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小川用水 2

西武国分寺線と交差した後、小川用水は青梅街道沿いに東進する。
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府中街道を越えた先、一方通行の細い道と交差する。(写真は南堀)
この道は鎌倉街道で、もとは府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ官道(東
山道武蔵路)で、鎌倉幕府成立後は鎌倉街道と呼ばれるようになったという。
青梅街道の北側には「石塔が窪」と呼ばれる地があり、小川村開拓の地とされ
ている。
「石塔が窪」は江戸末期まで大きな石碑があったために名付けられた地であるが、
現在は住宅地となっており、その名残はない。
2015-04-25_110.jpg

青梅街道に沿って歩いていくと、北側に武蔵野線の新小平駅が見えてくる。
駅前はさすがに暗渠となって通っているが、その東側にはつたかべの径と称す
る数十メートルほどの遊歩道が北堀沿いに設けられ、駅利用者の通行路となっ
ている。
2015-04-25_120.jpg

この辺り、小川町2丁目の旧小川6番から8番にかけて馬継場が設けられていた。
前述の通り、青梅街道は青梅市成木と江戸を結ぶ重要路で、小川九郎兵衛は
明暦3年(1657)に馬継場を開設した。
正徳3年(1713)の頃には小川村には荷馬158頭が飼育されていたという記録
があるという。
馬継場の面影はないが、青梅街道はこの区間(府中街道交差点から平安院ま
で)だけ往復4車線の道路となっており、その広さがその跡地であるということだ。
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護岸は補強されているものの、そこに流れる水は江戸期から変わらないのかも
しれない。
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今度は西武多摩湖線と交差する。(南堀)
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そして北堀は、なんと青梅街道駅の駅構内を流れている。
今風に言えば、駅ナカ用水といったところか。
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南堀は一度、街道沿いに顔を出す。
道路沿いのファミレスの前を流れる南堀。
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その先の街道の南には遠渓山平安院がある。
小川寺の末寺で、元文4年(1739)に建立された。
当時の小川新田の名主、小川弥市と、小川寺6代住職、省宗碩要禅師が市ヶ谷
河田町の月桂寺にあった塔頭の寺号を移し、閑叔碩三禅師を勧請して開山した。
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用水沿いには草が生い茂り、小さな花をつけていた。
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こちらは仲町図書館の裏を流れる北堀、公共施設のためか、綺麗に整備され
ている。
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先ほどの平安院から900mほど進んだ先に熊野宮が鎮座する。
多摩郡殿ヶ谷村(現:瑞穂町)の阿豆左味天神社の摂社として、小川九郎兵衛
と阿豆左味天神社の神主である宮崎主馬が寛文年間に小川村明主の屋敷内
に遷祀、その後、小川新田の守護神として宝永元年(1704)にこの地に遷座し
たのが始まりとされる。
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境内には「一本榎」と呼ばれる大木がそびえ立っている。
今まで記載してきた通り、小川新田開拓前のこの一帯は「逃水の里」と称される
ほどの荒野であり、「一本榎」は青梅街道を往来する人々の目印や休息の場と
なっていたという。
榎は枯死や暴風雨による倒木にあい、現在の榎は三代目ということだ。
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熊野宮の先で南堀は北へと向きを変える。
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青梅街道を渡って、さらに数十メートル行った地点で、北堀と南堀は合流する。
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合流後、小川用水は暗渠となり、天神橋交差点の北で左折、回田道沿いを北
上していく。

南北の水路が合流する手前、北堀から北へと分かれる水路があった。
分水地点には何もないが、北へと延びる畑の脇がある。
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辿っていくと、やがて右へと曲がり、そこにはコンクリート蓋暗渠がある。
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更に辿るとやすらぎの小径という緑道となる。
この緑道も全長は150メートルほど、そんなに長くない。
緑道内には彫刻作品が配されている。
2015-05-01_50.jpg

やすらぎの小径を抜けた先には市民農園がある。
この辺りはわずかな窪地となっており、天神窪と呼ばれていたようだ。
参考資料として挙げた『小平の歴史を拓く』には、この分水路は悪水堀と記され
ており、北へ延びる窪地に沿って流れているようだ。
2015-05-01_51.jpg

