たちが遊んでいた。
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再び住宅の間を北上し、迂回しながら水路を見ていくこととなる。
水路脇は草が刈られ、環境保全の苦労がうかがえる。
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青梅街道の手前に達すると、水路は東へと向かう。
そこにあるのは天神町分岐水門、ここで大沼田用水から野中用水が分かれる。
写真は下流側から撮影したもの、写真奥に曲がっていくのが大沼田用水、手前
は野中用水である。
水路を流れてきた水は全て大沼田用水へと流れている。
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野中用水を分岐した後、青梅街道と交差し、再度、東へと向きを変える。
写真手前の柵を用水が流れるが、その北側は天神窪という窪地になっている。
写真奥の植え込みから、道路が緩やかな坂になっているのがおわかりになる
だろうか。
大沼田用水が窪地を避けて開削されていることがよくわかる光景である。
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青梅街道の北側を東へ進むと、大沼田用水は伽羅陀山延命寺の境内へと入っ
ていく。
写真手前の石橋の下を水が流れている。
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延命寺はもともと多摩郡中藤村(現武蔵村山市中藤)の竜華山真福寺の塔頭
であったが、野中新田開発に際して入村した者たちによって、享保18年(1733)
時の代官上坂安左衛門役所に願いが出され、間もなく許可されてこの地に引
寺されたという。
野中新田を開拓した野中善左衛門が開基となっている。

用水は延命寺の北側で直角に曲がり、北へと向きを変える。
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延命寺の北側沿いで多摩湖自転車道と交差、自転車道に隣接する小平グリー
ンロード親水公園
には大沼田用水と大きく書かれた看板があり、「流れている
水は、多摩川本流の自然水です。」という説明も添えられている。
あたかもここを通る人々に用水の存在をアピールしているようだ。
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その先で今度は西武新宿線とクロス、更に住宅街を抜けていくと畑が広がる一
画に出る。
ここでは築堤が続き、そこを大沼田用水が流れていく。
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築堤のまま、用水は新小金井街道沿いに出てくる。
水路沿いに咲く小さな花々が心を癒してくれる。
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新小金井街道沿いに北上した後、東京街道(旧江戸街道)との錦城高校南交差
点に達する。
ここで大沼田用水は面白い動きをする。
水路は交差点の南を東へと向かった後、北へと向きを変え、東京街道を渡ると、
今度は道路沿いに西へと戻り、先ほどの交差点の北側に戻ってくる。
その途中で二手に分かれ、一方は北東方向に向かう短い水路があると資料に
は記載されているが、そちらの流れは民家に入っていくためなのか、その存在
を確認することはできなかった。

下の写真は交差点の南を東へと流れていく場所。
写真左奥にある樫の木は。こだいら名木百選に指定されている「宮崎さんのカ
シ」だそうである。
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こちらは、東京街道沿いを錦城高校南交差点へと戻っていく大沼田用水。
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その交差点を東へ200メートルほど行ったところには、當麻山泉藏院という天
台宗の寺院がある。
大沼田新田開拓時、寺院建立を代官に願い出て、寺領予定地を認めてもらった。
また、當麻弥左衛門と當麻伝兵衛も自分の所有地を寺領に寄付して寺院建立
に備えた。
しかしながら、当時は新寺院の建立は幕府の許可が得がたく、今寺村(現青梅
市今寺)の報恩寺の塔頭であった泉蔵院を引寺することで話がまとまり、延享
元年(1744)にこの地に建立したという。
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大沼田用水はさきほどの交差点の北側を西へ向かって流れていく。
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ここでも、用水沿いを歩くことはできず、東京街道を迂回しながら水路を追ってい
くことになる。
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東京街道沿いには、こちらも大沼田新田開拓に関わる大沼田稲荷神社が鎮座する。
先ほどの泉藏院と同じく、今寺村から當麻弥左衛門が稲荷社を勧請し、村内の
鎮守とした。
当初は泉蔵院内にあったが、明治元年(1868)、村の中央である現在地に社
殿を新築し、遷座したという。
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用水は大沼町2丁目で、小川用水悪水堀に合流して終わる。
現在、悪水堀は一般道となっているため、用水を流れてきた水は道路脇の枡へ
と流れ込んでいる。
大沼田用水の流末周辺はのどかな畑地が広がっており、玉川上水の分水路の
中でも有数の風景だと思う。
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《参考資料》
『小平市史 近世編』 小平市編
『小平の歴史を拓く 第6号』 小平市企画政策部市史編さん担当編
  


