本宿用水

石田大橋下流で多摩川から取水し、府中市の四谷・日新町地区の田園を潤す
宿用水
を取り上げる。
本宿用水は西府用水、四谷用水という別名を持つ。(府中の四谷という地名の起
源については新宿区四谷などのように谷から来るものではなく、四つの家が村を
興したことによるもので、四つ屋が転じて四谷となったという。)

本宿用水の開設については資料をあたってみたが、わからなかった。
少なくとも江戸期には存在していたようだ。
現在は石田大橋下流の四谷本宿堰から取水されているが、以前は数百メートル
ほどの四谷上堰、さらには1kmほど下流の四谷下堰から取水されていたという。
昭和25年(1950)には四谷上堰が、そして昭和49年(1974)には四谷下堰が
洪水被害に合い、現在では四谷本宿堰に合口、ここから取水されている。
因みに四谷下堰からの水路跡は、現在、遊歩道や公園になっている。

本宿用水はとにかく支流が多い。
あちこちで水路が分かれ、四谷・日新町地区では網の目状に張り巡らされてい
るといっても過言ではない。
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』(府中市教育委員会
編)には府中用水の堀名が一覧で記載されているが、本宿用水系だけでも23
に及ぶ。
名も無い小さな水路を含めれば、その数は更に増えるだろう。
本項では、本宿用水の本流を追っていくことにする。

こちらが四谷本宿堰にある多摩川からの取水口、写真奥に見える床止には魚
道が設置されている。
取水は府中用水と同様に5月中旬から9月までの農繁期のみ行われている。
(その間でも多摩川増水時には取水は行われない)
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河川敷にある水門。
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多摩川の土手を過ぎると開渠となって流れるが、残念ながら住宅の間を通り抜
けているため、用水沿いを歩くことはできない。
迂回した先から上流方向(多摩川方向)を眺める。
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その先マンション前を暗渠として進む。
その途中で突如、水門が現れるが、ここで水路は2本に分かれる。
右へと折れる支流は、四谷地区で数多く枝分かれして流れていく。
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都道と交差した後は北多摩二号水再生センターの敷地内に入ってしまう。

その南にある上之島神社に立ち寄ってみることにする。
境内にある説明板によると、以前はお伊勢の森という地にあったが、多摩川の
洪水により川原に没したため、村人の土方織部と土方八郎左衛門が当地に遷
座したとのこと。
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水再生センターの北側真で迂回すると、ようやく本宿用水の本流を目にするこ
とができる。
センター内で分水されたのであろうか、ここは2本の流れとなっている。
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その分水を辿っていくと、さらに水が分かれる小さな分水堰をみることができる。
このような分水堰を見ることが出来るのは、ある意味、用水巡りの醍醐味である、
通常の河川では合流点は多くあるが、分水地点を見ることができるケースは少ない。
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本流は中央自動車道まで達した後、中央道に沿って東へと進む。
そこは暗渠となっており、水路上には遊歩道が設けられている。
(国立インターの敷地内を通り、府中用水本流に達する分水路もある。)
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300mほど行った後、中央道のガード下を開渠となって流れていく。
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中央道を潜った後、住宅の間を流れていく。
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住宅地沿いを流れる本宿用水。
この辺りになると宅地と田畑が混在し、用水の水は点在する田圃へと供給され
ている。
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用水に架かる古い小さな橋があった。
橋には相模橋と書かれており、交差する道路は大山道である。
相模国へと通じることから名付けられたのであろうか。
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その先、水路沿いに日新稲荷神社がある。
この地は天神島と言われる多摩川沖積地の微高地であり、谷保天満宮は当初、
この地に創建されたという。
養和元年(1181)、津戸三郎為守により谷保の現在地(下の川2参照)に遷座
された。
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用水という性格上、田畑の中(現在は一部住宅地化)を通っていくため、水路沿
いを歩ける箇所は少ない。
迂回しながら用水を追いかけることになるが、迂回した先で用水を流れる清流
を見る際の清涼感はまた格別である。
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本宿用水はその先も田畑の中を流れていくが、日本電気府中事業場の西側で
暗渠となる。
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用水はその後一旦南下し(南下している箇所では水路は一般道の下に隠れる)、
さらに事業所の敷地沿いに東へと向きを転じる。
そこには暗渠となった本宿用水を確認することができる。
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ここで、ちょっと離れるが、中央道の南にある小野神社を紹介しておきたい。
武蔵國一之宮・小野神社は延喜式神名帳(延長5年(927))に記載されている
古社である。
同名の神社が多摩川の対岸の多摩市にも鎮座するが、これは多摩川の氾濫
によって多摩市側へと遷座されたものと考えられており、残った村人がこの地
の小野神社を守り続けたと言われる。
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さて、本宿用水へと戻り、暗渠の続きを辿ることとしよう。
水路はコンクリート蓋で覆われ、蛇行した道路の歩道として利用されている。、
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その先に鉄柵で囲まれた異様な構造物があった。
ここも分水堰であろう。
本流はなおも道路沿いを進むが、写真に写る住宅裏手の緑地沿いに分水が分
かれていたようだ。
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やがて本宿用水は新田川と合流する。
ここにはかつて行人前橋という橋があったというが、2つの水路とも暗渠化され
てしまっているため、残念ながらその痕跡を見つけることはできない。
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前述の通り、本宿用水では、分水が血管のように枝分かれしている。
ちょっと歩けば、田園の中に用水路が流れる風景をあちこちで見かけることが
できる。
いくつかの分水を辿ってみたが、とてもじゃないが、全てを追うことは難しい。
最後に分水の風景をいくつか紹介して、終わることにしよう。
本宿支流1