話を本流に戻そう。
回田道を暗渠で300メートルほど進んだ後、西へと向きを変える。
そこからはあじさいの小径と称する緑道が始まり、小川用水は緑道脇の親水路
として再び顔を出す。
途中、先ほどの悪水堀とも交差している。
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「あじさいの小径」は、あじさい公園を廻りこむようにして進む。
そして。その先で多摩湖自転車道と交差する。
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その自転車道の下を、多摩湖(村山貯水池)と境浄水場を結ぶ東京都水道局の
村山・境線(大正13年(1924)開通)が流れている。
その送水管を流れる水の一部も、玉川上水から送水されたものである。
玉川上水に関連する新旧の水路が、ここで交差しているというわけだ。

《参考文献》
『玉川上水とその分水を歩く』 瀧山宏明著 (けやき出版)
『小平の歴史を拓く-市史研究-第六号』 (小平市企画政策部 市史編さん担当編)


 
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小川用水 1

小川用水は東大和駅の南、玉川上水の小川橋で水を分け、立川通り沿いに
北東へと進み、さらには青梅街道にそって東進し、小平駅付近を巡る水路である。
小平用水とも称される。
用水路には住宅の間をぬって水が流れており、現在でも農地として利用されて
いた頃の面影を偲ぶことができる。

小川用水の開削は明暦2年(1656)、玉川上水の開削(1653)から3年後、玉
川上水の分水の中では野火止用水(1655開削)に次ぐ早い開削である。
これには小川新田の開発・小川村の成立に関わる事情から見ていかなけれ
ばならない。
小川村の成立以前、この地は不毛の地であった。
その地には青梅街道が通っており、その青梅街道は江戸城改築のための白土
(石灰)を青梅から江戸へ運搬するための重要路であった。
小川九郎兵衛(後述)は幕府の許可を得て、自費を投じてこの不毛地帯に用水
を開削して、小川新田を開拓、街道沿いに農民を入村させ、また馬継場を開設
して、街道を往来する通行人の利便性を図った。
なお、新田とは称しても、もともとは水利の悪い土地柄であり、水田ではなく、粟・
ひえ・麦・蕎麦などを栽培する畑であったという。
小川用水は、主として生活用水としての水路であったようだ。

小川用水の分水口は小川橋の橋下、現在は玉川上水の北側に並行して流れ
新堀用水から取水されている。
残念ながら撮影したときは雑草が生い茂り、分水口を見ることはできなかった。
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小川用水の分水口は2度ほど付け替えられており、当初は玉川上水の400m
ほど下流、東小川橋付近に設けられて玉川上水から直接取水され、その大き
さは一尺四方ほどだったという。
文化4年(1807)に反対の上流側100mほどの場所に付け替えられ、更には
明治3年(1870)に玉川上水の通船計画に基づく分水口改正(統合)により、
新堀用水が開削され、新堀用水からの分水に改められた。
2015-05-03_76.jpg
上の写真は小川橋から100mほど上流に辿った場所(文化4年の分水口付近
=ちょうど新堀用水の胎内堀出口付近に位置する)にある小川用水の説明板
に掲載されている『上水記』の図である。
中央の小川橋の前後に「小川村分水口」と記載されているのを見ることができる。
なお、『上水記』は寛政3年(1791)に編纂されたもので、文化4年の分水口変
更以前のものであるが、現在でいう管理台帳的なものであり、上流側の分水口
はあとから追記されたものであろうと推測する。

小川橋の橋下から取水された小川用水は、北東方向に向かう立川通り沿いに
顔を出す。
2015-04-25_9.jpg

その先、彫刻の谷緑道と名付けられた150メートルほどの親水緑道が用水沿
いに設けられている。
2015-04-25_16.jpg
小平市では用水路の保全を推進しており、小川用水沿いにも何箇所か短い緑
道が設置されている。

