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府中用水 妙光院下水系(代小川)

府中街道の東にある妙光院の南側に水路を見ることができる。
妙光院下(みょうこういんした)水系という流れであり、地元では代小川とも
呼ばれていたようだ。
妙光院下水系という名はこの辺り一帯を流れていた府中用水を称するもの
であり、用水はJR線の東側で何本にも分かれ、現在の東京競馬場周辺お
よび競馬場内を流れていたらしい。
ただ、現在、府中用水本流を流れてきた水は、新田川、雑田堀および妙観
堀(矢川都市下水路)へと流れ、JR線から東側には流れてこない。
妙光院と安養寺の間にある水路、幅は広いが空堀である。
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写真の右上には東京競馬場のメインスタンドが見える。

水路の両側にある妙光院と安養寺について触れておこう。

真言宗の妙光院は貞観元年(859)の創設と伝えられる古刹で、開山は
平城天皇の第3皇子、眞如法親王の開山と伝えられる。
戦国時代には八王子城主北条氏照も帰依し、徳川家康からは御朱印
地15石を寄進されるなど、有力者の信仰もあつかったようだ。
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水路の南側にある天台宗の安養寺も貞観元年の開創、開山は円仁(慈
覚大師)であるという。
その後、勅命により尊海僧正が永仁4年(1296)に再興した。
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ここまで来たら、多摩地方屈指の大國魂神社に立ち寄りたい。
妙光院の北側の坂道を上っていくと、数分で本殿の脇に出る。
さすが、このレベルの神社ともなると参拝者が絶えない。
5月初旬のくらやみ祭は有名である、
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景行天皇41年(111)5月5日、武蔵国の護り神として大国魂神を祀った
のが始まりとされる。
大化の改新(645)の時、武蔵の国府が置かれ、当社を国衙の斎場とし、
国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられた。
その後も康平5年(1062)、前九年の役平定の際に源頼義・義家父子が
立ち寄り戦勝祈願を行ったり、寿永元年(1182)には源頼朝が葛西三郎
清重を使節として、政子の安産の祈願が行われたりと、歴史の事柄には
事欠かない。
国内著名の神六所を配祀したので「武蔵総社六所宮」とも称された。

府中六所宮
江戸名所図会府中六所宮』    (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

用水へと戻り、第一都市遊歩道を歩いていく。
遊歩道は崖線の下、競馬場の北側を東進する。
妙光院水系の水路の中で、現在の遊歩道は「こっちだいしょう」と呼ばれる
分水路であったという。
湧水も流れ込み水温が低く、この辺りでは水田には適さなかったようだ。
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参考資料として揚げた『川の地図辞典 多摩東部編』では、天神川(下流
部では根岸川)と称している。