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鈴木用水 2

鈴木用水は、小金井街道を越えた後も、更に鈴木街道に沿って東進する。
前項では、北堀・南堀を交互に見ながら進んできたが、これからはそれぞれに
追うこととしよう。
その理由は、この先2つの堀は分かれて別々の流末を辿っていくからだ。

まずは南堀から。
小金井街道の東側、駐車場の間を通っていく南堀。
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その先、新しい住宅地の間を抜けていく。
よく見ると住宅造成時に施工されたのであろうか、木板で護岸が補強され、水
路の底には丸石が敷き詰められ、まるで新しい水路と見間違えるようだ。
小平では市の方針として用水路の保存を推進しているが、ここまで対応するも
のだろうか。
もしかしたら、大雨時の排水路として活用されているのかもしれない。
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鈴木街道沿いにあるひょうたん池公園の横を抜けていく。
この公園、水浴びができる人工池があり、子供には人気があるようだ。
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水路は右へ左へ曲がりながら住宅地の中を進んでいく。
用水は殆どの区間で金板などで補強されているが、中にはこのように素堀と思
わしき場所もある。
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その先、水路は屋敷森の中に入っていく。
水路はその辺りで石神井川の谷を下っていくのだが、その様子を見ることがで
きないのは残念である。
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仕方なく鈴木街道に戻り、坂を下って迂回していくと、谷を下ってきた用水路に
再び出会う。
こちらは石神井川手前にある住宅の間の水路敷。
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そして長久保橋付近で南堀は石神井川に合流している。
とはいっても、用水が流れ込む様子を目にできるわけでもなく、また石神井川も
この辺りでは、普段は水が流れていない。
ここは往年の姿を連想するだけに留めておこう。
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続いて、また小金井街道の東へと戻り、こんどは北堀を辿ることにしよう。
鈴木街道と小金井街道が交わる鈴木町交差点から東へ百数十メートルほど行
くと、北堀は道路沿いへと出てくる。
そこには花々が咲き、その中に大門橋緑道と書かれた杭が立つ。
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更に百数十メートルほどいくと、再び水路は住宅の裏手へと入りこんでしまう。
そしてその先には、再び大門橋緑道が始まる。
せいぶ通りと称する商店街との交差部には、大きく緑道の名が書かれた看板
があり、目をひく。
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用水は暗渠となり、短い区間ではあるが緑道が整備されている。
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緑道が終わると再び水路が出現するが、その先は私有地(屋敷)の中へと入っ
てしまう。
迂回していくと畑の脇に用水跡を確認できる。
ここでは水路というより、窪地といったほうがいいかもしれない。
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その東側で、小川用水は多摩湖自転車道と交差するが、そこには小さな橋が
架かっている。
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多摩湖自転車道との交差した後も、住宅街の中を水路は進んでいく。
アパート脇に確認できる鈴木用水の末流、小平市による通行禁止の看板が立
てられている。
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さらに住宅街の中を迂回していくと、道脇に水路敷を見つけた。
ここが水路敷として確認できる最後の場所。
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その東で小平市から西東京市へと入るが、西東京市になると水路は全く見られない。
写真は芝久保1-23付近、小川用水は写真左側から流れてきて、この角を曲が
って北へと向かっていたようだ。
そしてその先で田無用水の分水である芝久保用水へと合流していたようだ。
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鈴木用水 1