更に600mほど行くと、水路は直角に曲がり北へと方向を転じる。
住宅と住宅の間を抜けていくため、迂回を強いられる。
2015-04-25_27.jpg

上宿小学校の東側を抜けて青梅街道に達すると、そこには南北の水路に分
かれる水門を目にすることが出来る。
写真は、北側(下流側)から撮影したもので、写真左手は南の水路に、右側は
北の水路へと分かれる。
2015-04-25_30.jpg
この後、それぞれ青梅街道を挟んで東進するが、南堀、北堀と称することにして、
交互に見ながら進んでいくことにしよう。

水門で別れた南堀は、すぐに東へと向きを変え、青梅街道沿いを流れる。
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かたや、北堀は青梅街道を渡り、その後数十メートルほど北上して、東へと進む。
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南堀は青梅街道沿いを200mほど進んだ後、小平緑地という公園で一旦向きを
南へと転じ、再び立川通りの南側へと達する。

南堀が立川通りに交差する場所の東側に小川日枝神社が鎮座する。
江戸麹町(現:千代田区永田町)に分祠として、山王宮の神主、主山口大和守求
馬が小川九郎兵衛と協力して、万治元年(1658)に日吉山王社として祀ったもの。
もともとは100mほど西にあったが、宝暦元年(1751)の台風により神殿が大破、
同5年に当地に再建した。
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南堀は立川通りの南側(立川通りはこの先の三叉路で青梅街道に合流)を流れる。
2015-04-25_50.jpg

こちらは北堀、板で架けられた橋が昔日の流れを彷彿とさせる。
2015-04-25_52.jpg

ここで小川新田の地割りについて触れておこう。
下は「小平ふるさと村」に展示されていた復元模型を撮影したものである。
(同園職員の許諾を得て掲載)
2015-05-01_63.jpg
街道沿いに家屋(屋敷)があり、家屋は防風林に囲まれている。
家屋の後方(時には街道沿いに出てくるが)に水路が流れ、その先に農地があ
るという構成となっている。
それぞれの屋敷地・農地は短冊状に区画され、並列していた。
他人の土地に入ることなく、家屋から農地へ行ける構造となっている。
このような短冊状の区画は小川新田だけではなく、後にできた野中新田や鈴木
新田にも受け継がれ、武蔵野台地の新田集落の特徴となっている。

短冊状の区画は現在の区画にも残っており、街道に対して垂直に交わる道路
が多く見られる。
ただ水路沿いに通じる道路は殆どなく、用水巡りに際しては街道から水路まで
数十メートル~百メートルほど入り再び街道へと戻る、ということを繰り返しな
がら進むという羽目になってしまう。

その先、青梅街道の北側に小平神明宮が鎮座する。
明暦2年(1656)小川村の開拓願と共に神明宮の勧請を発願、寛文元年(1661)
宮崎主馬、名主・総農民の協力を得て社殿を造営、小川村の総氏神とした。
当初は北の野火止用水沿いにあったが、天和元年(1681)、現在地に遷宮さ
れたという。
2015-04-25_57.jpg

門前を北堀が横切っている。
2015-04-25_62.jpg

そこから数十メートル先、青梅街道の反対側(南側)に臨済宗の医王山小川寺
(しょうせんじ)がある。
江戸市ヶ谷河田町の月桂寺の雪山碩林禅師を勧請、開山したといわれる。
二度の火災により創建当時の文書が焼失したため、詳しい創建年は不明だが、
小川村開村の頃であろう。
2015-04-25_68.jpg

その小川寺には、小川村開拓の祖、前掲の小川九郎兵衛の墓所がある。
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墓所の脇にある説明板を引用して、九郎兵衛について触れておこう。
小川九郎兵衛安次は元和8年(1622)、多摩郡岸村(現武蔵村山市)に生まれる。
祖先は後北条氏の家臣で、後北条氏滅亡後、村山郷に土着した郷士である。
九郎兵衛は、玉川上水、野火止用水の開通をもとに、熊野宮の一本榎(後述)
まで、約七百町歩の自費開拓と、青梅街道最大の難所、箱根ヶ崎と田無の
両馬継場5里の中間に、新たに馬継場の開設を願い出て老中松平信綱の許可
を得る。
小川村の開拓と馬継場の基礎を確立した寛文9年(1699)に家督を譲って、
岸村の旧宅に戻るが、同年12月に病に倒れたという。