その先、遊歩道沿いには大きな馬頭観音が祀られており、競馬場周辺な
らではの光景に巡りあう。
脇には馬霊塔も建てられており、往年の名馬の名が刻まれている。
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競馬場正門より北側に沿って三百メートルほどいくと、天地の坂と称する
坂が左手にある。
坂名は「天地」という屋号の家の水車に由来する。
この辺りでは湧水が多く、ワサビ田が広がっていたという。
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こちらは、多摩川沿いの金塚桜広場に設置されている府中用水の説明
板に掲載されていた昭和12年頃の崖線沿いの水車小屋の写真である。
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その天地の坂を上って行くと、武蔵国府八幡宮が鎮座する。
聖武天皇が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられ、現在は大
國魂神社の境外末社となっている。
大國魂神社と同様に古社であるが、こちらは訪れる人もなく林の中にひっ
そりと佇んでいる感じだ。
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清水が丘2丁目に入ると、府中用水は競馬場通りを離れ、右へと入っていく。
住宅街を通る道路は水路跡らしく歩道が設置されている。
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その先で、北側の崖線へと寄り道をして瀧神社を訪ねてみる。
渇水期でも絶えることはない滝があったこと(現存せず)がその名の由来
といい、こちらも大國魂神社の境外末社となっている。
かつてはくらやみ祭りの競馬式(5月3日)の前に、ここの湧水で馬と騎手
が身体を洗い清めたとされ、そのためか祠の中には騎手のサイン色紙が
多く飾られている。
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瀧神社の崖下には今でもコンコンと湧水が湧き出ている場所がある。
残念ながらフェンスに囲まれているため、湧水に近づくことはできない。
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用水跡の道路は更に東へと続いていく。。
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その道路沿いの住宅脇には、このような細い水路跡も見られる。
水路脇の古い護岸に目をひく。
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北にある聖将山東郷寺に立ち寄ってみる。
日蓮宗の東郷寺は東郷平八郎の別荘跡地に、昭和14年(1939)に建立された
寺院である。
寺院自体の歴史はそんなに古くないが、昭和15年に建てられた山門は、黒澤
明監督の代表作品『羅生門』のモデルとなったという。
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さらに東郷寺の北にはかなしい坂と呼ばれる地がある。
前述のように当初、玉川上水は府中から取水することが計画・掘削されたが、
この付近で水が地中に浸透してしまった。
その責任を問われて処刑された役人が「悲しい」と嘆いたことから、この名が付
いたという。
現地に行くと、小さな説明板があるだけだが、なんとなく不自然さを感じた。
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調べてみると、玉川上水に関するいくつかの著作がある恩田政行氏が、『玉川
上水起元 剖検 幻の玉川上水』の中でこのかなしい坂伝説を否定しているこ
とが判った。
この話は享和3年(1803)、八王子千人同心小嶋文平の提出する「書上」に基
づき、佐橋長門守佳如が作成した報告書である『玉川上水起元』によるものである。
恩田氏は、下記のような点から、『玉川上水起元』に書かれた話を否定している。
1)『玉川上水起元』は玉川上水開削後、150年を経て書かれたものであり、松平
 伊豆守信網およびその家臣の安松金右衛門を称えており、功労者である玉川
兄弟は「かなしい坂」や「水喰土」(拝島付近でやはり水が地中に浸透したとされ
 る)における失敗者としか捉えていない。
2)府中からの計画があるとすれば、立川崖線を越え、さらにその先には国分寺
 崖線が立ちはだかることになり、当時、高度な測量技術を持ちあわせていた
 玉川兄弟が、このような稚拙な計画を立てるとは考えられない。
やはりこの「かなしい坂」の話には無理があるようだ。

東郷寺下の交差点近くで右へ目を向けると、三ヶ村緑道の入口が見える。
南の是政付近流れてくる三ヶ村用水である。
ここまで辿ってきた用水は、ここで三ヶ村用水へと合流し、さらに東へと流
れていたようだ。
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《参考文献》
『玉川上水起元 剖検 幻の玉川上水』 恩田政行著
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』 府中市教育委員会編
『多摩川中流域の「府中用水」に関する調査研究』 島村勇二編著
『川の地図辞典 多摩東部編』 菅原健二著 之潮

※ 本記事は以前、「府中用水3」として府中用水本流の続編として記し
ていましたが、資料を再検証した結果、この区間は府中用水本流とすべき
でなく、妙光院下水系としたほうがよいという結論に達し、改題しました。




目次
  
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府中用水 2

府中用水は、西府駅の南のカマド堰で新田川を右へと分ける。
新田川は、分梅町を経由して府中市郷土の森公園を通り、是政へと達する分
水路であり、その区間には新田川緑道が続く。
農閑期、湧水を水源として矢川や下の川を流れてきた水は新田川へと流れ、こ
の先の府中用水本流には流れない。
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駅の南にある親水公園にある河童像。
本流と下の川の合流地点(前項参照)から府中本町駅までの区間を市川と称し
ている。
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ただし、緑道の名前は市川緑道から第二都市遊歩道へと変わる。
遊歩道の名前は暗渠として流れる府中用水の第二都市下水路から命名された
ものであろうが、もっとマシな名前が付けられなかったのか残念ではある。

遊歩道沿いに顔を出す府中用水。
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新府中街道を渡った先、左手に清水坂という坂が北側の崖線を上っていく。
この道の両側から湧水がこんこんと湧き出たことに由来する。
清水坂の下水管埋設工事の際、多量の湧水に苦労した話が伝聞されているという。
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さらに第二都市遊歩道を東へと進む。
府中用水は暗渠となり、水を見ることは出来ないが、歩道のタイルにはジグザグ
の水色で用水が表現されている。
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分梅駐在所交差点で南から鎌倉街道が接続、この先、鎌倉街道沿いに府中用
水は流れることになる。
その交差点を北へと数十メートル進むと、梅花山光明院がある。
創建年代は不詳だが、鎌倉末期、北条家家臣の小川義継が当地に祈願所を建
てたのを開基とし、その後、戦国時代に阿闍梨祐秀が住職となり中興したという。
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光明院の前の道路は光明院坂といい、古くは陣街道(旧鎌倉街道)として、江戸
名所図会にも描かれている。
陣街道の名は中世に軍勢が陣立てして往来したことに由来する。
分倍河原陣街道
江戸名所図会分倍河原 陣街道 首塚 胴塚』  
                    (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

