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清水窪湧水路

大岡山の北にある清水窪の湧水に端を発し、洗足池に注ぐ水路を紹介しよう。
洗足池からは池上用水(洗足流れ)が呑川まで通っているため、この水路は呑川
の支流の支流といった位置づけになるのかもしれない。
この水路の正式な名前はないと思うが、洗足池公園の案内図に清水窪湧水路
の記載があったため、ここではその名称を使用することとする。

東急目黒線・大井町線の大岡山駅より北へ500mほど商店街を進み、右へ折れ
ると住宅街の中の坂道を下っていく。
その先の小さな森にあるのが清水窪である。
ここからはコンコンと水が湧き出し、洗足池の源流の一つとして流れを形成し、
かつては用水として田畑を潤していたという。
(水量は多いが、これはポンプで汲み上げて循環させているためのようだ)
なお、この清水窪湧水は東京の名湧水57選に指定されている。
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湧水の脇には清水窪弁財天が祀られている。
この弁財天は、今から二百数十年前、岸田庄左衛門がこの地の発展を祈願し、
岸田家の守護神として創建されたものだという。
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湧水から出た水は、境内の小さな池へと流れ込む。
2015-08-15_18.jpg

その先は暗渠となり、南の弁天池を目指し道路の下を水路が進んでいく。
ここが水路であることを示すものは、歩道が延々と続くことだけかもしれない。
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道路の左側は清水窪小学校、水路は崖地の底を進んでいく。
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やがて、大岡山駅の東側で東急線と交差する。
線路を越えるためには大岡山駅前まで迂回する必要があるが、駅前から川筋
を見ると、水路部が凹んでいるのが良くわかる。
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東急線を越えた後も歩道がある道路が緩やかに蛇行しながら南進する。
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歩道があるということ以外、ここが暗渠であるという証拠は何もない。
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東急線から500mほどで、洗足池公園へと到着する。
洗足池公園に入ると水路は開渠となり、そこには清水窪からの湧水が流れている。
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顔を出した湧水路は、洗足池まで150mほど遊歩道沿いを進んでいく。
水路には外来生物放流禁止を呼びかける注意書きが立てられている。
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その先で、湧水路が洗足池へと流れ込む。
洗足池については池上用水洗足流れの項において説明することにする。(予定)
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最後に湧水路が流れ込む周辺の、洗足池北部および西部にある2つの神社を
紹介しておこう。

湧水路の左岸、洗足池の池端に見える赤い社殿の神社は、洗足池弁財天(厳
島神社)、
創建年代は不詳、かつては池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の間、
池の中に没していた。
昭和9年(1934)、洗足風致教会の手により遷宮・建立されたという。
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湧水路から右へ池沿いを100mほど進むと、千束八幡神社がある。
創建は貞観2年(860)と古く、宇佐八幡を勧請、以来、千束郷の総鎮守として
鎮座している。
平将門の乱を鎮圧するために鎮守府副将軍として下向した鎮守府副将軍の藤
原忠方は、乱の後、この地に館を構え、八幡宮をを氏神としたという。
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また、千束八幡神社には池月発祥伝説という話が残り、名馬「池月」の銅像も境
内に建立されている。
治承4年(1180)、源頼朝は石橋山の合戦に敗れた後、安房へと逃れたが、再
起して鎌倉へ向かう途中、洗足池に宿営、諸国からの参陣を待った。
ある月夜、野馬が飛来し、その逞しい馬体は、青い毛並みで白の斑点を浮かべ、
池に映る月影のようであったので「池月」と命名され、頼朝に献上された。
寿永3年(1184)、宇治川の戦いにおいて、頼朝から池月を授かった佐々木高
綱は、梶原景季と先陣を争い、巧名を得た。

そのような伝説を記す説明板を読みつつ、洗足池を眺めるのもまた楽しい。


  
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北十間川 2

横十間川を分けた後、北十間川はさらに東へと向かう。
分水地点から先は、川沿いに遊歩道が設けられ、親水化が図られている。
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境橋の橋詰には、祐天堂と称する祠と木下川やくしみち道標が保存されている。
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祐天堂には供養塔が納められており、これは元禄年間(1688~1704)祐天上
人が川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て回向され、供養塔を建てた
というもの。
以降、この付近では水死者も無くなったと言い伝えられている。
また供養塔と並んで宝暦11年(1761)建立の道標(写真左下)があり木下川
薬師堂(現葛飾区東四つ木)へ通ずる薬師道を示す道標である。

境橋から川沿いの浅草通りを50mほど行くと、梅屋敷の説明板がある。
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この辺りは江戸期には梅屋敷と呼ばれ、本所埋堀の商人、伊勢屋彦右衛門の
別荘で清香庵と称していたが、庭内に梅が多く植えられていたところから梅屋敷
と呼ばれるようになったという。
八代将軍吉宗も鷹狩りの帰途にこの地を訪れ、また歌川広重も名所江戸百景
の一つに取り上げて描いている。
残念なことに、明治43年(1910)の大雨により、亀戸、大島、砂村のほぼ全域
が浸水、すべての梅樹が枯れ、梅屋敷は廃園となった。
亀戸梅屋敷
名所江戸百景亀戸梅屋敷』  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