墓の横には、南堀が流れている。
九郎兵衛は草葉の陰から小川用水の流れを見届けているのであろうか。
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その先、住宅の中を流れていく南堀。
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そしてこちらは自動車学校の先の北堀。
2015-04-25_89.jpg

この自動車学校付近にはかつて小川家の屋敷があった。
その玄関棟は青梅街道を4kmほど東へ行った「小平ふるさと村」に移築・保存
されている。(文化2年(1805)完成)
屋敷地は間口60間(108m)、奥行き30間(54m)ほどあったとされ、相当な広
さであることがわかる。
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その先、西武国分寺線と交差する。
交差部分の小さな鉄橋脇には「小川北用水開渠」と書かれた標識が立てられて
いる。
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こちらは南堀との交差部、同じく「小川南用水開渠」の文字が見える。
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《参考文献》
『玉川上水とその分水を歩く』 瀧山宏明著 (けやき出版)


 
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新堀用水

玉川上水の北に沿って流れる新堀用水、開削されたのは明治3年(1870)である。
明治3年3月、分水口改正(統合)が発表され、南側は砂川用水に、北側は新堀
用水に統合されることになった。
これは、主として玉川上水の通船計画に基づくもので、新堀用水は小川・大沼田
・野中・田無・鈴木・関野・千川の7分水の取水口が、新堀用水へと統合された。
(千川用水は、その後、水量の減少を理由に単独の分水口に戻される)
玉川上水の通船計画は江戸時代末期からあったもので、明治維新の混乱により
延期され、明治3年の改正となったものである。(但し、通船は水の汚染などの理
由により2年ほどで終了してしまう)

南側の砂川用水は、砂川分水・野中新田分水や上鈴木分水をつなげたため、玉
川上水とは多少離れた五日市街道沿いを流れるが、新堀用水はその区間の殆ど
が、玉川上水の北側に沿いながら開削された。
そのため、新堀用水沿いのスポット・史跡の紹介は玉川上水の項に譲ることとし、
本項では写真が主となることをお許しいただきたい。

スタートは玉川上水駅近くの小平監視所
かつては野火止用水や新堀用水の分水口が設けられていたが、昭和38年に監
視所が設けられた。、
羽村の取水口から流れてきた玉川上水の水は、ここで除塵・沈殿させて砂川線
導水路を通じて東村山浄水場に水が送られる。
写真手前の除塵機への取水口は東村山浄水場への水だが、奥の水門は新堀
用水の水門のようである。
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その後、玉川上水沿いの遊歩道を歩いていく。
とは言っても、しばらくの間、新堀用水は姿を現さない。
胎内堀(「ほっこ抜き」「たぬき堀」ともいう)で地下を通しているからだ。
トンネルを掘って水路を通し、所々で作業用の縦穴を設置した。
現在でいうシールド工法である。
この付近の遊歩道沿いには所々で、写真のような安全柵をみることができる。
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柵の中を覗くと、水路に通じる縦穴を見ることができる。
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こちらは胎内堀から出てきた新堀用水。
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小川橋で小川用水を分けるが、分水口は橋の下。
残念ながら分水口を目にすることはできない。
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玉川上水沿いの歩行者道は、玉川上水と新堀用水の間を進んでいく。
玉川上水は深く掘られており、橋の上などからしか水流が見えないため、歩く人
々は新堀用水の方が馴染みやすいかもしれない。
そして何よりも、玉川上水を流れる水は高度下水処理水であるのに対して、
新堀用水の水は多摩川から取水した水そのものである。
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西武国分寺線の小さな鉄橋、鷹の台駅の南側で交差する。
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桜橋付近で西武多摩湖線と交差した後、新堀用水は姿を消す。
桜橋で暗渠となり(とはいっても100mほどの区間だが)、北東方向へと向きを
変える。
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その短い暗渠の後、再び顔を出し、玉川上水の北側の住宅街を進む。
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水路沿いの道は無く、迂回しながら辿っていくと、関東管区警察学校の南側に
水門を目にすることができる。
喜平町分岐水門と称し、左へ鈴木用水を分ける。
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水は全て小川用水へとながれており、分水地点から先の新堀用水は空堀となっ
ていた。
※ 追記 2017年春、田無用水を歩いた際には田無用水まで水が流れて
     きていたので、時期などの理由なのかもしれない。