光明院坂を上って南武線の踏切を渡ると、天王宮八雲神社が鎮座する。
上記の江戸名所図会にも、中央下に「天王森」として描かれている。
創建年は不詳であるが、街道沿いには元応元年(1319)の板碑(風化による劣
化により現在は複製を設置)があり、その頃には存在していたと考えられている。
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更には、先ほどの光明院の東側、台地の上には高倉塚古墳がある。
前項で御嶽塚古墳を紹介したが、この付近でもこの古墳を中心とした25基の
古墳が見つかっており、高倉塚古墳群と称されている。
発掘調査により、墳丘下層からは6世紀前半の土師器俳が出土している。
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府中用水に戻り、分梅駐在所交差点から150mほど行くと、右に雑田堀を分ける。
雑田堀はサントリーのビール工場脇を通り、中央道の南側で妙観堀(矢崎都市
下水路)に流れ込む水路である。
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その先、分倍河原駅の南で京王線と交差する。
分倍河原といえば、鎌倉幕府滅亡に至る分倍河原の戦いが有名であり、駅前
にも新田義貞の銅像があるが、新田川緑道沿いに古戦場碑があるので新田川
の項で触れることとしたい。
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再び水路を離れて恐縮であるが、南武線の北、旧甲州街道にある龍門山高安
は紹介しておきたい史跡である。
平安時代、藤原秀郷の館跡に市川山見性寺を建立したのが始まりであり、新田
義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えた場所である。
その後、足利尊氏が諸国に建てた安国寺の1つとして高安寺が再建された。
高安寺は、代々の鎌倉公方により軍事拠点とされ、永享の乱(永享10~11年
(1438~39))や享徳の乱(享徳3年~文明14年(1455~83))などでは、しば
しば陣が置かれた。
元々は鎌倉建長寺末の臨済宗の寺院であったが、慶長年間(1596~1615)
に徳光禅師が再興し、曹洞宗に改められた。
※鎌倉公方・・・尊氏の四男、足利基氏を初代として、関東を管轄する幕府の出
 先機関の長。
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歴史を重ねた古刹とあって、境内はかなり広い。
境内の西側には弁慶硯強調文という古い井戸がある。
これは、まだ見性寺と呼ばれていた頃、鎌倉入りを許されなかた義経が暫く見
性寺に滞在し、弁慶等と赦免祈願のため大般若経を写したと言われ、その時、
裏山から清水を汲み取ったことに由来するという。
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また、参考資料とした『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
では、府中用水の市川の名は見性寺の山号である市川山からきたものではな
いかと憶測しているが、見性寺と呼ばれていた頃と、府中用水が出来た頃の間
には数百年の開きがあり、ちょっと無理があるように考える。

再び、府中用水に戻る。
府中用水の上に築かれた第二都市遊歩道はさらに鎌倉街道に沿って東進していく。
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そして三小前交差点で、遊歩道は鎌倉街道と離れ、南東方向へと向かう。
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鎌倉街道と別れたすぐ先で、南北に通じる下河原緑道がある。
分倍河原や中河原から府中へ行くためだろうか、往来する自転車は多い。
この下河原緑道は旧国鉄下河原線の廃線跡である。
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下河原線は多摩川の砂利運搬を目的として明治43年(1910)に開業、中央線
の国分寺駅から分岐し下河原までを結ぶ鉄道であった。
昭和9年(1934)、東京競馬場へのアクセス路線として旅客営業を開始した。
東京競馬場前駅への分岐は、ここから200mほど南に下ったところにある。
昭和48年(1973)に武蔵野線が開通すると、その役目を武蔵野線に譲って旅客
営業を廃止、その3年後の昭和51年には貨物輸送も廃止され、下河原線は廃
止になった。