鈴木用水は小平市喜平町で新堀用水から分かれ、小平市鈴木町を流れていく
用水路である。
大沼田用水を分けた後、鈴木町一丁目付近で鈴木街道の北と南の2系統に分
かれ、それぞれ街道に沿って東進、流末は北側の水路は田無用水芝久保分水
に接続、また南側の水路は石神井川へと落ちる。
今回、鈴木用水を辿るにあたっては、tokyoriverさんの東京の水 2009 fra
gments
を参考にさせて頂いた。
特に北側水路の流末については、辿ることがかなり厳しく大変に参考にさせて
頂いたので、この場を借りて御礼を申し上げたい。

鈴木用水の開削は野中用水と同様、享保14年(1729)の開削とされる。
これは「野中鈴木組合用水」として設置されたことによるものらしい。

用水を辿る前に鈴木新田の成立について簡単に触れておきたい。
鈴木新田の開発に関わったのは貫井村(現小金井市)の名主、鈴木利左衛門
重広である。
利左衛門は正徳2年(1712)から、度重なる開発願いを出しているが認められ
ず、そうこうしているうちに資金が底をついてきた。
そこで上総国の野中屋善左衛門に開発場の三分の一を提供するなどの条件を
基に資金の提供を仰ぐ。
享保7年(1722)、日本橋に新田開発の高札が掲げられると、翌々年の享保9
年、開発の許可が下り、ようやく開発に着手した。

享保10年(1725)に鈴木利左衛門重広は病死、その息子、春昌が鈴木利左
衛門の名を継ぐ。
しかしながら、その利左衛門は役米が納められなかったことで開発場を取り上
げられてしまう。
そのため、鈴木利左衛門の新田は野中新田に組み入れられることになるが、
享保17年(1732)、六百町に及ぶ野中新田が、与右衛門、善左衛門、六左衛
門、そして利左衛門の四名が名主役を仰せられ、このうち利左衛門分が鈴木
新田を名乗ることとなった。

なお、鈴木新田は、玉川上水の南側に位置する「上鈴木」(砂川用水3参照)
と北側の「下鈴木」に分けられ、下鈴木のうち玉川上水沿いは「堀端鈴木」と
称していた。
今回、紹介する鈴木用水は、下鈴木に流れる分水路である。

さて、鈴木用水は、関東管区警察学校の南で新堀用水から分かれる。
そこには喜平町分岐水門があり、写真の右側の水路は新堀用水、左側は今
回取り上げる鈴木用水だ。
新堀用水を流れてきた水は、その殆どが鈴木用水側に落ち、直線方向(新堀
用水)への水はこの先、地中へと吸い込まれてしまう程度しか流れない。
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元々、鈴木用水(野中鈴木組合用水)は玉川上水から直接取水していたが、
明治3年(1870)の分水口改正(統合)により新堀用水から分かれる形となった。
(分水口改正は玉川上水の通船を目的としたものと言われる)
参考資料とした『小平の歴史を拓く』には天保9年(1838)と天保10年(1839)
に描かれた2枚の絵図が掲載されているが、それによると玉川上水からの取水
口は2箇所あったようだ。
特に天保9年の図では、上流側の取水口は対岸(南側)の国分寺用水の取水
口(現在の西武国分寺線鷹の台駅付近と推定される)より、更に上流側に記載
されており、そうだとするとここより2km以上、西に取水口があることになる。
現在では、その場所は推測できないが、興味深い事柄である。

