小川用水 2
西武国分寺線と交差した後、小川用水は青梅街道沿いに東進する。

府中街道を越えた先、一方通行の細い道と交差する。(写真は南堀)
この道は鎌倉街道で、もとは府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ官道(東
山道武蔵路)で、鎌倉幕府成立後は鎌倉街道と呼ばれるようになったという。
青梅街道の北側には「石塔が窪」と呼ばれる地があり、小川村開拓の地とされ
ている。
「石塔が窪」は江戸末期まで大きな石碑があったために名付けられた地であるが、
現在は住宅地となっており、その名残はない。

青梅街道に沿って歩いていくと、北側に武蔵野線の新小平駅が見えてくる。
駅前はさすがに暗渠となって通っているが、その東側にはつたかべの径と称す
る数十メートルほどの遊歩道が北堀沿いに設けられ、駅利用者の通行路となっ
ている。

この辺り、小川町2丁目の旧小川6番から8番にかけて馬継場が設けられていた。
前述の通り、青梅街道は青梅市成木と江戸を結ぶ重要路で、小川九郎兵衛は
明暦3年(1657)に馬継場を開設した。
正徳3年(1713)の頃には小川村には荷馬158頭が飼育されていたという記録
があるという。
馬継場の面影はないが、青梅街道はこの区間(府中街道交差点から平安院ま
で)だけ往復4車線の道路となっており、その広さがその跡地であるということだ。

護岸は補強されているものの、そこに流れる水は江戸期から変わらないのかも
しれない。

今度は西武多摩湖線と交差する。(南堀)

そして北堀は、なんと青梅街道駅の駅構内を流れている。
今風に言えば、駅ナカ用水といったところか。

南堀は一度、街道沿いに顔を出す。
道路沿いのファミレスの前を流れる南堀。

その先の街道の南には遠渓山平安院がある。
小川寺の末寺で、元文4年(1739)に建立された。
当時の小川新田の名主、小川弥市と、小川寺6代住職、省宗碩要禅師が市ヶ谷
河田町の月桂寺にあった塔頭の寺号を移し、閑叔碩三禅師を勧請して開山した。

用水沿いには草が生い茂り、小さな花をつけていた。

こちらは仲町図書館の裏を流れる北堀、公共施設のためか、綺麗に整備され
ている。

先ほどの平安院から900mほど進んだ先に熊野宮が鎮座する。
多摩郡殿ヶ谷村(現:瑞穂町)の阿豆左味天神社の摂社として、小川九郎兵衛
と阿豆左味天神社の神主である宮崎主馬が寛文年間に小川村明主の屋敷内
に遷祀、その後、小川新田の守護神として宝永元年(1704)にこの地に遷座し
たのが始まりとされる。

境内には「一本榎」と呼ばれる大木がそびえ立っている。
今まで記載してきた通り、小川新田開拓前のこの一帯は「逃水の里」と称される
ほどの荒野であり、「一本榎」は青梅街道を往来する人々の目印や休息の場と
なっていたという。
榎は枯死や暴風雨による倒木にあい、現在の榎は三代目ということだ。

熊野宮の先で南堀は北へと向きを変える。

青梅街道を渡って、さらに数十メートル行った地点で、北堀と南堀は合流する。

合流後、小川用水は暗渠となり、天神橋交差点の北で左折、回田道沿いを北
上していく。
南北の水路が合流する手前、北堀から北へと分かれる水路があった。
分水地点には何もないが、北へと延びる畑の脇がある。

辿っていくと、やがて右へと曲がり、そこにはコンクリート蓋暗渠がある。

更に辿るとやすらぎの小径という緑道となる。
この緑道も全長は150メートルほど、そんなに長くない。
緑道内には彫刻作品が配されている。

やすらぎの小径を抜けた先には市民農園がある。
この辺りはわずかな窪地となっており、天神窪と呼ばれていたようだ。
参考資料として挙げた『小平の歴史を拓く』には、この分水路は悪水堀と記され
ており、北へ延びる窪地に沿って流れているようだ。

話を本流に戻そう。
回田道を暗渠で300メートルほど進んだ後、西へと向きを変える。
そこからはあじさいの小径と称する緑道が始まり、小川用水は緑道脇の親水路
として再び顔を出す。
途中、先ほどの悪水堀とも交差している。

「あじさいの小径」は、あじさい公園を廻りこむようにして進む。
そして。その先で多摩湖自転車道と交差する。

その自転車道の下を、多摩湖(村山貯水池)と境浄水場を結ぶ東京都水道局の
村山・境線(大正13年(1924)開通)が流れている。
その送水管を流れる水の一部も、玉川上水から送水されたものである。
玉川上水に関連する新旧の水路が、ここで交差しているというわけだ。
《参考文献》
『玉川上水とその分水を歩く』 瀧山宏明著 (けやき出版)
『小平の歴史を拓く-市史研究-第六号』 (小平市企画政策部 市史編さん担当編)