本宿支流2

《参考文献》
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』 府中市教育委員会編


  
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水窪川 2

吹上稲荷神社付近から先、水窪川の跡は再び細い道路をとなって残っている。
道路右側の塀の向こうは豊島岡墓地(後述)。
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不忍通りに出ると、左手に坂がある。
富士見坂といい、通り沿いの説明板によると坂上からよく富士山が見えたのだ
という。
以前は急で狭い坂であったが、大正13年(1924)都電(当時は東京市電)が開
通した際、緩やかになり道路も広がったという。
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不忍通り沿いに護国寺方面へと歩くと、右手に門が見える。
皇族専用の豊島岡墓地である。
明治6年(1873)、明治天皇の第一皇子である稚瑞照彦尊が死産した際に埋葬
され、豊島ヶ岡御陵として使用が開始された。
以来、天皇・皇后を除く皇族の墓地として使用されている。
皇族の葬儀等で参拝を受け付ける場合を除き、一般人の立ち入りは不可。
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その先の護国寺にも立ち寄ってみたい。
真言宗豊山派の寺院であり、天和元年(1681)、五代将軍綱吉が生母桂昌院
の願いにより建立したのが始まりとされる。
現在の観音堂(本堂)は、元禄10年(1697)に建立されたもの。
その他、仁王門や鐘楼、月光殿などの文化財も多く、参拝客も多い。
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護国寺其二
江戸名所図会護国寺 其二』   (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

境内には、三条実美、山県有朋、大隈重信などの墓地もあり、それらを巡るの
もよい。
写真は尊皇攘夷派公卿として有名な三条実美(1837~91)の墓所、本堂の右
手の奥にある。
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さて水窪川に戻ろう。
不忍通りを渡ったあと、一時的に流路はわからなくなるが、その先、お茶の水女
子大学裏手の崖下の道となって現われる。
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目白通りの東側、崖沿いに道幅が細い道路が続いていく。
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崖下の道は一旦途切れ、目白通りへ迂回する必要があるが、そこにあるのが
鳩山会館の入口。
坂を上っていくと立派な洋館が聳え立つ。(拝観は有料)
大正13年(1924)、後に総理大臣となった鳩山一郎(1883~1959)、この
音羽の地にこの洋館を建てた。
設計を手掛けたのは友人の岡田信一郎(1883~1932)、大正・昭和初期を代
表する建築家である。
各所に装飾が施された洋館、西洋式庭園は一見の価値がある。
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鳩山会館の南側で再び水窪川の暗渠が姿を現す。
その先、水窪川沿いに今宮神社が見えてくる。
元禄10年(1697)、護国寺内の京都柴野今宮神社より御分霊を迎えて鎮座した。
明治6年(1873)、明治元年に発せたれた神仏分離令により当地に遷座
したという。
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門前には水窪川に架かっていた橋の跡が残されている。
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崖に沿って更に道は続いていく。
崖の高さは5メートル以上はあるだろうか。
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その崖の下からには湧水があり、暗渠ファンには水窪川のスポットとして有名な
場所でもある。
以前は竹管を通して水が出ており水量もそれなりにあったのだが、現在は僅か
に染み出ている程度となっている。
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江戸川橋の橋詰で水窪川は神田川へと合流する。
昔の地図を見ると合流地点はやや下流側にあったようだが、現在は弦巻川(下
水幹線)と共にこの吐口で神田川へと流れ出ている。
ただし、通常時は水は吐き出されていない。
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水窪川 1

