北十間川は、吾妻橋の北から隅田川から分かれ、旧中川へと流れる3.24km
ほどの掘割である。
川名を聞いたことがない方も、東京スカイツリーの脇を流れる川と言えばおわ
かりになるかもしれない。
本所の北側を通り、川幅が十間あることからその名が付けられた。
途中、大横川と横十間川を南へと分岐する。
万治2年 (1659)、明暦の大火後の本所開発事業として掘割が開削され、輸送
路や農業用水として利用されていたという。
大横川から西側は源森川という名称も残る。
これは隅田川の増水時の対策として、大横川東側に堤が築かれ北十間川とは
画されたことのよる。
明治18年(1885) に堤が取り除かれ、北十間川は一本に繋がった。
隅田川の東武線鉄橋の南側、
源森川水門から北十間川を追っていくことにする。
写真は隅田川の対岸、浅草側から水門を撮影したもの。

隅田川から分かれた北十間川は東武伊勢崎線(スカイツリーライン)沿いに進む。
北十間川では、今や東京スカイツリーが欠かせない風景となっている。

ここで東武線の北側にある
隅田公園に立ち寄ってみよう。
ここは江戸時代、水戸藩の下屋敷があった場所で、主に蔵屋敷として使われて
いたという。
隅田川沿いの墨堤は江戸期から花見の名所として有名で、現在も花見の時期
は多くの花見客で賑わう。
明治天皇も明治8年(1875)、花宴としてこの地に行幸されている。

隅田公園の北に接して鎮座しているのが
牛嶋神社、貞観二年(860)慈覚大師
が御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請したのが創建と伝わる。
治承4年(1180)、源頼朝が大軍を率いて当地に赴いたところ、豪雨による
洪水に悩まされたが、武将千葉介平常胤が祈願し、全軍無事に渡ることがで
きた。
頼朝は社殿を建立し、多くの神領を寄進したという。

東武橋まで、北十間川沿いを歩くことはできない。
さらに周囲の寺院などを巡りながら歩いていくこととしよう。
源森橋の南には、本門佛立宗のの
覚英山清雄寺がある。
寛文2年(1662)建立、徳川四天王の一人、酒井忠次(1527~96)の
菩提と弔うために、日崇上人の開山により本所中ノ郷(現在の墨田区役所付近)
に建立された。
以後、出羽国鶴岡藩主酒井家の菩提寺として存続、関東大震災後に当地へと
移転した。

北十間川の南に並行する浅草通り沿いには南蔵院跡の説明板がある。
(南蔵院は昭和元年(1925)に葛飾区水元に移転)
南蔵院には「しばられ地蔵」という話が残り、ちょっと長くなるが、説明板の記載
を引用してその話を紹介しよう。
ある時、日本橋木綿問屋の手代が業平橋の近くで商品の反物を盗まれてしま
います。商いの疲れからお地蔵様のそばで居眠りをしていた間のことなので、
手がかりがまるでありません。そこで町奉行大岡越前守は一計を安じ、このお
地蔵様を犯人として縛り上げ奉行所に運びました。その上、お白州で地蔵の
裁きをする旨のお触れまで出したのです。このうわさはたちまち広まり、お裁き
当日の奉行所は詰めかけた野次馬でごったがえし大混乱となりました。越前
守は騒ぎを起こした罰と称して、見物に集まった人々に一反ずつ反物を納め
させました。すると、集まった反物の中には予想どおり盗品が混じっていました。
越前守は納め主を割り出して真犯人を捕らえ、事件は無事解決したのでした。
この話から、南蔵院のお地蔵様を縛ってお願いすると、失くしたものが戻っ
てくるとか、泥棒よけのご利益があると信じられるようになり、しばられ地蔵と
呼ばれ、人々の信仰を集めるようになりました。また南蔵院の境内にはかつて
業平天神社があり、平安時代の歌人・在原業平
を祀ったものといわれる。
業平天神社は江戸名所図会にも描かれており、大横川に架かる業平橋などの
名はこれに由来するという。
江戸名所図会 『
業平天神祠』
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)小梅橋の東側に
北十間川樋門がある。

隅田川と荒川に囲まれた地区では、地下水の汲み上げなどを要因とする地盤
沈下が生じ、そのため風水害に襲われることが多くなった。
地盤が比較的高い西側では護岸を整備することで対応、低い東側では水位を
低下するという対策がとられた。
その結果、西側の区域と東側の区域では水位差が発生することとなった。
その調整として小名木川では扇橋閘門で対応したが、北十間川では、この樋
門により調整を行っている。
この樋門により北十間川の航路は東西で分断されることになるが、Webを検
索すると、閘門化して隅田川への航路を確保することも要望されているらしい。
北十間川樋門の東側には大横川との分岐点があったが、残念ながら現在そ
の場所に立ち入ることも出来ない。
また、大横川は北十間川から竪川の区間は埋め立てられ、その跡は大横川
親水公園となって人工流路が流れている。
写真は業平橋北側の
大横川親水公園、船の形をした公園管理事務所がある。

小梅橋の次は東武橋、ここからいよいよ
東京スカイツリーおよび
東京ソラマチの脇を流れていく。
北十間川の最大のスポットであることは言うまでもない。

下の写真は東京スカイツリー着工時の2008年当時のもの、現在の北十間川
とは同じ地点とはとても思えないだろう。
川には、木炭に付着した微生物を利用した水質浄化装置が設置されていた。

川沿いには遊歩道が設けられ、親水化が図られている。
十間橋では、スカイツリーがそびえ立つのがよく見える。
またスカイツリーの姿が川面に映りこみ、逆さスカイツリーが撮影できる場所と
して有名な撮影スポットでもある。

スカイツリー周辺では観光地化しているものの、この辺りまで来ると未だ下町
情緒が溢れる地域となっている。
十間橋の先で、
横十間川が南へとT字分岐している。

ここの風景は、歌川広重の名所江戸百景にも描かれている。
名所江戸百景 『
柳しま』
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)今でこそ住宅や工場が建ち並ぶ地域であるが、絵画を見ると江戸期のこの
付近は田園地帯であったのだろうか。
《参考文献》
『資料館ノート 北十間川─海岸線の記憶と本所の開発─』
江東区深川江戸資料館編
テーマ:東京 -
ジャンル:地域情報