下河原緑道との交差後、向きを一旦南へと変えて100mほど進んだあと、左へ
とカーブして再び東へと向かう。
遊歩道には相変わらず、青い波線で府中用水の流れが描かれている。
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やがて武蔵野線・南武線の府中本町駅の西口に達する。
ここで府中用水の本流は、線路沿いを南へと向かう妙観堀(現:矢崎都市
下水路
)と、更に東へと向かう妙光院水系代小川)を分けていた。
現在は、本流を流れてきた水は、全て妙観堀へ流れている。
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《参考文献》
『府中用水』 くにたち郷土博物館・府中用水土地改良区編
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』 府中市教育委員会編



目次
 

府中用水 1

府中用水は国立市・府中市の多摩川沿いの沖積低地を流れる農業用水である。
受益面積は30haに及ぶといい、農林水産省が指定する疏水百選の1つにも
指定されている。

今回、府中用水を探索するにあたり、疏水百選 府中用水というサイトを参考
にさせて頂いたが、巧くまとまっているので併せてご覧いただきたい。

府中用水の開削時期はというと、はっきりしないらしい。
慶長元年(1596)に多摩川に大洪水が発生し、流路が大きく変化した。
その大洪水から数十年後、多摩川の河床が安定した時期(寛永期の頃)に旧
河床を利用して造られたものという。
また玉川上水の開削にあたり、当初は国立市青柳を取水口として掘り進んだ
が、途中で断念、その後、府中用水として利用されたという説もある。
確かに下流の府中市清水が丘付近には「かなしい坂」と呼ばれる史跡もあ
るが、この説には異論も唱えられている。
(異論については、妙光院水系(代小川)参照)
江戸期には七ヶ村用水と呼ばれ、府中宿の本町・番場宿・新宿の三町と、是政
村・上谷保村・下谷保村・青柳村の生活用水、農業用水として利用されていた。

さて府中用水の水路図を見ると、中流域から下流域にかけてには無数の水路
に分かれており、どこが本流なのかは見分けがつきにくいが、市川水系を含ん
で、府中本町駅の西までの区間を本流として歩いてみた。

旧国道20号線が多摩川に架かる日野橋から下流を見ると、左岸へ分流してい
く水路をみることができる。
ここから、多摩川の水が取り入れられ、河川敷に設けられた立川公園沿いに水
路が流れる。
途中、柴崎付近から流れる根川の水を合流し、青柳崖線の崖下を流れていく。
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府中用水の取水門はその先、国立市青柳にある。
ここの水門が開けられるのは、灌漑期の5月下旬から9月上旬の間だけであり、
それ以外の農閑期には閉じられて、府中用水には水は取り込まれない。
ただし矢川や、ママ下湧水を水源とする清水川の水が、途中で流れ込んでおり、
中流域ではそれらの水が府中用水を潤す。
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ここから500mほどは用水沿いの道は無く、崖線の上の道を通ることになる。
その道沿いに鎮座するのが青柳稲荷神社、青柳・石田の鎮守であり、宝暦5
年(1755)の創建とされる。
青柳は、以前、府中市本宿の多摩川南岸の青柳島にあったが、寛文11年(1671)
の大洪水により青柳島は流失、新たにこの地にて開拓し、青柳村ができたという。
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その先で崖線を降りると、満々とした水が流れる府中用水を見ることができる。
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中央高速との交差の手前に、谷保分水を分ける谷保堰がある。
本流は高速道路の南側へと進むが、谷保分水は高速道路沿いに流れて谷保
地区の水田へと給水している、
谷保堰の説明文には「用水の配分は米の生産に関わる一大事で、関係農民
の間で水の配分をめぐって、しばしば水争いが起きたと伝えられる」と記載され
ているのが興味深い。
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なお、谷保堰からは清水川の水源であるママ下湧水も近いので、立ち寄って
みるのも良いだろう。