府中街道を越えた先、一方通行の細い道と交差する。(写真は南堀)
この道は鎌倉街道で、もとは府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ官道(東
山道武蔵路)で、鎌倉幕府成立後は鎌倉街道と呼ばれるようになったという。
青梅街道の北側には「石塔が窪」と呼ばれる地があり、小川村開拓の地とされ
ている。
「石塔が窪」は江戸末期まで大きな石碑があったために名付けられた地であるが、
現在は住宅地となっており、その名残はない。

青梅街道に沿って歩いていくと、北側に武蔵野線の新小平駅が見えてくる。
駅前はさすがに暗渠となって通っているが、その東側にはつたかべの径と称す
る数十メートルほどの遊歩道が北堀沿いに設けられ、駅利用者の通行路となっ
ている。

この辺り、小川町2丁目の旧小川6番から8番にかけて馬継場が設けられていた。
前述の通り、青梅街道は青梅市成木と江戸を結ぶ重要路で、小川九郎兵衛は
明暦3年(1657)に馬継場を開設した。
正徳3年(1713)の頃には小川村には荷馬158頭が飼育されていたという記録
があるという。
馬継場の面影はないが、青梅街道はこの区間(府中街道交差点から平安院ま
で)だけ往復4車線の道路となっており、その広さがその跡地であるということだ。

護岸は補強されているものの、そこに流れる水は江戸期から変わらないのかも
しれない。

今度は西武多摩湖線と交差する。(南堀)

そして北堀は、なんと青梅街道駅の駅構内を流れている。
今風に言えば、駅ナカ用水といったところか。

南堀は一度、街道沿いに顔を出す。
道路沿いのファミレスの前を流れる南堀。

その先の街道の南には遠渓山平安院がある。
小川寺の末寺で、元文4年(1739)に建立された。
当時の小川新田の名主、小川弥市と、小川寺6代住職、省宗碩要禅師が市ヶ谷
河田町の月桂寺にあった塔頭の寺号を移し、閑叔碩三禅師を勧請して開山した。

用水沿いには草が生い茂り、小さな花をつけていた。

こちらは仲町図書館の裏を流れる北堀、公共施設のためか、綺麗に整備され
ている。

先ほどの平安院から900mほど進んだ先に熊野宮が鎮座する。
多摩郡殿ヶ谷村(現:瑞穂町)の阿豆左味天神社の摂社として、小川九郎兵衛
と阿豆左味天神社の神主である宮崎主馬が寛文年間に小川村明主の屋敷内
に遷祀、その後、小川新田の守護神として宝永元年(1704)にこの地に遷座し
たのが始まりとされる。

境内には「一本榎」と呼ばれる大木がそびえ立っている。
今まで記載してきた通り、小川新田開拓前のこの一帯は「逃水の里」と称される
ほどの荒野であり、「一本榎」は青梅街道を往来する人々の目印や休息の場と
なっていたという。
榎は枯死や暴風雨による倒木にあい、現在の榎は三代目ということだ。

熊野宮の先で南堀は北へと向きを変える。

青梅街道を渡って、さらに数十メートル行った地点で、北堀と南堀は合流する。

合流後、小川用水は暗渠となり、天神橋交差点の北で左折、回田道沿いを北
上していく。
南北の水路が合流する手前、北堀から北へと分かれる水路があった。
分水地点には何もないが、北へと延びる畑の脇がある。

辿っていくと、やがて右へと曲がり、そこにはコンクリート蓋暗渠がある。

更に辿るとやすらぎの小径という緑道となる。
この緑道も全長は150メートルほど、そんなに長くない。
緑道内には彫刻作品が配されている。

やすらぎの小径を抜けた先には市民農園がある。
この辺りはわずかな窪地となっており、天神窪と呼ばれていたようだ。
参考資料として挙げた『小平の歴史を拓く』には、この分水路は悪水堀と記され
ており、北へ延びる窪地に沿って流れているようだ。

話を本流に戻そう。
回田道を暗渠で300メートルほど進んだ後、西へと向きを変える。
そこからはあじさいの小径と称する緑道が始まり、小川用水は緑道脇の親水路
として再び顔を出す。
途中、先ほどの悪水堀とも交差している。

「あじさいの小径」は、あじさい公園を廻りこむようにして進む。
そして。その先で多摩湖自転車道と交差する。

その自転車道の下を、多摩湖(村山貯水池)と境浄水場を結ぶ東京都水道局の
村山・境線(大正13年(1924)開通)が流れている。
その送水管を流れる水の一部も、玉川上水から送水されたものである。
玉川上水に関連する新旧の水路が、ここで交差しているというわけだ。
《参考文献》
『玉川上水とその分水を歩く』 瀧山宏明著 (けやき出版)
『小平の歴史を拓く-市史研究-第六号』 (小平市企画政策部 市史編さん担当編)


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