喜平橋交差点手前の水路跡。
2015-05-03_10.jpg

喜平橋の北東で新堀用水は田無用水関野用水に分かれていた。
その分水口跡が残っているとのことだったが、家屋の裏にあるのだろうか、見つ
けることはできなかった。
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なお、水路はこの先、田無用水へと続き、北東へと延びている。

《参考文献》
『玉川上水の分水の沿革と概要』 小坂克信


 
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呑川 3

呑川は池上地区に入り、池上本門寺の南側を東進する。

こちらは霊山橋から見た本門寺総門。
霊山橋という橋名は、本門寺一帯が「お山」と呼ばれていたことに由来する。
2015-04-18_40.jpg

ここで呑川を離れて、本門寺周辺の史跡を見てみよう。
まずは本門寺について、その由来を簡単に説明する。
弘安5年(1282)、日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸の湯へ向かうが、
その途上、この地で没した。
日蓮入滅後、池上宗仲が69384坪を寺領として寄進、以来、池上本門寺と称
され、江戸期には大名や有力町人らの信仰を集めた。

こちらは江戸名所図会に描かれた本門寺。
本門寺
                       (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

まずは本門寺総門から、欅造りの壮大な門は元禄年間(1688~1704)の創
建とされる。
2015-04-18_42.jpg
総門の先にあるのが96段の石段、慶長年間(1596~1615)に加藤清正が
寄進したものと伝えられている。
法華経宝塔品の経文に因んで96段としたとされ、その出だしの文言から
「此経難持坂」とも呼ばれる。

石段を上った先にそびえる大堂、もともとは慶長11年(1606)、加藤清正が母
の七回忌追善供養のため建立したが、その後数度にわたり焼失、現在の大堂
は、空襲による焼失後、昭和39年(1964)に建立されたものである。
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大堂の手前を右手に入っていくと、五重塔がある。
慶長13年(1608)、徳川秀忠の乳母である岡部局(正心院)の発願により、建
立されたもの。
空襲による焼失をまぬがれ、国の重要文化財の指定を受けている。
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五重塔へ向かう道の左手に2つの層塔がある。
写真手前は前田利家の側室、寿福院が元和8年(1622)に、奥の層塔は加藤
清正の側室、正応院が寛永3年(1626)に建てられたもの。
ともに自身の逆修供養(自分のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈る)のた
めに建立したものである。
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本門寺の周囲には23の塔頭(本寺に寄り添って建てられた庵などの小院)が
あるという。
写真は呑川に近い理境院(左上)、本妙院(右上)、本成院(左下)、昭栄院
(右下)である。
とても全てを紹介することは出来ないが、スタンプラリーなども行われている
ので、ゆっくり参拝することも面白いだろう。
池上

本門寺内外には他にも多くの史跡が存在するが、呑川に戻って下流を目指す
ことにしよう。
かつては養源寺橋の手前で南から六郷用水北堀が合流し、その先で新井宿
方面へと分かれていた。(写真奥、カーブしている辺り)
2015-04-18_78.jpg

また、手前の「堤方の八寸」という堰で分かれていたもう一つの六郷用水の流
れは、浄国橋の先で呑川へ合流し。上堰橋から双流橋付近の間には、呑川の
中央に「中土手」と呼ばれた分水堤が築かれていたという。
(下の写真は途中の日蓮橋から下流を眺めた風景)
しかし、「中土手」はしばしば洪水の原因となり、昭和6年(1931)、撤去された。
(六郷用水北堀の項参照)
2015-04-18_85.jpg