中央高速を越えて更に南東へと進む。
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国道20号線日野バイパスの手前で、府中用水は暗渠となり、バイパス沿いに
200mほど進む。
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北から、谷保分水から分かれたあきすい掘が合流する。
農閑期、矢川や清水川から谷保分水に流れこんだ水は、このあきすい掘を通
して流れ、ここで府中用水本流へと合流する。
そのため、ここから先は年間を通して水が流れる区間となる。
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あきすい堀合流後、府中用水本流は北多摩二号水再生センターの脇に沿って
流れていく。
ここも暗渠であるが、グレーチング蓋の中を覗くと音をたてて水が流れていく様
をみることができる。
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その先で中央高速を再び潜って高速道の北側に出ると、開渠となった用水が
現われる。
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歩いていくと、柵もない区間が出現する。
夜間など誤って落ちはしないかとも心配してしまうとともに、昔日そのままの姿
をみるような錯覚に陥る。
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更に100mほど歩いていくと、用水は国立府中インターの中へと消えていく。
さすがにインターの中に入ることは出来ず、迂回を強いられることになる。
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迂回して再び府中用水を追っていく。
開けているせいだろうか、水路の幅が広くなったような感じを受ける。
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国立府中インターの東側では用水は大きく蛇行する。
写真に写っている橋は国宮橋
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その国宮橋の先には小さな堰があり左側へと分水している。
どうやら本流と谷保分水の間の田畑に給水しているらしい。
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都道20号線が架かる大山橋の先、用水沿いの遊歩道は広くなる。
自転車なども通行し、生活道路として利用されているようだ。
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反対の右側の小さな水路から水が流れ込んでいる。
府中用水では網の目状に水路が張り巡されており、その水路の全容を把握す
るのは厳しい。
また農閑期には小水路には水が流れないので、合流することに気がつかない
かもしれない。

立川崖線に生える樹林が見えてくると、一般道との交差の手前で府中用水を
流れる水は暗渠へと消えていく。
そして此処で、崖線沿いを流れてきた下の川と合流する。
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その先、一般道沿いに市川緑道が続いていく。
緑道沿いに親水路が設けられているが、ここを流れる水は下の川から取り入
れているものだ。
府中用水本流の水は、この道路の下を第4都市下水路として流れている。
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200mほど歩くと、JR南武線の西府駅の南側に出る。
そこでは立川崖線の擁壁が出現し、改めて崖線の高さを実感することができる。
多摩川沿いの低地から駅へ往来するのは大変なことだろうと想像するが、歩道
橋のほか、自転車の乗降が可能なエレベータも設置されており、利便性が図ら
れているようだ。
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段丘の上にのぼって駅前に行くと、御嶽塚という古墳時代の古墳が府中市指
定文化財として保存されている。
江戸期には御嶽信仰の対象として祀られることとなった。
周辺には、この他にも6~7世紀初め頃に築かれた13基の古墳が確認され、
円筒埴輪や圭頭大刀などが出土しているという。
その範囲は、東側の新鎌倉街道から西側の国立市境付近にまでおよび、御嶽
塚古墳群と呼ばれている。
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古代人もこの地において、多摩川と川沿いに広がる低地、そして富士山をはじ
めとする遠くの山々を眺めていたのであろうか。

《参考文献》
『府中用水』 くにたち郷土博物館・府中用水土地改良区編
『府中市史』 府中市史編纂委員会編
『多摩川中流域の「府中用水」に関する調査研究』 島村勇二編著


 
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九品仏川

九品仏川は、九品仏浄真寺の北、ねこじゃらし公園付近から自由が丘を経由し、
緑が丘に至る2.2kmほどの呑川の支流である。

1kmほどの西の等々力付近を流れる谷沢川の河川争奪の話は、地形や河川
に興味を持つ方々にとっては有名な話である。
現在、谷沢川は等々力渓谷を流れて多摩川に達しているが、かつての谷沢川
はこの九品仏川につながっていたという。
それがいつの頃からか、現在のように南へ向きを変え、多摩川へと流れ出すよ
うになった。
その流路変更については、自然説と人為説の2つの説があるが、いずれも決定
的な証拠はないようだ。

ねこじゃらし公園の付近には。かつて水田や湿地があり、大正期以前の地形図
を見ると、現在の大井町線の等々力駅付近へと田園地帯が広がっていたようだ。
昭和初期には周囲の宅地化が始まり、水田湿地に埋め立てのために公園付近
に池が掘られたという。
しかし、昭和30年代、渋谷の東急文化会館(現ヒカリエ)の建設残土のために
その池も埋め立てられてしまった。
現在も北の目黒通り付近や、南の尾山台付近から、ここに通じる暗渠を確認す
ることができる。