史跡紹介ばかりで恐縮だが、境橋の次の福神橋の南と北にある2つの神社も
紹介しておきたい。

まずは南にある亀戸香取神社、ご由緒の説明書きには天智天皇4年(665)、
藤原鎌足が東国下向の際、この亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請したのが
創立の起因であると記されている。
また天慶(938~47)の頃、平将門を追討した俵藤太秀郷が当社に戦勝を祈願
して戦いに臨んだところ、平定したで神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と
命名したという。
この古事により、現在でも勝矢祭がとり行われ、またスポーツ振興の神として、
多くのスポーツ関係者が参拝に訪れるという。
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香取大神宮
江戸名所図会香取大神宮(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

福神橋北側の微高地には吾嬬神社が鎮座する。
こちらは香取神社と違って小ぢんまりとした神社であるが、こちらも由緒ある神
社である。
古くはの吾嬬の森、浮洲の森と呼ばれ、正治元年(1199)北条泰時が幕下の
葛西領主遠山丹波守に命じ、300貫を寄進し社殿を造営したのが創建とされる。
また、当社の創建については次のような神話も伝わるようだ。
日本武尊が東征の際、相模国から上総国へ渡ろうとした時、海神の怒りに触れ
て暴風が起こり、妻の弟橘媛命が海中に身を投げて、その怒りを沈めた。
後に、その品が流れ着いたとが当地であったということで、以来、海や川で働く
人々の守護神として信仰されたという。
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なお、こちらも江戸名所図会に描かれている。
吾嬬森 吾嬬権現 連理樟
江戸名所図会吾嬬森 吾嬬権現 連理樟
                       (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

北十間川は福神橋の先、緩やかに蛇行する。
訪れた時は護岸改修工事が行われていたが、遊歩道が延長されるのかもしれない。
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その南には曹洞宗の西帰山常光寺がある。
天平九年(737)、行基による開山と伝えられる。
江戸時代には江戸六阿弥陀巡礼(春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀仏を巡礼する
もの)の六番目の霊場として栄えたといい、その様子は江戸名所図絵にも描か
れている。
境内には延宝7年(1679)建立の六阿弥陀道道標があり、江東区の有形民族
文化財に指定されている。
また常光寺は亀戸七福神の一つ(寿老人)でもある。
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亀戸村の常光寺ハ
江戸名所図会亀戸邑 常光寺 六阿弥陀回り(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

常光寺から蔵前橋通りを渡り、300mほど行ったところに亀戸水神宮にも立ち
寄ってみた。
東武亀戸線の駅名(亀戸水神駅)にもなっているが、その割には意外と小さな
神社である。
享禄年間(1528~32)の創建とされ、新田開発の際に土民が堤上に水神を勧
請して、水害の被災が無きよう祈願したものとされる。
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北十間川は東武亀戸線と交差、亀戸水神駅の北側300mほどの地点に鉄橋がある。
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その鉄橋から200mほどいくと、北十間川は旧中川に突き当たって終了する。
そこは旧中川の整備された河川敷が広がっており、気持ちよい空間となっている。
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本項では社寺の紹介が多くなったが、江戸名所図会などにも数多く描かれている
ということは、北十間川流域は江戸庶民に親しみがある地域だったのかもしれない。
現在は東京スカイツリーで賑わっているが、何かしら江戸期と現在に共通するも
のがあるような気がする。


   
目次
   

北十間川 1

北十間川は、吾妻橋の北から隅田川から分かれ、旧中川へと流れる3.24km
ほどの掘割である。
川名を聞いたことがない方も、東京スカイツリーの脇を流れる川と言えばおわ
かりになるかもしれない。
本所の北側を通り、川幅が十間あることからその名が付けられた。
途中、大横川と横十間川を南へと分岐する。
万治2年 (1659)、明暦の大火後の本所開発事業として掘割が開削され、輸送
路や農業用水として利用されていたという。
大横川から西側は源森川という名称も残る。
これは隅田川の増水時の対策として、大横川東側に堤が築かれ北十間川とは
画されたことのよる。
明治18年(1885) に堤が取り除かれ、北十間川は一本に繋がった。

隅田川の東武線鉄橋の南側、源森川水門から北十間川を追っていくことにする。
写真は隅田川の対岸、浅草側から水門を撮影したもの。
2015-08-08_4.jpg

隅田川から分かれた北十間川は東武伊勢崎線(スカイツリーライン)沿いに進む。
北十間川では、今や東京スカイツリーが欠かせない風景となっている。
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ここで東武線の北側にある隅田公園に立ち寄ってみよう。
ここは江戸時代、水戸藩の下屋敷があった場所で、主に蔵屋敷として使われて
いたという。
隅田川沿いの墨堤は江戸期から花見の名所として有名で、現在も花見の時期
は多くの花見客で賑わう。
明治天皇も明治8年(1875)、花宴としてこの地に行幸されている。
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隅田公園の北に接して鎮座しているのが牛嶋神社、貞観二年(860)慈覚大師
が御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請したのが創建と伝わる。
治承4年(1180)、源頼朝が大軍を率いて当地に赴いたところ、豪雨による
洪水に悩まされたが、武将千葉介平常胤が祈願し、全軍無事に渡ることがで
きた。
頼朝は社殿を建立し、多くの神領を寄進したという。
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東武橋まで、北十間川沿いを歩くことはできない。
さらに周囲の寺院などを巡りながら歩いていくこととしよう。