池袋駅東口から歩くこと数分、繁華街の先に美久仁小路という小さな飲食街がある。
ここを水源として神田川に至る水窪川という支流があった。
現在は全区間暗渠となっているが、東池袋から大塚・音羽地区にかけて、水窪
川が造った深い谷を鑑賞しながら歩くことができる。
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美久仁小路は、昭和の雰囲気が残る居酒屋街である。
明治期、大正期の地図を見てみると、現在の池袋東口には「蟹ヵ窪」という地名
を見ることができる。
水窪川水源は、そんな窪地に湧き出る水だったのかもしれない。

美久仁小路から数十メートルのところに明治天皇御野立所跡の碑がある。
碑の脇にある説明文は擦れて読みにくいが、明治8年(1875)、板橋方面で行
われた近衛兵の軍事演習の視察の際に休息した場所らしい。
やはり湧水がある場所が選ばれたということだろうか。
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この先、水窪川は東池袋方面へと進んでいくが、池袋という土地柄、川跡を思
わせるようなものは全く残っていない。
サンシャインシティ東側の通りを渡ると、ようやく川跡らしい道路に出遭うことが
できる。
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都電荒川線の電車の音が聞こえるようになると、道路左手に排水口が出現する。
この排水口は、巣鴨プリズン(現サンシャインシティ)からの排水が水窪川に落
とされた場所とされている。
明治28年(1895)、警視庁監獄巣鴨支署として設置、その後、巣鴨監獄や巣
鴨拘置所と改称された。
戦後はGHQに接収され、極東国際軍事裁判の被告人が収容され、東條英機
ら7名の死刑が執行されたことでも有名である。
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水窪川は東池袋四丁目・向原間で都電荒川線を越える。
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その先、水窪川の流路は住宅街の小路に跡を残す。
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上の写真の右側には小公園があり、その中に「水窪川の碑」がある。
近隣住民の方々の手によるものだろうか。
「昔ここに小さな川が流れていた。後世にこれを伝える」と記載されている。
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その先の左手にある古家、数年前まではミョウガや花などが植えられていた小
さな畑があったが、いつしか廃屋になった模様で、畑は荒地と化してしまった。
いずれこの風景も無くなってしまうのだろうか。
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その先、右手はすでに急な坂となっている。
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暗渠道は大塚坂下通りの西側、崖下を沿うように南東方向へと進む。
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一旦、水窪川は坂下通りの東側へと出る。
こちらも小さな崖下となっており、所々に階段が存在する。
水窪川は、大塚の南側の谷を流れていることがよくわかる。
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坂下通り東側の川筋の道路。
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再び水窪川は大塚坂下通り沿いに出てくる。
写真にある不自然に広い歩道が川跡である。
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坂下通り沿いに50メートルほど進み、通りの西側に入る。
そのすぐ西に鎮座するのが吹上稲荷神社
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元和8年(1622)、二代将軍秀忠が日光山より稲荷大神の御神体を戴き、江戸
城吹上御殿に「東稲荷宮」と称して奉納したことが始まり。
その後、水戸徳川家の分家松平大学頭が拝領し、邸内に移した。
宝暦元年(1751)に大塚の鎮守として現在の小石川四丁目に移遷、その後も
護国寺や大塚上町、大塚仲町と転々とし、明治45年にこの地に遷座したという。

わりとこぢんまりとした神社であるが、歴史に重みを持つ神社である。



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羅漢寺川

羅漢寺川は目黒本町辺りを水源として東へと流れ、下目黒2丁目で目黒川に
注ぐ2kmほどの短い支流(全区間暗渠)である。
本編では羅漢寺川の支流である六敏川や入谷川も併せて紹介していくことと
したい。

