新田川は、JR南武線の西府駅の南側で。府中用水本流から分かれ、府中市
分梅町や南町を経由して郷土の森公園に達し、さらに是政まで流れる分水路
である。
分梅用水、中川、大新田といった別名もあったらしい。
新田川の本流の殆どの部分は新田川緑道として緑道化されており、快適に歩
くことができる。
府中用水を流れてきた水は、その多くをこの新田川へと分ける。
特に農閑期にあたる秋から春にかけては、本流を流れる水(青柳崖線や立川
崖線から湧き出て、矢川などを経て集められる)は、全てこの新田川へと流される。
西府の崖下で、新田川は
府中用水本流から分かれて南東へと向かう。
写真左へ向かう道が本流、新田川は右の道路沿いに進む。

ここには
カマド堰と称する堰があったという。
下の写真は昭和14年の分流点の写真、崖線沿いに府中用水が流れているの
がよくわかる。
(下流の金塚桜広場に設置されている説明板より)

歩道沿いに水路が設けられている。
東側にはNECの府中事業場がある。
休日であったので閑散としているが、平日の朝夕には多くの従業員がこの歩道
を辿っていくのだろうか。

事業場の門がある日新町一丁目東交差点から、
新田川緑道が始まる。
親水路に沿って歩ける緑道であり、行き交う人々は多い。
実は新田川そのものは、昭和54年(1979)に完成した
第4都市下水路として
暗渠化されており、その一部を親水路へと流している。
説明板によると、都市化が進むにつれてたびたび浸水が発生するようになり、
都市下水路となったとのこと。

その先で新府中街道と交差するが、その南には真言宗豊山派の
正光院がある。
山門前には「小野学校発祥之地」と書かれた石碑がある。
これは明治6年(1873)、屋敷分・本宿・四谷・中河原の4村が合同で「育成学
舎」をこの正光院に設立、翌年、「小野学校」と改称した。
小野学校は現在の府中第5小学校の前身にあたる。

新田川緑道は新府中街道を渡ったあと、緩やかに南へとカーブし、その後、中
央高速と交差する。
ただし、第4都市下水路は新府中街道をそのまま南下し、ショートカットしている
ようだ。
その都市下水路は、中央高速の高架下で顔を見せる。

中央高速と交差した先も新田川緑道は続いている。

緑道を進んでいくと、
分倍河原古戦場碑が立っている。

ここで碑の前に立っている東京都教育委員会の説明板を引用して、合戦に
ついて触れておこう。
文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の
速度を早めた。
元弘三年(1333)5月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野・
武蔵・越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ
原で北條方の副将長崎高重・桜田貞国を破り(5月11日)、さらに久米川の戦
で優勢に立った。
北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。
新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時武蔵国分寺は新田勢のために
焼失させられたという。
その夜(5月25日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、
16日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め22日
に鎌倉幕府は滅亡した。分倍河原の戦いでは新田方20万7千、幕府方10万(Wikipediaによる)と
いう軍勢であったといわれており、この辺りに多数の兵士が入り乱れるよう
にして戦ったのであろう。
なお、分倍河原では、室町時代の享徳4年(1455)にも、足利成氏(鎌倉公
方勢)と上杉顕房(関東管領勢)との間で合戦が行われており、享徳の乱
(1455~83)の引き金ともなった。
水路が緑道沿いに続く。
この辺りは
新田川分梅公園と称されているようだ。

京王線を越えるために、中央道沿いへと迂回する必要があるが、南町小学校
から再び緑道が始まる。
緑道から1ブロック南の住宅街の道路も新田川の分水路暗渠であり、「用水」
と書かれたマンホールがそれを物語る。

緑道を進んでいくと、その先にあるのが
しょうぶ池、六月上旬に訪れたので、池
にはショウブが鮮やかに咲いていた。

緑道沿いの水路はこのしょうぶ池までであり、そこから先の区間、新田川は完
全な暗渠(緑道下には都市下水路が通る)となる。

旧下河原線の線路跡である下河原緑道と交差し、サントリーのビール工場脇に
達すると、短い区間ではあるが水路が左側を流れる。
ただし、この水路は新田川ではなく、
雑田堀という別の府中用水の分水路である。

新田川は右にカーブし、
郷土の森公園へと入る。
交通公園やグラウンドも併設されている大きな公園だが、隣接する
郷土の森博
物館に立ち寄ってみる。
博物館は、広い常設展示のほか、旧府中町役場庁舎などの貴重な建築物を移
築して保存している。
プラネタリウムも併設されており、来訪者も多く賑わっている。

常設展示もかなり充実したものであるが、国府や府中宿、大國魂神社などの展
示が中心で、府中用水に関する展示が殆どみられないのが残念だ。
屋外展示の中で、水に関するものを取り上げておこう。
下の写真は府中市寿町1丁目の埋蔵文化財の発掘調査で見つかった
まいまい
ず井戸を想定復元したもの。
渦巻状の道を下って水を汲む方式の井戸で、武蔵野や伊豆諸島に多く見られ
たという、
JR青梅線の羽村駅北口にあるまいまいず井戸は有名である。

現代の新田川本流ともいうべき第4都市下水路は。公園南側の野球グラウンド
まで南下した後、グラウンドの地下を東進し、その東側にある
是政排水樋管で
多摩川に放水される。

ただ、昔の地図を見ると新田川は多摩川に合流せず、さらに東へと向かっている。
郷土の森公園の東にある
金塚桜広場では、かつての堀が再現されており、親
水化が図られている。

金塚原広場の先は、
二ヶ村緑道としてさらに東へと向かう。
緑道の名は下流の二ヶ村用水から採用されたものであろうが、後述の旧極楽
橋までは、新田川の区間である。

緑道は南武線および武蔵野南線の鉄橋を潜る。
鉄橋の下に手が届きそうな光景である。

鉄橋から100メートルほどいくと、左側から
矢崎都市下水路(
旧妙観堀)が近
づいてくる。
その先の旧極楽橋付近で新田川は妙観堀と合流し、
二ヶ村用水へと注いでいた。
また三ヶ村用水もこの地を通り、水路が複雑に絡み合っていたようだ。
緑道となってしまった現在では、それらの水路の関係を想像することはちょっと
難しいかもしれない。

最後に新田川沿いの分水路群を写真とGoogleMapで紹介しておこう。
参考文献として挙げた『府中用水』の地図をもとに水門堀、代官堀、新堀、車堀
といった水路を辿ってみた。
(Mapでは新田川本流を太線で、その他の支流を細線で示した。)
周辺の水路は多岐に分かれて流れていき、また合流するという非常に複雑な
ネットワークを構成している。
地図に示した分水路はそんな中でも主要な部分だけであり、この他にも小さな
水路が網の目状に張り巡らされている。
思いもよらない場所で資料には記載されていない水路に出くわすこともあり、
その全てを把握することはかなり困難なことだろうと感じた。
それでも水田の脇を流れる開渠を眺めたり、住宅の間を抜けていく暗渠を追い
かけていくことに面白さを感じた。
水路好きの方には、一度この地を訪れることをお勧めしたい。
(写真をクリックすると拡大表示します。)


《参考文献》
『府中用水』 くにたち郷土博物館・府中用水土地改良区編
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』 府中市教育委員会編