ねこじゃらし公園は周辺住民の憩いの場となっており、人工水路も設けられ、
子供たちの水遊び場として親しまれている。
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公園の南側には12万㎡という広大な敷地を持つ九品山唯在念仏院浄真寺がある。
一般的には九品仏の名で親しまれている浄土宗の寺院である。
延宝6年(1678)、珂碩上人の開山で、四代将軍家綱よりこの地を賜った。
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こちらは江戸名所図会『奥沢村 浄真寺 九品仏』に描かれたもの、現在と配置
はほとんど変わらないという。
九品仏
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

本堂の向かい側には、上品堂(中央)、中品堂(右)、下品堂(左)という3棟
の堂宇があり、それぞれ「上品上生、上品中生、上品下生」「中品上生、中品中生、
中品下生」「下品上生、下品中生、下品下生」という三体(計九体)の阿弥陀如来
像が安置されている。
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これは、極楽往生の9つの階層を表し、念死念仏の心境に至る道程を示したも
のだそうである。
下の写真は上品堂の上品上生、上品中生の阿弥陀像。
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またこの地は浄真寺以前は奥沢城という城があった。
吉良氏の世田谷城(烏山川の項参照)の出城として築かれ、家臣の大平氏の
居城であった。
吉良氏は北条氏の配下であったため、秀吉の小田原攻略の後、この奥沢城も
廃城となったという。
寺の周囲には、奥沢城の土塁が今も残る。
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なお、奥沢城には鷺草伝説という話が残るので紹介しておこう。
奥沢城主・大平出羽守の娘、常盤姫は世田谷城主・吉良頼康の側室として寵愛
を受けていた。
嫉妬した他の側妾たちの計略で、常盤姫は無実の罪を擦り付けられた。
常盤姫は死を決意し、白鷺の足に遺書を結びつけ、奥沢城へと放った。
白鷺はは奥沢城の近くで狩をしていた頼康に射落とされるが、遺書を見た頼康
は常盤姫の無実を知る。
その時、白鷺の血のあとから一本の草が生え、白い花をつけた。
これが鷺草と呼ばれる由縁とのことである。

九品仏の説明が長くなった。
それでは、九品仏川を下っていくことにしよう。

公園を出ると九品仏川緑道が東へと続く。
九品仏川の川筋の殆どは緑道となっており、九品仏~自由が丘~緑が丘を結
んでいる。
そのため、自由が丘に行き来する人が多く往来しているのも特徴である。
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数年前までは緑道は土の路面であったが、改修工事が行われ、歩きやすい舗
装が施された。
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自由が丘の手前で、九品仏川は東急大井町線と交わる。
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その先、自由が丘南側の商業地を進んでいく。
緑道にはベンチが設けられ、木陰で読書や休息している人も多い。
暗渠が商業地の中心を通る例として、渋谷川のキャットストリートが有名だが、
こちらも川沿いにお洒落な店が建ち並び、賑わいを見せている。
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「自由が丘」という地名から丘を想像するが、実態は九品仏川が造る谷である。
これは、駅の北の丘の上に造られた自由ヶ丘学園に由来するものだからだ。

商店街の東端、自由通り(都道426号線)を南へと坂を上っていくと、通り沿い
奥沢神社が鎮座する。
奥沢神社は、大平氏が奥沢城を築くにあたり守護神として勧請したと伝えられる。
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江戸中期から「大蛇お練り行事」という祭事が伝わり、世田谷区の無形民俗文
化財に指定されている。
これは疫病が流行った際、村の名主の夢枕に八幡大神が現われ、「藁で作っ
た大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させると良い」とのお告げがあり、早速実行し
たところ、疫病が治ったという言い伝えによるものである。

再び九品仏川緑道に戻り、東進していく。
自由が丘付近から先、九品仏川は目黒区と世田谷区の境界となっている。
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踏切を渡り、大井町線の北側に出る。
緑道には桜並木が続いており、日差しが強くても木陰を歩くことができるので
助かる。
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緑ヶ丘駅の手前で、三たび大井町線とクロスする。
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そこから150mほど行くと、今度は東急目黒線と交差する。(近くの踏切へ迂回
が必要)
その先で九品仏川は左へとカーブし、100mほどで呑川につながっている。
そこはちょうど、呑川が暗渠から開渠へと変わる場所、但し合流地点は僅かに
暗渠の部分であるため、その合流を直接、目にすることはできない。
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小川用水 3