呑川はその先で南へと転じて東海道線と並行した後、蒲田駅の北で再び東へ
と向きを変え、線路と交差する。
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あやめ橋の下流で六郷用水能登川堀逆川)を合流する。
写真右端の護岸には、その逆川に架かっていた蒲田橋の親柱が移設・保存さ
れている。
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京浜急行線との手前にある弾正橋、橋の脇にある説明板によれば、後北条
氏に仕え、橋名はこの付近を所領としていた行方弾正直清に由来するという。
直清は天正18年(1590)、秀吉の小田原討伐の際に討ち死にするが、
弟の日芸がその屋敷跡に円頓寺(ここから300メートルほど北方)を築き、
供養塔を建てた。
円頓寺に通じる道を弾正道と称し、橋のいわれとなったという。
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ここで京急蒲田駅東口にある蒲田八幡神社に立ち寄ってみる。
この場所は境内に古墳が在ったことなどより、古くから聖地として村人の信仰
の場であったと思われる。
慶長年間(1596~1615)の頃、蒲田村より新宿村が分村するにあたり、北方
にある稗田神社から分社、創建されたものと思われる。
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京急線を過ぎ、第一京浜に架かる夫婦橋の先に夫婦橋親水公園が右岸にあり、
親水テラスが設けられている。
夫婦橋の名は、その上流に六郷用水の水路の一つである松葉用水を分ける
堰があり、呑川と用水に架かる二つの橋があったことに由来する。
2015-04-18_103.jpg
また呑川河口付近には海苔採取業者が生活し、「てんま」と呼ばれる舟が行き
来していた。
公園がある地は、昭和14年(1939)に共同荷揚場が造られた場所という。

親水公園の先、天神橋の脇に南蒲田北野神社が鎮座する。
寛文元年(1661)、北蒲田村字宿南に住む杉原右衛門が邸内に諏訪神社を
奉斎したのを創始とする。
呑川の洪水により、池上の麓の矢口村天神森の鎮守である天神の御神体が
度々流され、杉原邸に流れ着いたため、都度、天神森へ返していたが、嘉永
2年(1849)、矢口村との交渉により諏訪神社の傍らに社を造営、井府天神
と称した。
明治期に諏訪神社と合祀して北野神社と改めたという。
2015-04-18_110.jpg

呑川はさらに東へと流れていくが、清水橋から先は昭和10年(1935)に新た
に開削された水路である。
もともと呑川は北東方向へ向きを転じ、昭和島方向へと流れ出ていたが、低地
は大雨のたびに水害に悩まされていた。
以前の呑川のルートは、現在、旧呑川緑地として整備されている。
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赤い八幡橋の左岸には子安八幡神社がある。
(同名の神社は大田区仲池上にも存在する)
応永年間(1394~1428)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し創建したと言われる。
2015-04-18_121.jpg
この地は六郷用水開削の功労者、小泉次大夫の知行地であり、写真左の石鳥
居は、安永3年(1778)、氏子が六代目地頭、小泉藤三郎包教の武運長久を
祈って奉納したものという。
領主と村民の結束が固かったことが伺え、大田区文化財に指定されている。

産業道路が架かる呑川新橋の先にも親水公園がある。
この辺りになると、川には多くの船舶が停泊している光景が広がる。
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その公園の先は残念ながら川沿いの道は殆ど無く、住宅や中小工場の間の
道路を抜けていくしかない。
わずかに最下流の旭橋から先、森ヶ崎海岸公園への通路があるだけだ。

そして呑川は海老取運河へと注いで終わる。
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《参考文献》
『大田の史跡めぐり』 大田区教育委員会 郷土博物館編



目次
 

呑川 2

目黒通りを渡ると、呑川沿いは都立大学駅周辺の商業地区となる。
そんな中、東から柿の木坂支流が合流する。
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写真右側、桜の木の奥には東急東横線の高架橋が見える。