水門から数十メートルほどで鈴木用水は暗渠となり、国交大通りを東へと進む。
通りの歩道にはコンクリート蓋の暗渠となっている。
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喜平図書館まで来たところで向きを北へと変える。
暗渠蓋の脇に設置されているコンクリートブロックが、古めかしさを感じさせる。
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喜平図書館から二百数十メートルほど北上、小平団地東交差点脇から鈴木用
水は開渠となる。
再び清らかな水流が現われる。
短い区間であるが用水路脇には遊歩道も設置されている。
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開渠になってから数十メートルほど行くと回田町分岐水門がある。
鈴木用水は右、左に分かれるのは大沼田用水(途中で野中用水を分岐)である。
水量は大沼田用水の方が多い。
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用水はこの先、民地の中へ入り込んでしまう。
写真はようやく道路脇に出てきた箇所をとらえたところ。
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そして鈴木用水は、鈴木稲荷神社の境内脇を流れていく。
参道には昭和12年竣工の石橋が架けられている。
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その鈴木稲荷神社は、先ほど説明した鈴木利左衛門が享保7年(1724)9月、
境内地として約25000㎡を寄進し、貫井村の稲荷神社を新田の鎮守として勧
請したものである。
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その鈴木神社の北方、鈴木街道を渡ったところにあるのが鈴木山宝寿院
享保11年(1726)、鈴木利左衛門春昌が、父利左衛門重広の菩提を弔うため
に、府中の妙光院(府中用水3参照)の塔頭にあった寺院を引寺、宥清上人を
招き入れ開山したものという。
当初は神隣山成身寺宝寿院と称したが、元文3年(1738)に村中の願いによっ
て、鈴木山と改称したと伝えられる。
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鈴木用水は、鈴木神社の東で鈴木街道へと出てくる。
街道脇を数十メートルほど暗渠となって進んだところで、北と南の2つの水路に
分岐、鈴木街道を挟むような形で東へと向かう。
青梅街道沿いを流れる小川用水も同様に南北2つの水路に分かれるが、小川
用水から六十余年経て開削された鈴木用水も先例に倣ったのかもしれない。
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この先は便宜上2つの水路を北堀南堀と呼び、交互に見ていくこととする。
上の写真の左側にある白い柵のところで北堀は街道を渡っていく。

その分岐点には寛政12年(1800)建立の石橋二ヶ所供養塔 、文化13年
(1816)建立の石橋供養塔などが立っている。
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こちらは北堀、相変わらず水の流れが続いている。
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それに対して南堀には水は全く流れておらず、空堀となっている。
北堀の周囲は青々としているのに対して、こちらは枯れ草が多いようだ。
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再び北堀、住宅の中を抜けていくように水は流れていく。
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空堀とっていも南堀にはこのような古い橋が架かっており、興味をそそられる。
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鈴木街道を何箇所かで渡り、北堀と南堀を交互に眺めていく。
それぞれ街道から数十メートルほど入ったところを流れるので、道路を行ったり
来たりする必要はあるが、飽きることはない。
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鈴木2丁目で、残念ながら北堀の水も消えてしまう。
今まで流れてきていた水は、恐らく下水へと消えていくのであろう。
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小金井街道の手前で、南堀にちょっとした見所がある。
南西方向から流れてきた(といっても空堀ではあるが)田無用水と交差するのである。
田無用水の開削は元禄9年(1696)と、鈴木用水よりも早い。
そのため、後から造られた鈴木用水が掛樋で田無用水を渡る(上が鈴木用水)
形となっている。
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田無用水は当然のことながら北堀とも交差するはずなのだが、その交差場所を
推定すると、ちょうど小金井街道の辺りとなり、こちらは残念ながら道路の下に
埋もれてしまったのかもしれない。
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写真は小金井街道手前の北堀である。

《参考文献》
『小平の歴史を拓く 第6号』 小平市企画政策部市史編さん担当編
『小平の歴史を拓く 下 史料集解題編』 小平市中央図書館編


 
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旧中川

旧中川は江戸川区平井から小松川にかけて流れる6.7kmの河川、埼玉県羽生
市に端を発して東京湾へ注いでいた中川が大正13年(1924)荒川放水路の完
成により分断され、荒川東岸に残った水路である。
旧中川は江戸川区とと墨田区、江東区の境界ともなっている。