羅漢寺川の水源は目黒本町1-8辺りにある湧水であったと言われている。
かつての水源付近から、細い暗渠の歩行者道が東へと続いている。
この辺りはかつて文右衛門久保と呼ばれていたらしい。
また、数十メートル西側には品川用水も流れており、落水もあったかもしれない。
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その歩行者道を入っていくと、崖下を屈曲しながら進んでいくことになる。
道脇にかつての護岸らしき石垣もみることが出来る。
この細い暗渠道は目黒区と品川区の区境であり、地図で見てみると、なぜかこ
の辺りで品川区が目黒区に食い込んでいるのも興味深い。
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細い暗渠の道は250mほど崖下に沿って進み、突然ひらける。
この地点で北側から合流していたのが六敏川(ろくせかわ)。
六敏川は北の目黒通り沿いの東急バス目黒営業所付近にあった湧水を水源と
していたとされる。
清水は枯れることなくコンコンと湧き出し、通りを往来する人々に飲み水と憩い
の場所を提供していたという。

その六敏川の上流付近、遊歩道沿いに清水稲荷神社が鎮座する。
明治30年(1897)頃から、東急バス車庫辺りにあったといわれる。
関東大震災以降、当地への移住希望者が多くなり土地分譲事業が行われたが、
土地の発展を祈念して、京都伏見稲荷より分霊、社殿や鳥居も奉納された。
昭和27年(1952)には土地が寄進され、現在地に移築された。
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六敏川の川跡は現在、六敏川プロムナードと称する歩道として整備され、周囲
には住宅が建ち並ぶ。
道は緩やかに蛇行しながら、徐々に下っていく。
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地形的にみると、先に記した文右衛門久保からの流れよりも谷は広い。
また、昭和30年代の地形図を見ても、六敏川は川が記載されているのに対して、
文右衛門久保からの流れには何も記載されていない。
さらには前述した東急バス車庫の湧水の話などを考慮すると、実質的な本流は
六敏川ではないかと思いたくなる。
ただし、既に両方の川筋とも暗渠化されており、今となっては確かめる術はない。

下目黒6丁目9付近で2つの流れは合流し、東へと進んでいく。
こちらも現在は羅漢寺川プロムナードという緑道となっており、周辺住民の方々
の通行路として利用されている。
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その緑道を辿っていくと、右側に大きな公園がある。
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東西700m、南北250mという広大な面積を持つ林試の森公園であり、
もとは林野庁所管の林業試験場であったことから、その名が付けられた。
明治33年(1900)、目黒試験苗圃として造られたのが始まりで、その後、林業
試験場と名を変えた。
昭和58年(1978)、試験場がつくば市に移転されたのを機に、東京都に払い
下げられ、平成元年(1989)「都立林試の森公園」として開園した。
現在は周辺住民の憩いの場として親しまれ、自然観察会などの各種イベントも
開かれている。

公園の中程に小さな谷があり、現在は池とその池がら出るせせらぎが設置さ
れているが、元々は南から羅漢寺川に通じる小さな支流があったという。
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遊歩道は林試の森公園の北側に沿って続き、その後、一般道を経て目黒不動
尊の前へと達する。
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その北側に入谷川と称する小川があった。
こちらの源は下目黒5丁目付近にかつて存在した谷戸である。
ここにはかつて目黒競馬場が存在していた。
目黒競馬場は明治40年(1907)に開設、昭和7年には第1回の日本ダービー
(東京優駿)が開かれたが、周辺の宅地化などの事情により、翌年の第2回を
最後に府中の東京競馬場へと移った。
現在では目黒通り沿いの碑や「元競馬場前」というバス停、そして住宅地の中
のカーブした外周道路の道にその痕跡を見ることができる。

入谷川は競馬場の中に谷戸として存在していたが、大正年間には塞がれて、
大きな池ができていたらしい。
戦後、谷戸は埋め立てられて住宅地となり、谷戸ののものの面影はない。
入谷川の川跡を追いかけることが出来るのは、かつての競馬場の南側、下目
黒6丁目8付近からである。
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入谷川跡の暗渠道は、東へと向かって進んでいく。
途中、銀行の社宅の下には特徴的な擁壁がある。
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暗渠道沿いにある湧水、かなりの水量である。
この先の目黒不動尊にも湧水(後述)があるが、同じ水脈なのかもしれない。
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入谷川が羅漢寺川に合流しているところにあるのが目黒不動尊、正式名を泰
叡山瀧泉寺と称し、天台宗の寺院である。
大同3年(808)、円仁(慈覚大師)の開創と言われている。
寛永7年(1630)、寛永寺の末寺となり、その後、将軍家光の庇護を受けるよう
になる。
江戸から明治、大正にかけて、庶民の行楽地としても親しまれた。
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目黒不動堂
江戸名所図会目黒不動堂』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

