府中街道の東にある妙光院の南側に水路を見ることができる。
妙光院下(みょうこういんした)
水系という流れであり、地元では
代小川とも
呼ばれていたようだ。
妙光院下水系という名はこの辺り一帯を流れていた府中用水を称するもの
であり、用水はJR線の東側で何本にも分かれ、現在の東京競馬場周辺お
よび競馬場内を流れていたらしい。
ただ、現在、府中用水本流を流れてきた水は、新田川、雑田堀および妙観
堀(矢川都市下水路)へと流れ、JR線から東側には流れてこない。
妙光院と安養寺の間にある水路、幅は広いが空堀である。

写真の右上には東京競馬場のメインスタンドが見える。
水路の両側にある妙光院と安養寺について触れておこう。
真言宗の
妙光院は貞観元年(859)の創設と伝えられる古刹で、開山は
平城天皇の第3皇子、眞如法親王の開山と伝えられる。
戦国時代には八王子城主北条氏照も帰依し、徳川家康からは御朱印
地15石を寄進されるなど、有力者の信仰もあつかったようだ。

水路の南側にある天台宗の
安養寺も貞観元年の開創、開山は円仁(慈
覚大師)であるという。
その後、勅命により尊海僧正が永仁4年(1296)に再興した。

ここまで来たら、多摩地方屈指の
大國魂神社に立ち寄りたい。
妙光院の北側の坂道を上っていくと、数分で本殿の脇に出る。
さすが、このレベルの神社ともなると参拝者が絶えない。
5月初旬のくらやみ祭は有名である、

景行天皇41年(111)5月5日、武蔵国の護り神として大国魂神を祀った
のが始まりとされる。
大化の改新(645)の時、武蔵の国府が置かれ、当社を国衙の斎場とし、
国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられた。
その後も康平5年(1062)、前九年の役平定の際に源頼義・義家父子が
立ち寄り戦勝祈願を行ったり、寿永元年(1182)には源頼朝が葛西三郎
清重を使節として、政子の安産の祈願が行われたりと、歴史の事柄には
事欠かない。
国内著名の神六所を配祀したので「武蔵総社六所宮」とも称された。
江戸名所図会『
府中六所宮』
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)用水へと戻り、
第一都市遊歩道を歩いていく。
遊歩道は崖線の下、競馬場の北側を東進する。
妙光院水系の水路の中で、現在の遊歩道は「
こっちだいしょう」と呼ばれる
分水路であったという。
湧水も流れ込み水温が低く、この辺りでは水田には適さなかったようだ。

参考資料として揚げた『川の地図辞典 多摩東部編』では、
天神川(下流
部では根岸川)と称している。
その先、遊歩道沿いには大きな
馬頭観音が祀られており、競馬場周辺な
らではの光景に巡りあう。
脇には馬霊塔も建てられており、往年の名馬の名が刻まれている。

競馬場正門より北側に沿って三百メートルほどいくと、
天地の坂と称する
坂が左手にある。
坂名は「天地」という屋号の家の水車に由来する。
この辺りでは湧水が多く、ワサビ田が広がっていたという。

こちらは、多摩川沿いの金塚桜広場に設置されている府中用水の説明
板に掲載されていた昭和12年頃の崖線沿いの水車小屋の写真である。

その天地の坂を上って行くと、
武蔵国府八幡宮が鎮座する。
聖武天皇が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられ、現在は大
國魂神社の境外末社となっている。
大國魂神社と同様に古社であるが、こちらは訪れる人もなく林の中にひっ
そりと佇んでいる感じだ。

清水が丘2丁目に入ると、府中用水は競馬場通りを離れ、右へと入っていく。
住宅街を通る道路は水路跡らしく歩道が設置されている。

その先で、北側の崖線へと寄り道をして
瀧神社を訪ねてみる。
渇水期でも絶えることはない滝があったこと(現存せず)がその名の由来
といい、こちらも大國魂神社の境外末社となっている。
かつてはくらやみ祭りの競馬式(5月3日)の前に、ここの湧水で馬と騎手
が身体を洗い清めたとされ、そのためか祠の中には騎手のサイン色紙が
多く飾られている。

瀧神社の崖下には今でもコンコンと湧水が湧き出ている場所がある。
残念ながらフェンスに囲まれているため、湧水に近づくことはできない。

用水跡の道路は更に東へと続いていく。。

その道路沿いの住宅脇には、このような細い水路跡も見られる。
水路脇の古い護岸に目をひく。

北にある
聖将山東郷寺に立ち寄ってみる。
日蓮宗の東郷寺は東郷平八郎の別荘跡地に、昭和14年(1939)に建立された
寺院である。
寺院自体の歴史はそんなに古くないが、昭和15年に建てられた山門は、黒澤
明監督の代表作品『羅生門』のモデルとなったという。

さらに東郷寺の北には
かなしい坂と呼ばれる地がある。
前述のように当初、玉川上水は府中から取水することが計画・掘削されたが、
この付近で水が地中に浸透してしまった。
その責任を問われて処刑された役人が「悲しい」と嘆いたことから、この名が付
いたという。
現地に行くと、小さな説明板があるだけだが、なんとなく不自然さを感じた。

調べてみると、玉川上水に関するいくつかの著作がある恩田政行氏が、『玉川
上水起元 剖検 幻の玉川上水』の中でこのかなしい坂伝説を否定しているこ
とが判った。
この話は享和3年(1803)、八王子千人同心小嶋文平の提出する「書上」に基
づき、佐橋長門守佳如が作成した報告書である『玉川上水起元』によるものである。
恩田氏は、下記のような点から、『玉川上水起元』に書かれた話を否定している。
1)
『玉川上水起元』は玉川上水開削後、150年を経て書かれたものであり、松平 伊豆守信網およびその家臣の安松金右衛門を称えており、功労者である玉川
兄弟は「かなしい坂」や「水喰土」(拝島付近でやはり水が地中に浸透したとされ
る)における失敗者としか捉えていない。2)
府中からの計画があるとすれば、立川崖線を越え、さらにその先には国分寺 崖線が立ちはだかることになり、当時、高度な測量技術を持ちあわせていた
玉川兄弟が、このような稚拙な計画を立てるとは考えられない。やはりこの「かなしい坂」の話には無理があるようだ。
東郷寺下の交差点近くで右へ目を向けると、三ヶ村緑道の入口が見える。
南の是政付近流れてくる
三ヶ村用水である。
ここまで辿ってきた用水は、ここで三ヶ村用水へと合流し、さらに東へと流
れていたようだ。

《参考文献》
『玉川上水起元 剖検 幻の玉川上水』 恩田政行著
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』 府中市教育委員会編
『多摩川中流域の「府中用水」に関する調査研究』 島村勇二編著
『川の地図辞典 多摩東部編』 菅原健二著 之潮
※ 本記事は以前、「府中用水3」として府中用水本流の続編として記し
ていましたが、資料を再検証した結果、この区間は府中用水本流とすべき
でなく、妙光院下水系としたほうがよいという結論に達し、改題しました。
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