旧中川の上流端は木下川水門、ここで荒川から水を取り入れているのかと思い
きや、水門には排水路という文字が記載されている。
水門の完成時(大正13年)時には水門の開放により、荒川と新旧中川との水運
に利用され、また周辺の水害を防ぐ役目を負っていた。
しかしながら現在においては江東デルタ地域(ゼロメートル地帯)を水害から
防ぐため、水位を低下させて一定(AP-1.0m)に保ち、隣接する木下川排水機
場と連携して、内部の水を放流しているということらしい。
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荒川の土手を乗り越え、排水機場の敷地を迂回していくと、緑の河川敷に囲ま
れた旧中川を目にすることができる。
これは昭和46年(1971)から40年の歳月をかけて平成23年に完成した旧中
川整備事業の成果である。
整備事業においては治水安全性の向上とともに、親水性や自然保護が重要視
され、河川の大部分の区間において、このような緑地が創出されたようだ。
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旧中川の上流部では、川は大きく蛇行する。
休日の河川沿いでは多くの太公望が釣り糸を垂れている姿が見られる。
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中平井橋の先、右岸に立花白髭神社が鎮座する。
天和2年(1682)、当時の庄屋の鹿倉吉兵衛、関口一郎治が幕府の許しを受
けて、中川の畔に勧請したといい、南葛飾郡西川村の鎮守とされた。
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川が右へとカーブすると、左岸に大きな屋根が見えてくる。
新義真言宗の平井聖天燈明寺である。
草創は不詳で平安時代とも伝えられるが、江戸時代中期には荒廃し、享保年
間(1716~35)、恵祐法印により再興されたという。
妻沼聖天、浅草待乳山聖天とならび、関東三聖天として知られる。
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歴代将軍が鷹狩りの時に御膳所として使用され、また江戸名所図絵にも描か
れている。
平井 聖天宮
江戸名所図会平井 聖天宮』  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

燈明寺の南に隣接するのが平井諏訪神社、燈明寺を再興した恵祐法印が出
身地の信州諏訪大社から神霊を勧請したのが始まりと伝えられる。
境内には大正9年(1920)頃、旧下平井村の丸星講の人々によって築かれた
「平井の富士塚」もある。
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さらには、その南に日蓮宗の安立山妙光寺がある。
慶長3年(1598)日饒上人が創建したと伝えられ、元禄年間(1688~1704)に
津波で堂宇を焼失したが日信上人が中興、更には大正4年(1913)に日台上人
が再興した。
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妙光寺のそばにある平井橋から下流を眺める。
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かつて、この辺りには行徳道が通っており、平井の渡しと呼ばれる渡船場があ
ったという。
前掲の江戸名所図会の左下にも「平井渡」という文字を見ることができる。

左にゆっくり曲がると蔵前橋通りの江東新橋が見えてくる。
その手前の左岸には、かつて旧中川から町を守っていたかさ上げ護岸の一部
が保存されており、その歴史が紹介されている。
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元々、この地域は三角州を埋め立てて江戸の市街地として発展してきた
場所であったが、明治末期からの工業地帯として発展、地下水の汲み上げによ
り地盤沈下が進行する。
江東の内部河川の護岸は応急対策として度重なるかさ上げが行われ、このよう
な護岸が構築されたが、脆弱なうえ、耐震性も弱いため、前述の河川整備事業
が実施され、現在のような形になったのたという。

護岸には、1974年当時の江東新橋からの写真も掲示されている。
川幅いっぱいに水が流れ、現在の旧中川からは想像もできない風景だ。
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その対岸には西から北十間川が合流する。
隅田川の吾妻橋の北から、東京スカイツリー脇を通り、ここに至る掘割である。
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その先で総武線と交差する。
右岸に広がるのは亀戸中央公園、元は日立製作所の亀戸工場があった場所である。
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ふれあい橋の橋詰には平和の祈りという碑が建てられている。
昭和20年3月10日未明の空襲により、10万人の犠牲者が出たが、旧中川で
も熱風に耐えかねた人々が次々と飛び込み三千人余りの命が失われたという。
現在は付近住民のレクリエーションの場となっているが、このような悲惨な歴史
があることを忘れてはならない。
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なお、毎年八月十五日のは旧中川で灯篭流しが行われている。

ふれあい橋下流の東岸には、逆井の富士塚浅間神社)がある。
高さは約5m、建造年代は不明だが明治17年(1884)の碑があり、江戸川区内
で最古、最大の富士塚であるという。
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上流は蛇行が激しかったが、先ほどの江東新橋から下流は、緩やかなカーブとなる。
川では漕艇の練習風景を見ることもできる。
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亀小橋の東岸、200mほど行ったところに亀戸浅間神社が鎮座する。
北十間川沿いの吾嬬神社と同様、当地にも日本武尊の話(日本武尊が東征の
際、相模国から上総国へ渡ろうとした時、暴風が起こり、弟橘媛が海中に身を投
げてその怒りを沈めた)が伝わり、弟橘姫の笄(こうがい)がこの地に漂着したと
言われている。
神社の北側には笄塚と呼ばれる富士塚があり、亀戸浅間神社は大永7年(1527)
里人たちが笄塚の上に浅間社として創建したと伝わる。
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境内にはかつて神社前を通っていた城東電車のレールが保存されている。