源森橋の南には、本門佛立宗のの覚英山清雄寺がある。
寛文2年(1662)建立、徳川四天王の一人、酒井忠次(1527~96)の
菩提と弔うために、日崇上人の開山により本所中ノ郷(現在の墨田区役所付近)
に建立された。
以後、出羽国鶴岡藩主酒井家の菩提寺として存続、関東大震災後に当地へと
移転した。
2015-08-08_43.jpg

北十間川の南に並行する浅草通り沿いには南蔵院跡の説明板がある。
(南蔵院は昭和元年(1925)に葛飾区水元に移転)
南蔵院には「しばられ地蔵」という話が残り、ちょっと長くなるが、説明板の記載
を引用してその話を紹介しよう。
2015-08-08_47.jpg
ある時、日本橋木綿問屋の手代が業平橋の近くで商品の反物を盗まれてしま
います。商いの疲れからお地蔵様のそばで居眠りをしていた間のことなので、
手がかりがまるでありません。そこで町奉行大岡越前守は一計を安じ、このお
地蔵様を犯人として縛り上げ奉行所に運びました。その上、お白州で地蔵の
裁きをする旨のお触れまで出したのです。このうわさはたちまち広まり、お裁き
当日の奉行所は詰めかけた野次馬でごったがえし大混乱となりました。越前
守は騒ぎを起こした罰と称して、見物に集まった人々に一反ずつ反物を納め
させました。すると、集まった反物の中には予想どおり盗品が混じっていました。
越前守は納め主を割り出して真犯人を捕らえ、事件は無事解決したのでした。
 この話から、南蔵院のお地蔵様を縛ってお願いすると、失くしたものが戻っ
てくるとか、泥棒よけのご利益があると信じられるようになり、しばられ地蔵と
呼ばれ、人々の信仰を集めるようになりました。


また南蔵院の境内にはかつて業平天神社があり、平安時代の歌人・在原業平
を祀ったものといわれる。
業平天神社は江戸名所図会にも描かれており、大横川に架かる業平橋などの
名はこれに由来するという。
業平天神祠
江戸名所図会 『業平天神祠』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

小梅橋の東側に北十間川樋門がある。
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隅田川と荒川に囲まれた地区では、地下水の汲み上げなどを要因とする地盤
沈下が生じ、そのため風水害に襲われることが多くなった。
地盤が比較的高い西側では護岸を整備することで対応、低い東側では水位を
低下するという対策がとられた。
その結果、西側の区域と東側の区域では水位差が発生することとなった。
その調整として小名木川では扇橋閘門で対応したが、北十間川では、この樋
門により調整を行っている。
この樋門により北十間川の航路は東西で分断されることになるが、Webを検
索すると、閘門化して隅田川への航路を確保することも要望されているらしい。

北十間川樋門の東側には大横川との分岐点があったが、残念ながら現在そ
の場所に立ち入ることも出来ない。
また、大横川は北十間川から竪川の区間は埋め立てられ、その跡は大横川
親水公園となって人工流路が流れている。
写真は業平橋北側の大横川親水公園、船の形をした公園管理事務所がある。
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小梅橋の次は東武橋、ここからいよいよ東京スカイツリーおよび東京ソラマチ
の脇を流れていく。
北十間川の最大のスポットであることは言うまでもない。
2015-08-08_51.jpg

下の写真は東京スカイツリー着工時の2008年当時のもの、現在の北十間川
とは同じ地点とはとても思えないだろう。
川には、木炭に付着した微生物を利用した水質浄化装置が設置されていた。
2008-06-14_22.jpg

川沿いには遊歩道が設けられ、親水化が図られている。
2015-08-08_59.jpg

十間橋では、スカイツリーがそびえ立つのがよく見える。
またスカイツリーの姿が川面に映りこみ、逆さスカイツリーが撮影できる場所と
して有名な撮影スポットでもある。
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スカイツリー周辺では観光地化しているものの、この辺りまで来ると未だ下町
情緒が溢れる地域となっている。

十間橋の先で、横十間川が南へとT字分岐している。
2015-08-08_67.jpg

ここの風景は、歌川広重の名所江戸百景にも描かれている。
柳島
名所江戸百景 『柳しま』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

今でこそ住宅や工場が建ち並ぶ地域であるが、絵画を見ると江戸期のこの
付近は田園地帯であったのだろうか。

《参考文献》
『資料館ノート 北十間川─海岸線の記憶と本所の開発─』 
                              江東区深川江戸資料館編



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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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