東急東横線の先でも、緑道には桜並木が続く。
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緑道から東へ150mほど行ったところに、桜森稲荷神社がある。
創建年代は不明、京都の伏見稲荷の流れをくむという。
一帯に桜の木が多かったため、桜盛稲荷と称され、転じて桜森稲荷となったらしい。
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緑道に沿うように建てられている鉄塔。
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呑川は東京工業大学のキャンパスの間を抜け、段丘を下っていく。
下った先に東急大井町線および目黒線と交差する。
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目黒線と交差した先で西から九品仏川が合流し、その先、いよいよ呑川は開渠
となる。
この開渠に流れる水は、平成7年(1995)に実施された清流復活事業により、
新宿区の落合水再生センターから高度処理した再生水導水・放流されている
もの。
水質悪化、水量減少の対策として、渋谷川や目黒川とともに城南三河川清流
復活事業として実施された。
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深い三面のコンクリート護岸に囲まれ、また川沿いの道路も遊歩道ではなく
一般道であるためか、神田川や石神井川などの他の都市河川と比べると無機
質な風景となってしまうのは否めない。

島畑橋の西にある浄土宗の正覚山大音寺に立ち寄る。
開基は旗本地頭の渡辺氏、開山は念誉上人(享保年間寂)という。
寺院は小高い山にあるが、かつては北にある奥沢中学校の辺りまで広がって
いたという。
寺が建てられる以前は。世田谷城主吉良家の家臣、大平家の砦があったらしい。
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相変わらず、コンクリート張りの護岸が続くが、石川台中学校付近では、川に枝
を張り出す桜も見られる。
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中原街道が架かる石川橋手前には、増水時に多摩川へと流される地下放水路
の取水口がある。
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そして、その石川橋の橋詰には、石橋供養塔が建っている。
安永3年(1774)、雪ヶ谷村の浄心ら六名のものによって建てられたもの。
正面には「南無妙法蓮華経」と刻まれ、側面のは円長寺(後述)の住職、日善
の署名・花押が刻まれている。
石橋供養塔は他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の
無事と通行人の安全だけを目的として建てられたもので、貴重だという。
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中原街道の先、東急池上線と交差する。
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その先、左手の台地を上っていくと、石川台駅の東に雪ヶ谷八幡神社が鎮座する。
永禄年間(1558~69)の創建とされ、北条氏康の家臣である太田康資(道灌
の曾孫)が管内巡視の折、当初において法華経曼荼羅の古碑を発掘し、八幡
大菩薩を創祀したと伝えられる。
雪ヶ谷村の鎮守とされ、明治5年(1872)に村社となった。
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中原街道より下流、呑川は真っ直ぐな流れとなる。
もちろん、以前は蛇行していたものを河川改修により直線化されたのであるが、
これは大正15年(1926)に行われた耕地整理に伴うもので、付近の水田も畑
地化されたという。
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雪谷中学校の手前の円長寺橋を右手に進むと、日蓮宗の照光山円長寺がある。
元和2年(1616)に常照院日豊が創建したと伝えられる。
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この円長寺の西側一帯は雪ヶ谷貝塚として、明治中頃から考古学者の間では
知られていた。
時代は下り、平成12年(2000)、共同住宅建設前の発掘調査で縄文前期後
半(約5500年前)の貝塚が発見され、31軒の住居跡が発見されたそうだ。

呑川はその先、東海道新幹線・横須賀線と交差する。
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新幹線との交差後、2本目の本村橋の下流で洗足池からの池上用水洗足
流れ
)が合流する。
途中の水路沿いには緑道が整備され、快適に歩くことができる。
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本村橋を右へ上っていくと道々橋八幡神社がある。
正保年間(1644~47)の創建とされる。
道々橋(どどばし 本村橋の下流側に架かる)の修繕負担から、この地域は
寛政以前に独立した村となり、道々橋村と称したという。
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その道々橋の右手、呑川沿いには日蓮宗の長照山樹林寺が建っている。
創建は明らかではないが17世紀前半と思われる。
道々橋村の村人の懇願により開創されたとの話が伝わる。
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やがて呑川は第二京浜へと差し掛かる。
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《参考文献》
『世田谷区の歴史』 萩野三七彦ほか著
『大田の史跡めぐり』 大田区教育委員会 郷土博物館編


  
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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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