亀小橋の次の逆井橋には、江戸期より明治時代初期まで逆井の渡しと呼ばれ
る渡船場があり、亀戸村と西小松川村を結んでいた。
ここには江戸と下総を結ぶ佐倉道が通っており、交通の要所だったという。
川幅は四十間(73m)ほどで、2艘の船が備えられ、亀戸村と西小松川村それぞ
れの持ち船だった。
開設時期は不明だが、明治時代の記録には竪川を開設した徳島屋兵右衛門が
寛文年間(1661~73)に渡船場を開設したとも記されているようだ、
明治12年(1879)に木造の逆井橋が架橋され、渡しは廃止された。
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逆井のわたし
名所江戸百景逆井のわたし』  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

逆井橋の東岸、100mほどの所にある小松川神社は昭和11年(1936)の創建
という、比較的新しい神社。
荒川放水路の開削により、小松川地区が分断され、氏神であった新小岩香取神
社と、西小松川天祖神社に参拝するのが不便となったため、両社の分霊を西光
寺境内の稲荷社に奉安して祀り、その後、この地へ遷宮した。
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その先、都営新宿線の東大島駅が旧中川の上に架かる。
川の上にホームがあり、両岸にそれぞれ出口が設けられている。
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西から小名木川が交わる。
ここには寛文元年(1661)、中川番所が設けられ、江戸を出入りする物資や人
を取り調べていた。
近くには中川船番所資料館があり、河川水運などの紹介展示が行われている
ので、訪問をお勧めしたい。
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またこの水路の交差点には旧中川・川の駅と称する施設があり、休憩所が設け
られているほか、水陸両用バスの発着場ともなっており、家族連れなどで賑わう。

その先、川は左へと折れ、荒川ロックゲートが現われる。
荒川と旧中川との水位差(最大で3.1m)を調整して船舶の往来を可能とするた
めの閘門(こうもん)施設である。
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昭和5年(1930)、小松川閘門が造られたが、河川交通の衰退などもあり昭和
50年代に閉鎖、その後、川を利用した災害復旧活動が見直され、新たに平成
17年(2005)年、荒川ロックゲートが完成した。

なお旧小松川閘門は、この北にある大島小松川公園に下部を埋められた形で
保存されている。
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ロックゲートを過ぎると旧中川は荒川へと合流する。
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目次
  

池上用水(洗足流れ)

洗足池を水源とし、呑川に至る池上用水洗足流れ)を紹介しよう。
1.7kmほどの水路であるが、水路脇には遊歩道が続き、気持ちよく歩くことができる。
池上用水はかつては農業用水として、洗足流れ、洗足用水とも呼ばれた。
どちらかといえば洗足流れという呼称のほうが一般的なのかもしれない。

その流れの水源となる洗足池は湧水を堰き止めて造られた人工池で、昔は「千
束郷の大池」とも呼ばれた。
弘安5年(1282)、日蓮上人が身延山から常陸国に療養のために湯治に向かう
途中、池の畔で足を洗ったという言い伝えから、洗足池と名付けられたという。
(日蓮はその後、池上宗仲の館(現:池上本門寺付近)で没する)
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池の東側、妙福寺境内には日蓮が足を洗う際に袈裟をかけたと言われる袈裟
掛けの松
がある。
(現在の松は三代目と伝えられる)
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洗足池は歌川広重の名所江戸百景の一つにも取り上げられ、そこには袈裟
掛けの松も描かれている。
千束の池袈裟懸松
名所江戸百景千束の池袈裟懸松』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