目黒不動尊は広大な敷地を持ち、文化財なども多いが、その中から三ヶ所ほ
ど紹介してみよう。
まず、不動尊の崖下にあるのが独鈷の滝、龍の口から湧水が吐き出ている。
円仁が寺を建立する際、独鈷を突き立てたところ霊泉が湧き出たという言い伝
えがある。
東京の名湧水57選の一つに指定されている。
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崖下の境内の西側には池があり、その畔には山の手七福神の一つ、恵比寿
神を祀る三福堂がある。
山手七福神は江戸城の裏鬼門守護のために建立され、江戸における最初の
七福神巡りと言われる。
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本堂の裏手に回り、数分ほど歩くと国指定史跡の青木昆陽墓がある。
青木昆陽(1698~1769)は、江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、晩年には書
物奉行にを命ぜられた。
八代将軍徳川吉宗の命により、飢饉の際の救荒作物として甘藷(サツマイモ)
を普及させたことで有名。
墓石にも「甘藷先生」と記されているのが興味深い。
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羅漢寺川は目黒不動尊に沿って進み、川跡の道は歩行者道となっている。
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その先にあるのが、羅漢寺川の名前の由来となっている五百羅漢寺
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五百羅漢寺は元禄8年(1695)鉄眼禅師を開山として江戸本所に創建された。
松雲元慶禅師(1648~1710)によって彫られた木造釈迦三尊及び五百羅漢
像が安置されている。
(作成当時は536体あったが、毀損、流出等により現在は305体)
江戸期には内部が螺旋階段となっている「さざい堂」という建物があり、人気を
博したという。
地震や高潮の被害にあい、幾度かの移転を繰り返し、当地には明治41年(19
08)に移転してきた。
五百羅漢堂 内相之図
江戸名所図会五百羅漢堂 内相之図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

拝観は有料だが、ずらりと並んだ五百羅漢像は壮観と言わざるを得ない。
境内は撮影禁止のためその光景を紹介できないのが残念だが、是非とも拝観
をお勧めする。

さて、ここで1つの疑問が生じた。
五百羅漢寺は記載したとおり、明治41年に当地に移転してきた。
ということは、羅漢寺川という川名はその後に付けられたものであり、それ以前
はなんと呼ばれていたのであろうか。
その答えは、参考資料とした『近代の羅漢寺川(不動川)』に記載されていた。
もとは「不動川」と呼んでいたらしいが、通常はその名前すら使われず、地元で
は「不動様の前の川」とか「林業試験場の裏の川」と呼ばれていたらしい。
現在では管理上などの都合により羅漢寺川という名が付けられているが、昔は
名もない小川であったということであろう。

五百羅漢寺に隣接して、黄檗宗の海福寺が建てられている。
万冶元年(1658)、隠元禅師が深川に開創した寺院で、こちらも明治43年
(1910)に当地へ移転した。
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門前の左手にある文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑(都指定文化
財)は、文化4年(1807)、富岡八幡宮の大祭の際、橋が崩落して多数の溺死
者を出した大惨事を供養したものである。
安政3年(1856)、事件後50回忌を機に海福寺に石碑を建立、海福寺の移転
とともに碑も当地に移設された。
なお、この事件は歌舞伎の「八幡祭望月賑」や落語の「永代橋」の題材ともなっ
ている。
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山手通りを渡りその先は一般道となるが、目黒川との合流直前には再び細い
川跡の道を見ることができる。
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ちょうど目黒雅叙園の対岸で、羅漢寺川は目黒川に合流する。
そこには大きな吐口を見ることができる。
普段は水は流れていないが、豪雨時にはここから溢れんばかりの水が吐き出さ
れるのかもしれない。
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《参考文献》
『めぐろの文化財』 目黒区教育委員会編
『近代の羅漢寺川(不動川)』 郷土目黒第41集 目黒区郷土研究会編


  
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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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