今回は小川用水の流末を追ってみることにしよう。
前項で、あじさい公園の東側で小川用水の本流と悪水堀(分水)は交差すること
を記したが、2つの水路はそれぞれ西武新宿線を北へと越え、別々のルートを辿
ることになる。

まずは本流から。
多摩湖自転車道とクロスした先、数十メートルほど行ったところで、今度は西武
新宿線と交差する。
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西武線の北側へと迂回すると、清風公園という児童公園内には、清風親水エリ
と称する親水スポットがある。
用水の東側は広い畑地となっており、その畑地は本流と分流に挟まれた形とな
っている。
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小川用水はもう少し北上し、東京街道で西へと向きを変える。
街道沿いでは、歩道の暗渠として続いている。
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東京街道は古くは江戸街道と称され、荷付馬による江戸への送路として、交通
量が多い道であったという。
江戸街道が造られた時期は不明であるが、延宝2年(1674)の小川村地割図
には既に描かれているようだ。
小川用水も、街道沿いの家々の生活用水として、また街道を行き交う人々の飲
用水として利用されていたことが容易に想像できる。

小平駅の北方に達した後、再び北へと向きを変える。
ここから先、水路は右へ左へと複雑な経路を辿る。
その先で再び開渠となり、百日紅の小径という緑道になる。
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緑道は左折し、小平の住宅街沿いに北へと向かう。
訪れた時は五月初旬であり、水路沿いにサツキが白い花をつけていた。
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百日紅の小径の先は一時的に暗渠となり、小平霊園の東南側の道沿いに、今
度は、花の小径という緑道として顔を出す。
2015-05-01_119.jpg

花の小径は300mほど続き、右に曲がって水路は畑の中を更に100mほど進む。
そしてここが現在、小川用水の水を見ることができる最後の地点となる。
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ありし日の小川用水は新青梅街道の北側を東へと向かって流れていたようだ。
現在は道路となっているが、用水の面影は見当たらない。
2015-05-01_112.jpg
そのまま進んでいくと新小金井街道の先で、滝山団地に続く遊歩道(後述)に
突き当たって終わる。

さて、あじさい公園に戻って、今度は悪水堀を辿っていくことにしよう。
こちらは、全区間、暗渠となっている。

西武線を越えた先は畑沿いの道でしかないが、100メートルほど北上すると、
北東へと向かうコンクリート蓋の暗渠道となる。
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回田道を越えると、暗渠は東へと向きを変える。
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小平七小の北付近で、コンクリ蓋暗渠は左折する。
そこにはきれいにカーブするコンクリ蓋を目にすることができる。
2015-05-01_94.jpg

さきほど本流で説明した東京街道と交差した先、コンクリ蓋は無くなるが、その
まま道沿いに北へと歩いていく。
その交差点から数十メートルほど行った先の右側、東から大沼田用水の末流
が合流する。
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なお、この付近一帯(小平駅の北部)は大沼町であり、古くは大沼田新田とされ
る地域であった。

大沼田用水との合流地点からさらに100mほど行くと、右手に暗渠道が再び現
われる。
その暗渠道を辿っていくと、小さな古い橋の欄干が残っていた。
2015-05-01_99.jpg

その先、水路は残念ながらFC東京の小平グラウンドの中に消えてしまう。
航空写真を見る限り、グラウンド内にも水路跡は見当たらない。
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グラウンドを迂回して新青梅街道へと迂回すると、新小金井街道と交差する
滝山南交差点の東に水路跡を確認することが出来た。
2015-05-01_104.jpg

その地点の新青梅街道を挟んで反対側には、滝山団地へと続く一直線の遊歩
道がある。
悪水路は後に小平排水と呼ばれたようで、黒目川の支流である揚柳川や落合
川に接続されていたという。
前述の小川用水本流の末端もここに接続されていたようだ。
遊歩道の途中にあるコンクリートの植え込みも、なにやら堰の跡のような形状
をしている。
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遊歩道は滝山団地中心部の商店街に突き当たる。
商店街の更に先にも遊歩道が続くが、この辺りで小川用水の追跡を終えること
としよう。
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《参考資料》
『文化財みて歩き地図』 小平市教育委員会編
『小平の用水路』 こだいら水と緑の会編
『小平の歴史を拓く-市史研究-第六号』 (小平市企画政策部 市史編さん担当編)


 
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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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