松がある日蓮宗の寺院、星頂山妙福寺の地は、袈裟掛けの松を護る御松庵と
呼ばれる庵であった。
日蓮が池の畔で休息した際に、身延山から守護してきた七面天女が水中から
出現、これを祀ったのが始まりとされる。
妙福寺は寛永の頃、日慈上人が日本橋馬喰町に創建、その後浅草へ移転し、
関東大震災による焼失により、昭和2年(1927)に当地に再建された。
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更に洗足池周辺の史跡を巡ってみよう。
(池の北側にある洗足池弁財天や、西側の千束八幡神社については、清水窪
湧水路
の項を参照)

妙福寺の北、洗足池公園内には、江戸開城などで尽力した勝海舟夫妻の墓所
がある。
勝海舟(1823~99)は幕末、池上本門寺で開かれた西郷隆盛との会見に赴
いた際に通り掛かった洗足池の趣に感嘆し、明治24年(1891)、湖畔に別邸
を建築、「洗足軒」と名付けたという。
洗足軒は戦後焼失、その地は現在の大森第六中学校となっている。
海舟は「富士を見ながら土に入りたい」という思いから、洗足軒近くに墓所を造
ったという。
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勝海舟墓所に隣接して、西郷南洲隆盛留魂祠が建てられている。
これは西南戦争に散った西郷隆盛を追慕して勝海舟が漢詩を建碑、さらには
明治16年(1883)に魂魄を招祠して留魂祠を建立した。
もとは葛飾区の木下川薬妙寺にあったが、大正12年(1913)、当地へ移された。
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さて、そろそろ池上用水を辿っていくことにしよう。
池上用水は暗渠で中原街道と東急池上線を渡り、洗足池南側で開渠として現
われる。
そこには清らかな水が流れ、その脇に歩行者道が整備されている。
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水路沿いには桜の並木が続き、せせらぎが聞こえてくる。
また所々に水路脇に下りる階段もあり、親水性が高められている。
この近くにお住まいの方々は駅への往来をこんな環境の中を歩いている
と思うと、川好きの自分にとっては羨ましい限りである。
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この先、小池橋付近でかつて洗足小池からの流れが合流していたという。
その洗足小池は、池上用水から東北東へ500mほど行ったところにある湧水池、
先に紹介した洗足池を大池と称するのに対し、こちらは小池というわけだ。
洗足小池へ向かうには、緩やかな坂を上り続けなければならないが、そこには
洗足池とはまた違った趣きの風景が広がる。
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小池は以前、釣堀として営業されていたが、平成16年(2004)に廃業、その後、
大田区が整備、平成21年(2009)年に小池公園としてオープンさせた。

池の南側には水門があり、そこから水が落とされている。
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そこから池上用水方向に向かって水路跡が残る。
途中、水路跡は住宅街の中の道路となるが、小池小学校で途切れてしまう。
現在、小池からの水は池上用水へは流れ込んでいないので、どこかで下水へ
落ちているのであろう。
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池上用水へと戻り、再び水路を下っていく。
洗足池駅から600mほど一般道に沿って続いていた道は、その先、単独の遊
歩道となり、住宅街の中を進んでいく。
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水路には地域住民の方々によりカワニナが放されており、蛍が養殖されている。
初夏には蛍が飛び交う風景が見られるのだろうか。
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さらに500mほど進むとその先は暗渠となる。
今までの開渠が素晴らしい環境であったためか、暗渠化されてしまったことが
惜しい気がする。
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その暗渠の遊歩道を抜けた東雪谷五丁目交差点脇には日蓮宗の雪谷山長慶寺
がある。
創建は不明、元は碑文谷村にあり法華寺の末寺であったが、その後、池上本
門寺の末寺に変わったという。
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長安寺の横を進み、遊歩道が終わるところある二基の庚申塔、左側は正徳2年
(1712)年、右側は享保7年(1722)の建立だそうだ。
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新幹線のガードを潜り、一般道を進んでいく。
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本村橋で池上用水は呑川へと合流する。
吐口からは勢いよく水が放流されている。
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《参考文献》
『大田の史跡めぐり』 大田区教育委員会 郷土博物館編


  
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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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